【STJ第5号掲載】札幌交響楽団 第626回定期演奏会(執筆:多田圭介)
さっぽろ劇場ジャーナル第5号の完成記念に、第5号の「札響PickUp!」欄に掲載している2020年2月の定期演奏会と東京公演のレビューを2本立てでWebに公開します。札幌での演奏会は本紙編集長、東京公演は若手音楽評論家の平岡拓也さんが執筆しています。
※平岡拓也さんの札響東京公演2020のレビューはこちらからどうぞ。
紙のジャーナルでは4~5面にわたって「多田 vs 平岡のレビュー対決」になっているので、ぜひ紙もご覧ください。(事務局)
2020年2月1日(土)札幌コンサートホールKitara(大ホール)
2018年に本紙を立ち上げたのはいくつかの偶然が重なってのことだったが、その理由の一つがバーメルトの札響首席就任だった。かつて札響に客演した際の室内楽的なデリケートさ、それに、作曲者の生々しい苦悩や心理の綾を括弧に入れ、あくまでニュートラルに徹しながら、そこからかえって零れおちてくる「心」に痺れたのだ。彼の洗練と格調の音楽は、札響の音楽を一段階高いところに導いてくれると感じた。あれから2年、バーメルトは期待に違わぬ成果を残している。そして、この定期。興味深かったのは、これまでの突き放すような厳しさにやや変化があったのだ。よくいえば楽員の自発性に溢れた温かさが勝ったともいえるし、悪くいえば少々緩んだようにも聴こえる。これが意図したものなのかはわからないが、ともかくそうだった。
プログラムは、前半がシューベルトの6つのドイツ舞曲(ウェーベルン編曲)、モーツァルトの交響曲第39番、そして後半がベートーヴェンの交響曲第7番。このプログラムには、「ウィーン古典派」と「舞曲」という表面に表れている縦軸にもう一つの横軸が介在している。それは、一曲目のシューベルトだ。この編曲作品は指揮者でもあった編曲者のウェーベルンが好んでプログラムに組んだことで知られている。また、同じ現代音楽の系譜を汲むブーレーズも得意とした。現代音楽のメッカであったダルムシュタットで同じくキャリアを積んだバーメルトがこの作品を取り上げるということは、この自らの出自を明かすことにもなるのだ。
この作品は原曲では愛らしい舞曲であるが、ウェーベルンの編曲では人間的な生理に逆らうようなアクセントが付される。それが、彼らの怜悧な捌きで聴くと、人形がカタカタと動いているような感興を呼び覚ますのだ。愛らしさのなかから、人形を見るときのある種の怖さ、人間も機械のように単純な要素に還元されてしまうのではないか、というような問いかけを発する。それが音楽を聴いている自分を外から客観視するような感覚を引き起こすのだ。だが当日のバーメルトの演奏は、そうした客観性よりも、前述のように人間的な温かさのほうが勝っていたのは意外だった。第2部で特徴的な跳躍音型がでてきても、ファジーな人間味があるのだ。
2曲目のモーツァルトもいつものバーメルトより意志的に響く。序奏の弦の32分音符の下降音型が、異例とも言えるほどクッキリと響く。スコアはp指定だが常時mf。それが、低位置で提示される主和音と属和音の緊迫したぶつかり合いとガッシリ組み合う。低位置が連続する序奏部から、主部でフッと柔らかく上昇させるのかと思えば、主部の主題のアウフタクトも、やはり力強い。それどころか、主部冒頭の変ホ音がまるでベートーヴェンの英雄かのように、これはモーツァルトの英雄なんだと云わんばかりに意志的だ。VcとCbが「ザン!」と鳴るので驚いた。第1主題そのものも、アウフタクトでそっと入り、6度の上昇で憧憬を歌うというフレージングではない。アウフタクトからピンと張った流れでフレーズは強靭に息づく。70小節のアクセントでの地面を踏みしめるようなアゴーギグはまるでフルトヴェングラーを想起させる。ただ、54小節からの経過主題を導く2回繰り返されるVnの動機を2回目でフッと柔らかくしたり、B-durに転調する直前のClのブリッジパッセージでも同様に2回目を繊細に鳴らす。このあたりはいつものバーメルトらしい。また、主部の変ホ音も、繰り返した後の2回目は楽譜通り弱音でそっと奏でられるのだが、再現部では再度弱音指定を無視し「ザン!」と鳴らす。硬軟自在だが、聴いているうちに自然に杓子定規的ではない音楽の息吹が立ちあがってくる。ただ、バランスはやや壁塗りだった。例えば、G.ヴァントなどは、展開部の冒頭156小節で、フッと風が吹くようにFlを強調したり、より多様な表情を引き出すことに成功している。
第2楽章も同様に感じた。へ短調に転調する第2部でもう少し木管を生かしてほしい(特にFl)。弦中心の変イ長調の第1部に管が加わりより音楽が立体的になる箇所だ。幾度かバーメルトの視線が弦に偏よりすぎているように聴こえた。何を意図したのだろうか。むしろ第2部では、7度下降のVnの語気を強めるような表現に見るべきものがあった。だが弦のフレージングの強靭な息づきはやはりこの日のモーツァルト演奏の特徴だろう。第3楽章はフォルテピアノではなく”mfp”という珍しい指定が出てくる。それと、スタッカートの柔和なニュアンスにバーメルトがモーツァルトを振るときの特有のメランコリーがある。入念に練習したはずだ。
後半のベートーヴェンの第7も、いつもの音楽を外から眺めるようなアイロニカルで耽美的な味わいが感じられない。それよりも、ストレートな喜びに満ちた演奏になっていた。楽員も個々がより積極的に音楽に参加している。自発性に溢れ、かつ、暴走の気配は微塵もない。単純なようで繊細な表現力は入念な準備によってのみ生まれてくるものだ。丁寧にバランスをとり、あたかも一人のピアニストが細心の集中力で弾いているような端正な風情はさすがだった。とはいえ、バーメルトとしては驚くほど20世紀中葉の巨匠スタイルに近かった。古くからレコードなどでこの作品に接してきていれば、おそらく「聴き慣れた演奏だ」と感じたはずだ。テンポも遅めで、新しがるところがまったくない。老大家がゆっくりと辺りを見回しながら歩くような風格が一貫した。
印象に残ったのは、まず冒頭。8小節間で2小節ごとにObがフォルテピアノを繰り返す。この最初の2小節のA-E-Cis-FisがA-E-Cisまで、つまりA-durの主和音がすべて朗々たるffだった。作品のイニシャル刻印といったところか。オーボエの関はキメの細かい美音の持ち主だが、大ホールでは少々繊細すぎに聴こえることがある。しかし、ここは気概を見せた。また、細心の注意が払われていたのは、模倣構造だった。提示部の終止で出てくるVnと低い弦の模倣(164小節~)、ここを聴いて、バーメルトは模倣に着目してその構造を抉りだそうとしている、と感じた。その後も常時そうだった。
第2楽章は、昨今は緩徐楽章ではなく指定のAllegrettoでサラッと演奏されるのが一般的になってきているが、この日の演奏はやはり20世紀風味。じっくりと腰を落とした哀しみがジワっと滲むような葬送行進曲は久しぶりに聴いた。第3楽章はトリオに注目した。ここは主旋律にVnの保属音が並行するが、普通は誰が指揮しても、主旋律に意識がゆく。しかし、バーメルトは主旋律の<>で中押しのクレッシェンドをさせずにスッと抜くのだ。なんという謙虚さか。保属音と対等で、どちらも繊細に聴こえる。まるで色んな立場に耳を傾ける賢人のようだ。終楽章は何といっても、第3部の終止部だ。この楽章は第1部(提示部1-122小節)と第3部(再現部221-343小節)がほぼシンメトリーをなすのだが、再現部の終止の冒頭だけは、ダメ押しで2回繰り返される(319-329小節)。ここを2回目のスフォルツァンド(327小節)で、全体をガクッと落とし透かし彫りのように響かせ、そのダイナミクスを維持したまま直後のHr(331-332小節)を最強奏させたのだ。ここはホールにいた全員が鳥肌がたったことだろう。音楽がついに最紅潮に達するその瞬間にバーメルトの視点がいつもの客観性を取り戻した。全体を高みから俯瞰するあの景色がついに眼前に現れた。普段から札幌でバーメルトの演奏に触れていなければこの演奏はどう聴こえたのだろうか。実に興味深い。その観点は東京公演の平岡評に託したい。
(多田 圭介)