【STJ第5号掲載】hitaru開催 グランドオペラ共同制作<カルメン>レポート
さっぽろ劇場ジャーナル第5号完成記念の第2弾で、hitaru<カルメン>の記事をWebに公開しました。紙のジャーナルでは6面に掲載しています。hitaruでの2日間を観た記録です。当日の写真と共にどうぞお楽しみください。(事務局)
2020年1月25日(土)、26日(日)札幌文化芸術劇場hitaru
1月25・26日に札幌文化芸術劇場hitaruにて、グランドオペラ共同制作<カルメン>が上演された。すでに前年10月に神奈川県民ホール、11月に愛知県芸術劇場での上演を重ねた本公演は、共同制作シリーズの最終公演となった。このカルメンは、日本のオペラ公演では必ずしも馴染みがあるとはいえない大胆な読み替え演出が施されたこともあり、ややその話題性のみが独り歩きし、出演者や音楽面を食ってしまった感があった。演出を担当したのは田尾下哲。田尾下演出の特性とは何か。先にその全体像に触れ、そこから当日の舞台、音楽、そしてこの公演の、そして舞台芸術が持ち得る今日的な意義について掘り下げてゆきたい。
筆者は田尾下の演出の舞台には相当な頻度で接している。そのなかで気づいた彼の舞台演出の特性を一言で表すなら「映像的」であることと言える。このことに本人がどこまで自覚的であるか、あるいは、彼が映像的世界像に対する批評的視座をどの程度持っているのかは分からない。だが、本公演は、結果的に、舞台が「映像的であることと」とその舞台を通すことで動き始める思考、そしてその運動が舞台で完結せずに客席にいる一人一人の視点も映し出すという意味において、鋭利な批評的空間を現出させることに成功していたと言える。
では「映像的である」とはいかなる事態か。映像的とは、本来共有が難しい個人の3次元の経験を2次元に整理し直し共有し易くしたという意味だ。人間の日々の「体験」とは、本質的に莫大な情報の集積によって成り立っている。そこに社会的文脈が介在すると極めて複雑で多様な世界が立ち現われる。しかし、この多層的な情報を編集し物語的に「像」へと整理することで誰もが世界を同じように見ることが可能になる。そうすることで本来はバラバラであるはずの世界像を一つにまとめることができる。例えば2001年ニューヨークでの同時多発テロが、戦闘機がビルへと侵入してゆくニュース映像と共に記憶されているように。それが映像の本質だ。20世紀以前はグローバルコンテンツなど聖書くらいしか存在しなかったが、20世紀に映像メディアが登場したことによって、離れた場所にいる人々の意思を一つに集約し、思考に幹を与え、同じ体験をさせることが可能になったのだ。当日、hitaruにいた人はもうお分かりだろう。田尾下によって本公演で読み替えられた舞台は、ハリウッドへ集約されるアメリカのショウビズ界。ハリウッドは、20世紀最大のグローバルコンテンツであり、その成果によってアメリカは文化的にも政治的にも世界の中心であることが可能になった。それは同時に、私たちの世界像が「中心」とその「周辺」へと画一化されたということでもある。つまりは、アメリカのショウビズ界へと読み替えられたカルメンの成果は、それを、20世紀的なマス的、画一的な世界像を超克すべきという批評的なメッセージへと読み替えることによって最大化するはずなのだ。読み替え演出は、読み替え的に受容されることで思想へと転ぜられる。舞台とは、いや何であれ「作品」とは、そこまで行かなければ理解したことにはならないものであろう。作品を理解するとは、作者を追い抜かすこと、すなわち、作者が自分自身を理解しているより、よりよく作者を理解することであるからだ。哲学者のハイデガーがそう述べていたように。
演出の読み替えについて簡単に触れておこう。まず、第1幕の舞台はバーレスク。前奏曲がはじまる前に幕が開きオーディションに女性たちが集まり、第1幕ではそのオーディションに合格したカルメンがジプシー・ローズのスターになる。スニガは警官であると同時にショウビズ界を裏で牛耳るマフィアのボス。そのスニガに気に入られたカルメンは第2幕ではブロードウェイの舞台に立つ。しかし、ドン・ホセとの仲がスニガの逆鱗に触れ追放され、第3幕では場末のサーカスで歌うはめに。そこにハリウッドスターのエスカミーリョが登場しカルメンをスカウトし、第4幕でカルメンはハリウッドスターに。幕切れで嫉妬に狂ったドン・ホセにカルメンが射殺され、エスカミーリョはカルメンの代わりにフラスキータをアカデミー賞受賞のレッドカーペットにエスコートし幕が降りる。
ポイントとなるのは、19世紀のスペインから20世紀のアメリカへ、という場面設定よりも、原作では男に媚びず自己の尊厳を貫いて死ぬことを選んだカルメンが、男によって翻弄されながらも男を利用して出世を遂げ、しかし、やはり男によって葬られるところだ。また、映像論という観点から強調すべきは、映像を介して世界に輸出された20世紀の米国エンタメ産業の名シーンが脳内でリフレインするよう巧みに仕組まれていることだろう。バーレスクのシーンではミュージカルのNine、ブロードウェイはムーラン・ルージュ、サーカスはシルク・ドゥ・ソレイユといった具合だ。舞台や映画に長く親しんできた観客ほど目の前の舞台が記憶と重なり錯視を起こしたはずだ。この辺りの采配は田尾下の真骨頂といえよう。
さて、ポイントとなった箇所を幕順に見てゆこう。まず、前奏曲を聴いて、指揮のエリアス・グランディの素晴らしい音楽性に聴き惚れた。冒頭の行進曲が快速で飛ばされると、闘牛士の主題にもインテンポで突入する。だが、闘牛士の主題がトゥッティで反復される際にほんの少しリズムを重たくし歩みも慎重になり、行進曲の回帰で再び喜びを爆発させる。心が湧き立つような手綱さばきだ。かつ、それが、宿命の主題とその変形モチーフの、暗がりへ引きずり込まれるような力と鋭く対比される。この宿命の主題は変形されつつ劇中で幾度も耳をそばだてるような効果をあげた。演出は第1幕ではあまり有意味に機能しなかった面もあった。例えば、第3曲の児童合唱。未来のスターの子供たちがバーレスクに駆け込んできて踊り、スニガに将来オーディションを受けにおいで!と喝采され退散する。アンダーグラウンドなバーレスクの舞台に白昼子供たちが出入りするのは、演出が求める世界にもハマらないように感じられた。ただ、児童合唱の歌と踊りそのものは高水準だった。
第2幕は間奏曲で再び指揮が冴え渡る。異国色豊かな旋律を、じっくりと歌わせスラーが実に豊かに息づく。カルメンが登場すると「トラ・ララ」で一気に音楽を開放する。凄まじい歓喜の爆発に入念につながった。他方、続くエスカミーリョの「闘牛士の歌」は、指揮は見事だったが、エスカミーリョを歌った今井俊輔と与那城敬が両者とも一本調子なのが惜しい。声楽的には高水準であったが、後半へ長調に転ずる「トレアドールいざ用意し」へ入っても雰囲気が変化しない。ここはオケが色彩的だっただけに惜しかった。カルメンは初日が加藤のぞみ、2日目がアグンダ・クラエワ。加藤は深みがあるなかに清潔感がある声で過度に表情をつけない。しかし、ここぞという箇所で歌詞を強調するのが巧みだ。例えば、第1幕の第9曲で、「ただの伍長さん。でもボヘミア女の私にはそれで十分」と歌う際の”bohémienne”を一語一語強調した。ジプシーの身分の低さと差別は演出を超えた作品の核心である。こうした言葉へのこだわりは2日目のクラエワにはない視座だった。過度に表情をつけずに滑らかに歌っているからこそ効いてくる。また第2幕の5重唱では、マイムのなかで、カルメンが枕営業をしているがこの日はホセを待っているので男性を帰らせる。言葉での説明なしで演出の背景を見事に表現した。どこに注目すればよいか一目で分かる舞台は田尾下ならではだ。
カルメンという作品はメリメの原作では、規律に厳しい軍隊と自由を重んじるジプシーの2つの社会の対立が軸になっている。しかし、この演出ではその世界の対立を括弧に入れてしまったので、ホセは、ただ思いつめやすい精神の脆弱な青年という人物像になる。2日目の城宏憲にその特徴がより表れていたことも付け加えたい。
第3幕では、場末のサーカスの描写に注目した。会場の準備のために、出演者たちが自分でイスをバケツリレーして会場のセッティングをしているのだ。イスには心の重さが重ねられ、場面が落ちぶれた場末であることをうまく表現した。3幕のミカエラのアリアにも注目した。サーカス小屋にホセを探しに来たミカエラが、小屋に入り込むために出演オーディションを受けるという設定。この演出ではミカエラはミュージカル・スターの卵なのだ。初日にミカエラを歌ったのは高橋絵理。高橋は、アレグロ・モデラートで出てくる高音の変ロ音を、スターの座を射止めようとする意思表示のように、やや厚かましいほどに力強く歌った。2日目の嘉目真木子は、通常のミカエラ像に近く、謙虚な女性が勇気を振り絞るようだった。この辺りの役柄の違いは両日で興味深かった。
そして第4幕は何といっても幕切れのシーンだろう。アカデミー賞受賞のレッドカーペットだ。マスコミの前に立つはずだったカルメンがホセに射殺されると、エスカミーリョは、即座にそばにいたフラスキータをカルメンの代わりにエスコートする。フラスキータはカメラの前に立ち華々しくフラッシュを浴びる。第3幕でエスカミーリョはサーカスにまでカルメンを追ってきていたが、それは、ただ単にカルメンが売り物になると踏んでいただけだったのだ。思えば、第1幕のオーディションでも、カルメンは周りと違う勝手な振り付けを踊っていたが審査員をたらしこみ主役の座についていた。巧みに男性を利用し、スターにのし上がったが、最後にその男性に葬られる。そして、男性が代わりに売り物になると踏んだフラスキータが次の商品に祀り上げられる。また、2日目にフラスキータを演じた青木エマが、プロデューサーであれば「カルメンよりこっちでいいんじゃないか?」と考えても当然と思えるような容姿なのだ。長身を生かした見事な身のこなしで観客の視線を独り占めにした。女性を商品化する社会の風刺として余りある仕事ぶりだ。青木は歌も素晴らしく、フラスキータという小さな役であるのが惜しいほどだった。
田尾下の20世紀的映像論とも言えるカルメンは、最後に20世紀的な男性中心社会への批評的言及となって幕を降ろした。興味深かったのは、終演後にSNSを賑わせた演出への感想だ。曰く、舞台を20世紀のアメリカに移すと元の19世紀のスペインの雰囲気が損なわれ、その時代ならではの人間の生き様とかが判らなくなるのではと疑問を感じた、というのだ。これは、ただ事実を述べただけで、もはや感想とすら言えない。「薄着をすると寒いのではないかという疑問を感じた」と言っているようなものだ。だが、田尾下はこうした言葉が下水のように流れ出てくる現実世界までこの演出で表現していたのではないか。映像が20世紀の世界論であるなら、戦後日本社会の最大の特徴は画一化であった。「いつかはクラウン」のように、自分の頭で何も考えず敷かれたレールを歩くことが「正しい」、「よい」人生だとされていた。そうした20世紀的思考を引きずった言葉がこの舞台に触発されて流れ出てくる。そしてその言葉が再び舞台を映し出し、あるべき人間像を思い描く。まさに「現実」を映し出す「虚構」の力だ。田尾下哲がカルメンで表現したのはこの思考の運動だったのではないか。そう考えさせられた。
(多田 圭介)