札幌劇場ジャーナル

誰もが発信する時代に、発信するのはなんのためか ‐本紙2周年に(勝手に自分で)寄せて‐

編集長コラム

首都圏を中心にぼちぼち公演再開の報が入ってくるようになってきた。札幌もそろそろと思い、ふとカレンダーを見たら、本紙の創刊号が発行されてちょうど2周年だった。2年続けてみた感想を自粛期間明けの取材再開ついでにTwitterで呟いた。そうしたら、書きたいことが溢れてきたので小記事にまとめることにした。Twitterで呟いたのはこんな些細なことだ。本紙を創刊する前、自分自身がマスコミの取材を受けるたびに、こんな不満を感じていた。こういったセリフを聞き出したいという、それがはじめから決まっている、そんな記事にしかならないことに対する不満だ。カギ括弧を埋めるための取材と言えばよいだろうか。それは、自分の言いたいことが変質される不満というよりも、ジャーナリズムってそういうものじゃないだろという、もっと本質的な不満だった。もっと言えば、人間が発信するのはなんのためか、ということについての不満だった。発信とは、あらかじめ「見よう」と思っていたものを対象から引き出して発信するものなのか。そうではない。「見た」ことによって「見えてしまった」ものによって、自分の理解が一度壊され、そうして見えるようになった本質によって自分の理解を再編集し、そうしてそれを発信するのでなければ意味がない。そんな不満が蓄積し、「ない」なら自分で作っちゃえという思いで創刊したのが2年前だった。

しかし自粛期間中に、2年間書き貯めた紙とWebの両方の記事を改めて読み返すと、そこまでできた記事はほんの数えるほどしかない。気づくと、最初から自分の頭にあった言葉をそのまま書いて終わっている記事もある。これでは、なんのために取材に足を運んだのか分からない。さらに、ちょうど今、コロナによって、「見よう」としていなかったのに「見えてしまった」ものがダムの決壊のように流れ出ているのに、メディアでもSNSでも「見なかったことにする」言葉ばかりが票を集めている。誰もが発信する(できる)時代。私たちは何のために発信するのか。

そんななか、知人がクローズドのコミュニティで発信した記事には啓発される思いがした。その記事の内容は、一言でまとめると、オリンピックではなくてコロナが来て日本はラッキーだった、というものだ。彼はなぜそう言ったのか。

このオリンピックが実現されたら、日本は観光立国を目指していたはずだ。しかし、観光を主産業に据えるなんてことは、ギリシャのように、もう歴史遺産しか発信するものがなくなった「終わった国」のすることだ。現状の日本の主産業である自動車産業の先行きは暗い。しかも日本は情報産業化にも乗り遅れた。日本の産業の次の一手は何にすべきか。誰も分からない。だが、次の一手が観光産業であっていいはずがない。さらに、そもそもこのオリンピックは、日本がまだ強くて輝いていた頃の幻想を数年延命させるために呼ばれたものだ。実際には日本は足腰かガタガタなのに、ちょっと疲れているだけ、そう錯覚させるために呼ばれたようなものだ。しかし、オリンピックではなく、代わりにコロナが来たおかげで、この幻想が幻想にすぎない事実を直視せざるをえなくなった。もちろん、こんなことがなくてもちゃんと考えればいいだけのことだが、人はそこまで賢明じゃない。取り返しのつかない時期まで延命させられるより、いま直視せざるを得なくなったことはラッキーだった。友人の言いたいことはだいたいこんなところだ。120%の正論であり150%賛成だ。

だが、著名人がオープンなコミュニティでこう発言すれば、自粛警察や不謹慎厨から一斉攻撃を受けるだろう。やれ「甲子園がなくなった高校球児の気持ちを考えないのか!」、「この騒動でお店が潰れた人の気持ちを考えないのか!」と、クソリプが襲い掛かってきて炎上することだろう。そして、数千人に叱責されているその著名人は、「大勢から怒られているこの人は間違った人なんだ」という目で見られ、謝罪会見に追い込まれるかもしれない。数の暴力というものは恐ろしい。しかし、その聡明な友人は、聡明であるがゆえに、それをよく分かっているのでこの発言をクローズドなコミュニティでの発言に留めた。ただ、こうした言葉をクローズドの場でしか発信できない現状に改めて頭が痛い思いがした。

感染症騒動であまりに多くの人が傷ついたために、いまメディアでは(特にマスメディアでは)、慰撫的な言葉しか発信できなくなっている。もちろん、この騒動より前から、日本は、「誰かが傷つくが本当に大切な真実」よりも、「誰も傷つかない慰撫的な嘘」のほうが圧倒的に票を集める社会だった。「誰かが傷つくが大切な真実」を言えばSNSで炎上させられるので、それを恐れて誰も本当に大事なことを言えなくなっていた。この事態が最悪の仕方で社会に影響したのは選挙だろう。いま選挙に出馬すると、後者の慰撫的な嘘を連呼しないかぎり当選しづらいようになっている。この傾向がコロナによって決定的に拍車がかけられてしまった。本当は今こそ見つめるべきものが見えるときなのに。

この「慰撫的」という言葉には、単に優しい嘘というだけではなく、「世界」と「個人」、あるいは「マクロ」と「ミクロ」の寸断という意味がある。例えば、いまSNSで無防備にぼんやりと世の中について発言するとしたら、極端にマクロな問題(国政とか世界経済)か、あるいは極端にミクロな問題(身近な人間関係)のどちらかに振れてしまうはずだ。SNSでは前者が目立ってしまうが、多くの人は後者だろう。前者は巨大すぎて身近な人を傷つけないし、後者は目に見える人間関係さえケアしていれば見えている範囲では誰も傷つけない(=損しない)。これらの言葉も慰撫的な言葉と言える。どちらもリスクを負ってまで大切な何かを伝える気がハナからない安心安全な言葉だからだ。前者のタイプは往々にしてSNSのプロフィール欄に政治信条や差別反対など実効性の皆無な思想信条を書き込んでいる。はっきり言えば、等身大のみじめな自分をごまかすためにマクロに逃げ込んでいるだけだ。後者のタイプは自分の目に見える世界の背景にある複雑で不透明なものから目を逸らして楽になろうとしているように見える。ただ、後者はそれだけではごまかしきれない不安を、目立ちすぎた人や、お役所がお墨付きを与えた「ルールに反した人」を叩くことですっきりするためにもSNSを使う傾向がある。この両者にとって、マクロとミクロは、ばっくりと分断されている。

だが本来、両者は地続きであるはずだ。TPP一つとっても農家のおじさんの人生につながっている。だが、皆それを実感できない。マクロな問題に放言している人は、天下国家について語っているときは生活のことなど忘れているので、何が正しいか(正しくないか)を自分でジャッジしてよい気分になっている。ミクロな問題に終始する人は、目の前の人間関係や損得にばかりに気をもんでいる。2つの領域が断絶したままモノを考える癖が染みついてしまっている。

慰撫的な言葉と言えばもう一つ。いま成功した社長が書いたビジネス書の類を読むと、ほとんどの本は「気合いだ(情報化はチャンスだから)」か、「警戒しろ(情報化は危険だから)」しか書いていない。もちろんどちらも正しい。ただ、その正しさは、「コロナが流行っているので手洗いをしよう」という言説に特に反論がないのと同じレベルの正しさでしかない。強いて指摘するなら、前者は後者を自己憐憫だと鼻で笑い、後者は前者をコンプレックス商法だと陰口を叩くことで互いに蔑み合い、閉じたコミュニティのタイヤの両輪をなして(しまって)いることくらいだ。問題は、具体的にどう気合いを入れ、どう警戒するのか、だ。ミクロとマクロの溝を埋めるのと同様に、具体的にどうがんばり、どう警戒するのか。こうした本にはどこにも書いていないし、そんな具体案は必要ともされていないように見える。こうした書物を読む人の多くは、はじめから「考えるため」ではなく「考えないため」、つまりたんに元気になるために読んでいるからだろう。ただ元気をもらいたいならリポビタンDを飲めばいい。

なぜこうなってしまったか。問題の一旦は、筆者のような、言葉でミクロとマクロを繋ぐ仕事の弱さにあるはずだ。もちろん、分断したまま語れば、(見える範囲では)誰も傷つけないので票を集めやすいという理由もある。だが、それ以上に、私たちは、モノを考えるための地盤になる決定的なリアリティを軽んじているように感じられる。

このリアリティは、取材に行った先で、あるいは読んだ本で、旅先で、あらゆる瞬間に、あらかじめ「見ようと思っていたもの」ではないが、カメラ(目)が映してしまったものを引き受けることによってしか保持できない。そしてそうして映ってしまったものによって、自分の思考が一度破壊され、破壊によって見えるようになった真実によって思考を再構成することを大事にする勇気、そして、それを検証する知性、そしてそれを発信する覚悟、こうした作業によってのみ、リアリティのある言葉は紡ぎだされる。そうすることで初めてミクロとマクロを繋ごうとする意志がリアリティを獲得するのではないか。そして、見えてしまったものを大切にすることは、自然と歴史への感度、すなわち世界を見る目を鍛えることに繋がる。自分たちが生きている、この世界の「いま・ここ」の多層性を洞察する目なしには、地球の裏まで旅行しても何も見えない。

先ほど、いま選挙では慰撫的な言葉を連呼しない限り当選しづらくなっていると書いた。そして、それが私たちの世界を視る「眼」を鈍らせ、ソーシャルネットワーク上でのマクロとミクロの分断に繋がっている、と。この決定的な傾向は、選挙では巧みにマーケティングに利用されている。いまの選挙は、心の弱い人やリテラシーの低い人(マクロとミクロがばっくり分断している人)から一票を騙し取る、たんなるゲームに変質している。16年参院選が決定的にそうだった。選挙に出馬する彼/彼女らは、SNSから情報を吸い上げ、都市の浮動層の投票行動をゲーム的に分析する。そして、そのゲームに勝った人が当選する。この流れに正しく抗うためには、発信する私たち一人一人が、たしかなリアリティのある言葉を大切にすることからしか始められないだろう。それが結果的に、発信者の見えないところでも、マクロとミクロを接続することに繋がる(例えば公正な選挙の実施)。いや、そうではなく「一人一人はずるくて弱い。インターネットによってそれが可視化されたのだから、その性根を受け入れて、それでも回ってゆくシステムを考えることのほうが大切なのでは」という声が聞こえるかもしれない。たしかに、それも大事だ。だが、否定性で楽になって繋がるほうへ流れるときでは、まったくない。今こそ「貴様ほど急ぎすぎもしなければ、人類に絶望もしちゃいない!」(アムロ・レイ)、こうブチ上げるときだ。否定性で繋がるといえば、東日本大震災の記憶を少年少女の出会い物語のBGMにして、もう楽になりたいという深層心理を巧みにマーケティングし大ヒットした映画が新海誠の「君の名は」だった。この感染症騒動もそうして、「否定性で(自己慰撫で)楽になるマーケティング」に利用される気がしてならない。もうされているかもしれない。それには一人一人が目を見開いて抗わなくてはならない。

いま誰もが発信する時代になった。これからもその傾向は強くなるはずだ。パン屋さんでも、歯科医の受付でも、営業マンでも、ネットワーク環境の方から発信することを今以上に選ばされるようになるはずだ。そうなったとき、もし発信を通じて社会に貢献したいと思うなら(当然そうでなくてはならない)、見えてしまったもの、そしてそれへの感受性を大切にし、リアリティのある言葉でマクロとミクロを繋ぐことを意志する。これなら小さな意識の変容ですぐに手をつけられる。

等身大の日常に閉じこもらずに、しかも、等身大の自分を忘れてマクロに逃げ込むこともしない、そうした両者を結ぶための言葉が本当に弱くなっている。ソーシャルネットワークを眺めるそのたびにそれを痛感する。本紙も知らず知らずのうちに世論やリスク回避によってそうなっている面が出ていたかもしれない。本紙はそもそもマジョリティになることを狙っていない。そうすると、必然的に慰撫的な言葉しか発信できなくなるからだ。真実や世界にポジティブなものを投げ込む言葉に価値を見出す読み手に、少数であってもしっかり届き、そして10年読み継がれることを大事にするという趣旨で創刊した。2周年&取材再開の折りにそんなことをふと思い出した。10年、いや20年読み継がれる記事が必要だ。発信するのはなんのためか。感染症騒動で(せっかく)世界に亀裂が入った今こそそれを肝に銘じなくては。

(多田圭介)

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