札幌劇場ジャーナル

「札響の第9」2020 in hitaru レビュー(執筆:多田 圭介)

2020年12月26日(土)、27日(日)札幌文化芸術劇場hitaru

札響の第九を聴いた。指揮は、当初予定されていた飯守泰次郎が療養のため降板となり、代役の秋山和慶。プログラムは、第九の前にレオノーレ第3番。公演時間を短縮するために休憩を挟まずに後半の第九の演奏となった。声楽ソリストと合唱の前には二重にパーテーションが置かれ、指揮が見づらくなることから、声楽の前に松本宗利音が入り副指揮を務めた。またソリストと合唱は、第4楽章の前での入場、合唱団員の口元は布で覆われていた。異例づくしだが、これは202012月、日本での第九のスタンダードである。北海道ではこの一公演のみであるため、会場にはある種、異様な雰囲気があった。だが、その非日常性がよいほうに作用したのか、演奏は全員の気持ちが舞台に集中した素晴らしい出来だった。

さて、まずプログラムだが、第九と続けてレオノーレ第3番を演奏するのは初めて聴いたが、諸々発見があった。近年はレオノーレ第2番など他のバージョンを聴く機会も増えてきたのでそれとの比較という点でも興味深かった。まず、第3番では、「希望(ファンファーレ)」と「喜び(囚人の合唱)」が二度にわたって連結される。つまり、希望→喜びという時系列の強調という強い構造を持つ。これは他のバージョンにはない。これが、例外状況で演奏される第九への序奏として実に生きたように感じられた。また、第九と連続して演奏されると、Adagioの序奏が56小節に渡る第2番ではさすがに冗長になるので、第3番で正解だと感じた。

そして、なにより感銘深かったのは、展開部(192377小節)の対比調領域の拡大であろう。この曲の主調はC-durであるが、C-durのファンファーレに続いて2回出てくる囚人の合唱のモチーフには、他のバージョンにはない対比調領域の拡大がある。279小節がB-dur301小節がGes-durとなっている。この転調領域は、第九よりはギリギリ狭い範囲に収まるが、その範囲での最大の対比領域である。秋山は、279小節をpp、そして301小節では、革命前夜に無音で世界が昂ぶるかのようなpppを聴かせた。Fl奏者も素晴らしい。申し分のない「第九の序曲」と言える。

また、強固な岩盤に支えられたようなインテンポを基調とする音楽運びも実に生きた。そのなかでも踏み外しがなく丁寧な処理も目立った。例えば、175小節のHrなど絶叫調になりがちであるが、あくまでも弱音指示を遵守する。かつ、ベートーヴェンが指示した”dolce”を実現しつつ、来るべき解放を予感させる。挑戦の姿勢が見られたのは、再現部400小節。ティンパニの8分音符すべてスフォルツァンドで叩かせた(※譜例1)。それでも踏み外しを感じさせない。ガッシリとした横綱相撲のレオノーレ第3番だった。

譜例1:すべてスフォルツァンド(クリックすると拡大できます)

続いて第九だが、様々なことを考えさせられた。秋山の音楽の特徴とは何か。筆者はかつて音楽事務所で一緒に働いていた某指揮者から、世間話の流れで「移動ドも固定ドも両方完全にとれる指揮者は秋山さんくらい」と聞かされたことがある。業界では秋山と言えば「耳がいい」というのが通説となっている。この印象が強いのか音楽もよくも悪くも「職人的」というイメージが張り付いていよう。だが、この日の第九はどうか。新しい研究成果などに目にもくれず(もちろん勉強しているだろうが)、自分が信じてきた音楽を貫き通す。まるで頑固オヤジである。また、指揮者としても高齢に差し掛かったこともあって、秋山のこうした姿勢に、ファンも楽員も、現代社会から失われた「父性」を認めるようになっているのではないか。

札幌交響楽団提供

どこがこうした印象に繋がったのか。まずは、テンポである。この日、会場にいたお客さんや舞台に乗っていた楽員でどれだけの人が気づいただろうか。この頑ななまでのインテンポへの固執に。第1楽章は、恐るべき頑固さで四分=69を徹底した。展開部第3群の274小節や、終止部477小節のような、誰でもふと足取りを緩めるような箇所でも我関せずとばかりにインテンポ。コーダの入りの前にベートーヴェンによって2回指示されたリタルダンドも1回目はほとんどインテンポ、2回目でこの楽章で初めてテンポが変化する。だからこそ、低弦のオスティナートが動き始めるコーダの入りとして強い印象を残した。第2楽章も主部は付点二分=100、トリオは二分=132138のほぼ完全なインテンポ。第3楽章はAdagio指定の箇所が四分=42Andante指定の箇所が48で統一されていた。動かしたのは、L’istesso Tempoが指示された第6部に入る直前の拍で大きくルバートしたのみ(ここは大きく息を吐き意を決するようで素晴らしかった)。筆者はここまで頑ななテンポの第九は聴いたことがない。だが、それでも、フレーズがよく息づき、処理も丁寧であるため、自然な呼吸が損なわれることはなかった。だからこそ、誰か気づいたか?と上で書いたのだ。

また、近年多くなったダイナミクスの極端な対比にも慎重だった。提示部の終止にあたる147小節では、管楽器の2拍目にだけffが指示されている(※譜例2)。

譜例2:フォルテひとつに変更(クリックすると拡大できます)

弦と前後はf一つ。こうした箇所はあざといほど強調されるようになってきているが、秋山はf一つで素通りし、149小節のffだけを強調した。なるべく動かない姿勢が一貫している。動かざること山のごとし。

このまま何もしないのかと思えば、コーダで第1主題の音型が反復される際に、秋山は主題のアウフタクトの前に強烈なルフトパウゼを入れて(※譜例3)、会場のド肝を抜いて見せた。あざといほどに完璧に決まった。現今こんなことをやる指揮者が他にいようか。まさしく頑固オヤジ。

譜例3:赤線箇所にルフトパウゼ(クリックすると拡大できます)

とはいえ、優しさもある。第3楽章。息の長い第1主題が繰り返されるさなか12小節では、心をそっと撫でるようなpppを聴かせた。とはいえ、ここだけだったが。頑固オヤジは滅多に笑わないのだ。

最大の聴きどころは、フィナーレの頭の低弦のレシタティーブであろう。それぞれの楽章のモチーフを次々に否定するこのレシタティーフは、近年はリズミックに喋り、ときに怒鳴るように奏されることが多い。逆に、かつては滑らかなレガートでフレーズを大きくとることが多かった。だが、秋山はどちらとも違うのだ。arcoで音価いっぱいに弓が使われているが、まったく歌わない。リズムの強調もない。ある種、のっぺりしているのだが、無意味なのではない。なにか、地下深くからヨカナーンの予言が地上に届いてくるようなのだ。地上世界が、預言者の声に呪縛されてゆく。歓喜主題も同様。第九はメシアの音楽なのか。身震いを感じさせた。流行り廃りになど関心もないように聴こえる。

声楽ソリストではバリトンの大西宇宙が話題になった。ただ、歌い出しの”O Freude”は、やや気負いすぎたか、大きく外してしまったのは惜しい。だが、続いて芝居っけたっぷりに間を開け、”nicht diese Töneをニヒルに歌ったのは見事だった。その後は盤石。他3人も高水準。

札幌交響楽団提供

他に書いておきたいことは合唱だろう。当日は、感染症対策のために、札響合唱団の人数を大幅に間引き、脆弱になる分を地元で活動するプロの声楽家で補強した。人数を数えたわけではないが、例年の札響の第九の半分ほどだったのではないだろうか。ただ、客席にいた多くの人は気づいたことだろう。こうして演奏すると、合唱が歌っているときにもオーケストラの重要なモチーフがちゃんと聴き取れるということに。実のところ、合唱の人数はこれでもまだ多い。作曲された当時より楽器の音量が増しているとはいえ、せいぜい3050人に留めるべきなのだ。とはいえ、12月の第九公演は、日本ではアマチュア合唱団や音大の声楽科の晴れの舞台となっているのも確かである。人数を減らすために、こうした文化を簡単に変えるのは難しい面もあるだろう。だが、関係者全員で時間をかけて、よりよい上演形態に近づくよう努力することが肝要であろう。

会場を後にするとき、ロビーで顔を合わせた知人は一様に満足していた。皆、緊急時を力を合わせて乗り切った素晴らしい公演だったと。その中心にいたのが秋山であることは間違いない。秋山の「父性」が急場を力に変えたのだろう。

現代のポストモダン社会では、例えばジグムント・バウマンが「非対照性への嫌悪」(『個人化社会』)と述べるように、むしろ「父性」は嫌悪の対象とされがちである。職場の上下関係からくるトラブル、家庭の親子関係からくるトラブル、すなわちハラスメントにはますます厳しい目が向けられるようになってきた。20世紀であれば、未成熟な子供を成熟した大人が厳しく導くという物語は社会に機能していたが、今や親や教師が「関係の非対照性」を利用して身勝手な欲望を遂げようとする危険性のほうが、圧倒的に注目されるようになってきた。もちろん、それ自体は大事なことであるのは言うまでもないが。文化作品でも、親を下の名前で呼ぶ子供を多く見るようになった。友達親子のような関係がリスクヘッジ的には好ましいからだろう。だが、人間には、絶対的な父性を求める面もやはりある。この第九公演のような、緊急事態で、かつ社会情勢そのものが見通し難い状況になるほど、人は「父性」を求める面も確実にある。そんな内なる声に秋山が応えた舞台。帰途に着く際にそんなことを感じた2020年の札響の第九だった。

(多田 圭介)

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