札幌劇場ジャーナル

リレーエッセイ<STJ接触篇>⑥ 文化空間の担い手である人間とは――あるひねくれたスケッチ(執筆:勝西 良典)

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文化空間を蜃気楼から救い出すために(編集:多田)

コロナ禍(下)での文化活動をめぐってエッセイを書けという依頼を編集長から受け、実力者の補佐からたたみかけるようにプレッシャーを受けたとき、ひねくれ者の筆者は、文化活動について語る前に、文化活動をしたがる人間=文化空間の担い手である人間について、しかも些か底意地の悪い仕方で紐解いてみたくなった。とはいえ、文化活動をしたがる人間のことを筆者は特殊な人間とは考えていない。したがって、人間一般について、その欲求や欲望について考えてみることからときほぐすことにした。

⑴ 承認を求める人間――「ただ生きる存在」から・・「許された=特別な存在」昇格したがる人間

基本的な人間像は自己の欲望が承認されることを欲求するのが人間というありきたりのものである。人間はその都度その都度の欲望を承認してほしいと望むだけでなく、欲望を抱え持つ自らの存在が規範に沿った正しいものであることを承認してほしいと望む。欲望の承認欲求は、後者の、自己の欲望の規範的正当化の承認欲求において最大化する。たとえば、不倫したいという社会的に不都合な欲望についても、ただ許してほしいと願うだけでなく、人間も生き物だから仕方ないよね、生き物のオスは自分の遺伝子を残す確率を上げるために数多くのメスに子種を植えつけたいと本能的に思うものだからね、とか、生き物のメスは自分の遺伝子を残す確率を上げるためにオスの精子を求めるものだからダンナに愛想を尽かしていたりそういう関係がなかったりしたらね、というように、生き物の法則に沿った当然の行為として正当化されることを望む。そこからさらに進んで、欲望に基づく自分の生き方の全体が正当なものとして保証されることを要求するのである。

多くの場合、この承認欲求の目的は、他者の規範を批判=攻撃し、そうしたふるまいないしそうしたふるまいに至る自己の正当性を批判対象も含めたあらゆる他者から承認されることにある。子供を公園で遊ばせている看護師に対して、公園は感染リスクにさらされる可能性が比較的低い大多数の人たちもコロナ下での憩いを求めてやってくる公共の場だから、看護師のような感染リスクの高い人は立ち寄るのを遠慮すべきだと公園やSNS上で訴えかけたり非難したりしている人は、コロナ下で市民の生活を下支えしている人間にも憩いを求める権利を保証すべきだという規範を否定し、大多数の人のコロナリスクを上昇させるような行動は慎むべきという規範を掲げている自分たちを認めて受け容れてほしいと思っているのである。

そうは言っても幸か不幸か、人間の欲望はそれほど個性的なものではない。その意味で、あらゆる欲望はあらかじめすでにある程度承認されている。今挙げた例で「コロナ下で市民の生活を下支えしている人間・・にも」とあるように、コロナ下に公園で子供を遊ばせたいと思い、そうする権利があると考える看護職や医師やスーパーの従業員はたくさんおり、あるいは反対側の、そうしたコロナ感染リスクの比較的高いエッセンシャルワーカーに公共の憩いの場に立ち寄ってほしくないしそうすべきではないと考える人びとも大勢いるので、仲間同士で承認し合っているのはもちろんのこと、対立する立場の方からも、こういう輩は一定数いるからしゃあねえなあと、ため息交じりに諦め模様で承認されているのである。それでもなお改めて承認を求めたくなるのは、認可のハンコを2つ受け取ることによって、1つしかもらっていないものとは違う特別な存在としてワンランク上のものだと認めてほしいからであり、より正確には、1つしかもらっていない死ぬべき取るに足らない大勢と違う存在となることによって死への不安を解消したいからだ、と言えば怒られるだろうか。

このような欲求を抱え持つのが人間のデフォルトストラクチャーだとするならば、「[人間が]大切にしなければならないのは、ただ生きることではなく、〈[他人に認められようが認められまいが関係なくただひたすら誠実に]よく生きることだ〉」(プラトン『クリトン』)という西洋倫理学の初期に位置する記念碑的な言葉は、次のように書き改められるべきことになろう。「大切にしなければならないのは、ただ生きることではなく、〈正当化されて・・・・・・生きることだ〉」、あるいは「…、〈よく生きていると認められる・・・・・ことだ〉」と。

「認められる」の部分を「思われる」とすれば、サギ師の手口が一番ということになるだろう。サギ師は利己的な自己の欲望を周りのものにそれとは気づかせずに充足しようとする自律的な・・・・存在である。自己の欲望充足活動を利他的な活動と誤認させ、受け容れさせることによって完遂する。これに対して、「認められる」という表現で含意されているのは、承認されるか否かについては実は承認を与える他者の側に全面的に委ねられているという他律的な・・・・状況である。

欲望の承認欲求を持っていることが人間のデフォルトだとすれば、他者が認めてくれてはじめて自分は自分でいられる、それが人間だ、ということにどうやらなりそうである。人間はよくも悪くも他律的な存在であり、他者からの承認なくして自己を維持することができない生き物だというわけである。認可のハンコを2つ受け取ることによって可想的な不死を手に入れ、そうすることによってやっと安心することができる、本当のところは必ず死ぬ存在、それが有りていの人間の姿であろう。

⑵ 承認を求める人間の戦略性――他律的状況に耐えられず他者の義務を仮構する人間

このことを薄々どこかで感じている人間は、ときに他者を攻撃することによって、極端な場合には相手のことを思って相手のためにしているのだと偽装しながらたしなめるという体で相手をいびることによって、承認を求める自分の弱さを他者に対してと同様自分自身に対しても隠し、そのことで自分自身を維持しようとする。また別のときには弱い自分をさらけ出し、このような弱さは社会構造によってもたらされたものだと強調することによって守られてしかるべきものという自己像をつくり出してこれを他者に認めさせ、他者からの損害賠償としての承認を当然の権利として要求する。いずれの場合にせよ、自分自身の寄る辺のなさを自分自身でどうすることもできない人間が、そういう自分に対する善意からの助けを期待できずに、無意識ながら戦略的に採っているふるまいの一断面として理解できるのではないだろうか。

他者からの承認はあくまでこちらの願望の対象であって実現される保証はないなどという状況に耐えられない人間は、他者からの承認を他者の義務として設定し直すことによって安心を得ようとする。このような企ての土台となるのが自己の欲望が正しいという理解の共有であるが、この共有のためになされていることと言えば、単に個々の欲望のその都度その都度の正当化ではなく、欲望の体系全体の正当化、すなわち自己の欲望がつねに規範に則ったものであることであり、さらに言えば、自己の要求はつねに規範に基づく要求であって、個人的な欲望の押しつけではないということを「論証」しているのだと強弁することである。先に述べた「自己の欲望の規範的正当化の承認欲求」とは、この強弁を論証とは認めず、単なる欲求として捉えた言葉遣いである。

⑶ 承認をめぐる闘争――承認を求める人間の抱える対人恐怖症と攻撃性

だとすると、自己の規範を掲げて他者を攻撃する人間も、その見かけ上の勇ましさとは裏腹に、自分が取るに足らないものだと自覚せざるをえない状況におかれることを恐れてキャンキャン吠えまくる安物の犬でしかないことになるだろう。しかしながら、同じ安物の犬である私たちは、吠えるのみならず噛みついてくるものに対して、大型犬よろしく悠然と構えることはできない。嚙まれる心配なく土俵の外から相手にしているときは平静を装えるだろうが、いざSNS上などで鉢合わせすると、その場から姿を消すか、真っ向から取っ組み合いを始める始末なのである。

こうした自己の欲望の規範的正当化の承認をめぐる闘争は、社会が安定性を欠く場合に起こりやすい。コロナ禍(下)がそのような状況であったことはだれしも認めるところであろう。社会的弱者による承認要求は比較的安定した社会状態においても起こりやすいが、こうした承認要求の乱立は不安定な状況ほど起こりやすい。なぜなら、「われこそは正しい」という言葉を専門家以外でも口にしやすい状況にあるからである。

⑷ コロナ禍(下)でのSNS上での承認をめぐる闘争――第三者を巻き込む闘争

「コロナは風邪である」とか、「コロナ感染リスクの高い人間の公共施設利用は制限されるべきである」といった言説をめぐって誰もが好き勝手なことを言っている状況において筆者が改めて痛感したのは、「みんなわたしを認めて」と叫びたくてしょうがないんだなあ、だったら最初からそう言えばいいのに、ということに尽きる。

「ただ生きる」次元で済むのであれば、コロナのことを風邪だと思って普段の行動を貫く人もいれば、そうではないと万全の防御でおっかなびっくり最低限の健康維持のための散歩をする人もおり、そうした人が運悪く遭遇したときには、「けっ」という気持ちですれ違うかけんかするということになるだけであろう。そのときのけんかのやり方で勝敗が決まり、一方が他方にねじ伏せられるという結果が生じるだけであり、そこに正しいも間違っているもない。

しかしながら、「よく生きていると認められる」次元になれば、どちらかが「正しい」という称号を得るかたちで勝敗を決めねばならない。そのために一番手っ取り早いのがSNS上での「いいね」の獲得であり、この獲得が思いのほか少なかった場合でも、本当のことを理解できるのは少数だという理解に落ち着くことができる。どう転んでも負けないかたちで決着が着けられるのである。実際にはどうであれ、自分は安心して眠れる立場にあるんだと、たとえ錯覚であっても思い込んで床に就くことができるにはできるのである。

⑸ 文化空間における承認をめぐる闘争、あるいは、承認をめぐる闘争としての文化空間

「よく生きていると認められる」次元を生きるためには、外野を巻き込む必要があるのであり、外野と内野を共通の土俵にのせる空間、すなわち自然の他の存在にはない人間に特有の存在様式である言語空間、すなわち文化が必要なのである。この意味で、私たち人間はすべからく文化空間で生きているのであり、その文化空間のアクターが承認要求をデフォルトとして装備する人間である以上、この空間はつねに承認をめぐる闘争の場となる。

したがって、文化空間で繰り広げられる事象(たとえば芸術作品を作ること)は、空間(たとえば絵を展示する美術館)そのものも含めて批評の対象になるだけでなく、文化的事象そのものや空間そのものが批評として成立することになる(デュシャンの作品やあいちトリエンナーレのような特殊なものだけが批評なのではない)。それは、文化が現実社会に対する批評になっているという意味でそうなのではない。文化自体が「正しい」という称号を得るための活動として規定されるという意味でそうなのである。

現実社会に対するアンチテーゼであるのが文化だという理解においては、現実社会それ自身が文化そのものであるという理解が欠落している。この欠陥はきわめて深刻なものだと筆者は考える。なぜなら、現実社会に対するアンチテーゼであるのが文化だという理解は、歪んだ現実に対するダメ出しを少数派が敢行しているという文脈の元で命脈を得るが、その背後に自らが正統派として承認され現実社会の構成契機となるという欲望を抱え持つことを隠蔽しかねないからである。少数派による革命が成功した後では自らのことを文化と呼称することをやめるのだろうか。あるいは、少数派内部を内部の多数派による統制に陥らない工夫がなされているのだろうか。どちらの可能性も低いようにしか筆者には思えない。

⑹ 文化空間の担い手である人間に必要な自覚――対立と調和の内面化の必要性

「正しい」・「正しくない」という切り分けが文化的なものである以上、この切り分けの負の側面もすべての文化が共有しているという自覚が必要となるだろう。スノビズム的精神を喚起する文化的事象がつねにコード化(わかる人にしかわからないものとして自らを表象すること)を免れないのも自らの「正しさ」を反駁されないように内向的に複雑化した結果ではないか、という疑いを一番強く持っているのが当事者自身であるという事態は、あまり期待できないように思われる。批評や批評に耐えうる作品は目利きのダメ出しを恐れてより複雑化する宿命を背負っているが、このような複雑化が芸術的な成熟のための必要不可欠なものだという側面を強く自覚することによってこの複雑化を正当化することの方に目が行ってしまい、このような複雑化が目利きとされるものに対する対人論証に終始してしまい、このような一部の他者の目に対する過剰な意識が他者の批判によって自分の批評や作品が傷つかないようにすることが目的になって、豊かな何かを他者とシンプルに共有し合うということが疎かになっていることに気づきにくくなっているのではないか。

こうした不健全を解消するためには、「よく生きていると認められること」を望む人間の在り方を根底から捉え直し、文化的事象のよさ(善さ)=価値についてこうした人間の在り方から理解する必要があるのではないだろうか。そして、「よく生きていると認められること」を望む人間の在り方が他者との間の対立と調和の文脈ではなく、まずもって自己の内部での対立と調和の文脈で理解される必要が出て来るだろう。そのためには、実際に現れている人間の姿といまだ現れていない人間の姿を区別しながら両者を繫ぐ理解、前者をいまだ完成されていない不完全な姿と捉え、後者を完成されたあるべき姿として捉える理解を明確にし、この理解とその問題点を解明することが肝要だと筆者は考えるが、この点については改めて考えてみることにしたい。

勝西 良典


<著者紹介>

勝西良典(Yoshinori Katsunishi)
藤女子大学文学部文化総合学科准教授。日本フィヒテ協会委員、北海道哲学会幹事。上智大学文学部哲学科卒業、同大学大学院哲学研究科博士前期課程修了、同研究科博士後期課程単位取得後退学。カント・フィヒテを中心とするドイツ近代哲学、ビジネス倫理学、西洋の哲学的人間学・ペルソナ(人格)論を研究。著書に、『ビジネス倫理学読本』(分担執筆、晃洋書房、2012年)など。翻訳に、ノーマン・E. ボウイ著『利益につながるビジネス倫理:カントと経営学の架け橋』(共監訳、晃洋書房、2009年)など。

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