札幌劇場ジャーナル

【STJ第6号掲載】札響Pick up! hitaru新・定期 4月公演レビュー(執筆:多田圭介)

さっぽろ劇場ジャーナル第6号の完成記念に、紙面に掲載している記事の一部をWebでも公開いたします。第二弾は、4~5面掲載の札幌交響楽団コーナーより、hitaru新・定期4月公演のレビューをご覧ください。(事務局)

2021年4月14日(水)札幌文化芸術劇場hitaru

札響のhitaruシリーズ、新・定期演奏会のなかからは4月に開催された第5回を選びたい。当初はムストネンの出演でお得意のベートーヴェンのop61a(ヴァイオリン協奏曲のピアノ独奏編曲版)の弾き振りが予定されていたが、来日が叶わず、曲目が原曲のヴァイオリン協奏曲に変更になり、ソリストには竹澤恭子が迎えられた。指揮は高関健。

竹澤の札響登場は2年ぶり。2年前に強烈な印象を残したプロコフィエフの協奏曲第2番は本紙Web版にレビューを掲載しているのでぜひ参照してほしい。まずはその協奏曲から。前回に引き続き、竹澤は精神の内側から噴出するような音楽を披露した。竹澤の雄弁さは比類がない。ときに饒舌にもなるが、その饒舌さが内面から湧き出ていることは明らかであり、ときにせっかちに走ろうとするときでさえ、そこに必然がある。外から加えたものではない情熱はいつも胸を強く打つ。

札幌交響楽団提供

オーケストラの長い前奏の後、独奏が入ると、ヴァイオリンが驚異的な美しさでくっきり浮かび上がってくる。木からもぎたてのフルーツを割った瞬間のような鮮烈さ。一瞬で虜になる。ただ、強靭なカンタービレで押しまくるいつもの竹澤よりも余裕がある。曲の優美な作風がそうさせたのもあると思われるが、もっと本質的な彼女の音楽性の変化があるように感じられる。ここ数年はそう感じることが多い。第1楽章で感銘を受けたのは、展開部第5群(330-364小節)。竹澤はぐっとテンポを落とし、まるでブルックナーのような深い沈黙、そして内省を聴かせる。そこから天上の光景が垣間見えるとそこへ向かって加速を始める。その胸が高鳴るような歩みの素晴らしさ。また楽章を通してフレーズの終わりの音を、弓を使い切るように切る。スタッカートでもそう弾いている。一音一音が強く意志を帯びているのはいつもの竹澤の特徴なのだが、それがより意志的に聴こえた要因であることは間違いない。ものすごい自信の表れだと思う。

2楽章では終止部の静けさが印象に残る。そして、フィナーレ冒頭では一変。G線で弾かれる主題のA音がかつて聴いたことがないような鳴りっぷりを示す。ヴィオラなのではないかと思うほどだ。第1主題が推移にはいると(54小節あたりから)竹澤は、オケを煽りに煽る。指揮者も楽員も竹澤の魂が憑依したように弾いている。竹澤の真骨頂だろう。ー興味深かったのは終止部(329-)。竹澤はオケに委ねるようにふっと力を抜いているのだ。エンディングに向かって疾走するその最後に、大家の悠然さを見せた。謙虚なようでいてすべてが竹澤の手中にある。そんなエンディングであった。

他方、オーケストラの前奏には疑問を感じた。高関は第1楽章の冒頭で、第1群の断片的な旋律で2小節ごとにブレーキを踏んだ。

第1楽章の冒頭、第1群の断片的な旋律

これがただ流れを悪くしただけで効果的だとは思えなかった。(ここはそもそもインテンポでよいと思うが)ハイドンやベートーヴェンの中期頃までの作品はフレーズが短い。さまざまな緩急な設定されるが、よい演奏だと最後まで同じテンポであるように錯覚させられるようになる。不思議なもので、しっかり練習時間を取り、フレージングや響きの構成が練り上げられると必ずそうなるものだ。そうなると、細部の不備というものは気にならなくなる。ルバートしたことそれ自体が悪いというのではなく、こうしたもっと本質的な点で疑問があった。練習時間も少ないので重箱の隅をつつくのも申し訳ないが。

札幌交響楽団提供

高関の指揮については後半のシベリウスに聴くべきものがあった。高関の音楽は、元来、端正な清潔感があり、それでいて窮屈にならない。が、ここ数年はそれに加えて没入するような集中を見せることが多くなっている。音楽監督を務める東京シティフィルでもそうだ。この定期でのシベリウスの第2番も、強靭な音響で押しまくるような音楽だった。もの凄い響きの厚みだが透明感もある。ヴィブラートを乱用せず、ハーモニーやフレージングの明晰さを保っているからだ。

弦のさざ波に乗って木管の主題が始まると、もう辛口で真剣。ここは演奏によっては牧歌的に聴こえることが多いので驚いた。容赦のないリズムの切り詰めや音の切り方。音の立ち上がりの速さ。どこで一息つけばよいのか。心臓に負担がかかる。118小節から始まる展開部の前半は、このやや単調な曲において、おそらくもっとも斬新な響きが楽しめる箇所。ここの抽象的で鋭利な響きも耳をそばだてる。全曲中、唯一ホッとできたのは、第2楽章の第2主題くらいだろう。慰めに満ちた響きだった。第3楽章は人間の手に負えない自然、宇宙の音楽。はじめの主題に低弦が加わるときの台風のような音圧。アメリカのオケのような音のキレだが、コケ脅しの音響ではなく心理的な威圧感もある。音は空間を切り裂くが、後に痕跡を残さない。人間の感情が入る隙はない。 

終楽章はモニュメンタルとでも言いたいような全能感。自然と人間との垣根が取り払われ、合一したような音楽。演奏によっては、手の届かない自然との静かな和解とも思えるこのフィナーレだが、高関は精神が自然を克服し尽したかのように鳴らす。近代とは、人間精神が自然を制御するという理想のことである。その意味では、このシベリウスは紛れもなく近代だといえる。第3番以降の交響曲では当のシベリウス自身がその世界観に疑義を呈し自己問答するような世界観に変わってゆく。第2番の迷いのなさは、現代人の感性からはナイーブで退屈なものに映るかもしれない。だが、高関は正しくそのナイーブさを描いたとも言えるかもしれない。

かつて近代の人間は自然の脅威を抑え込み、住みよい世界を創造できると信じた。だが、その夢は現代では断たれている。自然を制御するという願望を託されたテクノロジーが、制御不可能な「第2の自然」となって人間に襲いかかっている。この12年、コロナ禍がそれを露わにした。「世界」や「創造」という言葉の意味は、現象があまりに複雑化してしまった現代では、通常の言葉の用法では把握できなくなった。行き場をなくした言葉が、サブカルチャーへ脱出口を求めたのが本邦の「ポストモダン(後近代)」であった。キャラクターを介することで言葉を軽量化し扱いを容易にする。現実の世界に対して私たちが関与できる幅が狭まったからこそ、能動的に操作できる場所、言い換えるなら、私たちの無力感を緩和してくれる場所が要求されるのだ。それは一種の代償行為である。人間の希望や願望があまりにあっさりと叩きのめされる現在、虚しく空回りする言葉を救出する試みなのだ。ただ、シベリウスはそのように無邪気に代償行為に身を委ねることはできなかったのだろう。それが交響曲第3番以降の彼の歩みに表れている。高関が後年のシベリウスの作品をどう指揮するか。その意味で興味をかき立てられる定期だった。

(多田圭介)

 

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