札幌劇場ジャーナル

ことばと文化(2)

編集長コラム

 「改行を多く」、「子供にでも分かる言葉で」、「難しい漢字は使わない」、「セリフは短く」。いま、「文章の書き方」のようなセミナーを受けると判を押したようにこう教えられる。まるで、自分以外の人間は難しいことを理解できないからとでも言わんばかりに。こうした発想の起源を探ると興味深い歴史的事実に突きあたる。第二次大戦の反省だ。

第二次大戦を引き起こしたのはマスメディアと国家の癒着だった。こうした状況で少々危険な人物がトップに立つと容易に全体主義が引き起こされてしまうのだ。戦後、この反省からマスメディアは政治から引き離され、あくまで市場原理によって動くことがもとめられた。しかし、市場原理のみで動くと今度は数字をとらなくてはならない。そうすると、最大公約数的な視聴者(読者)に向けて、言いかえれば「誰にでも分かることだけ」発信するようになる。また、「共感」を呼ばなければ数字はとれない。よって、例えばテロの報道でも、事件の背景や対策を報じることより、「〇〇ちゃんという〇才の女の子が犠牲になった。みんなで泣きましょう」、という方向に傾く。こうしてできたのが24時間テレビだ。テレビが大衆に受容されるためのキーワードは「共感」にある。

誰にでも分かるように放送しなければいけないのだから、難しい言葉や入り組んだ議論はご法度になる。一人が長いセリフを喋ると視聴者は理解できなくなるから、セリフは40秒までという制限ができる。討論番組ですらこの制限のもと制作される。いま私たちが日常的に見聞きしている「分かりやすく」、「短い」文章がよい文章だという価値観はこうしてマスメディアの主導によって着々と形成されてきた。

しかし、人間の標準的な文章理解力をテレビを基準に定めてしまうことに何か問題はないだろうか。その前にテレビというメディアの性格について考えなくてはいけない。テレビはおそらくあらゆるメディアの中で視聴者の能動性がもっとも下がる媒体だ。付けっぱなしにして寝ころんで視聴するものだからだ。寝ころんで視聴しているときの人間の理解力を、あらゆるメディアに接する際の基準にしてよいのだろうか。それだけではなく、セリフを4050秒に制限されてしまうと、政治や芸術など専門的に複雑化した分野についてもこの条件の下で語らなくてはいけないことになる。それを続ければ続けるほど、その放送を視聴する人間の理解力はその基準に合わせて下がってゆく。こう考えると、現在の政治がキャッチコピー政治に陥っていて政策そのものについて誰も議論しなくなっているのは、おそらくテレビに原因がある。そして、テレビを基準に考えられた水準がテレビ以外にも安易に適用されてしまったことにある。

テレビ以外のメディアを例にとってみよう。例えば映画。これはかつてから能動性の高いメディアの代表例に挙げられてきた。2時間身体を拘束されお喋りもできない環境におカネを払って参加する。映画を映画館で観ているときの理解力は寝ころんでテレビを視聴しているときとははっきりと差があるはずだ。しかし、その映画を語る言葉も、やはりテレビを基準に定められた条件が「よい」とされている。しかし、高度に複雑化した事柄を「短く」、「分かりやすく」語ってしまうと、みんながなんとなく分かったような雰囲気になるだけで実は誰も理解していないという状況が現われる。今日、政治や文芸についてのテレビや新聞の言語手法はすべからくこの隘路にはまり込んでいる。

しかも、問題はそれだけではない。いま、テレビと映画を例にとってみたが、これらはどちらも昭和に隆盛を極めたメディアだ。高度成長期は、価値観を画一化することによって成長を遂げた時代だ。次はカラーテレビ、次はマイカーという具合に。誰もが中心から発せられる情報に価値を見出した。そうしてみんなが同じ方向を向き画一化「される」ことで経済は発展したのだ。こうした時代を「近代」と一言で表現できる。画一化、そして「される」と言ったように「受動」にその特徴がある。

そうしてみると、映画が能動的だといったところで、それはせいぜいテレビで1だった能動性が10になったという程度にすぎない。本質的に受動で受け取るという姿勢の能動性なのだ。映画もテレビも20世紀に発達したメディアだ。近代という時代は画一化を特徴とし、それを可能にしたのはこうしたメディアなのであり、そのなかで言葉はより平易に、より単純に、より短く変わっていった。

しかし、高度に複雑化したものはそれに相応しい言葉を必要とする。政治についての討論で数十秒という制限を課してしまうと語り得ることは何もなくなる。こうして政治を語る言葉は「キャッチコピー」になっていった。「美しい国、ニッポン」のように。同じことは芸術にも言える。言うまでもなく芸術は戦後近代の産物ではない。近代的価値観の中で芸術の受容されかたも変化したとはいえ、芸術そのものは近代的キャッチコピーでは表現できない。テレビの能動性を1、映画を10とするなら、政治や芸術の能動性はどうなるだろうか。100か、10,000か。いや、数値で度合いを表すことが本質的に意味をなさなくなるだろう。なぜなら、テレビや映画という近代のメディアが本質的に受動だったのに対して、政治や芸術は、自らの働きが自分自身に働きかけるという性格をもつからだ。政治は参加することで社会が変わるし、芸術は自らプレイを楽しむことでよりその本質が顕わになる。数万円を支払い、鼻息すら「うるさい」と怒られるような環境にわざわざ行く。聴衆の反応がダイレクトに演者の評価につながる。こんなメディアは近代的画一化の埒外である。法外な能動性を求められる。テレビ的キャッチコピーで語りうるはずがない。

自分自身の働きが自分自身に帰ることを古典語の文法で能動でも受動でもなく「中動」という。近代的画一化の時代が終わったいま、世界を語る相応しい言葉は中動態の言語なのではないか。テクノロジーの発達で私たちは受動・能動という足枷から自由になり、自分の動きによって世界を書き換えてゆくことが可能になった。テレビ番組すらいまやソーシャルメディア上での実況が盛り上がるかどうかが評価基準になってきた。ちょっと前に國分功一郎という哲学者が『中動態の世界』という本を書いて話題になった。近代と特徴づけた価値観からの転向を訴えている。まずは、私たち一人一人が語られる事柄それぞれに対してそれを語るに相応しい言葉を探り直すことが必要なのではないか。そうすることで、近代的に画一化された「昼の言語」を裏側から書き換えてゆくことが必要なのではないか。20世紀にできたあらゆる分野が決定的に制度疲労を起こし緩やかに壊死してゆく超高齢化社会ニッポン。そんな表面の顔を書き換えてゆくことができる言葉。それを模索しなくてはならない。

「さっぽろ劇場ジャーナル」は芸術を語るに相応しい「ことば」を探り当てる試みでもある。4枚カードを出されたら、そのなかからどれにしようかと思案するのではなく、なぜその4枚なのか、なぜ今カードを出してきたのか、そこからマクロな視点で掘り返すことが「考える」ということだと思うからだ。考えてほしい。テレビによって世界に登場した言語観を、テレビの時代は終わったと言いたがるソーシャルメディアを活用した分野の人々が無批判に踏襲している現状は顛倒しているとは思わないだろうか。

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