札幌劇場ジャーナル

東京二期会 「魔笛」レビュー(11月6日 @札幌文化芸術劇場hitaru)執筆:多田 圭介

2021年11月6日(土) 札幌文化芸術劇場hitaru

二期会オペラ(東京二期会とリンツ州立劇場の共同制作)「魔笛」を観劇した。本プロダクションは、2013年のプレミエ(リンツ)に続き、国内では2015年、2018年の再々演を重ねての上演となった。本札幌公演はそのフィナーレ。演出は宮本亞門。大変に見応えのある、かつ思考が刺激される舞台となった。演出の概要を簡単に説明しよう。プログラムには以下のように記載されている。

「本公演は【略】ロールプレイングゲーム(RPG)の「仮想世界」に置き換えた点に大きな特色がある。序曲の最中、舞台では「現実世界」の家庭内での騒動が描かれ、曲の最後に主人公は「仮想世界」に入り込んでしまう。そして最後、タミーノとしてRPGのミッションを見事クリアした彼は「現実世界」に戻ることができ、オペラはいわば二重のハッピーエンドを迎えるのである。」(当日配布プログラム、p.5)。

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序曲では、父親が仕事の鬱憤を家族に当たり散らし、妻も呆れて家を出て家庭崩壊を招く様子がパントマイムで表現される。序曲の最後に父親はRPGの世界に飛び込み、劇中劇的にタミーノと同化。そして、ゲーム中で数々の試練を乗り越え、終曲では家庭の危機も無事に修復され現実に戻ってくるという筋書きである。本演出には「魔笛」というオペラが持つ3つの本質を、現代の最もポジティブな想像力によって更新しようという意欲を見出すことができる。 

その3つとは、1)魔法オペラ、2)啓蒙思想(宗教劇による)、3)ビルドゥングスロマン(成長物語)である。本演出は、このうちの1)魔法をRPGへと読み替えることによって、自己の蒙を拓く2)啓蒙、による3)成長物語へ接続する。そしてその成長物語の意味論を、「父殺しとしての成長物語」から「父赦しの成長物語」へと換骨奪胎してみせたと解釈できる。それは、魔法=ゲーム=虚構を、嫌な現実を忘れるためではなく、また、それ(虚構)を通過儀礼として大人になってゆく(なってしまう)のでもなく、虚構と接しながら、虚構と連続的な現実のなかで生きてゆくという21世紀的な主体像の提案である。言い換えれば、「非日常=仮想現実」ではなく、「日常=拡張現実」としての「虚構」、つまり「現実」の多層性、奥行きを自らの眼で見出すことができるようになるための「虚構」というビジョンの提案である。本演出の核心は、虚構と現実の連続性、すなわち、RPGという虚構によって現実がケアされるという拡張現実的な想像力に見出すことができる。宮本のビジョンからは、この先、本当に社会を変えてゆくものは、日常世界の「外部」にあるのではなくて、「今ここ」の目の前にあるものの異化から始まってゆくはずだという思想を読み取ることができよう。

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この思想には、本演出のプレミエの2013年の前年のある思想の反映を読み込むことができる。それは、Googleの社内ベンチャーから始まった、2012年発売の位置情報ゲーム”Ingress”の思想である。同ゲームは2016年に大ヒットしたポケモンGoの前身である。Ingressは、世界中の名所や史跡をポータルに設定された陣取りゲームである。ポータルの攻防のためにはスマホを持って実際にその場所を歩く必要がある。考案者のJ.ハンケは、こうすることで、見慣れてしまった日常世界から、ゲーム参加者がその土地の構造や歴史などの現実の多層性を自分の眼で見出すことができるようになることを、すなわち、そうすることによってIngressが不要になることを目指している。ゲームという虚構によって、世界を視る眼の感度を高め、日常世界の複雑さを見出す洞察力の鍛練がこのゲームデザインの根本にある。ハンケは、Ingressのデザインについてのあるインタビューで次のように語っている。

「今ゲーム業界は分岐点に差し掛かっていると思っています。1つはバーチャルリアリティの世界を作り上げて、こもって外の世界と隔絶された状態でゲームを楽しむもの。もう1つはリアルな世界で、実際に顔を合わせてコミュニケーションしながらやるゲーム。我々はテクノロジーを使って、後者の方向に踏み出そうとしています。私は、どうすれば人を幸せにできるかということを考えています。」(『ENGADGET日本版』、2014625日より引用)

さて、虚構と現実の連続性、虚構による現実のケアという宮本演出の「虚構」が他ならぬゲームであることは果たして偶然であろうか。宮本本人がどこまで自覚的であるかは不明だが、現代の文化的想像力が宮本の無意識に反映した結果だとまでは言えるはずだ。このハンケと宮本の思想の「共‐振」は、本プロダクションを語る上で絶対に外してはいけないポイントといえる。

さて、前置きが長くなった。本演出ではプロジェクションマッピングが非常に効果的に用いられた。それもただスクリーンに映されるだけではなく、舞台に配置された建物や家具に、現実(家庭)に虚構(ゲーム)が二重写しになるように細心の工夫がなされていた。この意図は、序曲の最後でゲームの世界に飛び込むときにすぐに感じられた。自暴自棄になった主人公が、家庭の居間に映し出されたガラスのスクリーン(ゲームの画面)に飛び込み、その破片が居間に散乱する。これは、このゲームの世界が現実と連続的なんだという本プロダクションの意志表示であろう。実にクリアな開始だ。

また、劇中では主人公(タミーノ)にヒントを与える「猿」の役割が目立った。これは、先に引用したインタビューでハンケが述べている「コミュニケーション」に関わってくる。重要なので少々敷衍しよう。私たちは日常生活で、他者が発するメッセージを、そのなかから受信したくないシグナルを選択的に無視して受信している。例えば、母親というものは、子供が発するメッセージのうち、自分が承認できるものだけを受信する。勉強ができるとか素直で優しいとか、そんなところだろう。だが、子供が弱っているとか苦しんでいるというシグナルを受信するということは、自分の子育ての失敗というメタメッセージを同時に受信することになるので、そういうシグナルは選択的に排除しがちである。そうなると、そのシグナルは自動的に「ノイズ」に変換され、もう「声」としては届かなくなる。もう少しで「声」として聞こえるようになるかもしれない「ノイズ」をあえて引き受けるか、面倒だから切り捨てるかでコミュニケーションの質は決定的に変わる。日本の文化現象には、そのような「ノイズ」を「妖怪」や「動物」という他者性の高い表象によって表現する伝統がある(水木しげる、ジブリのトトロ)。この演出の「猿」もまさにそれであろう。

例えば「となりのトトロ」では、サツキとメイの隣にずっとトトロが居続ける。成長すると妖怪(異質なもの)が見えなくなる(他者を排除する)というのではなく、日常のなかで妖怪を見る力を維持したまま成長するビジョンを探っている。大人になることで「ノイズ」を切り捨てるのではなく、クリアカットされた表象に落とし込むことができない何かとゆるゆると付き合い続けるという、ある意味では子供のままに留まる想像力である。根本にあるのは、得体の知れなさに開かれた子供のほうがダメな大人よりもすごい。この発想である。宮本演出では、序曲のパントマイムで主人公が妻の発するシグナルをキャッチできずに家庭が崩壊していた。序曲で切り落としてしまっていた「ノイズ」に、主人公はゲーミフィケーションを通して啓かれてゆく。コミュニケーションを断念しているときは、動物や妖怪にしか見えなかったものが、「言葉」として受け取られるようになってゆく。そのためにタミーノにヒントを与える存在は「猿」である必要があったのだ。拡張現実的な想像力によって「コミュニケーション」の能力が鍛錬され、それが人を幸せにするというハンケの発想とも重なり合う。

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さらに、本演出では、「夜の女王」がザラストロによって滅ぼされるのではなく、逆に赦され、大円団の舞台に加わる(とはいえ、立っていただけだが)。ここでは、「ママやパパに認められて大人になる」のではなく、大人はダメな存在(ノイズを排除する=異質なものが見えない)であることは織り込み済みで、自分がそのダメな大人を承認してあげるんだという成長物語の転回が起きている。いわば、「父殺し」から「父赦し」の成長物語への転回である。「承認される」から「承認してあげる」へ、「任せて文句垂れる」から「引き受けて考える」への転回である。排除的な自分の本質に無自覚になってしまった大人を、子供のほうが承認してあげるんだというビジョンにリアリティがない世界には持続可能性がないし、そもそも生きる価値のある社会ではない。宮本の舞台からはそんなメッセージが聞こえてくる。この舞台からそれを聞き取ることができるかどうか、これも私たちのコミュニケーション能力にかかってくるのだろう。

さて、演奏についても少し触れよう。当日ピットに入ったのは川瀬賢太郎指揮の札幌交響楽団。川瀬はここ2年ほど札響に客演するたびに目覚ましい成果を挙げている。ことに今年6月に指揮したマーラーの交響曲第4番は、ここ20年ほどで急速に進歩したマーラー演奏の最高の結実といえるものだった。川瀬は来シーズンから札響正指揮者のポストに就く。本当に楽しみである。魔笛のピット捌きも見事だった。歌を決して邪魔しない響きの作り方、また、物語の先を予感させかつ余韻も残す豊かな表情、いずれも素晴らしい。全編に渡ってそうだったのだ。一箇所だけ例を挙げよう。

2幕の「夜の女王のアリア」ではコーダで「聞け(hört)」という歌詞が繰り返される。その歌詞が高いB♭に到達するその瞬間、川瀬はオケのsf(スフォルツァンド)を、歌をかき消さないように瞬間的に抑えた。しかも、それでいてオケのテンションが落ちない。夜の女王のB♭が自然に客席に届いてくる。こうした細かい配慮が常に行き届いているのだ。また、パミーナとタミーノの再会の直前。パミーナの喜びを予感させるかのように、オケの音色が柔らかくなった(第21曲フィナーレ、Allegrettoの最後)。川瀬は本当に豊かで合理的な音楽をする。

演奏では、「パパパの二重唱」も素晴らしかった。「パパパ」と繰り返しているだけなのに、やがてそれが「言葉」として聴き取られるようになる。パパゲーノもパパゲーナもこの「パ」という音を歓びで涙が滲むように震わせていた。パパゲーノを歌ったのは荻原潤、パパゲーナは守谷由香。川瀬もテンポを落としそれを味わい尽す。いつ聴いても涙が滲む場面であるが、格別だった。舞台は修復された家族愛によって大円団を迎える。本プロダクションについて、宮本はインタビューで次のように語っている。

「タミーノがパミーナとともに試練を受ける覚悟をするところは『自分が最も愛する人とともに歩み、愛を大切に生きてゆくということの宣言でもある』」インタビュー記事はこちら

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このように本演出の根底には「家族愛」がある。最後に、宮本演出に対して問いかけを残したい。すなわち、家族愛の無批判な称揚というものは、実のところ、宮本が大切にした「異質なものとの共存」から目を背向ける方向に働きがちである。その裏でたとえ犠牲になる人がいても、そこでパブリックなものが失われても、私たちは幸福なんだからいいじゃないか、それこそが私たちに必要な美しいファンタジーなんだ、という方向にである。これは、小説家でいえば、超越者や自意識を超えた歴史や自然の存在を家族や夫婦の物語に接続してゆく小松左京が抱え込んだ問題と同じである。宮本演出は、そのファンタジーへの単純な居直りではなく、どこかで現実に接続することを試みていたはずである。この「ねじれ」について宮本はどう答えるだろうか。さらにこの「ねじれ」はもう一つのより根本的な問題を照らし出すように思われる。

宮本演出がRPGを取り入れたことには、2013年当時の位置情報ゲームの拡張現実的な想像力の反映があることはすでに述べた。しかし、ハンケの目論見どおりにスマホ片手に街歩きした人が仮に現実に接続されたとしても、この「魔笛」の舞台を座席で座って鑑賞した人はどうだろうか。ゼニガメやピカチュウを探して街歩きをする人をテレビのニュースを通して「見る」のと同じような状況で終わりはしないか。座っているだけでは観客自身にとって自分の眼で世界の多層性を見出すきっかけにはならない。ここには、舞台芸術が今後向かうべき方向についてのヒント(と、それ自体が舞台芸術の自己否定になりかねない爆弾の両義性)が見え隠れしている。ここで詳述はできないが、そろそろ舞台周りの当事者たちは真剣に考えなくてはならないときが来ているだろう。

とはいえ本公演は、「魔笛」という作品が本質的に持つ世界観を現代的な想像力によって更新することに成功した素晴らしい舞台であったことは間違いない。宮本演出の賞味期限は(時代を的確に捉えているがゆえに)もうギリギリの時期に来ていると思われるが、それでも会場を埋めた多くのお客さんに舞台芸術の豊かな可能性を実感させた時間となったことだろう。

(多田圭介)

 

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