札幌劇場ジャーナル

hitaruのひととき 尾高忠明 presents 偉大なる英国の巨匠たち 演奏会レビュー(6月18日@札幌文化芸術劇場hitaru)執筆:多田 圭介

6/18日(土)に札幌文化芸術劇場hitaruで尾高忠明が札響を指揮したコンサート、“Tadaaki OTAKA presents 偉大なる英国の巨匠たちを聴いた。英国の作曲家だけで編まれた当日のプログラムは、尾高がこのコンサートのために選曲したものだという。プログラムに名を連ねた作曲家は、ウォルトン、ヴォーン・ウイリアムズ、エルガー、ブリテン、ディーリアス、いずれも尾高が特別に得意とするイギリスの作曲家ばかりである。もちろんファンはこの「英国の巨匠たち」というタイトルに尾高忠明も数え入れることだろう。

尾高という音楽家は、「型」を大切にしたごく丁寧な音楽をする。決して大言壮語することはない。それが、なだらかな丘陵を想起させる英国の音楽と実に相性がいい。尾高の「型通り」の音楽はときに批判の口実を与えることもある。曰く、才気がない、安全運転、等々。たしかにそうも言える。だが、尾高の音楽は「型通り」というその言葉に纏わりつく「退屈さ」のニュアンスとは本質的には無縁なものである。ごく定型的な常套句だけを連ねて真率な情を表出する彼の芸は、定型句だけで人を魅了する名優のセリフ回しに近いものがあるのだ。尾高はイギリスについて語るとき「イギリス」とはいわない。いつも「英国」という。ここに尾高の英国音楽に対する静かな自信と誇りを読み取ることは容易であろう。

ところで、「型通り」とはそれほど軽んじられるものだろうか。そうではない。元来「型」とは目に見えないものである。人間は数千年に渡ってこの目に見えない「型」を大切にしてきたのだ。例えば、どっちに軍隊を動かすかというときの「気運の流れ」とか、相手の軍師の「器」など。そうしたものを現代の私たちは迷信だと退けがちであるが、ここ150年より以前の重要な文化はことごとくこの「見えないもの」を追求し、感知し、声を聴き、見るために費やされてきたのだ。

これを文化や科学が未発達だった時代の迷妄と退けることは難しい。偶然にこの100年ほど私たちの文化は「見えるものに限りましょう」とやってきただけにすぎない。いや、もっと正確に述べなければならない。むしろ、テクノロジーの発達によって「見える範囲」が拡大したからこそ「見えるものの外側」を見ようとする、感知しようとする能力が衰えたというべきだろう。尾高の音楽が持つ型への信頼には、この「見えないもの」を、見えないことを認めながらそれでも見ようとする、真摯な追求の姿勢がある。文化というものは「型」があってはじめて、それに感応するということが起こる。型というのは発信力の強い身体運用のようなものなのだ。この「型」だけで人の心を動かすというのはあらゆる文化における究極の表現だといえよう。

提供:札幌文化芸術劇場 hitaru(札幌市芸術文化財団)  撮影:RYOICHI KAWAJIRI

さて、尾高はコロナ禍以降、何度も札響を指揮しており、その間にここhitaruの舞台にも何度も立っている。その間は札響でも外国人の入国が叶わないことが多く尾高はその助っ人で怒涛のような働きぶりだった。当然一つの公演に精力を注ぐことは難しくなる。尾高もこの1年ほどは札響を指揮した演奏会ではかなり無理がきており、音量と勢いでごまかさざるを得ないときもあった。だが、このコンサートでは、久しぶりに(札響ではダフニスが演奏された20213月のhitaruでの札響定期以来)、前述の表現を繰り返すなら「定型的な常套句だけを連ねて真率な情を表出する」、彼の真骨頂が見られた。

当日のプログラムで筆者がもっとも惹かれたのは前半の最後に演奏されたブリテンの「ピーター・グライムズより4つの海の間奏曲」だった。尾高と札響は2008年に演奏会形式で同作の全曲を上演している。尾高も札響もその当時とは比較にならないほど進歩を遂げた。音は自信を深め、表情にはいかなる誇張を施すことなしに深い抉りが効いている。殊に(他の曲目にも言えることだが)地中深く杭を打ち込むようなリズムの深さは絶好調時の尾高が見せる要素だった。

4曲の「嵐」では、激しい嵐の描写に挟まって譜例(1)の動機が頻出する。この動機はオペラの第1幕での徒弟が死んだ際の嵐、そしてそこに重ねられるエレンとの結婚の夢の葛藤をグライムズが歌うときの動機である。尾高と札響はこれが出てくるたびに見事な心理的葛藤を響かせる。前述した「型通り」はまさにこうした箇所でその真骨頂を露わにした。まるで、「3つの袋」の話だけで他は一言も話さずに人を感動させる名スピーチのような品格と説得力だった。尾高の共感と作品への誇り高い感情が滲み出ていたことに気づいた人も多かったことだろう。

譜例(1)

プログラムの最後には威風堂々の第4番と第1番が演奏された。4番を小気味よく鳴らした後、響きを広げるだけ広げて第4番との最大の振幅で1番が演奏された。骨太な響きで悠然たる歩みを見せた。

他はエルガーのセレナードやヴォーン・ウイリアムズのトマス・タリスの幻想曲など、これまでに尾高が札響で取り上げた曲で(本紙でも何度も紹介した)あった。優しく撫でるような、繊細でややウェットな情感は、尾高とこれらの作品の深い結び付きを感じさせる。ただ、これらのレパートリーになってくると、どうしても、尾高が本質的に持つこのウェットな性格が気になってくるのもたしかだった。現在の好調時の尾高の音楽は非常に高いレベルにある。彼はここ10年ほどで間違いなく何段か昇った。だが、その芸術は真に最後の一段を昇り詰めるにはまだ何段階か残されているように筆者には感じられる。彼の音楽に付き纏うある種の閉鎖性、保守性がそれを阻んでいるように聴こえてならないのだ。

尾高は英国音楽のオーソリティと紹介されるとき、決まってあるエピソードを披露する。それは、実際にイギリスで仕事をするまでイギリスにもかの地の音楽にも好意を持っていなかったというくだりである。当日マイクをにぎった尾高はやはりどこか嬉しそうにこう語った。威風堂々など絶対に指揮しないと思っていた、だが、実際にイギリスで仕事を重ねるうちにその魅力にだんだん気づいていった、と。

※注:hitaruが発行している情報誌でのこのコンサートのためのインタビューでも尾高は同様に以下のように語っている。「英国のオーケストラや音楽をそれほど好みと思わず、招聘を断り続けていたのが、何を隠そう、この私でした。」
https://sapporo-community-plaza.jp/pdf/wavetimes/019.pdf

筆者は尾高がこのエピソードを披露するたびに、この語り口は少々不正確、いや事態の単純化なのではないかと感じていた。この発想には、私たちが素朴にそう思い込みがちな先入観がある。それは、「(客観的に)見ること」と「(実際に)触れること」では、「触れること」のほうが優位であり、私たちは触れたときにより真実が見えるという発想である。もちろん自分が実際に触れたものしか語らないという態度自体は誠実な姿勢ではあるし、そこにある種の真理がないわけではない。だが、コロナ禍以降、人と人の触れ合いが希薄化したこともあって、今の私たちはこの「触れること」の優位を過剰に語りすぎている。

そもそもであるが、私たちは、現場に言って何かを共有してしまうと逆に見えなくなるものがあるということを軽視しがちだ。「触れること」で自分も場の一部になるし、そうすることで、巻き込まれ、足場が見えなくなるということは誰しも経験したことがあるはずだ。場の一部になってしまうと人間は自分が発した言葉に自分で洗脳される。例えばSNSでは自分のポストがリツイートされるとその嬉しさで足場が見えなくなり自分の考えがどんどん固着化してゆく。

本来大切なのは、ただたんに「触れること」を称揚することではなく、「見ること」と「触れること」を正しく往復運動することであるはずなのだ。尾高はこのイギリスでのエピソードを披露するとき、そう語るべきなのではないか。もちろん役割を自覚して分かりやすく話しているというのもあるのだろう。だが、現実がこれだけ複雑であるのにその現実について語った言葉が現実よりも単純であっていいはずがない。そして、尾高の語る言葉には、このたんなる「役割の自覚」を超えた彼の本質的な閉鎖性が現われているように思われてならない。そしてこの「閉鎖性」とは「触れること」の優位と言うまでもなく同義である。

尾高は札響を指揮するとき、最後にお客さんに向かって、札響、Kitarahitaruは札幌の宝です、これからもよろしくお願いします、と述べるのが常である。もちろんその発言自体を悪しざまに退けるつもりはない。これもまた役割を自覚した真摯な言葉であるのは間違いない。ただ、なぜ、自分が関わった(触れた)組織だけを取り立てて「宝」とまで表現するのか。ここに尾高が本質的に持っている思考の「閉鎖性」とそれに対する自覚のなさが現われているのは間違いないだろう。「見ること」と「触れること」を往復運動しなければならないのと同じように、「閉鎖性」と「開放性」を絶えず往復運動しなければ私たちの思考はあっというまに客観性を失ってしまうのだ。尾高の音楽に付き纏うある種の閉鎖性を彼自身が真に打ち破り、最後の一段を昇り詰めるために足りないものが何であるのか、そのヒントはこの辺りに見え隠れしているように思われてならない。もちろん、音楽家とは言葉や論理に弱いものである(だから音楽家なのであるわけだが)。だから、音楽家のつたない言葉を直ちにその音楽に結び付けて評価するのはあまりに早計である。だが、この「触れることの優位」と「閉鎖性」に関してだけは、尾高という音楽家の音楽そのものの本質を的確に射ぬいているように思えてならない。尾高の音楽にも、触れたものを大事にするというある種の「優しさ」が同時に「排除性」でもあるということへの自覚が伴わないような「閉鎖性」がたしかにあるのだ。一見、優しく許すようでいながら、味方を胎内にくわえこんで逃さない共同性の暴力のような内向きな閉鎖性。それが彼の音楽にはたしかに響いている。そのややウェットな情感が、厚い雲に覆われたような湿り気の強いイギリスの音楽と結果的に相性がよかったのは間違いないだろう。そしてその閉鎖性こそが彼の芸術が昇り詰めるための最後の壁になっているように思えてならないのだ。ただ、それはある意味で彼の本質でもあるからそこを突破することは簡単ではないだろう。どう突破するのかイメージもできない。だが筆者は最晩年に最後の一段を昇りつめた音楽家の奇跡の境域を何度も目の当たりにしてきた。尾高にもぜひその輝きを見せてほしい。それを期待するレベルにある数少ない音楽家の一人であることは間違いないのだから。

(多田圭介)

 

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