札幌劇場ジャーナル

<特別インタビュー>左手のピアニスト 舘野泉、米寿にして挑戦のリサイタル(4/30 @Kitara小ホール)

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多田:舘野さんとお話するのは4年ぶりになります。4年前のコンサートは舘野さんからたくさんの宿題をもらいました。今日は、430日にKitaraで開催されるリサイタルについてのインタビューですが、私としては4年前に舘野さんからいただいた宿題への答え合わせのような気持ちで参りました。どうぞよろしくお願いいたします。

舘野:はい、よろしくお願いします。

多田:今回の演奏会は「米寿記念演奏会」と銘打たれていますが、ざっと曲目を眺めただけで、昨年舘野さんご自身が初演された作品や舘野さん自身が初めて取り組む作品がずらっと並んでおり、米寿にして新たな挑戦への意欲がはっきりと感じられます。さっそく曲目について伺わせてください。 

札幌市内にて

 

平野一郎:「鬼の学校 左手のピアノと弦楽の為の教育的5重奏」について

多田:まず、メインの平野一郎作曲の「鬼の学校 左手のピアノと弦楽の為の教育的5重奏」についてです。平安時代に京の都を恐怖に陥れた酒天童子にまつわる作品です。公演のチラシの裏面で舘野さんは「鬼は近年人間と仲良くなりすぎて原初の力を失いつつあります」と書かれています(※チラシ参照)。この「原初の力」というのは、4年前にノルドグレンの「死体にまたがった男」についてお話をうかがった際にも似たことを仰っていました。記事を掘り出すと「人間の内奥にある深い世界」と仰られています。それに対して私は民謡や神話の世界観で社会が道徳やルールによって近代化される前の衝動的な何かと言っています。今回のプログラムをみて、すぐにそのことが頭を過りました。まずは、なぜ「鬼」なのか。そして「学校」とは何なのか。曲についてお話くださいますか?

舘野:鬼も現代では、馴らされてしまっていますよね。

多田:はい。3年前に「鬼滅の刃」という映画が流行りましたが、そこでは鬼たちにも過去の出来事のトラウマがあって、私たちと同じような共感できる存在として描かれていました。酒天童子も、歌舞伎や映画で様々な描き方がされてきましたが、そもそもそんな生易しいものではありませんね。私たちが簡単には理解すらできない「外部」と言えます。そこが4年前に弾かれたノルドグレンにやはり重なります。チラシの舘野さんの言葉からは今は「鬼ですら」その根源性を失っているというニュアンスが読み取れます。

舘野:4年前に弾いたノルドグレンの作品は「死体にまたがった男」で、ものすごい(いま多田が言ったような畏怖せしめるような根源的な力に満ちた)作品でした。ノルドグレンは来年が生誕80年で、もう亡くなってだいぶ経ちますが、たしかにそんなことを思い出させられますね。ヨーロッパでもノルドグレンについてずいぶんインタビューを受けました。多かったのは、ノルドグレンはピアニストではないので、曲もピアニスティックなものではない。それについてどう思うか、というものでした。でも、ノルドグレンの作品はピアニスティックかどうかということを飛び越えた、彼にしか書けない曲です。例を挙げると、ムソルグスキーの「展覧会の絵」は、ショパンともリストとも次元が違うようなピアノの使い方がされていて、それで何十年か放っとかれて、ラヴェルのオーケストラ編曲が有名になってから再評価されました。それを今の眼で見ると、あれほどピアノの本当の力を現わした音楽はそうはないですよね。

多田:はい、非常にプリミティブに書かれています。

舘野:それが今回の「鬼」の話に繋がるんですけどね。タイトルからして面白いですよね。「鬼」ときて「学校」で「教育的5重奏」なんです。なんだろうって思いますよね。ちょっと楽譜を見てみましょうか。

多田:掃除とか給食とか書かれています。本当に学校ですね。鬼はこの世界の「外部」ですが学校は身近な存在です。こんがらがってきます。

舘野:最初は「基礎科目」というのですが、調弦されていないのですよ。そこから数え方とか運動とか、どんどん進んで、「教養科目」が出てきます。だんだんと「実践科目」に入って「盗み方」があります。

多田:少し鬼っぽくなってきましたね。

舘野:はい。そして「出し抜き方」が出てくると、もう音楽は凄いですよ。

多田:そうすると、「鬼の学校」とは、酒天童子が生徒たちを一人前の鬼に教育する学校という意味なんですか。やっと少し分かってきました。

舘野:そうそう。そうして真ん中へんでは肘で鍵盤をガーン!ガーン!と叩く箇所が出てきます。後半になると「戦い方」、「逃げ方」、「隠れ方」が出てきます。最後は酒天童子の独り言で、弦楽器がだんだん加わってきて大波のようになって、鬼の賛歌のようになります。「俺たちは自由なんだ!」というところでしょうか。視覚的な要素が非常に強くて、聴いている人が引きずり込まれるような音楽です。皆があっち向いてこっち向いて無茶苦茶やっているように聴こえると思いますがとても根源的な音楽です。

多田:人間が社会化されて均される(馴らされる)前のプリミティブな力に満ちた音楽というところに繋がってきますね。昨年、東京、南相馬、名古屋で初演されたときに大評判になった作品です。破竹の勢いで札幌にも乗り込んでくるというところで、後は4/30Kitaraで聴いてのお楽しみですね。

シサスク:組曲「エイヴェレの星たち」より第2曲について

多田:さて、プログラムの1曲目はシサスクの組曲「エイヴェレの星たち」より第2曲です。シサスクという作曲家は星や宇宙を題材に曲を書き続けた作曲家で、これまた生半可な感情移入や自己投影を許さない作曲家ですね。鬼にも「人間と仲良くなりすぎている」と仰っていますし、この辺りの要素は舘野さんの音楽の核心になってくると感じます。

舘野:そうですね。だんだんに、夜がなくなっていくというか、全部よく見えるようだけど、実はかえって何も見えなくなっているという、そういう感じがします。

多田:インターネットで見える範囲と量が広がったせいで、かえって物事をよく見なくなっています。

舘野:ええ、夜の怖さ、静寂、そういうものがなくなっていると思います。作曲家のシサスクは、幼少期に言葉を覚えるのがすごく遅かったんですって。それで、お婆さんが天体望遠鏡を持っていて、そこから見える景色を言葉より先に覚えたんだそうです。だから、彼が生涯かけて書いた音楽はぜんぶ星や宇宙なんです。

多田:チラシでも舘野さんは「無限の彼方の響き」と書かれています(※チラシ参照)。舘野さんらしいと思いました。すべての曲目に日常の生活感情を超えた「原初の力」があるように感じます。

舘野:3曲目のピアノソナタ第2番を書いたマグヌッソンもそうなんです。

 

マグヌッソン:ピアノソナタについて

多田:マグヌッソンは、通常の機能和声を使わない特殊な作曲家ですね。機能和声を私たちの日常的な感情とするとやはりその「外部」を示唆していると言えます。にもかかわらず、マグヌッソンの曲には不思議ななんと表現していいのか分からないような情感があります。

舘野:その辺が不思議な作曲家です。本当の芯はすごくロマンティックな人間なんじゃないかな、と。

多田:私もそう感じるんです。今回のピアノソナタもそんな曲ですか?

舘野:厳しい線だけで書いたような曲ですが、弾いてみると、なんていうのでしょうか、遠くの世界に、こう、憧れるような、そういう不思議な曲です。

多田:この曲は私は存じないのですが、舘野さんのために書かれた曲ですか?

舘野:ええ、そうなんです、一昨年にできた曲です。実はこんどの札幌が初演なんです。

多田:そうなんですか。知らないはずです。それは楽しみです。このピアノソナタの核心は、無限の手の届かない彼方への憧れ、これですね。

モーツァルト:「女ほど素敵なものはない」K.613(光永浩一郎編曲)について

多田:最後は、プログラムの2曲目に置かれているモーツァルトのK.613の左手のための編曲作品です。編曲の光永浩一郎さんは、舘野さんに左手のための曲をずっと提供されているいわば同志のような作曲家ですので、舘野さんの魅力が存分に発揮される曲に仕上がると期待しています。今回が初演ですが、もう楽譜はできているのですか?

舘野:去年できまして、いま練習しています。

多田:チラシで舘野さんはバッハのシャコンヌのブラームスによる左手のための編曲のように愛奏曲になってくれるか、と書かれています(※チラシ参照)。

舘野:ブラームスのあの編曲は最初はなんだか分からなかったけど、マスターしてみれば結局、今までもう700回くらい弾くことになりました。モーツァルトはどうかな。難しいんです。

多田:バッハのシャコンヌのブラームス編曲には、原曲がヴァイオリン一丁であることの本質がまぎれもなく響いています。両手で弾くための華麗な編曲は(ブゾーニ編曲など)他にもたくさんありますが、左手しか使えなくなることによって、すべてを一本の手でやるので、いたずらに歌い崩したりできなくなります。その厳しさが原曲の魅力に改めて光を当てることになっていると言えます。

舘野:そう、そうなんです。ブラームスが編曲して、でもブラームスの歌が出てくるんです。最近のブライトコプフの原典版では、つい最近まではブラームス編曲のシャコンヌと記されていましたが、今はブラームスのシャコンヌ(バッハの主題による)という表記に変わったんです。多田さんが言われたことはその通りで、さらにブラームスのロマンティックな音楽にもなっているんです。それが分かってずっと弾くようになりました。モーツァルトのほうも、そうなってくれるかどうか。

多田:モーツァルトのK.613のあのF-durの主題には、魔笛のかのパパゲーノの純粋さが響いているように感じます。魔笛というオペラは社会が道徳によって整理されてゆく過程を描いた作品と言えますが、パパゲーノだけは最後までその「外部」にいます。社会化されません。涙が滲むほど純粋です。人間が均されてしまう手前に惹かれている舘野さんがK.613のこうした魅力に興味を持ったのは私はよく分かる気がするんです。

舘野:その純粋さが難しいんです。僕ね、モーツァルトは30年くらい弾いていないんです。

多田:30年前というとまだ両手の頃ですね。

舘野:ええ、それで30年くらい前にね、安川加寿子先生が亡くなられて、安川門下で集まってモーツァルトだけの演奏会を記念に開いたんです。そのときに僕が(両手で)弾いたのがこの曲なんです。それで、僕自身も人生の最後の時期にきているのでモーツァルトやっておかなきゃなぁと思いましてね。

多田:挑戦の選曲なのですね。

舘野:挑戦ですよ、これこそ挑戦ですよ!曲目変更なんてできないし(一同大笑い)。女ほど「怖い」ものはないという、、、。

多田:モーツァルトほど怖いものはないと()

舘野:あっはっは。それで編曲というとね、皆さん易しく弾きやすくというふうに思われるけど、とんでもない、音域は広がるし、跳躍は増えるし。まあ、まだ2ヵ月ありますから(インタビューは2月末)。
※演奏会では左手ピアノ&チェロ版編曲で演奏されます。

 

舘野さんの音楽について、4/30キタラでのリサイタルに向けて

多田:音域と跳躍というところで、まとめに入りたいのですが、4年前にリサイタルをお聴かせいただいたとき、左手一本で猛烈な勢いでアルペジオが乱高下するなかから絶妙なぺダリングで旋律が、効果音が、地鳴りが、浮かび上がってくる様に畏怖しました。どれだけの鍛練とコントロールが必要なことかと素人なりにもすぐに分かる凄さでした。会場で気づいたのは、右半身は不自由になってしまわれましたが、右足のペダルは使えるのですね。その猛烈なぺダリングが今の舘野さんの音楽を産み出していることに気づいたんです。

舘野:右足も、かなり不自由で歩くときも動かないのですけど、不思議とペダルを踏むことだけはできたんです。本当に奇跡のようです。

多田:私も神様が舘野さんに残してくれたんだと感じました。広い音域をアルペジオで上下する際に、途中で手が右から左手へと変わらないことによるエネルギーの一貫性などにも気づかされました。作曲家は両手で弾くピアノ作品の書き方はもうすべてやり尽くされていて新しいものを産み出しようがないときに、左手一本で弾くピアノの、こうした新しさに気づいて、作曲家たちが、嬉々として作曲している様子もはっきりと感じました。その「新しさ」こそが、舘野さんが繰り返し仰る人間が社会化されて均されてしまう手前の「原初的なもの」に繋がったわけです。舘野さん自身もほんとうにたくさんの世界を切り拓いてこられたのではないかと感じます。舘野さんの演奏は、音の一つ一つの執念のような重みが半端ではないので、実演に触れると、自分も目の前の仕事一つ一つに真剣に取り組まねばと鼓舞されます。「まあ、このくらいでいいか」と妥協できなくなります。そのことを思い出すと今日お話するときも少々緊張したほどです。さて、4/30Kitaraでのリサイタルは、米寿にして新たな挑戦のプログラムということになりますね。2ヶ月後、舘野さんがどんな知らない世界に連れて行ってくれるか、今からワクワクしております。ご健康でずっと素晴らしい世界を見せ続けてくださることを願っております。今日はありがとうございました。リサイタルのご成功をお祈りいたします。

舘野:はい、ありがとうございました。

 (2023.2.27 札幌市内にて)

 

米寿記念演奏会 舘野 泉 ピアノ・リサイタル

2023/4/30(日)13時30分開演
札幌コンサートホールKitara 小ホール

プログラム

平野 一郎:鬼の学校 左手のピアノと弦楽の為の教育的五重奏
シサスク:組曲「エイヴェレの星たち」より 第2曲
モーツァルト(編曲/光永浩一郎):女ほど素敵なものはない
マグヌッソン:ピアノ・ソナタ

ご予約方法

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