<創刊6周年記念&第10号発行後記>2020年代のメディアの行方 ‐ 石丸構文、畜群、ポピュリズムに抗って(執筆:多田 圭介)
目次 |
1. 新聞記者のAさんのこと
ちょっと前にある新聞記者の方からこんなことを質問された。Aさんとしよう。「よいインタビューの記事をつくりたいのですが、なにかコツのようなものはありますか?」、と。Aさんの今後の人生にとって意味のあることを答えなければいけないと3秒ほど思案したが、結局「ないですね。というか僕も知りません」と答えた。「コツ」というのがテクニック的なものを指すのであれば、自分も誰かから教わったことはないし、思えば特に注意していることなどもない。
だがそれだけで突き放すのもさすがに冷たいかなと思い、「自分もインタビューや批評などを読むのが好きなので、自分で読みたいものを自分で作っているだけですよ。あえていえばそれがコツでしょうか?答えになっていますか?」と答えた。すると、Aさんは「では、どういうものを読みたいと思ってやっているのですか?」と続けた。僕はちょっと躊躇しながらこう言った。「それに返答すると、Aさんの上司やいまご本人が取り組んでいる仕事を多少なりとも侮辱することになるので、それがお嫌でしたら答えないほうがいいような気がします」と。Aさんは答えた。「私も新聞社に入社していまの自分の仕事にがっかりしているので言ってほしいです」。
では、とできるかぎり言葉を選びながらこう話した。
いまざっくり検索してすぐに読めるアーティストのインタビューのようなものって、ほとんどアーティストの「生い立ち」とか、そうでなければ「仕事の流儀」とかアーティストのマニフェストについて話してるものが目立ちませんか?僕はそういうのに興味がないんです。僕はただ「作品について」興味があるのでそれ以外の話は原則しません。逆に質問させてください。なぜAさんたちはアーティストの人生や自意識の話ばかりするのですか?
Aさんは答えあぐねていたので、僕はこう続けた。
たぶん、人生とか自意識の話題なら読者が自分を重ねたり、自分の仕事の取り組み方に生かしたりできるから、そういう点で興味を持ってもらいやすいという感覚なのではないでしょうか。でもそういうのはビジネス書とか自己啓発本とかの役割なので僕はそういうのを書きたい(読みたい)わけではないんです。そうではなく作品の話だけがしたいということなんです。
そのときにどんな言葉遣いをしたか正確には覚えていないのだけど、けっこう丁寧に話したという感覚が(自分では)あった。普段の自分は、とくに友人とかが相手であれば、「あなたがいうコツってのが何を指しているのかよく分からない」のように、まるで石丸構文のような返答をしているからだ。ただ、Aさんには、コツ云々の前に自分がやりたいことはなんなのか、それにメディアというものが果たすべき役割はなんなのかをまずはちゃんと考えた方がいいということだけは伝えなければと思った。どう伝わったかは分からないが。
2. 石丸構文のこと
石丸構文といえば、石丸伸二は都知事選の開票速報でなんであんなにメディアに対してぶっきらぼうに振る舞ったのだろう。もちろんインタビュアーにその落ち度があったのは間違いないのだが、インタビューという仕事の役割、またメディアの役割について、改めて考えをまとめたほうがいいような危機感に駆られる出来事ではあった。そう、開票速報の中継を観ながら、新聞記者のAさんからの質問を思い出していたのだ。
石丸伸二があのとき、どんなセルフブランディングを目論んでいたかは分からないし、そこにはあまり興味はない。だけど、石丸がそのとき自分にインタビューしている記者が「メディアの役割を果たしていない」と感じていたのだけは間違いない。ちょうどいい。その出来事からメディアがいまなにをすべきなのかを少し考えてみようかなと思ったのだ。
都知事選の日、夕食をとりつつ開票速報をスマホで眺めていた。最初に見た石丸へのインタビューはTBSラジオだった。YouTubeの公式で公開されているので見てほしい。アナウンサーの武田砂鉄は石丸の近著『覚悟の論理』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2024)の以下の箇所を挙げて次のように質問している。
「石丸さんの『覚悟の論理』っていう本を熟読させていただいたのですけれど、まあ、「メンタルが強いですねというふうに言われてなんでメンタルが強いかって言われたというと、相手の問題はどうなっても私は知りませんよと割り切れる」(※同書207頁の武田による要訳と思われる)というところに書かれていてですね。【中略】まあ政治っていうのは、いろんな意見を受け止めて考えを変えていったり、考えを強化してったりってことの繰り返しだと思いますけれども、相手の問題がどうなっても私は知りませんよってふうに言い切れるところが自分のメンタルの強さだというふうに言われるとなかなかそこに対して意見を届けるってことは難しくなっちゃうんじゃないかなというふうに思ったんですけどね。」(↓リンクのYouTubeの2:00~)
石丸が著作のなかで堂々と政治的対話の拒否宣言をしているというわけだ。これに対して石丸は「本当に熟読されました?」とだけ返答してまともに取り合わなかった。これ以降(実際の時系列は分からないが)、かの「石丸構文」という揶揄を生みだした社会学者の古市憲寿との討論などが次々に民放から流れ続けた。TBSラジオの武田のこの発言も石丸を叩きたい欲望にまみれた連中から称賛された。だが、そのラジオでの石丸の返答を聞いて、僕は直観的に武田は意図的に同書の文脈を捏造しているのではないかと感じた。それで、『覚悟の論理』を読んでみたのだが、やはり、この著作の前後の文脈で石丸が言いたいことは、むしろこうだった。
「「対立が対話を阻む」と主張する人がいますが、これはそもそも論拠が間違っています。私たちは一人ひとり異なる存在で、対立しているからこそ、対話が必要なのです。」(同、113頁)
これが同書全体を貫く石丸の主張だった。対立から生まれるものに価値があって、そうしなければ真の対話の意味は分からないし、対立を避けてはいけない。もちろん、こんなことは当たり前のことでわざわざ本で書くことなのか?と思う。だが、武田がいうようにメンタルが強い云々の部分を切り抜いて同書が石丸の「政治的な対話の拒否宣言だ」というのはどう考えても誤読ないし悪意の捏造だ。
都知事選の開票速報で石丸がメディアに対してなぜあそこまでぶっきらぼうに振る舞ったのか。背景にあるのは、おそらくは、こうした都合よく前後の文脈を無視した切り抜きで相手の意見を「捏造」したうえで加えられる非生産的な攻撃にうんざりしていたというのは、あるだろう。もちろん、それであの石丸のメディア対応が正当化されるとは思っていない。そもそも僕は石丸の政策にも(初期橋下的な)政治手法にもあまり賛成していない。むしろあの種の限りなくポピュリストに近い人物を支持するリスクを丁寧に分析することがまずは大事だとさえ思っている(※1)。さらに開票速報の日からなぜか突如として石丸を賛美しはじめた人たちを強く疑問視してもいる。
(※1:ここでいうポピュリズムとはメディアでの印象操作によって浮動票を集めようとする政治的手法を指す。小泉純一郎がテレビワイドショーでの印象操作によって党内の反対勢力を葬ったときに浮動票が大きく動いたことをきっかけに、橋下や小池、河村などのいわゆる平成の改革派がそのメディアポピュリズムの手法を地方の首長選挙に応用したが、ポピュリズムの性質上、持続性の低さを露呈した結果となった。石丸にその徹を踏まない覚悟と戦略があるのかは、今の時点では不透明だ。)
だが、それでも、いま述べたような切り抜きの危うさなどを考慮せずに、「石丸構文」なるぜんぜん面白くもないただ不快なだけの論法でSNSで「一本とった」と嘲笑っている連中はアウトだろう。自分の趣味や職域の例に当てはめて石丸構文で彼を嘲笑したすべての連中は完全にアウトだ。だがそれ以上に、意図的(おそらくはそうだろう)な「切り抜き」で石丸に悪意に満ちた質問をした武田砂鉄はメディアの人間として問答無用でアウトだ。
メディアだけではなくいまSNSでは、こうした「切り抜き」で相手の意見を捻じ曲げた上での論破ごっこがほぼ常態化しているといっていい(ただ、正確に言い直すと、それでもまだ過大評価で、「捩じ曲げている」のではなくマジで読めていない場合が多い)。「文脈の無視」と「意見の捏造」がもう問題視されないほどに状況は悪化している(これも同じで、実際のところは「読めていない」ので捏造の自覚さえない場合が多い)。それどころか、「仮に部分を切り取られても、その部分で誰かを傷つける可能性がないかまで配慮して発信すべき」という声のほうが大きくなっている。おそらくは、武田砂鉄のようなメディアの人間がこうした発想にある種の「お墨付き」を与えてしまっているのが大きいのではないか。メディアが視聴率主義、部数主義であるのは仕方がない。だがてっとり早く人間の後ろ暗い欲望にリーチすることが常態化したためにこうした手法がすっかり定着してしまったのだ。
もう一つ、都知事選開票の石丸のインタビューをみて、石丸の態度がパワハラ的だと騒ぎだす人がでるだろうなと感じた。そして実際にそうなった。
3. 「パワハラ」と「声をあげる」ということ
いまパワハラへの過剰な警戒がかつてない勢いで社会を蝕んでいる。それが「切り抜き」のようなレベルのアンフェアな印象操作と結託したことによって何が起きているか。かつて自分を批判した相手、自分を傷つけた相手に対して、文脈を捏造して攻撃を加えて公然と貶めることで自分を「被害者の側」に置いて、そうして味方を増やしてスッキリしたい「弱い人間」の欲望にブレーキがかからなくなっている。それがアンフェアな振る舞いだとさえ誰も考えなくなってきている。そうしていったん自分を被害者ポジションに置くことに成功したら、SNS上では被害者への同情と加害者への非難はもう止まらない。これが本当のハラスメントなのだが、被害者意識が強い人は、公共性や合理性よりも自分の「気持ち」が何よりも大事だと本気で思いこんでいる。だからこの錯誤には気づかない。それほどに鈍感だ。
自分たち「弱い人間」に社会のほうが合わせるべきだという彼ら/彼女らの暴力的な大声を無視できない社会が、いま凄まじい勢いで実現しつつある。政治も企業も、そして何よりメディアも、そうした声に少しでも抵抗しようものなら即座にパワハラ認定される。弱いから正しい、弱い者に社会が合わせるべきだ、弱い者を見殺しにしないこと、弱い者に配慮し同情することに社会の基礎があるべきだというこういう思想を恥じることなく振りかざす人間のことをニーチェは「畜群(Herde)」と呼んだ。
石丸伸二は著書で対立を避けてはいけないと述べたが、畜群はあらゆる対立を悪だと感じる。自分の周囲で少しでも意見の対立が生じるとザワザワする。からだが受け付けない。自分に対する言葉でなくても誰かを罵倒する言葉が飛び交うと耳を塞ぎたくなる。畜群は、自分はもちろん誰かが自分の見える場所で苦痛を与えられることが何より恐怖なのだ。だが、こうした原理を掲げて生きることは端的に間違っている。確固たる信念を持って生きて、それを実現しようと努めれば必ず誰かを傷つけることになるし、そのことで誰かに苦痛を与えることになる。それを避けていては何もできない。
だが、どれほど合理的な根拠があろうと、他人に苦痛を与えた者が悪だとするパワハラ過剰警戒社会では、互いが顔色を伺って誰ともぶつかることのない、みんながみんなに親切な、欺瞞だらけの社会が実現してゆくことになる。畜群が目指す社会、パワハラが一掃された社会とはそんなものだ。少しでも品位を持って生きることを望むなら、SNSで被害者アピールをしてはいけない。ニーチェがいま生きていたらそう言うだろう。
もちろん本当に必要な「声を上げる」というアクションは存在する。だが、畜群たちが大好きな、自分を傷つけた人を悪者認定してスッキリするためのアンフェアな大声とそうした声とは外面的に区別するのは少し難しい面があるのだ。SNS上では特にそうなる。もちろん、似ているだけでまったく異なっている。だが、こうした畜群たちの大声を、パワハラを警戒するあまりに社会全体で擁護すればするほど、「本当に声を上げることが必要な人」たちの信頼を低下させてしまっているということに、ほんの少しでも心を砕くべきだろう。
4. 畜群化する世界の行方
ただ、もっと困ったことに、現在は哲学者、社会学者、政治学者の少なからぬ者も、この流れを不可避なものと考えている。情報技術によって、人間のこうした畜群的な(動物的な※2)コミュニケーションが可視化された。そのことによって、合理性を重視する近代的な<人間>像では軽視・軽蔑されていた側面が無視できなくなった。さらに、技術によって、それまで意識されていなかったものが意識され、操作できなかったものが操作できるようになってきた。そのために、こうした人間の畜群的な本質を前提としたうえで社会や人間をどう捉え直すかというほうに人文・社会科学系の全体が全世界的に傾きつつあるのだ。近代的で公共的な「人間」ではなく、動物的な反応(=無意識)を自動的に集積してそこにもう一つの民意を発見する。現代の社会はこうした民意を視野に入れて構築するしかあり得ないのではないか、と。
(※2 ここでいう「動物的」とは実際に動物が怠惰だという意味ではなく、20世紀の哲学者のアレクサンドル・コジェーヴが大衆の受動性を批判的に記述する際に用いた比喩表現を指す。コジェーヴの頭のなかではニーチェの「畜群」のニュアンスが響いていたと僕は理解している。)
いまこのコラムはジャーナル第10号の発行後記として書いているのだが、発行直後(6月9日)にこんなこともあった。5年に一度のEUの議会選挙で、フランス、ドイツ、オランダで、かなり偏った右派の政党が大勝したのだ。ここで言う右派とはEUの理念に反対する立場という程度の意味だ。EUの理念とは「自由」である。どこに生まれようとも、どこに住むかもどんな職業を目指すべきかも、本人の自由であるべきだ。だから、EUに参加した国々の中だけでも部分的にその理想を実現させないか。これがEUの理念の核心である。だが、移動が自由になれば人は豊かな国に集まってくる。こうして、フランスではいま移民問題が無視できない状況になっている。被害者意識の強い人(畜群)はこう考える。移民が自国に大量に流入すると治安が悪化する「かもしれない」、自分の仕事のパイが減る「かもしれない」、自国の文化が破壊される「かもしれない」。それらすべてのことよりも、本質的に「自由」のほうが誰にとっても価値があるものだと、頭では分かっているはずなのに(分かっていないのかもしれないが)、それよりも半径数メートルの自分の利害のほうを優先してしまう。
日本人的には、「治安が悪化するとか、そんなに困るなら移民を受け入れなければいい」となりがちだ。だが、彼らヨーロッパの人々にとって「受け入れる/受け入れない」は等価な選択ではない。まずは「受け入れるべき=自由が大事」という確かな感覚があるから、あのEUの議会選挙の右派大勝はショッキングな出来事だったのだ。2016年にイギリスがブレクジットに踏み切って8年。ついに畜群化の波は大陸を侵食し始めた。そんな出来事だった。
先のEU議会選挙でフランスを席巻した右派(極右といっていい)政党の国民連合のルペンとバルデラは、「今あなたたちが苦しいのは誰それのせいです。誰それを排除すればあなたたちは幸福になります。私たちに任せてください」という熱弁をマジで繰り返していた。YouTubeで検索してみてほしい。嘘ではない。だが、その最大瞬間風速に煽られたフランスの畜群たちはそれに熱狂したのだ。これが世界的な右傾化、あるいは世界の日本化の兆候でなくてなんであろう。いま手っ取り早く票を集めたければ徹底的な右派マーケティングしかない。ルペンやバルデラにはその確信がある。だが右派マーケティングに乗せられて実現してゆく社会は実際にはどんな社会か。パワハラを何よりも警戒する社会、個々人の半径数メートルの安心安全が何よりも優先される社会、一度敵認定した相手を、相手にどれほど合理性があろうとも、どんな卑劣な手段を講じてでも排除する社会。その行き着く先は、そんな畜群たちが一番恐れている、自分たちの安心安全が脅かされる社会である。
5. いま、メディアの役割とは
いま政治家やメディアが効率よく支持を集めたいなら、右派マーケティングがもっとも手っ取り早い。それは確かだ。だがそれに手を染めることには慎重すぎるほど慎重でなければいけない。右派マーケティングは多くの場合、排外主義や歴史修正主義の喧伝に頼ることになる。だがそれをやってしまうと、最低限の現代的で国際的な人権感覚を持った人と連帯する道がその時点で断たれてしまう。実際にそのせいでいわゆる平成の改革派は思想の近い野党勢力と連立できる場面でもそれが難しくなって、遠因的に政権交代を遠のかせてきた。維新の会も(小池一派もだが)その誘惑に抗えなかった。これは記憶に新しいことだろう。
もちろん、もっと正確に言えば、いまの共同体回帰の傾向は左右を問わない。現代の思想的流行がグローバル資本主義批判に傾いているのは左右の問題ではなくなってきている。彼らはその(グローバル資本主義の)象徴的な存在であるSNSプラットフォームを強く批判する。しかし実際のところはプラットフォームと共同体とは共犯関係にあると考えた方がいい。問題は言論のレベルで限りなく慎重に政治的なものにコミットメントすることが大切であるという当たり前の前提が、SNS上の市民運動(左右を問わない)のお手軽な快楽に没入したことで失われているところにある。そしてこの「慎重さ」とは‐ここが大事なのであるが‐「どうせ世の中は変わらない」というニヒリズムにも陥らず、かつ、反対に政治的なものに依存的に没入することもなく、という両義性を意味する。この思考が完全に敗北してしまっているのだ。一般的には「左がかっている」と言われることが多い日本の民放各社もこの点については同じように見える。さて、それではこの状況でメディアが果たすべき役割は何か。
日本は歴史的に十分に近代化も政治化もされなかった。だから、いわゆる欧米的な「政治化の罠」を説く言説を、そのまま日本に移植すると文脈が変わってしまうところがある。「政治化の罠」とは、政治的イデオロギーによって正当性を与えられた人間が、敵対勢力への暴力への快楽を止めることができなくなり、そのことがどこまでも人間をダメにするということだ。だが、日本は十分に政治化されていない。この状況で政治化の罠「だけ」を説くと、「無関心」と「イデオロギーの暴力に溺れる人」だけが残ることとなり、政治そのものが成立しない状況を延命させてしまうのだ。そこにSNS市民運動で簡単に得られる快楽が加わって、かつてない勢いで民主主義は信用を失いつつある。これが大状況であることは間違いないだろう。そして、この問題は‐往々にして履き違えがちだが‐選挙制度の刷新とか、アルゴリズムなどの情報環境のコントロール「だけ」によって根本的に改善することはできない(やらないよりやったほうがいいのではあるが)。本当の問題は、快楽を得る手段としてあまりにコスパがよすぎるSNS市民運動の安易さに正面から対抗できるような思想基盤が左右共に「ない」ことがその原因だと見えて仕方がないのだ。
メディアがいますべきことは、「政治的であることの重要性」とセットでその副作用、つまり「政治化の罠」の功罪両面を啓蒙する状況を整備することしかないのではないか。討論の長尺の番組を、討論そのものの過程をすべて放送して視聴者に自ら思考させるよう促すのもいいだろう(ただ、17年衆議院選挙、19年参議院選挙、今回の都知事選を通して、大型選挙が売名目的(SNSのフォロワー獲得のため)に利用される現象は完全に定着した。近く話題にもならなくなるだろう。この状況でどのようにして「まっとうな」討論の番組を編成できるかと考えると暗然とせざるを得ないのも事実ではあるが)。少なくとも、都知事選の開票速報のときのような石丸伸二に対するインタビューは、仮に石丸が丁寧に応答していたとしても、誰にとっても益とはならない。
言うまでもなく、万能の特効薬など、ない。言論のレベルで限りなく慎重に政治的なものにコミットメントすることの大切さを、手の届く範囲で地道に啓蒙することしかできないようにも思える。4節で、今の民主主義は近代的で合理的な<人間>像を諦める方向に全世界的に傾いていることを紹介した。だがメディアを用いてその流れへ反抗する余地はまだまだあるように感じられる。そうした空間をどこかで残す努力は誰かがしなければいけない。しかも、政治や経済だけではなく、文化を通してのその議論へのコミットは、実質的に未着手のままであるのだから。文化系の批評紙である本紙もこの辺りで何か役割を果たせないものかと思案しているところだ。経済で例えるなら、SDGsとか世界規模の環境問題には熱心なのに近所のホームレスには無関心みたいなアッパークラスを啓蒙して正しく政治化することは非常に有効性が高い。それと同じように、実質的な文化左翼のガス抜きのようなオペラ演出に喝采を浴びせているコンプレックス層を啓蒙して正しく政治化する余白は文化系にも多分にあるはずなのだ。アーティスト系や芸術愛好家にはなぜかそのコンプレックス層が多いので(悲劇的な事実だが)ここは手つかずの領域として残されている。せっかく相談にきてくれた新聞記者のAさんにも、本紙に何か希望を見出して相談にきてくれたのだから、できればそんな仕事をするようになってほしいと遠くから願っている。
オマケ
さて、だいぶ長くなった。以下はオマケ。都知事選の各候補者について皆さんはどうお考えだろうか。消去法で安野氏を支持する声も少なくなかった。デジタルで行政を前へ、という彼の主張は間違えようがないほど正しい。だが、当たり前すぎて何も言っていないのと同じだった。彼の今後に期待して精神的に応援するのはいいと思うが、「投票」をしてしまうと、現職に利する効果しかなかったはずだ。だから、セルフブランディング的に彼への投票を表明していた人を僕は信用していない。暇空氏はどうか。こうしたカルト系こそ注意が必要なのではないか。暇空をSNSのマーケティングで稼いでいるメディア言論人が支持するメリットは限りなく大きい。だからその勢力は拡大する可能性を残している。その主張が取るに足らないものであっても(だからこそ)影響力は無視できないだろう。暇空の登場でネトウヨ系のアイドルが入れ替わったのは間違いない。彼については、左「ではなく」、むしろ暇空と親和性が強い右系の層こそがきちんとNOを突きつけ続ける必要があるだろう。え?ぼくが東京都民だったら誰に投票したかって?3期継続よりは、長期的な野党再編への可能性を残すことも視野に入れてRシールをべたべた貼った人-全然いいと思っていないが-に入れたかもしれない。ああ憂鬱だ。(※↓に投げ銭が設定されています。こうした記事ももっと読みたいと思ってくれた人はそちらからご支援いただけると記事の公開数が増えます。)
(多田 圭介)
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