札幌劇場ジャーナル

【椿姫】見どころ聴きどころ

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 北海道二期会が上演する「椿姫La Traviata(道を踏み外した女)」。この作品の「みどころききどころ」を紹介する記事で、最も多いパターンで、かつ作品を理解する上で欠かせないエピソードは、当時のパリ社交界と保守的な田舎社会の対立を解説する内容だろう。予備知識ゼロで現代人がこの作品を鑑賞したなら、まずアルフレードの父ジェルモンが「なんて嫌な奴なのだろう」と映る。そして、当時の社交界と田舎社会の対立を知ると、ジェルモンはあくまで田舎の保守的でマジメな人物に見えてくる。しかし、さらにその上で登場人物の心情をもっとよく知ると、一周して「ジェルモンはやっぱり独善的で嫌な奴」という印象に落ち着く。ジェルモンをどう理解するかは、この作品解釈の重要ポイントになるのだ。この辺りを詳述した記事はおそらくネットサーフィンをしてもゴマンと見つかるだろう。だが、北海道二期会の公演ではじめてこの作品に触れるお客さんはかなりいるのではないかと思う。なので、はじめに、ごく簡単にこの経緯に触れ、それから、第一幕の前奏曲の解説を通して、より深く「椿姫」を味わうための手引きとしたい。題して、「ヴィオレッタはいつ道を踏み外したか?」。あらすじを知らないひとはググってください。

 ヴィオレッタは「高級娼婦」である。だが、この「高級」という形容詞があるからには「低級」な娼婦もいたはずだ。まずこのあたりから。当時のフランスでは、女性は夫の許可なしでは働くこともできなかった。さらに結婚するためには持参金が必要。このような事情から生家が貧しい女性は娼婦になることが多かった。こうして生まれた娼婦は、普通の娼婦で、いわば「低級」。しかし、ヴィオレッタの職業である高級娼婦はこれとは少々異なる。高級娼婦はクルチザンヌという当時の新興貴族たちをパトロンとする文字通りの「勝ち組」なのだ。美貌はいうに及ばず、文学や芸術の教養に溢れ、ウィットに富んだ会話術で貴族たちを飽きさせない、そんな器量を備えた女性だけがクルチザンヌになることができた。とはいえ、ブルジョワジーたちに湯水のように金銭を消費させる夜会に生きるクルチザンヌは、ブルジョワ社会そのものには半分しか属していない。「半分」の社会という意味でこの社交界は「ドゥミ・モンド」と呼ばれた。それに対しアルフレードはプロヴァンス出身の田舎青年。ヴィオレッタは、大都会パリのブルジョワ社会にも半分しか属していなければ、田舎の保守的な旧社会にももちろん属していない。自分の息子がクルチザンヌと同棲していると聞けば、世間体を気にするムラ社会に生きるジェルモンにとっては醜聞に他ならないのだ。

 と、こう背景を知ると、ジェルモンはいたって常識的な「普通の」オジサンに見えてくる。だが、この人物の節操のない独善性は一筋縄ではいかない。第2幕では、自己中心的な本性を露わにしながらヴィオレッタの過去を責め立てる。しかも、自分の息子を犠牲者に仕立て上げ、狡猾に息子と別れるよう仕向ける。だから、アルフレードに「故郷へ帰っておいで」と優しく語りかける名アリア「プロヴァンスの海と大地」も、ジェルモンの善良な性格を表現しているのではない。あくまでも彼の狡猾な二面性が表現されなくてはならない。物語が悲劇へ向けて動き始めるキーを握っているのはたしかに旧社会の常識を代表する人物、ジェルモンなのだ。

本篇に入ろう。この物語のタイトルは原語ではLa Traviata。traviareという「道を踏み外す」という動詞の女性の名詞化、つまり「道を踏み外した女」が原題である。オペラの原作であるデュマ・フィスの小説のタイトルはLa Dame aux camelias、訳するなら「椿を持つ女」であった。だから、この作品は「椿姫」と題されることもできたのだが、ヴェルディはあくまでもLa Traviataというどこか倫理的な響きを伴ったタイトルにこだわった。ヴィオレッタはいつ踏み外したのか。どこからどこへ踏み外したのか。娼婦稼業がそもそも「踏み外し」なのか。娼婦にもかかわらずアルフレードとの真実の愛に身をゆだねたことが踏み外しなのか。あるいは、ジェルモンに従ってアルフレードとの愛を諦めたことなのか。このあたりは単純ではない。まずは、第一幕の前奏曲を題材に物語を掘り下げてみよう。

この作品の前奏曲は、ヴェルディが書いた最も哀切で繊細な音楽といえる。そもそも、ヴェルディが一人の女性の心情にこれほど共感し、ともに泣くような音楽を書いたのは後にも先にもこの椿姫しかない。この前奏曲にはそのエッセンスが詰まっている。前奏曲は、涙が滲むような静かな旋律に始まり、徐々に体温が高まるような情熱が戻り、そして楽しげな装飾音符に彩られ、一気に華やいだ第一幕へと入ってゆく。この順序は実は第3幕から逆向きに物語を遡っているのだ。椿姫の演出でよくあるのは、第一幕の前奏曲で死の床にあるヴィオレッタが描かれ、その回想として幕が上がるというパターンだ。あるいは、ヴィオレッタが死んだ後のアルフレードの回想として描かれることも多い(デュマ・フィスの原作はアルフレードの回想による)。そもそもこの前奏曲は時系列を遡るように書かれているはずなのだ。前奏曲をよく知れば、この物語の骨格は明確になる。と同時に、この前奏曲には漏れてしまっている大切な要素も見えてくる。それは、ヴィオレッタという不幸な女性を社会はなぜ生んでしまうのか、という時代を超えた視点である。

ト書きと原作によれば、この物語の舞台となった季節は、おおよそ第1幕が生命が燃え盛る8月、第2幕が冬に向かう11月、第3幕は復活祭のただ中、つまり真冬の2月が想定されている。前奏曲は、これを2月→11月→8月と遡る。

まずは、冒頭ロ短調(からホ長調)16小節に渡る旋律を見てみよう(※譜例1)

譜例画像①

ヴィオレッタが死の床に伏している第3幕の前奏曲は長3度低いハ短調に移るが、これと同じ旋律で始まる。今にも生命の火が消えそうなこの旋律には死の床に伏している真冬の第3幕の情景が集約されているのだ。もし、この作品に北海道二期会の公演で初めて接するのであれば、youtubeでいいのでこの箇所を繰り返し聴いて覚えてほしい。

次に17小節目に始まるアダージョ。ここではホ長調に転調し、弦が情熱的な旋律を歌う(※譜例2)

譜例画像②

この旋律は第2幕でヴィオレッタがアルフレードに向けて歌う「Amami, Alfredo amami quanto io t’amo!(わたしを愛して!アルフレード、あたしがあなたを愛しているように!)」と同じ旋律である。つまり、情熱的でありながら徐々に死へと向かってゆく第2幕の秋、11月を表している。この旋律は様々に変形されヴィオレッタの愛を表現する。例えば、第1幕のヴィオレッタとアルフレードの二重唱「Di quell’amor che e palpito dell’universo(全宇宙の鼓動であるその恋を)」もこの旋律の変形である(※譜例3)

譜例画像③

ホ長調のこの旋律を繰り返し聴いて覚えていればすぐにそう分かるだろう。

次に29小節からは、このホ長調の旋律が木管に移り、それに重なり合うように弦に細かい装飾音符が出てくる(※譜例4)

譜例画像④

この軽やかな装飾音符は、第1幕で燃え上がったヴィオレッタとアルフレードの束の間の愛を表している。つまり、生命が燃え盛る真夏、8月だ。

前奏曲はこのように時間を遡りながら物語への導入の役割を果たす。北海道二期会の「椿姫」開演前にこの記事の譜例を見ながら前奏曲を繰り返し聴くべし。しかし、この3つの季節だけでは、ヴィオレッタがどう「踏み外した」のかはまだはっきりしない。いやデュマ・フィスの原作ではそれは自明なのだが、このLa Traviataというタイトルに拘ったヴェルディの意図は不明確に留まる。ヴェルディが書いた音楽には、この3つの季節には収まりきらない、かつ作品のタイトルの意味を理解する上で決定的に重要な箇所がある。 

それは、第22場である。ヴィオレッタに復讐するためアルフレードがパーティに乗り込んでくる場面だ。

22場第7曲フィナーレでは、パーティにアルフレードが到着すると音楽は緊迫したへ短調に移る。ヤケになったアルフレードが賭博で大勝を続ける音楽(※譜例5)と、ヴィオレッタの嘆息の声(※譜例6)が重なり合う。ここは、賭博の緊迫を表すあまりにテンポ設定が速すぎるとヴィオレッタの嘆息が生きてこない。劇的な緊張を表現しつつ、テンポはあくまでも引き締まっていなければならない。

譜例画像⑤

譜例画像⑥

そして、次に、アルフレードは集まった客人たちを呼び寄せ、大勢の前でヴィオレッタに賭博で巻き上げた金を投げつける。女に生活の世話をしてもらっていた恥辱を晴らそうというわけだ。アルフレードが金を投げつけるとヴィオレッタはショックで気絶し、客人たちはその非礼なふるまいをいっせいに非難する。その声は、混声7部に分かれ分厚い和音をつくり、減7の和音上にフォルティッシモで休止する。すると、沈黙をおいてジェルモンが登場しアルフレードを叱責する。この箇所にはぜひ注目してほしい。前の合唱の減7が持続されたまま5小節にわたって和音は解決せず、この叱責がどの方向に向かうのかに全員が固唾を飲んで注目している様が表現されるのだ。

やがてアルフレードが後悔の念を呟き出すと、音楽はヴェルディの真骨頂に至る。ヴィオレッタは意識を取り戻し、この作品で最も美しい音楽、「Alfred, di quest core non puoi comprendere tutto l’amore(アルフレード、あなたは私の心を分かってくれないのね)」を歌い出す。この2回繰り返される「アルフレード」という歌詞は涙なしには聴けない。そして、このヴィオレッタの自己犠牲の意味が続くコンチェルターテで明確になる。このコンチェルターテはおそらくヴェルディが書いたもっとも優れたコンチェルターテの一つに数えられる。重なりあう大アンサンブルのなかで、ジェルモンは真相を守らなければと、ドゥフォール男爵は復讐の決意を、客人たちは声を合わせヴィオレッタを憐れむ。大アンサンブルが混声合唱を伴いそれぞれの心情を歌う。

このフィナーレに注目してほしい。金を投げつけるアルフレードがクズであることは当然だが、そこからは「女性を傷つけるとは何事か!」と怒鳴りつける客人たちの偽善がこれでもかと聴こえてくる。さらに息子を叱責するジェルモンも偽善。この2つの偽善は、実は、冒頭で述べたパリ社交界と旧社会の秩序を表しているのだ。社会というものは、偽善を必要とする。偽善は、必ず何らかの犠牲を必要とする。これは、いつの時代でも変わらない。この物語で犠牲になっているのは、言うまでもなくヴィオレッタである。社交界と旧社会という2つの社会はヴィオレッタという、いわば「贖罪の山羊」によってその秩序を保っているのだ。このオペラをはじめて鑑賞した多くのひとは、おそらく、ヴィオレッタがなぜこんなにもしおらしくジェルモンの言いなりになるのか不思議に感じるのではないか。それは、ヴィオレッタが、自分が贖罪の山羊としてしか生きることができないことをどこかで自覚しているからなのではないか。こう考えると、ヴィオレッタは「いつ」道を踏み外したのかという設問が愚問であることが見えてくる。「La Traviata道を踏み外した女」というタイトルは、物語の過程で道を踏み外すという意味ではなく、社会が秩序を維持するために社会から外れた存在を必要とする、そのような人間の暴力性を表現しているのだ(と筆者は思う)

いじめはクラスの秩序を維持する。テレビがgoを出した「失敗したひと」をネットで叩くことで社会は団結する。差別に反対することで差別という秩序を生みだす。自らの意のままにならない他者を「非常識」と断罪し、自分をマジョリティの側に置いて安心しようとする。凶悪事件の報道で「怖いですね」とコメントし自分が善良であるかのように思いこむコメンテーター。こうした私たちの身近な世界にどこにでも見られる出来事は、すべて同じ「贖罪の山羊」の犠牲によって安定を得ようとする動機を隠し持つ。現在、世界中の劇場でもっとも人気がある演目の一つになったこの「椿姫」だが、初演時にはその社会批判的な内容が事件になっていた。当時、ヴェルディはストレッポーニと同居していたが、それが原因で養父とのあいだに軋轢を起こしている。ヴェルディ自身が社会通念の犠牲になったのだ。この作品には、そんな「常識」を盾に他者の振舞いを断罪することで自己の精神の安寧を得ようとする常識人たちへの異議申し立てがあるのだ。ヴェルディはなぜ「道を踏み外した」という倫理的な響きを伴ったタイトルに拘ったか。そこには、ヴェルディ自身の、いつの時代でも人間が集まって社会を構成すれば必ず起こる暴力への視座があるのだ。

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