札幌劇場ジャーナル

【Kitaraワールドオーケストラシリーズ】ロンドン交響楽団 <指揮:サー ・アントニオ・パッパーノ、ピアノ:ユジャ・ワン> 演奏会レビュー 9/29@Kitara大(執筆:多田圭介)

9/29にKitaraでロンドン響の札幌公演を聴いた。このオケは欧州の名門オケのなかでも非常に柔軟性が高く登壇した指揮者によって音の性格が明確に変化する特徴がある。機能性の面でも欧州随一。2年前にもラトルと来日しているがそのときは敏捷性を活かした音楽作りだった。そこから一転、今回はパッパーノの指揮のもと、たっぷりとした、まるで宮廷の調度品のような品格あふれる音楽を聴かせた。この性格は前半のラフマニノフを素晴らしく彩った。最高級の機能性を誇りながら、技術で膨大な情報を処理するようなデジタルな感覚がまったくない。それが高価な木材でしつらえられた家具や調度品を思わせるのだ。

©John Davis

©Mark Allan

ラフマニノフは聴きどころが連続して息をつく暇もなかった。まず冒頭のホルンのオクターブのユニゾン。4本のホルンがバチッと完璧に決まる。このモチーフには複付点8分音符と32分音符が含まれており、この音価は金管ではなかなかハマらないのだが、4人が揃って胸がすくような吹奏を聴かせる。それでいて、まったくうるさくない。古い城を仰ぎ見るような威容を感じさせる。日本のオーケストラも今は本当に上手くなったが、こうした金管の斉奏がこれほどの王者の風格を見せることはそうはない。

続くヴァイオリン群の嬰へ短調の主題も目を瞠るほど素晴らしい。最初のアウフタクトをやや長めにとって、そこからまるで空気を孕んだような柔らかくコクの深い音色で上昇する。フレージングも指揮者自身が歌っているようにフレキシブル。ほんの少しのディミヌエンドが心の痛みや葛藤を感じさせる。だが、気高く上昇する。ここを聴いてこのオケをかつてアンドレ・プレヴィンが指揮していた頃のサウンドを思い出した。ピアノ協奏曲の第1番には力強く上昇する音型のモチーフが多い。堂々めぐりの音型が多い2番や3番の協奏曲とはそこが違う。作品のその性格と演奏の風格が実に見事に融合している。ここまで聴いただけで、これはここ数年のKitaraのワールドオーケストラシリーズで最高の成果だと確信できるほどの開始だった。

ソリストのユジャ・ワンも素晴らしい。ただ、ユジャ・ワンのピアノはこのヴァイオリン群の主題の直後にアルペジオでショパン風の展開をみせる箇所だけ、まだペースを掴みきれておらず、音と音がぶつかりあって、ガチャガチャしてしまった。また、その箇所は指揮者とのテンポ感にもズレがあった。だが、3連符のモチーフが雪崩を打つvivace(練習番号8)に達する頃には集中力が高まり、2~3楽章はほぼ彼女のベストフォームと言っていい水準だった。

©JuliaWesely

それにしてもこのオーケストラの充実ぶりはどうだろう。第1楽章の中ほどではオーケストラの進軍が静まり重たい足取りに移る。そこの巨大な船体に急ブレーキをかけるような呼吸の巨大さも凄い。やはり、デジタル的ではない、あくまでも人肌の手触りがある。カデンツァに入る頃にはユジャ・ワンのピアノにも完全に魂が入ってきており、特に和音の嵐のなかから冒頭のヴァイオリンの主題が左手に現われると、少し涙で濡れたような音がする。第2楽章ではその感覚をさらに強める。特に同楽章の終盤、ヴァイオリンとチェロの対話にピアノが応答するところでは、まるでモチーフに歌詞がついており、その一言ひとことを吟味しつつ、言葉一つの意味にまで肉薄するようなのだ。こうした心理的な掘り下げは(筆者が知る限り)普段の彼女の実演からはあまり聴いたことがない種類のものだった。ここは相当にスイッチが入ったのだろう。東京の信頼している友人にそれを話すと東京の公演でもここはそうだったのだそうだ。

終楽章ではAllegro vivaceが一段落ち着いてAllegro ma non tantoに入ると再びパッパーノとこのオケ、そしてユジャ・ワンの美質が全開になる。同じテンポのなかで複数のテンポ感のパッセージが同時に進行を始めるラフマニノフ一流の音楽。音楽は確かな足取りに変わり、水平方向に拡がりを見せ始める。指揮者がもの凄い集中力でオケを掌握している。そこへ細心のデリカシーでユジャ・ワンのピアノが重なる。超一流の演奏家が本気を出したときにだけ聴こえてくる、人間が楽器を弾いているのではなく、音楽が勝手に流れだすようなあの感覚がホールに満ちる。Kitaraの大ホールでこの感覚が生じたのは、最近ではマティアス・バーメルトが指揮した札響のブルックナーの6番が記憶に新しい。欧州のオケの札幌の公演ではなかなかこの水準に達しないもどかしさが続いていたのだが今回は見事だった。ソリストは心身がやや不調だったようでアンコールは弾かなかったが、本篇でこれだけ堪能させてくれれば文句はないだろう。

後半はマーラーの交響曲第1番。演奏についてはラフマニノフとほぼ同じことが言えるのだが、マーラーに関してはそれが必ずしもよい結果にはならなかった面もあった。パッパーノの丁寧に箱庭を作るような職人的な仕事が、この作品特有の若者の心の叫びのような音楽とは齟齬を生じさせてしまった。とはいえ、依然として仕事のレベルは高い。

提供:札幌コンサートホール ⒸHiroharu Takeda

冒頭、7オクターブに及ぶフラジョレットのA音に様々なモチーフが点描的に張り付けられてゆく。トランペットのバンダ(※注1)には”Schnell(速く)の指示があり、舞台と異なる速度感が要求されるが、こうしたところがよくリハーサルを積み重ねたのだろう。多様なモチーフが交錯するような効果が十分に出ていた。また、バンダに関しては、立ち位置もリハでしっかり時間をかけて確認したことが窺えた。なぜなら、「音量」は記憶の彼方から聴こえてくるような”ppp”であくまでも記譜通り。そうでありながら、「音色」は覚醒を呼びかけるような鳴り切った響きで、難しいバランスが巧く両立していたからだ。長い序奏の後、チェロに主題が来ると、ここでも丁寧な処理が目立つ。フッと緊張が緩みチェロが朗々と歌い始める演奏が多いが、ここはスコアではあくまでも”pp”。パッパーノはそれを厳守しつつ、むしろチェロ以外のパートを克明に聴かせる。ここでバス・クラリネットのモチーフがチェロと対等に聴こえた演奏は他にあまり記憶にない。

(※注1:バンダとは舞台の袖や客席内など舞台以外での演奏の指示を指す。この作品のここのバンダの指示は舞台袖での演奏と解すのが一般的。)

テンポの伸縮を繰り返し音楽が肥大化してゆく展開部の後半では、トランペットの音価を楽譜通りに全音符の最後までffで吹かせる(練習番号23)など、随所で細かい拘りが聴こえてくる。ただ、やはりそれでもパッパーノの老練な音楽はこの作品特有の若者の歌とは少々異なっている。同曲が初演されたときには演奏が始まると「聴衆はそわそわしたり、肝をつぶしたり、不愉快さを隠さなかった。」(※注2)とされているが、そのような聴き手の挑発や崩壊の予感は一掃されている。再現部直前のシンバルの一閃をT.アドルノは”Durchbruch(突破・裂け目)と名付けたが、パッパーノとロンドン響にそのような偶発的な爆発力を認めることはできない。シンバルとそれに続くトランペットのファンファーレもごく上品で耳に優しい(筆者はうるさい音が苦手なので嬉しいが)。それどころかシンバルに関してはまるでシャンパンの泡がはじけるようなシャレっ気を感じさせる。楽章の最後、猛烈に加速した後の最後の8小節にマーラーは”Schnell bis zu Schluss(最後まで速く)と記しているが、ここも悠然とした歩みで締めた。やはりパッパーノはこの作品を未知へ向かって突進するような若者の音楽だと思っていない。いや、思いたくないのかもしれない。徹底して箱庭的、手工業的なのだ。

(※注2:Alma Mahler,Gustav Mahler:Erinnerungen und Brief, Allert de Lange, Amsterdam,1940(『グスタフ・マーラー‐回想と手紙』酒田健一訳、白水社、1973年、392頁))

2~4楽章についてもほぼ同じことが言える演奏で、マーラーの心に肉薄したとは言えないのだが、それでも相応の説得力があったことは確かだった。いまこの記事を書きながらマーラーのスコアを眺めている。おそらくマーラーはこの演奏を聴いたら納得はしないだろうなとは思う。マーラーはスコアに音符ではなく「言葉」でびっしりと指示を書き込んでいる。当時は印刷技術が急速に発達し出版も飛躍的に拡大を始めていた。おそらく、マーラーには自分が書いた楽譜がどこでどう演奏されることになるのか不安があったはずだ。仏教では「人を見て法を説け」(法華経の冒頭)という教えがあるが、それに喩えるなら、「人」を見る間もなくどこに拡がるか分からない感覚があったはずだ。だから、言葉に過剰に頼ったというのはあるだろう。パッパーノのマーラーについて考える上で本質的なので少々敷衍してみよう。

提供:札幌コンサートホール ⒸHiroharu Takeda

楽譜がどう読まれるか分からないのと同じように、文章だってどう読まれるかは分からない。文脈を無視した「切り取り」がすっかり常態化した現代を生きる我々にとっては、なお切実だ。だから、仏陀は退屈な説法を延々と続けてそれでも残った者にだけ真実を語るという方法で、メッセージを伝える相手を厳しく選別していた。その弟子の高度な理解を頼りに、火事のエピソードを通じて、衆生を救うためには大噓も必要になることがあるという思考の論理を伝えた。「嘘も方便」という言葉はここからきている。「嘘」を何らかの意味で肯定しているからと言って、決して「人それぞれ」や「なんでもあり」というわけではない。

20世紀の初頭は、音楽でも弟子を通じて自分の書いた楽譜の読み方がしっかりと伝達される時代ではなくなってきた感覚があったはずだ。人を見て法を説くべきなのに人を見ることが叶わなくなる。もちろん、「人を見ても」メッセージが正しく伝わるかは未規定だし、それにどうやって「人を選ぶのか」も原理的には未規定である。だから、こうしたテーマは古くから「分かる人には分かる」という半ば伏せられた仕方で語られてきた。だからこそ、仏陀が法華経で述べたように「誰にどう伝えるか」を吟味しないわけにはいかないのだ。そうでなければメッセージの伝達がメッセージを台無しにするからだ。こうした言い回しがあまり頭に入ってこないという人がいたらその人には理解してほしくない。というか理解しなくてもいい。そういう人にはいまここで書いたことはメッセージが客観的に伝達されることの否定だと思ってもらって構わない。だが、これを読んだ全員がそう読んだとしたらこの文章も失敗だったことになる。そういう内容だ。

何が言いたいかというと、パッパーノが奏でたマーラーの交響曲第1番はマーラーの心からは遠かった。もう少しここでの文脈に沿って正確に言うと、マーラーが楽譜にびっしり書き込んだ言葉の意味はおそらくはパッパーノには伝わってはいない。だが、彼なりの誠実な仕事だったことは間違いない。それは彼がスコアに真剣に対峙してそれを丁寧に音にしていったこの演奏の成果からも明らかだ。だが、その結果、齟齬が生じた。決して、後の時代の人が楽譜をどう読もうがそんなものは「人それぞれ」といういい加減な態度から生まれた結果というわけではない。だからこそ、結果的にマーラーの心から遠かったのではあるが、相応の説得力を持つのだ。こういう<齟齬>なら演奏芸術の面白さだということは許される。マーラーの精神に真剣に肉薄しようとした結果の齟齬だったからだ。

さて、もう一点。11月のKitaraの主催公演は注目公演が続く。まずチェンバロのアンドレアス・シュタイアー(11/2)。現代のグランドピアノが失ったものが何であったのかが彼ほどよく分かるチェンバロ奏者はそうはいない。そしてイブラギモヴァとティベルギアン(11/17)。これはここ数年の同ホール主催の最大の目玉だろう。ヴァイオリンとピアノのデュオとしては間違いなく現代最高のコンビだ。札幌で聴けるこの機会を決して逃すべきではない。

 (多田圭介)

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