【STJ第10号掲載】ランス室内楽団コンサート レビュー(執筆:多田圭介)
紙のさっぽろ劇場ジャーナル第10号に掲載している記事の一部をWebでも公開いたします。今回は8面「コンサートレビュー」コーナーより、2024年3月にKitaraアーティスト・サポートプログラムで実施されたランス室内楽団コンサートのレビューをご覧ください。(事務局)
ランス室内楽団コンサート ~クラシックは楽しい!色彩と躍動の世界~ ランス室内楽団 曲目: |
Kitaraのアーティスト・サポートプログラムで実施されたランス室内楽団のコンサート、“クラシックは楽しい!色彩と躍動の世界”を聴いた。まるでサーティワンのアイス3つ乗せのような美味しいコンサートで、わくわくしながら聴かせていただいた。「このコンサートについて書いてみたい」、そう思わせてくれる、なにかこのアンサンブルならではの魅力がある。ランス室内楽団は2017年の結成。最初は友達同士のおさらい会(演奏家が友達同士で演奏を披露して感想を言い合う会のこと)から始まったのだそうだ。このコンサートが実現するまでのことを、代表の石黒(Fg奏者)はこう話した。せっかく集まったので演奏会をやろうとなり、第1回を開催したのだが、お客さんのことまで頭が回っておらず自分たちのやりたい曲を並べた結果、ガラガラになった。それから、お客さんも喜んでくれて自分たちにとってもやりがいのあるプログラムを模索するようになって、その成果が今日のプログラムだ(大意)。とても実感のこもった口調でこう述べた。演奏を聴いて、そのプログラムと演奏がどう苦心して作り上げられたのかがしっかり伝わってきた。
まず曲目だが、ランスはピアノ以外は管打楽器奏者なのでおそらく個々のメンバーが吹奏楽の指導を行っているはずだ。客席には楽器を持った中高生のお客さんも多かった。その生徒達が、「あ、この曲知ってる!」と反応するような曲が並んでいた。それに、編曲が大変に面白い。プログラムに並んだ曲を吹奏楽部で演奏したことがあれば、「きっと、ここはこの楽器だ!」などと予想しながら聴くはずだが、その予想をヒラりとかわしてみたり、とにかく飽きさせない。おそらく最もお客さんに馴染みの曲は最後の「だったん人」だろう。No.17の「だったん人の踊り」が始まった瞬間、客席で声にならない歓声のような音が広がった。みな嬉しいのだと感じた。そして「だったん人」だけは、子どもたちが知っている通りに、ここはこの楽器で、次はこの楽器でという期待そのままに次々とソロが登場した。最後は奇を衒わずに王道を行くのも意図されたものだろう。
ランスの編成はかなり変則的である。Fl.1、Ob.1、Cl.3、Fg.1、Pf.1、Perc.2の9名。編曲は困難であることが容易に窺える。だが、各奏者が縦横無尽に楽器を持ち替え(Clの全員がEs,B♭,Bassを、ObはEh、FlはPiccとAlt、Percは大量)、多彩な響きを次々と生みだしてゆく。このメンバーで、この編成で、どうすればお客さんに楽しんでもらえるか。そのための工夫の跡がこの曲目と編曲なのだということが演奏から伝わってくるのだ。
編曲は本当に面白かった。フルートの按田が主に担当しているのだそうだ。相当な熟練を感じさせる。前半のラヴェルの「道化師の朝の歌」はオーケストラ版では、ゆったりとした中間部はFgのソロになる。ところが、ランスにはFg奏者がいるのに、ここはピアノできた。客席がおっ!となる。しかも、道化師は全曲を通してピアノが主役になるように編曲されており、聴いているうちに「この曲ではピアノをフィーチャーしたのか」と分かってくる。続くマ・メール・ロワでは、Vnの弱音器をつけた冷たい音が出てくるが管楽器では難しい。どうするのかと思えば、こうしたところでは巧みにピアノが活躍する。スッと染み込むように玲瓏に奏でる(「眠りの森の美女のパヴァーヌ」の最後)。「親指小僧」の最初の弦楽器の弱音の3度の旋律は、ヴィブラフォンと木管を重ねゾッとするような美感を作りだす。終曲「妖精の園」は、最後の主題に入る、あの絶美の瞬間(おそらくはラヴェルの全作品中でも特別な瞬間だろう)に、管打楽器が一斉に沈黙しピアノが静かに主題を奏でる。大円団もまったくうるさくならない。内面の静かな勝利の音楽。打楽器の抑制の効いた繊細な響きもキメが細かい。後半のサン=サーンスの「死の舞踏」は、原曲では肉を削ぎ落とされたような開放弦のVnを合図に死者たちが踊りだす。ここはシロフォンだった。打楽器の向が固いバチで見事な効果をあげた。この曲ではシロフォンがフィーチャーされ、カランカランと乾いた音で骸骨ダンスを滑稽に、だがどこか愛らしく聴かせる。舞踏会の終わりを告げるObの鶏の声は、ObがいるのにわざわざCl。ここはさすがに笑っているお客さんもいた。筆者もつい笑ってしまった。
ランスの音楽には、なにか「遊び」の感覚がある。それも「音楽に遊ばれる」のではなく、「音楽で遊ぶ」。もちろん真剣に。ちょっと、ゲームのことを思い出してみてほしい。ゲームを深く楽しむとき、あえて決められた通りにプレイしないことがある。最短時間で攻略するのもゲームの楽しみ方の一つではあるが、そのときプレイヤーはプログラマーに「遊ばれている」。ゲームの本当の面白さは、プログラムを分析して、別の遊び方を発見することにある。カラオケの「90年代アニソン縛り」とかもそうだ。ランスの編曲と演奏にもこの感覚がある。
目の前にあるゲームのルールを自分で分析して、より楽しめるルールをつくる。そうすることでそのゲームはどんどん自分のものになる。彼女たちも、お客さんに楽しんでもらえるようにと工夫を重ねるうちに、ゲームのルールをオリジナルに設定し直して、そうして音楽を与えられたものから自分のものへと変えていったはずなのだ。本紙6-7面のコラムで、「目的をもって何かをやることがその何かを深く味わうために邪魔になる」と書いた。最短で攻略する「ため」、テストでいい点をとる「ため」、上手だねと認められる「ため」。音楽することそれ自体の「外に」目的を持ってしまうと、そっちに意識がいってしまい、音楽を自分のルールに書き換えてゆく快楽からは遠ざかる(もちろん音楽の勉強では必要だが)。だが、ランスの音楽からは音楽することそのものの愉しさが立ち昇ってくる。それは音楽を愉しむ/愉しませることそれ自体を目的とする姿勢、つまり「音楽で遊ぶ」姿勢から生まれているものではないか。そうして、ランスの各メンバーは、作品に、音楽に、なにより自分たちに、深く出会ってきたはずだ。その味わいの豊かさが、アイス3つ乗せの美味しさと伝わったのだろう。
おそらくは編成がこの9人になったのは偶然だろう。だが、偶然に演奏しづらい編成になったことが、結果的にランスの音楽に「遊ばれるのではなく遊ぶ」愉しさを与える結果になったのではないか。砂利道でも、歩いてみて発見できることというのは、ある。手を動かすこと、やってみることの大切さを教えられた。
アンコールは「主よ人の望みの喜びよ」。ピアノの三上が精いっぱいの気持ちをこめて優しくアルペジオを奏でると、そこに包み込むような木管の和音が重なる。涙腺が緩んでしまった。
(多田圭介)