<全3回シリーズ>【 特大増補改訂版 】ブルックナーディスク選② 交響曲編 後編(交響曲5番~9番)
紙の第10号の企画「ブルックナーディスク選」の評判がよかったので、執筆者と曲目を大幅に増やして特大増補改訂版をお届けすることになりました。ブルックナーを心から愛する5人のゲスト執筆者を迎えて(+私)、存分に語ってもらいました。ブルックナーイヤーを締めくくる企画です。年末にごゆっくりお楽しみください。(編集:多田)
交響曲編 後編 もくじ |
交響曲5番
【遠藤選】朝比奈隆/大阪フィル、キャニオンクラシックス、1994年録音
朝比奈とチェリビダッケ(※)に共通した功績は、ブルックナーにふさわしい響きを持ったオーケストラを育て上げ、死してなお(!)その音を守り伝えていること。朝比奈が創り上げた大阪フィルの響きは、底力があって密度が高く、芳醇な音色の味わいもある。大阪フィルを通して僕たちは、朝比奈のブルックナーに今でも会える。この両巨匠は、オーケストラ奏者の音楽性を活かしていたことも共通する。朝比奈は棒の分かりにくさをむしろ武器にし、奏者それぞれに自発的に音楽を歌わせた。ブルックナーの音楽には自発的な生命力が必要である、ということを再認識させられる。(遠藤)
※(編注)チェリビダッケについては交響曲6番で後述
【甲斐選】マゼール/バイエルン放送交響楽団、BR Klassik、1999年録音
マゼール指揮バイエルン放送交響楽団(BR Klassik)は、ウィーン・フィルの旧盤から解釈が更新され、アダージョは速く(18:07→15:05)、スケルツォは遅くなって(12:23→14:33) 、同一調性で、同じ弦ユニゾンの動機で始まる第2、第3楽章の鏡像形を明らかにしている。1999年時点のマゼールの読みの深化に畏敬の念を覚える。両端楽章は、後期交響曲並みの大交響曲としてのポテンシャルを存分に発揮させた演奏だ。(甲斐)
【武尾選】高関健/東京シティフィル、Brain×Tower Records、2021年録音
「眼光紙背に徹す」とはこのことだと思う。高関のスコアへのこだわりは夙に有名であるが、それ自体が目的化せず、目的は「演奏」にあるのだと強く感じさせてくれる。第1楽章の3つの主題の有機的関連性、第2~3楽章の堅固な構成感など美点は多々あるが、真骨頂はやはり終楽章。複雑な対位法も明晰な処理でどこに力点があるか一目瞭然。最後の高らかな金管コラールは神々しいばかりだ。シティフィルの充実ぶりにも目をみはる。(武尾)
【福島選】朝比奈隆/シカゴ交響楽団、NHK エンタープライズ、1996 年録音(DVD)
今にも止まりそうな遅いテンポをものともせず、鳴りに鳴るオーケストラ。とりわけ、フィナーレのコーダに於ける渾身の大迫力。朝比奈の器の大きさがシカゴ響の桁外れの演奏能力によって、最大限に具現化されている。満場総立ちのカーテンコールは、もうひとつの朝比奈のステージであり、ショーであった。それを懐かしく思い出す。(福島)
【やまね選】インバル/フランクフルト放送交響楽団、Teldec 1987年録音
定評あるインバル&フランクフルト放送響による録音。第5番はこの録音から聴き込んだのでいまでも特別に耳に馴染んでいる。今回改めて聴いてみたが、展開がすっきりと明快に整理された解釈でオケはクリアに鳴り、重すぎず軽すぎず立体的なバランスが実に良い。対位法的な複雑さからとっつきにくいように思われがちな第5番に馴染むには最適の録音で、最後のコーダが特に雄大に響く演奏だ。ごつごつした岩山の長い登山道を辿った末に頂上に至り、急に視界が開け足元には雲海が広がる。聴くたびにそんな風景を思い描く。(やまね)
【多田選】チェリビダッケ/ミュンヘンフィル、Altus、1986年録音(東京ライブ)
アクセントやスタッカートをオルガントーンで均す処理やフレーズの最後を抜くチェリビダッケ独特のやり方は、録音によっては人工的にすぎるように感じられることもあるが、このサントリーホールのライブ録音は会場で響いていたであろう印象がかなり入っている。音と音がただ重なりあうだけでこんなに空間的な拡がりが出るのかといちいち第5の(ブルックナーの)凄さが実感できる。ときに瞑想するようで、ときに刮目するようで、ときに悠久の自然に触れ、人間の小ささを想う。ちなみにこの曲はヴァントも得意にしており、没後にProfilレーベルなどから大量に発売されたライブ録音はどれも聴き逃せない。すべての音から「こう響かねばらならないのだ」という強靭な意志が聴こえてきて芸術家の信念にビビる。迷いに迷ったが今回聴き直したら限りではチェリの東京ライブに漂う目に視えないものへの憧れや永遠の気配により惹かれた。違う日に聴いたらまた変わると思う。(多田)
交響曲5番 シャルク校訂版
【遠藤選】ロジェストヴェンスキー/読響、Altus、2017年録音
弟子による改訂版の中でも、とりわけオーケストレイションが大幅に変えられたこの版の特徴を、豪快に表現した演奏のライヴ録音。僕は客席で聴いたが、不思議と「ブルックナーを存分に聴けた!」という満足感に浸れた。ヴァイオリンの旋律をコンサートマスター長原幸太のソロにするなど、改訂版をさらに改訂しているが、これも素朴さを引き立てていて良い。響きが変えられても魅力が失われない、ということは、ブルックナーの本質は旋律にあるのだろうか。(遠藤)
【甲斐選】バーギン(Richard Burgin)/ボストン響、ボストン響HP(YouTube)、1959年録音
バーギン(Richard Burgin)指揮ボストン響(ボストン響HP/YouTube)を推す。1959年ステレオライブ録音。猛スピード緩急自在の爆演で、非ブルックナー的だが、後期ロマン派交響曲としての初版の面目躍如だ。第2楽章は内藤盤並みの超快速で曲想を生かしており、初版の影響でブルックナー演奏のテンポが遅くなった説には反証となる。クナッパーツブッシュではウィーン・フィル盤より、ミュンヘン・フィルのモノラル録音が、より安定した重厚な響きで楽しめる(Dreamlife)。(甲斐)
【武尾選】イム・ホンジョン/韓国交響楽団、DECCA、2016年録音
改竄の面ばかりが云々されるシャルク版だが、スコアに書き込まれた細かいテンポ指定(例えば第1楽章第2主題)などはブルックナー当時の演奏を反映している可能性があり、作曲当時の演奏法を知る上でももっと価値を認めてもよい版だと思う。イム・ホンジョンは比較的このスコアを忠実に再現し、シャルクの意図を浮かび上がらせるが、そればかりでなく、終楽章コーダで補強された金管を武器に圧倒的なパワーを見せつける。(武尾)
【多田選】ロジェストヴェンスキー/読響、Altus、2017年録音
スクロヴァチェフスキの急逝で急きょ実現した巨匠最晩年の東京ライブ。会場で聴いたが、金属打楽器が大量投入されたド派手な(はずの)終楽章のコーダで、オケは鳴り切っているのに、無音の静寂のただ中に佇むような不思議な体験をした。録音を聴くとそのときの風景が蘇ってきて今でも鳥肌が立つ。長い指揮棒の先端をほんの少し動かすだけでオケが濃密に歌い、指揮者があるパートのほうを向いただけでそのセクションの響きにグワッと血が通う。指揮棒1本でオーケストラを操縦するということがどういうことなのか全身で理解させられたライブだった。CDでもその片鱗は十分に味わうことができる。このときは、演奏家が一定レベルを超えると版とかどうでもよくなるんだなと思わされた。よりによってシャルク改訂版のときにそんなことに気づくとは。(多田)
交響曲5番 オリジナル・コンセプツ川崎校訂版
【甲斐選】内藤彰/東京ニューシティ管、Delta、2008年録音
内藤彰指揮東京ニューシティ管弦楽団(Delta)が唯一のディスク。第5番の初稿は筆写譜がなく全容不明だが、第2稿の第3、第4楽章は、初稿の自筆譜が流用されているので、修正を取除くことである程度初稿を復元できる。第2稿作成時書下ろしの第1、第2楽章は不可能だが、川崎氏はバスチューバが加えられる以前の「精妙に構築された弦楽器中心の音響構造」を復元した。完全な初稿ではないが、現行版と異なる複数の初期形態を耳にできる貴重な試みだ。(甲斐)
交響曲6番
【遠藤選】チェリビダッケ/ミュンヘン・フィル、Sony Classical、1991年録音(Blu-ray)
朝比奈とチェリビダッケ(※)に共通した功績は、ブルックナーにふさわしい響きを持ったオーケストラを育て上げ、死してなお(!)その音を守り伝えていること。チェリビダッケが磨き上げたミュンヘン・フィルの響きは、壮大に鳴っていながらも透明感があり、そして、敢えて不統一にする運弓がもたらす「木洩れ日が明滅するような」トレモロの音色が独特。ミュンヘン・フィルを通して僕たちは、チェリのブルックナーに今でも会える。この両巨匠は、オーケストラ奏者の音楽性を活かしていたことも共通する。チェリビダッケは、終演後にオーケストラ奏者に向かって合掌し感謝の祈りを捧げる恒例の仕草に、その姿勢が表れている。ブルックナーの音楽には自発的な生命力が必要である、ということを再認識させられる。(遠藤)
※(編注)朝比奈については第5番に記載
【甲斐選】ファンホ・メナ/BBCフィル、Chandos、2012年録音
本作最大の魅力の一つ、異界からそよぐ風のように神秘的な第1楽章第2主題は、「意味深く、より遅く」の指示を守り、ポリリズムを正確に捌かなければ魅力を生かせない。これを見事にクリアし、絶品のアダージョも遅いテンポで十全に仕上げた、ファンホ・メナ指揮BBCフィル(Chandos)を推す。第1楽章冒頭はスコア通りppで、リズミックな感じよりスコア通りのマエストーソ(厳かに)の音楽だ。後半もめりはりが効いた快演。(甲斐)
【武尾選】サヴァリッシュ/バイエルン国立管弦楽団、Orfeo、1981年録音
堅牢な構築感、明晰なテクスチュア、旋律への深い彫琢、くっきりとした輪郭線、そして伸びやかさ。この曲に欲しい要素がすべて揃っている。先日再放送されたNHKのインタビュー番組で、サヴァリッシュは「ブルックナーはいら立ちや不満を知らない」と発言していたが、このサヴァリッシュのブルックナー観は6番にもっともよく表れていると思う。奥行きを感じさせる音響設計もこの盤の大きな魅力だ。(武尾)
【福島選】チェリビダッケ/ ミュンヘン・フィル、EMI CLASSICS、1991 年録音
チェリビダッケにとってもブルックナーは特別な作曲家であった。これは、かの「第8」リスボン・ライヴのような「異形」ではない。チェリビダッケとしては極めて常識的なテンポの中に、尋常ではない細部への目配りやコントロールがなされた名演なのだ。演奏機会の少ない名曲の最上の規範と呼べるだろう。(福島)
【やまね選】アイヒホルン/リンツ・ブルックナー管弦楽団、カメラータ、1994年録音
クルト・アイヒホルンの最後の録音。地元リンツのオケは鄙びているが朴訥さがむしろ味わい深い。音楽学者の土田栄三郎先生、プロデューサーの井坂紘氏による追悼的なライナーノートが感動的で示唆に富む。土田先生は若干の技術的な弱さを指摘しながらも「音楽の自然な息吹に従って、長短さまざまなフレーズを微妙な緩急で歌い進めていく」「非レトリカルなレトリック」を高く評価する。特に第2楽章の美しさは格別で、ローエングリン&パルシファル風の清澄さは反面とても人間臭く、「かくれたエロス」(井坂氏が伝えるマエストロの言葉)も含む。(やまね)
【多田選】スクロヴァチェフスキ/ザールブリュッケン放送響、Oehms、1997年録音
ヴァント、スクロヴァチェフスキ、インバルの3人以外から選ぼうと色々聴いてみたところ、薫り高いドレスデンのオケの魅力が味わえるハイティンク&ドレスデンシュターツカペレと職人的なライトナー&バイエルン放送響がなかなかよかったが、細かく聴くと前者は大味で響きにも肥大化傾向があり、後者は玄妙にすぎ彫りが浅く感じられるところが食い足りなくなる。結局スクロヴァチェフスキに戻ってきてしまった。6番は(0番と並んで)彼の全集でもっとも出来がよい。最初の低弦の主題に書かれているデクレッシェンドでふと影がよぎる表情の豊かさを聴くとそこだけで6番に関しては彼はやはり別次元にあると感じさせられた。主題がフォルテになる瞬間は閃光が走るようだし、遅れて追いかけるホルンの立体感も最高。アダージョの第2主題のチェロの斉一性、そして弦の他声部がそれに親密に重なるハーモニーの美しさもこれしかないと納得させられる。終楽章の150~174の鋭敏なリズムに粉雪が舞うようなトレモロが奥行きを添えるところもこの指揮者ならでは。ただ、終楽章コーダの金管の凝縮度だけはヴァントとインバルに一歩譲る。実演ではスケルツォ主部のホルン4声まで自分でピアノを弾くように軽妙自在だったバーメルト&札響2024が忘れ難い。今回色々と聴き直してみて、やはりあのライブは特別な演奏だったのだと実感した。ディスク化されれば第一候補の筆頭になり得る。(多田)
交響曲7番
【遠藤選】マタチッチ/スロヴェニア・フィル、DENON、1984年録音
演奏頻度の高い7番は、実は圧倒的名演が難しい。旋律を生命力豊かに歌えるか、ということが如実に問われるからだ。この「難曲」7番の録音を聴くと、マタチッチが史上最大のブルックナー指揮者だと確信する。あらゆるフレーズが、自然な呼吸を持って生きているのだ。響きに塊のような充実感があるのも、スケールの大きさにつながっている。オーケストラにミスがあっても、ブルックナーの魅力が充分に伝わるという好例でもある。(遠藤)
【福島選】シューリヒト/ハーグ・フィル、DENON、1964年録音(SACD)
フルートの一節に宿るなんという寂寥。金管群の咆哮にすら無常観が漂う。キリリと締まった造型、一切が速めのテンポで過ぎゆくがゆえに、聴くものの魂にいっそう熱く切ない疼きを残してゆく。「8番」「9番」のウィーン・フィル盤と共に、シューリヒトが遺した掛け替えのない遺産である。情報量豊かなSACD で聴きたい。(福島)
【やまね選】バレンボイム/ベルリン・フィル、ワーナークラシック、1992年録音
ワグネリアンのブルックナー。バレンボイムはブルックナーの交響曲全集を3度録音しているが、これは2番目のもの(シカゴ響、ベルリン・フィル、シュターツカペレ・ドレスデン)。いちいちフレーズを柔らかく膨らまし、リズムは重く粘る。ブルックナーの清浄さにパルシファル風の有難い勿体が付く演奏で輪郭がややぼやける感があり好悪は分かれるだろう。とはいってもテンポは安定しており、これはこれで円熟したスタイルだ。ブルックナーはワグネリアンだったので作品の一面を強調した解釈ともいえるかもしれない。なんといってもベルリン・フィルの見事さに押し切られる。こういう解釈では柔らかく歌謡的な第7番が最も合っていると思う。終楽章、ブルックナーではお馴染みの岩壁が聳え立つような金管のトゥッティでは、まるで大蛇ファフナーが這い出るようでニヤリとさせられる。(やまね)
【多田選】インバル/都響、Exton、2017年録音
驚異的に透明な音響で作曲者が書いたいかなる小さな要素をも蔑ろにしない。人間の理性によって理解できないものは存在しないのだと云わんばかりにすべてを指揮者の視界の内で統制する。この曲のこの部分にこんな表情が眠っていたのか!と聴くたびに驚かされる。設計、ビジョン、高い理想、そしてそれを完全に音にしてゆく技量と気迫という点においては、第7だけに限らず、録音で聴くことのできるブルックナーの音楽で最上のものではあるまいか。次点はザンデルリンク&シュトゥットガルト放送響1999とヨッフム&バンベルク放送響(Altusの東京ライブ)。(多田)
交響曲7番 川崎校訂版
【甲斐選】内藤彰/東京ニューシティ管、Delta、2011年録音
内藤彰指揮東京ニューシティ管(Delta)が唯一のディスク。現状の原典版は一つの稿だけだが、弟子達の進言と思われる打楽器群追加とテンポ変化指示を取除こうとしたハース版は、事実上初稿復元の試みだった。川崎氏は、ハースの校訂を不徹底として更に修正を行い、特に第4楽章コーダでハースが削除し忘れたLangsamとa tempoを消すことで、第1楽章に釣合う雄大な終結を可能にした。内藤盤は肝心のこの意図を生かしていない。新録音を期待する。(甲斐)
交響曲8番 初稿
【遠藤選】ポシュナー/リンツ・ブルックナー管、Capriccio、2018年録音
表現に癖があり、力を込めて歌い出してから緊張感をほどき、最後は躍動的に切る。楽譜には無い強弱の潤色も多用し、全体として野人的で力強い生命力を持つ。ティンパニの野太い音色も面白く、それらの特長が初稿の素朴な魅力を強化する。終楽章冒頭の弦楽器に堂々とした重量感があるのも印象的だ。ひょっとすると、「アップ→ダウン」のボウイング指示を守った稀有な演奏なのではあるまいか? ライヴに立ち会って確認したいものだ。(遠藤)
【武尾選】ヤング/ハンブルク国立フィル、Oehms、2008年録音
ヤングはすぐれて和声感のいい指揮者だ。一つの和音を美しく鳴らすだけでなく、次の和音に移るためにはその和音をどのように響かせればよいかを確と心得ている。8番第1稿は第2稿に比べて複雑な和声構造を持っているが、ここでヤングの特質が十二分に発揮されている。とりわけ第3楽章、クライマックスに至る第1稿より格段に長い階梯に織り込まれた刻々と移り変わる和声を、これほど美しく響かせるのは稀有なことだ。(武尾)
【福島選】ギーレン/バーデン・バーデン南西ドイツ放送交響楽団、SWR、2007年録音
「8番」の初稿は、第2稿より軽めの音楽と思われがちだが、第1楽章にfffのコーダが用意されたこと、後に割愛されてしまったエピソードの前衛性によって、思いのほか巨大で魅惑的な音楽なのである。「7番」の成功に人生の絶頂にあったブルックナーの幸福が反映されている。それを教えてくれるのが、ゆったりしたテンポを基調とするギーレンに盤なのだ。「3番」で聴かせたド迫力の代わりに、慈愛と内面の充実がここにはある。(福島)
【多田選】インバル/都響、EXTON、2010年録音
後期ロマン派風の身振りが目立つ1890年第2稿に対して、初稿が持つ小鳥の鳴き声のような自然美や、現代音楽のような抽象美を最高の機能性を誇る都響から存分に引き出している。インバルは2018年に都響で2稿も指揮したが、彼の頭の中で鳴っているのはやはり初稿なのであって、2稿とは多少の齟齬があったようだった。初稿の彼こそ最高。演奏については2番で書いたことがここでもそのまま当てはまる。(多田)
交響曲8番 シャルク校訂版(初版)
【甲斐選】クナッパーツブッシュ/ミュンヘン・フィル、Westminster、1963年録音
打楽器群を追加した第7番初版初演大成功の影響か、アダージョのシンバル6打、派手なファンファーレなど祝祭性が際立つ初稿に、厳しい推敲を加えた第2稿は、より内省的で荘厳な傑作となった。その初版譜を初演したハンス・リヒターの弟子、クナッパーツブッシュ指揮ミュンヘン・フィルの歴史的名演を推す(Westminster)。初版の指示は取捨選択され、クナ独自の解釈が深められている。前日のライブ録音も素晴らしい(Dreamlife)。(甲斐)
【福島選】クナッパーツブッシュ/ミュンヘン・フィル、Westminster、1963年録音
宇野先生によるクナの「ロマンティック」国内廉価版盤LPのライナーノートを読んで、いても立ってもいられなくなり、購入したのがこのレコード。そのライナーノートの執筆者も、もちろん宇野先生であった。その後、様々な演奏を聴いてきたが、結局はシューリヒト盤とクナッパーツブッシュ盤に帰ってくる自分がいる。クナ盤の魅力は、包容力の大きさだ。この響きの中に身を置くだけで、魂は大きな安らぎを覚える。まるで宇宙や大自然に抱かれているような安心感と言えば近い気がする。残念なことに上記マタチッチ& N 響の真価は、CD には収められていない。限定盤のLP を探して聴くか、映像付きのDVD での鑑賞をお奨めしたい。(福島)
交響曲8番 ハース版
【武尾選】ヴァント/ベルリン・フィル、RCA、2001年録音
数あるヴァントの8番の中でも僕はこれをとりたい。ベルリン・フィルをここまでドライブするには強烈な意志が働いているにちがいないのだが、全く作為が感じられず、むしろ指揮者もオケも作曲者さえも姿を消し、ただ音楽だけが最初からそこにあったような感覚になる。特に終楽章はテンポ設計に無理がある演奏も少なくない中で、完璧と言ってもいい自然な流れを作っているので、作品全体が非常に座りのいいものになった。(武尾)
【やまね選】ブーレーズ/ウィーン・フィル、DG、1996年録音
ブーレーズによる唯一のブルックナー録音か。しかも今時ハース版というのも珍しい。ブーレーズの解釈は理知的で一風変わったものになるかと思いきや、意外にもきわめて正統的で情け深い。細部のしみじみとした表情が際立つように丁寧に歌わせながらも端正な造形だ。残響が多いザンクト・フローリアン修道院におけるライヴ録音だが、かえってウィーン・フィルの響きの美質が活きているように思える。このライヴはDVDも発売されている。(やまね)
【多田選】ケンペ/チューリッヒ・トーンハレ管、Somm Recordings、1971年録音
ブルックナーの交響曲では、初期の作品群や初稿の演奏で次々と新たな魅力に彩られた演奏が登場しているが、その反面、後期の交響曲にはやや停滞感があるのではないか。7~9番の全体にそう言えるが、特に8番の2稿とハース版にそれが顕著であるように思えてならない(筆者が20代のときに聴きすぎたのもあるような気がするが)。最新のライブ録音を聴いても、どうしても「またこれか感」が出てしまう。ライブでは朝比奈&大フィル2001(2月の名古屋ライブ)が忘れ難くディスクにもなっているが、EXTONの録音からはあの高揚感と神秘の匂いがまったく伝わってこない。2稿とハース版のディスクは選ぶのが本当に難しい時代になったように思える。30年ほどときが止まっているように感じるのは筆者だけだろうか?数日迷ったのだが、新鮮味がないのであれば、いっそ古い録音にしようと思い、ケンペにしてみた。まだデジタルを知らない人間の手工業的な味わいがあり、聴いていると石畳の街並みが目に浮かぶ。まだ隣の国すら遥か彼方だった頃の世界、そして日々の生活に染み込んでいる祈り、そんなものが重層的に響き合っている。巨大さも十分にあるのだが、制圧してしまうような種類の巨大さではなく、むしろ巨大な何かに比べて人間の小ささを実感するような趣きがあり謙虚な気持ちにさせられる。(多田)
交響曲8番 第2稿 1890 ノヴァーク版
【遠藤選】飯守泰次郎/東京シティフィル、フォンテック、2023年録音
飯守と言えばヴァーグナー指揮者というイメージが強いが、僕はむしろ、ドヴォルジャークやスメタナでの鄙びた味わいが印象に残る。ブルックナーでも、乾いた渋い響き、素朴な歌いまわし、野人的な豪快さ、が飯守の魅力だった。クナッパーツブッシュに似ているのかもしれない。(遠藤)
【やまね選】セル/クリーヴランド管弦楽団、SONY、1969年録音
テンポも鳴らし方も淡々と落ち着いていながら、強い集中力で見事に造形された超名演だが、ショルティ盤とともに意外に話題に上らないのでは。とかく理知的すぎて冷たい印象を与えがちなマエストロだが、解像度の高いオケの生々しい音色とバランスが終始腑に落ち、まことに清々しい。第2楽章のスケルツォの堂々たる歩み、第3楽章の慎み深い歌い口は遠い彼方を仰ぐようだ。そして第4楽章のしなやかなこと!今年1月に聴いたバーメルト指揮札幌交響楽団による第6番の名演はこの系統上にある解釈だろう。(やまね)
交響曲8番 第2稿 第3楽章「アダージョ2」ゴールト・川崎校訂版
【甲斐選】①内藤彰/東京ニューシティ管、Delta、2004年録音、②シャラー/フィルハーモニー・フェスティヴァ、Profil、2013年録音
アダージョの第2稿が一旦完成した時点での筆写譜が、英国のゴールト博士と川﨑氏によってウィーンの国立図書館で発見された。現行第2稿は、その後さらに改訂が加えられたもの。第1稿の6打シンバルは2打に、ハースが第1稿から復元した10小節は6小節のみ、クライマックス前には未知の音楽が聴かれる。決して妥協ではない厳しい推敲の過程と、捨てるに惜しい美しい音楽がここにある。(甲斐)
交響曲9番
【遠藤選】尾高/大阪フィル、フォンテック、2021年録音
優等生的だった尾高は、大フィルのシェフになってから、荒々しい感情を表出する指揮者に豹変した。最も得意とする9番の演奏も、淡々とした音楽運びでありながら、各セクションが火花を散らすような大阪フィルらしい豪快さを生かしている。基本は原典版だが、3楽章最後のピッツィカートを、レーヴェ改訂版と同様にアルコに改変しているのが興味深い。原典版普及前の世代の指揮者だった父君へのオマージュだろうか、などと想像するのも楽しい。(遠藤)
【武尾選】若杉弘/NHK交響楽団、Altus、1998年録音
若杉とN響のブルックナー・ツィクルスは日本のブルックナー演奏史の金字塔だと僕は思う。中でもこの9番は特筆だ。若杉の解釈は精緻を極める。テンポ、デュナーミク、フレージングなど、どこをとっても隅々まで磨き尽くされている。特に第1楽章の完成度の高さは目をみはるほどだし、第3楽章終盤の浄福感も忘れ難い。それと同時にオケの集中力が比類ない。第3楽章冒頭の食い入るような表現などには心を揺り動かされる。(武尾)
【福島選】ヴァント/ベルリン・フィル、RCA、1998年録音(SACD)
神は細部に宿るというが、これは「細部を重ねると神に至る」といった演奏。顕微鏡的にスコアを分析し、ストイックなまでに緻密な音の構造体として組み上げていく。だが、ヴァントは、リアリストでありながら無神論者ではない。「モーツァルトという人物は、いうなれば神の存在証明のようなものである」と語ったほどなのだから。(福島)
【やまね選】ジュリーニ/ウィーン・フィル、DG、1988年録音
ウィーン・フィルを深々と長い呼吸で歌ったジュリーニのブルックナー録音は圧倒的な名演として7~9番共にずっとベスト盤扱いだったが、近頃はもっと引き締まった演奏が好まれるのか意外に取り上げられない。だが、今でもこれは格別な一枚だ。ブルックナーの音楽とウィーン・フィルの響きが残響豊かにハイブリッドした一つの究極だろう。特に終楽章はジュリーニが万感の想いを込めた惜別の音楽で、この演奏で聴くと9番は3楽章をもってひとまず完結する遺作なのだろうと思う。(やまね)
【多田選】レーグナー/ベルリン放送響、ドイツ・シャルプラッテン、1983年録音
8番のハース版で書いたのと同じ理由でこちらも昔の演奏から選んでみた。今回聴き直したところ、美麗なレガートに彩られたレーグナーがよかった。8番のケンペに通じるところがあるのだが、こちらも大言壮語せずに手の届く範囲を責任を持って整えるといった風情。ケンペと違うところは(特に第3楽章)、あらゆるフレーズを歌おう歌おうとしているところ。構築物を積み上げるような感覚は薄い。だが、フレーズの処理が厳格なのと、ハーモニーがとても透明で美しいため、まったくだらしなくならないのは凄い。すべすべの素材で仕上げられた仕立てのよい礼服のように上質。スケルツォのトリオAとBに一貫する8分音符3つの律動を丁寧に明示しているのにBでテンポダウンする(改訂版のetwas ruhigerの名残り)のがやや惜しい。だが書いてあるすべての音符が明瞭で生き生きと語りかけてくるので飽きない。3楽章の終わりは世界の終わりではなく、1日の終わり。また明日から自分の責任を果たそう、そんな感じで終わる。停滞しない流れのよさも聴いていて疲れない。深淵に連れ去られない9番もなかなかよい。巨大・深淵・神秘の3点セットの後期ブルックナーに疲れたときはこちらをぜひ。(多田)
交響曲9番 レーヴェ校訂初版
【甲斐選】①クナッパーツブッシュ/バイエルン国管、Orfeo、1958年、②クナッパーツブッシュ/ベルリン・フィル、Audite、1950年1月28日(スタジオ)、③同、1950年1月30日(ライブ)④アドラー/ウィーン響、M&A、1952年、⑤クリップス/ニューヨーク・フィル、Memories、1965年
クナッパーツブッシュの3種(Audite/Orfeo)はいずれも中庸なテンポで重厚な響きの名演。レーヴェ版の「ベルリオーズ風」の色彩感、軽妙さは、アドラー指揮ウィーン響(M&A/Naxos)の方がより聴きとれる。豪快なクリップス指揮ニューヨーク・フィル (Memories)も楽しい。いずれも古いモノ録音なので、改竄版として実体もよく知られずに忌み嫌われるレーヴェ版の、編曲の面白みを十全に伝える新録音をそろそろ期待したい。(甲斐)
交響曲9番 補筆完成版
【遠藤選】ヴィルトナー/ウェストファリア・ニュー・フィル管、Naxos、1998年録音
僕は、未完成のフィナーレを補筆完成した4 楽章版の愛好者で、様々な補筆者のものを聴いて来た。多くの補筆者が自らの版をヴァージョンアップさせているが、「改善」すればするほど陳腐に陥っていく。まるで、独創性が暴発するブルックナーの「原典版」に弟子たちが手を加えて、穏当な「改訂版」を生み出していく様を見るようで、苦笑してしまう。この盤は、サマレ・マツッカ・フィリップス・コールス版が「改訂」によって魅力を削がれる前の、まだ才気が血走っている段階の補筆完成フィナーレが、奇跡的に記録された名盤だ。(遠藤)
【甲斐選】フィリップス氏作成のMIDI音源(SPCM補筆フィナーレ:2021–2022年改訂版)
現時点でフィリップス氏作成のMIDIが唯一の音源(YouTube)。2012年版までの、第8番終楽章コーダの手法を踏襲した、全4楽章の主題を同時に鳴らす新規作曲部分の撤回が最大の特徴だ。第9番は第8番と異なり、主要主題群が複雑な構成なので、各楽章1つの主題回帰は無理がある。私見では「人生への別れ」主題を長調に、後半を上行に変容した、神を讃えるコラール主題こそ最重要主題であり、その重要度が増した新版を支持したい。(甲斐)
【武尾選】坂入健司郎/タクティカート・オーケストラ、Altus、2023年録音(第4楽章は石原勇太郎による補筆完成版)
9番については、最近僕は4楽章版を積極的に聴くべきだと感じている。亡くなる当日まで作曲を続けたブルックナーの意志に重みを感じるからだ。補筆完成版は様々な観点があってどれもとりどりに面白いが、石原による完成版はブルックナーが残した素材を一番わかりやすい形で演奏可能にしたものだと思う。もちろんこの盤の価値はそれだけでなく、坂入の「ブルックナー時間」を的確に捉えた第1~3楽章の演奏も印象深い。(武尾)
【多田選】インバル/フランクフルト放送響、Teldec、1986年録音(1983-85年サマーレ&マッツーカ版)
第9番の補筆完成による第4楽章はバージョンが更新されるたびに霊感がなくなってしまっているように思えてならない。今年(2024年)6月にSPCM21/22バージョンを東京で聴いたときもSPCM2012よりさらに魅力がなくなったように感じられた。筆者は9番の補筆版に関しては、1983-1985年に復元されたサマーレとマッツーカの2人によるこのバージョン(現行のSPCMによる補筆作業の出発点となったもの)を今でも最も好んでいる。最後の主題統合の直後、怪獣の雄叫びのようなホルンの咆哮を挟んで、もう一度コラール主題が流れ始めると、走り出したくなるような霊感が全身を駆け巡る。風を切るようなインバルのテンポ感もドハマりしている。続くコーダの導入の金管の強烈なアウフタクトも人知を超えた力によって世界が激変させられるかのようで鳥肌が立つ。次に更新されたSPCM1992では早速削除されている。おそらく今より研究が進んでいなかった状況で創作に近い部分も多かったものと思われるが、ブルックナーの音楽への深い愛と献身が感じられるのは筆者にとってはこのバージョンである。文学作品の翻訳が「原作者を追い抜かすこと」であるのと同じように音楽作品の復元にもそういう要素があるのではないかと思う。(多田)
第三弾は声楽曲・室内楽曲・器楽曲編をお届けします。お楽しみに!(編集部)
執筆者紹介
遠藤 啓輔(Keisuke ENDO) 1973年愛知県生まれ。奈良大学大学院修了、博士(文学)。尼崎市立歴史博物館に勤務。専門は考古学で、日本各地の遺跡を訪ね歩く。京都フィロムジカ管弦楽団トランペット奏者。トランペットを池田俊氏(元・大阪フィル首席)に師事。『法貴彩子 ピアノ・ジャンクションVol.5』に出演し、ブルックナーについて語る(Webに動画有り)。 |
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甲斐 貴也(Takaya KAI) 1960年11月4日生まれ |
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武尾 和彦(Kazuhiko TAKEO) 青山学院大学文学部卒業、同大学院修了。高校生の時から教会でオルガンを弾き、大学では聖歌隊に所属し学生指揮者を務め、以来教会音楽に親しんできた。現在、キリスト教系の学校で教鞭をとる。 |
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福島 章恭(Akiyasu FUKUSHIMA) 桐朋学園大卒。大阪フィル合唱団指揮者。井上道義、尾高忠明、R.エリシュカ諸氏から信任を得る。2026年ライプツィヒ聖トーマス教会にて「ヨハネ受難曲」指揮予定。音楽評論家として94年アリオン賞(柴田南雄音楽賞)奨励賞受賞。著書「新版クラシックCDの名盤」(宇野功芳・中野雄共著 文春新書)他。 |
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やまねほんざ 札幌在住のクラシック愛好家。札響定期会員(2006~)、国際マルティヌー協会会員。仰ぎ見る猛者の皆様の中で恥ずかしながらローカルな一クラオタ目線で偏愛する音盤について書かせていただきました。いまだに「ブルックナーらしさとは?」と首を捻る未熟者ですが、アニヴァーサリーに免じてご寛恕願います。今回の私の裏テーマは「宇野功芳が褒めなかった音盤」です。 |
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多田 圭介(Keisuke TADA) ブルックナーとガンダムをこよなく愛する本誌編集長。 |
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