札幌劇場ジャーナル

【対談】三浦安浩 × 多田圭介 可能性の中心を読む演出

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目次

演出家という仕事について

多田:オペラの演出家という仕事がオペラ制作の現場でどんなことをしているのかについて自己紹介を兼ねてお話いただけますか?

三浦:2つに分けられます。1つ目は、まず楽譜とテキストを頭に入れていきます。原作が別にある場合はそれも読みます。本を読むように自分の中へ作品を入れていきます。次に作品の背景を調べます。いまトスカに取り組んでいるのですが、トスカの場合だと1800年のローマが舞台です。フランス革命後というのがヨーロッパにとってどういう時代なのか、物語にどう反映されているのか。深堀りしていきます。そうするとハプスブルグ家とナポレオン軍の共和制の対立が見えてきます。ところが、この物語は表面的にはラブストーリーに見えます。人物相関図のようなものがよくありますね。それを最初にお客さんに見せてしまうと「これって三角関係の物語なんだ」と単純化されてしまいます。なので僕は相関図が好きじゃないです。そして次のステップが非常に重要です。トスカの初演は1900年。ちょうど1世紀後です。プッチーニにおいてこの作品はどういった意味があったのだろう、と。プッチーニはその時代のシアターのオーディエンスにどのようにプレゼンテーションしたのか。それを考えて、美術的なこと衣装や照明、ダンスや映像の元になるアイデアをすべて僕のほうで考えます。それをそれぞれのデザイナーに依頼します。その段階では舞台監督もそこに加わってそこでチームが生まれて情報を共有しながら準備が始まります。その一方で配役があり、稽古のスケジュールが組まれて立ち稽古が始まります。(演技のない)音楽稽古にはすべて出席するわけではないですが、作品によってはカットを求められたり、オペレッタなどでは台本を書き加えたり、監修的な立場で参加します。

多田:プロ野球の監督みたいですね。これが2つに分けられる仕事の最初の1つ目ですね?

三浦:そうです。2つ目に、いま言ったような原作の時代、プッチーニの時代を踏まえるのと同じくらいに、それを2020年代のお客さんにどう提示するのかを考えます。2023年のhitaruのフィガロの結婚でいえば、2023年に札幌でやることの意義、それを考えます。

多田:原作の100年後にプッチーニがその時代のお客さんにプレゼンテーションしたように、現代の演出家も今のお客さんにどうプレゼンテーションするかが大事になるということですね。

三浦:はい。今はDVDとか映像の中だけで批評されたりもしますが、この土地のこの劇場でやるということが重要です。ついこの間、東京の新国立劇場でシャンゼリゼの劇場で初演されたロラン・ペリー演出の再演出をしたのですけれど、二期会の歌手と東京の稽古場で稽古をしながら、現代の東京という意味合いを加味して変えるんですよね。

多田:面白くなってきました。次にその辺を伺いましょう。その時代、その土地の劇場によって変わるというところがポイントですね。具体的にどのようなプロセスを経てどう変わってゆくのか。

三浦:僕は幼少期にオペラが身近な環境にはありませんでした。ですがある日、オペラを観たときに、印象に残ったのです。印象というのは、Impressという言葉になりますが、何かを与えるというか、、

多田:分解すると、In=中へ、Press=押しつける、ですね。

三浦:はい、その力を舞台が持っていて、「カヴァレリア・ルスティカーナ」だったのですが、宗教的なことも2人のあいだのドロドロしたものも何も分からない中学生でした。けれどそこから「何かただならぬもの」としか言えないものが伝わってきたんです。そういう、劇場に来られた人の記憶に残るような「何か」を大事にしたいのです。それが明確に言葉で理解できるようなものであっても、なくても構わないので、そこに強烈な印象づけ(Im-press)があって、またその人が背景などに興味を持ってくれれば儲けものです。オペラはそういう「力」を持っています。

多田:各地のプロダクションに関わっておられますが、それぞれのお客さんにとってIm-pressが生じるような体験となるために、いつも大切にしていることを具体例を交えてお話し願えますか。

三浦:僕はお酒が好きなのでその土地のお酒を飲むようにしていますが、同じようにその土地の空気というのでしょうか。この間行っていた鹿児島は温暖で桜島と海が見えます。かと思えば、フランスのストラスブールなどに行くとずっと雲が立ち込めています。まずは土地を知るようにします。言葉を知ることも大事です。その土地ごとに人も違いますから、地元の合唱団の人たちにアイデアを出して返ってくる反応を受け止めたり、とてもデリケートな作業になってきます。いつもうまくいくとは限りません。フラストレーションが溜まることも多いのですが、そこが一番重要になります。ですから過程がとても大事です。オペラは期間も長いですし。

多田:現場で出会った人たちとのコミュニケーションを通してそこで生まれてくるものを大事にするということですね。

三浦:札幌で例を挙げると「アドリアーナ・ルクヴルール」にミショネという役がありますね。

多田:三輪主恭さんでしたね。素晴らしかったです。大ファンです。

三浦:はい。彼はどちらかというと寡黙で雄弁なタイプではないのですが、想いはたっくさん持っています。僕の提案をすぐに受け入れてこなすかというと、どちらかというと時間がかかるほうです。だけど器用な人間ではないからこそ、ミショネという人間の孤独とかが形づくられていったと思います。演出家が型に嵌めるようなやり方ではそうならなかったと思います。これは一例ですが、合唱もバレエも劇場の人も、その土地の人です。その土地の風土を反映して形づくられていきます。こういうことが生まれるのは東京よりも地方のほうが可能性があると感じています。1回に賭ける気持ちも強いですしね。

多田:それは札幌にいるとよく分かります。

演出家の作家性について

多田:いま頻繁に上演されるオペラの作品のほとんどは20世紀の頭までに作られています。演出家は過去の作品を今の時代とその土地に合わせて解釈します。演出家という仕事のそういう「作家性」のようなものが注目されるようになったのはそんなに昔のことではありません。演劇では20世紀の初頭には演劇改革の思想運動があり、演出家の作家性に注目が集まっていました。作者は原作者なのか演出家なのか、そうしたことが早くから議論されていました。オペラでは1976年のパトリス・シェローのリングがそのきっかけになりました。日本のファンは演出家が作家性を持つことに好意的ではありません。公演評でもちょっと設定が奇抜なだけで真っ先に演出が槍玉に挙がる状況です。とても保守的です。「演奏会形式でいい」みたいな人も多いです。オペラ演出家が作家性を持つことについて、どのようにお考えでしょうか。

三浦:とても大事な問題です。トスカに戻ると、1800年に起きたことを1900年のお客さんにみせています。演出家は「1800年にこんなことがあったよ、それでいま僕たちはここに(1900年)いるよ、これからはこうなっていくかもしれないよ」ということを考えていたはずです。それを忘れて博物館の資料のような感じで舞台を見せてしまったら僕はいけないと思います。作品のメッセージを軽視して形だけ過去のものを見せてはいけません。保守的な人のかなりの人は、その形だけのものが安心して観れるからそれがいいと思う人が多いのではないでしょうか。安心して観れるということ、それは非常にヤバいことです。プッチーニが作ったトスカを1900年に観た人で安心して観た人は1人もいないはずです。オペラを安心して観ようという考えは間違っています。議論が沸騰するくらいでいいのです。名作はそのパワーを秘めています。世の中の色んなものを変化させていったそのパワーです。パトリス・シェローのリングも当時僕は大学1年生でラジオで聴いていたのですがもの凄いブーイングでした。映像を観たのは何年も後でしたが大感動しました。シェローは、ワーグナーが「何をやろうとしたのか」を20世紀のお客さんにしっかり伝える意義ある仕事をしました。

多田:シェロー演出のリングはライン川が現代のダムになっていました。どの辺りに意義を認めますか?

三浦:演出にとって重要なものに「引用」というものがあります。文学でも絵画でも引用に満ちています。天才が突然何かを産み出すわけではありません。その引用のなかには、なんというのでしょうか、とても豊かなものがあります。シェローの演出にはそれがありました。

多田:なるほど。豊かなもの。その前に一度まとめましょう。昔のままだとただの博物館だ。それがまず重要ですね。そしてすべての作品には引用があって受け渡されてきたものがあるということですね。1つ目の博物館についていうと、舞台装置も今は昔とはまったく違いますし初演のままの衣装とかセットを揃えると本当に博物館の展示になってしまいます。それとオペラのト書きは一般のファンの人はご覧になったことはあまりないと思いますが、すごく空白が多いですよね。結局は現代の演出家がほとんどの空白を埋めていかなければなりません。「原作に忠実な演出」というのは形容矛盾です。保守的なファンはそうした事情もイメージしにくいところがあるのでしょう。2つ目の引用という言葉にはとても興味を惹かれます。トスカは1800年の物語を100年後のお客さんにみせなきゃいけなかったわけで、今はさらに100年が経っています。逆に言えば、数百年経って社会の構造がどれほど変わったとしても、人間の本質というものは変わらないのであって、優れた作品であればその普遍的な本質が含まれていると思うんです。三浦さんが引用というのは、その本質が受け渡されているということではないかと感じます。それをそれぞれの時代のお客さんにしっかりIm-pressできるように表現するためには、それぞれの時代と土地の人に合わせて変えてもいいところは変えたほうが伝わりやすいという、そういうことなのではないでしょうか。先ほどの「保守的な人」のなかの一定数の人は、社会の見た目が変わると人間の本質も変わっちゃうと思っていて、時代設定を変えるとメッセージも変わっちゃうだろというように考えがちなのではないかと思っております。最後の「豊かなもの」とはそういう「変わらないもの」と理解しました。

三浦:非常に重要です。いま恐ろしい速さで世の中が変わっています。色んなものが一瞬で失われて新しくなっています。しかし私たちは同じ星であったり国であったり、同じところにいます。池辺晋一郎の「てかがみ」というオペラがありましてね、ここ10年くらい続けて全国各地で上演しています。太平洋戦争を扱った作品なのですが、それを見せるときに10年経っただけで戦後〇〇年が10年プラスされています。それは結構大きいことで原爆の被爆者だってもうほとんど存命ではないです。でもその「記憶」というのはものすごく大事なものでただたんに「戦争反対!」とかではなくて、それはどういうものだったのか。札幌でも埼玉でも空襲はありました。どこか遠い関係のない場所で起きたわけではありません。今もどこかで起きています。フランス革命で首を刎ねられたり銃弾を受けたりとか、それはどういうことなのか。オペラっていうものはそれを伝える重要な表現だと思います。オペラは日本語では歌劇なんて訳されますが「作品」なので、引用と言ったのはそういうことです。「ドン・ジョヴァンニ」の1幕の終わりで”viva la Libertàと言いますね。「自由万歳」って好き勝手やりたいんだなということではなくてダ・ポンテとモーツァルトの想いがそこにはあります。劇場で観てくださった方にも「これどういう意味があるのだろう」と考えさせるようなものにしなくてはいけません。

多田:作品という言葉は重たいです。作品はドイツ語ではWerkですね。博物館的ではなくてWerkの精神を伝えることが大事だと。次の話題に繋がります。オペラ演出では数十年前くらいから、Werk-treue(作品に忠実)か、演出家が主導権を握るRegie-theater(演出劇場)かということが議論されています。それで、Werk(作品)に忠実というとき、「作品」とは何かが問題になりますね。ト書きなどの「書かれたもの」なのか。それとも作品の精神なのか。それを考えると前者はさきほど話題に出たように困難です。Werk-treueというのは、作品の「精神」に忠実だということです。そうすると、読み替えをふんだんに用いるRegietheater的な演出もWerkの精神に忠実であろうとしていることには変わりはないということになってきます。三浦さんの今のお話でもまさにWerkに忠実であろうとするからこそその時代や土地に合わせて変えてゆく必要があるということでした。ですから、オペラ演出を語るときに「これは原作に忠実」、「これは読み替え」などのようにレッテルを貼ってしまうことは、目の前の上演を自分の眼で見ることにとって妨げになると思います。僕はオペラの関係者やファンがWerktreueRegietheaterのように演出を雑に2つに分類して語ることにもとても危惧があります。三浦さんは手掛けたプロダクションが様々な評価を受けることになります。その立場からどうお感じでしょうか。

三浦:僕が一番最初に評をもらうような仕事をしたのは2006年かな?新国立劇場の小劇場シリーズでヘンデルの「セルセ」と、新日本フィルのコンサートオペラシリーズの「火刑台上のジャンヌ・ダルク」でした。両方とも賛否両論の真っ二つでした。「セルセ」のほうはトーマス・ノヴォラツスキーという当時の新国の監督から挑戦的な舞台を作ってくれと頼まれたんです。小劇場の真中にステージを置いて3方をお客さんが囲んで残りの1方にオケを入れました。歌い手は常に3方から見られることになります。新宿の公園に能の舞台ができてそこで映画撮影が進んでいって現実と作品の見分けがつかなくなってゆくという演出にしたんです。ほとんど無目的に公園に集まってきた若者達が「セルセ」のドラマのキャラクターを与えられ、特に王冠を被されたセルセ役の若者は映画「赤い靴」のモイラ・シアラーのように王冠に支配されてゆくという演出にしたんです。アイデアを得たのは広島の厳島神社の能舞台を見たときなんですが、「舞台」というもの、「物語」というもののもつ一種呪術的な力について演出しようと思いました。LCアルモーニカで演出した「アドリアーナ・ルクヴルール」も同様のテーマを扱いました。ヘンデルの研究家の方々からはもの凄い批判をされました。雑誌でも攻撃といっていい評を受けました。でも畑中良輔先生は「三谷礼二の再来だ」と評価してくださって別の仕事をくださいました。火刑台のほうは、ちょうどその頃に、広島だったと思いますが、ある少女が段ボールに入れられて遺棄された事件がありまして、それをダブらせたんです。それももの凄く批判されました。「奇を衒っている」というのが多かったです。ですが称賛してくれる人もいました。ノヴォラツスキーもブーとブラボーが交錯する舞台を作ってくれて感謝してると言ってくれました。僕は奇を衒ったのではなく、セルセと火刑台という作品(Werk)の精神に向かい合ったわけです。

多田:広島の遺体遺棄の事件と「火刑台上のジャンヌ・ダルク」には、人間がなぜ生贄のようなものを必要としてしまうのかという、変わらない人間の本質があったということですね。いじめ、差別、生贄。人間が集まると必ず起きてしまう、生きた問題として提示したかった、と。

三浦:そうです。僕も若かったのもあります。今はもっと美しいものにしたいとも考えるようになってきました。作品全体の中心のようなものがあって、そこに繋がるような美しさを表現したいんです。お客さんが、ああ!これ観てよかった!と思わせるような圧倒的な瞬間を作るとでも言いましょうか。挑戦的な解釈をしつつバラバラになってしまわないように中心を見出したいのです。

多田:柄谷行人が「可能性の中心」ということを述べていますが、いま仰られた「中心」はまさにそれです。「正しい解釈」とは原作者も気づいていないような可能性、それも中心をなすような可能性を見出していくことなんだ、と。最初にIm-press、そしてオペラは安心して観るものじゃない、そしていま「美」が出てきて繋がってきたようです。美も、カントが自然美は心地よいものではなく圧倒するような経験だとか言ってますが、安心とはほど遠いものです。そういうときにIm-pressというような体験が生じます。自分の価値観が破壊されて他者に浸入されるような体験もそうですね。

変わりつつあるオペラ演出の現在について

多田:2年前に新国で「シモン・ボッカネグラ」が上演されました。演出はピエール・オーディでした。そのときオペラの演出家ではないアニッシュ・カプーアの舞台美術が注目を集めました。カプーアはもともと彫刻家ですが近年オーディと組んで大規模なインスタレーションを手掛けています。他にもチーム・ラボが「魔笛」でデジタル技術を駆使した空間を創出したり、現代アートの分野の空間構成を手掛ける芸術家が、オペラ演出を担うようになってきました。こうした現代アートとしてのオペラ演出を売りにした公演は増えていますし、セノグラフィ(※舞台空間構成)が舞台演出全体に占める比重は大きくなりつつあります。何が言いたいかというと、オペラ演出の専門家のように楽譜のどこにアクセントがあるとかそういうことを知らないアーティストが舞台構成を担うようになってきました。もちろん演出家と相談しながらの試みであることは前提のものが多いですが、どうお感じでしょうか。

三浦:プロジェクション・マッピングとか、僕自身はそういうのにあまり積極的ではありませんでした。目を奪われるような舞台美術であればもちろん軽視はできませんが、一番重要なことはその世界観のなかにいる人間なのであって、人間っていうものが周りの風景に吸収されてしまうことになると、それは逆効果です。ただ、スマホなど今後の情報環境で人間が環境に取り込まれるようなことが起きるとすると、そういうことを表現する可能性はあるのかなとも感じます。

多田:セノグラフィが劇的に変化する私たちの生活様式や人間観を反映する余地はあるということですね。

三浦:ポルトガルの古い劇場とかに行くと馬蹄形で舞台の袖とかもほとんどないのですが、裏に絵で描かれた背景画が何枚も保存されていて、マリア・カラスの時代のものもあります。かつてはそうして職人が手で場面を描いていたのですが、ある意味においてはそれとセノグラフィというのも同じ歴史の中の展開として存在するとは思います。ただオペラとは切り離されたものになってしまうことがあり得るのでそこだけは気をつけなくてはいけないかなと思います。

多田:現代アート風の舞台も、あくまで人間をどう描くかという観点であれば可能性はある、と。アニメでも突然現代アート風の意匠が出てきて「解釈合戦が起きて勝手に深かったことになってほしい」みたいな意図を露骨に感じることがあります。そうなると困りものです。

創作物とは

多田:今はオペラの公演の後にSNSで大量の感想を読むことができます。目立つのは、オペラだけではなく映画などあらゆる創作物の感想が「伏線が回収された/されてない」ばかりだということです。出された小道具がちゃんと回収されたかとか、そういうパズル的な快楽を提供するのは創作物の一つの役割ではありますが、本質はあくまでも創作物との対話を通して自分の思考を広げることです。今の情報環境では、伏線の回収であれば他者と共有しやすいとかそういう事情を感じるのですが、そうした人たちは創作物をちゃんと観なくなってしまっていると感じます。

三浦:そうですね。例えば、人の話を聞くときに、相手から出てくる言葉をどう受け止めるか。こう言われるかもしれないとか予想しますよね。ぜんぜん違うことを言われたときにちゃんと答えてないなと思うことあると思います。でもずっと後になってから「こういうことを言おうとしていたのか」と気づくこととかあります。創作物も似た部分があると思っています。今の世の中で一番よくないことはなんでも「分かり易くしてくれ」と言われることです。テレビもテロップが出ますね。でも分からないことのなかにこそ「魂」みたいな何かがある。その意味が分かるまで時間がかかるようなもの、簡単には伝わらないもの、たくさんあると思うんです。伏線の話でいうと、ネタばれしないでくださいとか言いますよね。ネタがどっかにあるんですか?って思います。演出に戻ると、僕は、できれば大きな謎が残ってほしいと思っています。もやもやが残って誰かとそれについて話してみようとか。

多田:ノータイムで伝わるものは最初から分かっていたことだけなので、実は何も伝わってはいないんですよね。何かが分かるためにはすごく時間も胆力も必要です。でもそれこそが大事だということですね。ただ、そのプロセスにはとても知力とエネルギーを要するのでカジュアルな伏線のほうに行きがちなのでしょう。分かりやすくすることももちろん必要な部分はあるけれど、三浦さんが一番重視しているのはそこではない、と。

展望

多田:演出家としての豊富な経験を踏まえて大事にされるようになったことについて、今取り組んでいるプロダクションのご紹介を兼ねてお話し願えますか?

三浦:202558日に銀座のヤマハホールでトスカをやります。藤井泰子さんがトスカ、秋川雅史さんがカヴァラドッシ、与那城敬さんがスカルピアなのですが、他の役をすべて狂言師の和泉元彌さんがやってくださいます。人間が帰属している社会にどれほど縛られてしまうのか、またそこから解放されるためにはどうすればいいのかという闘いの物語です。もう一つは文化庁が主催している「てかがみ」が10年目になります。今年少し新しくします。僕の父親は、昨年亡くなりましたが、父親は1937年生まれで戦争中に子どもでした。戦争に召集はされませんでしたが、子ども時代に体験した世代です。両親から戦争について直接話を聞いた僕ももうこの世代です。そこで体験されたもの、それは圧倒的に大きなもの、人間の命もそうです。さっきの話ですが戦争も命も簡単に説明できて「ああこれね」と分かるものではないです。簡単に扱えるものではありません。子どもたちに、その大きなものについて考えてほしい。そういう仕事がしたいです。

多田:きっかけは何かありましたか?

三浦:学校でオペラを上演するということについて、よく覚えていることがあります。僕がまだ歌手の時代に、埼玉での公演でした。お昼休みに楽屋でテレビがついていました。ニュースが始まって大阪の池田小学校で子どもたちが校庭を逃げ回って走っているシーンが流れました。大変なことになったと楽屋が無言になりました。誰かが「俺たち今日カルメンやるんだよね」と言いました。ホセが最後にカルメンを刺しますね。今日学校にナイフを持った男が乱入したその日に学校公演でカルメンを上演する。じゃあ、絞殺に変えればいいのか。そうではないのでやはりナイフで刺しました。そのとき、死を扱うことについて考えさせられました。どの一つをとっても死に小さなものはありません。舞台で観せる死もそういう想いを常に持たなくてはいけない、そのときからずっとそう思っています。きっかけはそれなのですが、年々強くそう思うようになってきました。それと今はオペラだけではなく色んなことができなくなってきましたね。ジプシーという言葉を使えなくなったり。リゴレットの「せむし」も使えないので「こぶがある人」とかです。学校公演とかだとなおさら厳しいです。でも人間が差別をすることとか教えなきゃいけないと僕は思うんですけど、問題を回避しようという意識が強くなっています。配慮というか忖度しなければいけなくなってきて、そのなかでのチャレンジになってきて、だからこそ、その中で何ができるかを考えることが年々面白くもなってきました。

多田:問題が大きいがゆえに分かりやすいものではないけれど、子どもたちに、お客さんに、何かIm-pressするような経験を残さなければいけないという使命感が伝わってきます。今日は長い時間ありがとうございました。私にとっても心に残るお話になりました。とても嬉しく思います。これからもご活動を見守っております。

(2025年3月4日)

三浦 安浩 (演出家)

国立音楽大学声楽科卒業。メリーランド大学大学院修了。新国立劇場主催小劇場「セルセ」でデビュー、現代感覚あふれる斬新な演出と一躍注目を集める。日生劇場開場50周年記念「フィデリオ」、新国立劇場オペラ研修所「カルディヤック(日本初演)」、札幌文化芸術劇場hitaru「フィガロの結婚」、北海道二期会「ラ・ボエーム」、LCアルモーニカ「アドリアーナ・ルクヴルール」などを演出。日本演奏連盟会員。静岡国際オペラコンクール審査員。YouTubeにて「アンコウのオペラ放談 燃えよオペラ!」好評配信中。

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