舘野泉 卒寿記念コンサート スペシャルインタビュー(後篇)舘野泉、音楽と人生、芸術を語る
舘野泉 卒寿記念コンサート スペシャルインタビューの前篇はこちらから。
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多田:さて、後半を始めさせてください。2022年にサリ・ラウティオさんが書かれた舘野さんの評伝がフィンランドで出版されました。2024年には『奇跡のピアニスト舘野泉』というタイトルで日本語訳も出版されました(株式会社静風社より)。今日はその前の2015年に出版された前著『命の響』(集英社、2015年)について伺わせてください。というのは、ちょうど今日ここに来る前に読む機会があったのです。そうしましたら前半は今までインタビューで伺ったような左手のレパートリーについてなどのお話が主なのですが、後半に興味を惹かれました。後半は舘野さんの人生論、芸術論になっており強く共鳴する部分があったのです。貴重な機会なのでそれについて伺わせてください。
舘野:何を書いたかあまり覚えていませんが(笑)
1) 生き延びるためではなく、やりがいのあることのために生きる
多田:書いた本人って結構そういうものですよね。さて、以前、草笛光子さんと一緒にこの「音楽と物語」に取り組まれていたときに谷川俊太郎さんの詩を題材に使ったと今回のリサイタルのチラシに書かれていますね。『命の響』のなかで3回死にかけた話が出てきます(第3章)。舘野さんはそのたびに「エッセイを書くネタができてよかった」と笑い飛ばしています(p.219)。それで谷川さんの詩についてこんなことを書かれています。
生き延びるために生きているのではない、やりがいのあることをやるために生きているんだ(著作では「やりたいことをやって生き生きと命を輝かせていなければ、いくら長生きできても、人生つまらない」(p.216))
とても舘野さんらしいと思いました。
舘野:谷川さんが亡くなる前に書かれたエッセイではね、詩の言葉っていうのは美しい言葉じゃないんだって言ってます。美しいという形だけの言葉じゃなくて、そのときに生きている言葉が結びついてはじめて言葉に生命が宿るんだ、と。言葉それ自体というのは美しいも何もないんだ、と。
多田:他の箇所では「本物の楽しさのなかには、辛いことも悲しいことも苦しいことも全部入っている」(p.159)、楽しいっていうのはそういうことなんだとも書かれています。そういう想いが言葉になって出てくるのが詩なんだと思いました。
舘野:結局、音楽をする場合でも、この演奏が完成したとか完璧だとかそういうのは求めないんですよね。そのたびに新しいとか、生き生きしているとかそっちのほうが大事なんです。
多田:生き延びるためではなく、やりがいのあることのために生きている。この言葉は古来のヨーロッパの哲学者たちも同じことを言っています。別の目的のための手段ではなくて、それをすること自体が目的であると言えるようなこと、そういうものに没頭することが人間にとっての幸せなんだ、と。それと同じだと思います。この本には舘野さんが本を読んで頭で勉強した言葉ではなくて、舘野さんが自分の人生で見出して、そして掴み取ってきた言葉が刻みつけられていると感じたのです。音楽家の方と話していてこういうことを言う人はあまりいません。しかも自分の実感のこもった言葉で綴られているので説得力がすごいんです。
舘野:僕も読んでみなきゃ(一同、大笑い)
多田:糧を得るためとか、生き延びるためとか、承認されるためとか、別の目的のための手段ではなく、それをすること自体が目的と言えるものが、舘野さんにとっては音楽だったということが嘘偽りない言葉で書かれている名著です(笑)。
舘野:ありがとうございます。
多田:それ自体としての目的(舘野さんにとっては音楽)に没頭していると、色んな障害があって上手くいかなくなっても、それが「辛い」と感じることは意外となくなります。周りから見ていると大変なのに頑張るね、とか言われたりしますが本人は、いや別に大変じゃないよ、みたいなことはよくあります。
舘野:あの、ノルドグレンの「死体にまたがった男」でね、最初から最後までもの凄い音がしますが、楽譜の最後の一段では何もない、静かにすーっと終わるんです。ノルドグレンが後になって言ったことなんですけどね、「ああ、あれも夢だったか」と。そういうようなことですよ。
多田:夢だったか、というのは??
舘野:振り返って、通り過ぎてきたことがそう見えるということです。
多田:ああ、その瞬間ごとに精一杯、やりがいのあることを生きてきたことが振り返るとそう思えるということですね。
舘野:そうそう。だから書くことで辛いとか苦しいとかもちろんそうだけど、ノルドグレンはよい曲を書くことが目的なのでね。彼は毎朝4時か5時に起きるんです。作曲しているんですね。その時間というのは本当に充実しているんだそうですね。午後からは飲みに行くんです(笑)。夜はぐでんぐでんに酔っぱらって、でも翌朝は4時から書いているんです。偉いというか凄いなと思います。

(C)Akira Muto
2) 日常性の強さ、大切さ
多田:無心になって一つのことに没頭できる時間を習慣として持つことができる人生はとても羨ましいです。ちょうど先の話に繋がります。次の箇所で舘野さんは「震災、病気、つらいときこそ日常を続けることが大事」(p.198)と書かれています。自然災害や戦争に見舞われたり、そんなとき人間って日常なんて維持できないですけど、それでも毎日、なんていうんでしょうか、平和だったときと同じペースを崩さないで生活を続けることは、とても大変なことですが、そういう日常を維持することって、すごい強さがありますよね。
舘野:そう。
多田:日常性には、人間をとても強く支えてくれる強靭さがあります。ノルドグレンの作曲活動、それに舘野さんがお金を得るため(たんに生き延びるため)ではなく、それ自体が目的であるような活動としての演奏も、どんな状況になっても続けることで人間を強く支える強靭さを生むのだと思います。これまた、音楽家の方から出てくる言葉としては私の感覚では異例なんです。
舘野:もっと分かりやすい言葉で言えば継続こそが力みたいなことなんですよね。
多田:「つらい時期こそ」という言葉が本の小見出しに使われています。編集された方が「こそ」という言葉をあえて使ったのだと思います。
舘野:それは何十年も変わりないです。88歳になっても同じです。
多田:変わらないことだから書いたのですよね。私が博士論文で取り組んだ思想家(20世紀ドイツの哲学者のM.ハイデガー)もわりとそういう風に解釈できることを言う人でした。そんなことも思い出しながら読みました。
3) 無名性について
多田:本の最後のほうでこんなことを書かれています。
「これまで何千回とコンサートをしてきた中で、わずか3.4回だけど、無名性に至れたと思ったことがあります。演奏中、会場に誰もいなくなってしまったような、聴衆も、弾いている自分さえもどこかへ消えてしまったような、なんとも不思議な感じがしてね。シーンと澄んだ静寂を縫うように、ただ音楽が流れていた・・・。」(p.254)
これを読んで、たぶん、お客さんや会場がシーンとなっただけではなくて、鳴っている音楽にも、音が鳴っているにもかかわらず、もの凄い静けさが漂っていたのではないかと思いました。コンサートに通っているとたまにそういうことが起きます。
舘野:本当に不思議な感覚ですよね。誰もいなくなったような。
多田:ありますよね。オーケストラで金属打楽器が大量に投入された大音量の終結部とかでもそうなることがあります。舘野さんはわずか3.4回と書かれています。でもそういうことが起きたんだと思いました。
舘野:3.4回なんです。でもね、最近、ときどき言ってるんですけどね。音楽のなかには静寂のほうが意味があるというとなんか通俗的になっちゃうけど、その曲のなかで音のない静寂の部分のほうが雄弁なことは、それはままあることなんですけど、なかなかね。中学生の頃に聴いたシベリウスのタピオラなんてね、ラジオで聴いたんですけど、タピオラの冒頭で一瞬、オーケストラの音が全部なくなるんです。わずか1秒くらいですかね。その後も静かなんです。すごく印象に残ってます。こんな音楽を書く人は他にいないと思いました。その頃、他のヨーロッパの音楽でそういう瞬間を経験したことがなかったんです。シベリウスの晩年の曲ですけど。
多田:交響曲でも7番までくると、急に無になるような瞬間が出てきますね。
舘野:ず~っと森が続いているような、ね。それが静けさと感じられるんですよね。
多田:舘野さんが3.4回経験されたときはどんな曲でどんなときでしたか?
舘野:覚えてないよ(笑)でも3.4回くらいなんです。
多田:なんで音楽ってこういうことが起きるのか、なんとも説明できないですよね。わからないけど、ずっと聴いていると、あるんですよね。
4) 手職人の感謝
多田:最後に後書きについて伺わせてください。こんなことが書かれています。
「人生は生まれ変わる毎日の連続だ。好奇心を絶やさず、これからも生きていきたい。」
先ほど、別に完璧に演奏できたかどうかとかじゃなくて一瞬ごとに一生懸命やる、そんなことを仰いました。そのたびに変化する。そんなことだと思います。後書きはわずか2ページですが、美しい言葉で綴られています。
舘野:「手職人」って、書いてあるでしょ、ここに(p.268)。小さい頃から好きなんですよ。
多田:本当ですね。手を動かして、ものをつくる。そうすることで世界も自分も変化する。そういう感覚ですよね。頭だけじゃなくて、実際に手を動かすこと。それで「手職人」って書いてあるのですね、見落していました。私たちは、人間の最も人間らしさというものは、眼で見て頭で理解することだと思いがちだけど、そうではなくてもっと手前で手を動かしていつも世界と関わってしまっている。そこに人間性の原初があるんだ。「眼」じゃなくて「手」なんだと、これまた私が研究している思想家がそう言っています。ものをつくると世界が変化すると同時に、それによって自分も変化するんですよね。
舘野:芸術家がインスピレーションだなんだって言うでしょ。そんなんじゃないんです。「手」なんです。
多田:面白いものですね。僕が研究していた哲学者も、西洋哲学は2,500年くらい視覚優位だったけど、人間の本質は「手」で制作することなんだって言ってるんです。この『命の響』という本は、私の感覚では、ず~っと哲学のことが書かれているように読めます。それも舘野さんが何かを読んで引き写したのではなく、舘野さんが自分の人生で自分で掴み取った言葉で書かれているんです。いま「手」と言われて色んなことが繋がってさらに、そこから広がってゆくような気がします。もう時間ですけどね(笑)

(C)山岸伸
5) 人間とは
多田:先ほど【前篇で】舘野さんはノルドグレンの音楽について人間の内奥にある世界ということを話されていました。人間って社会が、あの、どこの国とかいつの時代だとか、世の中がどう変わっても、人間そのものって変わらないと思います。舘野さんはそういう変わらない本質の部分にすごく惹きつけられているように思えます。それは「こういうものですよ」とかなかなか言えないものなんですけど。なにせ内奥なので。スマホを持とうともAIが発達して人間が変わるとか、そんなこと舘野さんはまったく考えてないだろうなと感じております。
舘野:それと、ノルドグレンのね、怪談を聴いた人で、ときどき、「これは日本じゃないよね、日本的じゃないよね」と言う人がいるんです。そういう問題じゃないんですよね。
多田:すごく想像できます。そういう表層に捉われている自覚がない人は多いです。舘野さんの音楽に触れてそういう感想が出てきたら、ちょっと悲しいなと思います。2年前にKitaraで酒呑童子の曲を聴いて、低音でもの凄いクラスターになっている箇所なんですけど、音が全然うるさくないんです。さっき言いました、音が鳴っているのに静かな感じで、それも低音のクラスターでです。先ほど「静寂のなかでただ音楽が流れる」という感覚が、舘野さんがどう感じて弾いていたかは分かりませんが、客席のほうには、何かそういう時間が生まれていたような気がしています。
舘野:そう言っていただけると、嬉しいです。ありがとうございます。
多田:また札幌のお客さんにそういう素晴らしい音楽を5月に聴かせていただけることを楽しみにしています。これからもお元気で舘野さんの音楽がファンの心に響くことを願っております。今日はありがとうございました。
舘野:はい、ありがとうございます。
(2025.3.14 札幌市内にて)
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