中江早希・氷見健一郎デュオリサイタル “人生を歌う二つの声 時を紡ぐ日独のうた” レビュー(4/26@ウィステリアホール)執筆:多田圭介

ウィステリアホールのプレミアム・クラシック34thで中江早希と氷見健一郎のデュオリサイタルを聴いた。まずは、道外の読者に向けて簡単にこのホールを紹介したい。ウィステリアホールは2018年に市電の西15丁目駅前にオープンした。透き通るような音響を誇る音楽ホールでキャパは180。プレミアム・クラシックは同ホールの主催公演の柱で年6回開催されている。ピアニストで同ホールのミュージックディレクターの新堀聡子が企画と演奏の中心。札幌だけでなく道外で活躍している著名な演奏家を招いて、本格的な室内楽や歌曲のコンサートが開催されている。このホールがなければ札幌で聴けなかったようなレパートリーや奏者も少なくない。もしこのホールの名前を知らなかったという人はぜひチェックを勧めたい。
さて、本公演は「人生を歌う二つの声 時を紡ぐ日独のうた」と題され、前半に日本人作曲家の歌曲、後半にマーラーとブラームスの歌曲が演奏された。中江が歌ったマーラーの「子供の魔法の角笛」(以下「角笛」と略)と氷見によるブラームス「4つの厳粛な歌」が大変な聴きごたえだったのでそれを中心にレポートしたい。

当日配布されたプログラムより
中江早希は岩見沢の教育大の出身ということもあり(大学院は藝大)、札幌と縁が深い。このホールだけでなく、ふきのとうホールや札響の公演でも聴く機会が多い。東京のオーケストラや古楽の公演でも引っ張りだこで、筆者も相当な回数を聴いている。聴くたびに水準を上げているのだが、今回の「角笛」は彼女がこれまでとは違う段階に到達しつつあることを実感させた。
マーラーの「角笛」には彼の交響曲の第2~4番が随所にこだましており、本当にわくわくさせられる。崇高なものと卑俗なもの、宗教的なものと民謡的なもの、聖と俗が次々に交錯する。中江の澄んだ歌声でこの歌曲集を聴くと、全体の印象はより「聖」に寄り、猥雑な部分も浄化されてゆくような趣きが強くなるのが面白い。もちろんマーラー一流の複雑さにも事欠かない。

ウィステリアホール提供
今回は抜粋で5曲演奏された。白眉はなんといっても「美しいラッパが鳴り響くところ」。最後から2番目に置かれた。マーラーの音楽はG.リゲティが言うように、音楽に「空間性」というパラメータを新たに加えた(※注)。それも、ただたんに音響の空間的な広がりにとどまらない(それも重要だが)。むしろ聴き手の想像作用に働きかけ、様々な解釈がそこから生み出される源泉としての空間性である。だから時間芸術のはずの音楽が、先へ進みつつ実は過去を回顧していたり、空間が多重化される。
(※注:Ligeti G.&Clytus G., Gustav Mahler und die musikalische Utopie:I.Musik und Raum, “Neue Zeitschrift für Musik,1974.”)
「美しいラッパが鳴り響くところ」では、戦いに倒れた兵士が恋人の元に会いに来る。恋人に会いに来た兵士は亡霊なのか、本当に会いに来たのか、生きているのか妄想なのか、分からないように書かれている。その曖昧さがこの作品における(リゲティが述べるところの)空間性だ。
同曲の冒頭、空虚な空気が支配する。さなか突如柔らかい空気が立ち込める恋人との逢瀬で、中江はまるで虚実の被膜が融解するような甘美な世界を開いた。まったくおおげさに歌っていない。だが聴き手を恋人の内面の世界に引き込んでしまうような密度がある。ここを聴いて中江は本当にすごい歌い手になったのだと感じた。気づいたら引き込まれていた。「角笛」はこれで締めるところだが、おそらく明るく終わりたいのだろう。最後の5曲目に「高い知性を讃えて」が置かれた。
ロバの鳴き声を模した”Du machst mir’s Kraus! I-ja!(きみはわしをクラクラさせる!イーヤー!)”の「イーヤー」には、せせら笑うような他者の視線が投影されている。だが中江はここでもまったく声を崩さず端正。愛らしさのなかから滑稽な表情が溢れてくる。嘲り笑うようではない。友人を「いじる」ような親密な優しさがある。涙が滲むような愛らしさ。ピアノの打楽器のような効果も十分。華やかでアンコール・ピースのようだった。
前半3曲は「無駄な骨折り」、「この歌を作ったのは誰?」、「ラインの伝説」。個人的な好みを言えば、「無駄な骨折り」の第1節は多くの版の”Gelt! Komm! Komm!”よりも”Komm! Komm! Komm!”と「行きましょうよ!」を3回繰り返すほうが好きだ。媚びて纏わりつくような雰囲気が出るからだ。今回は”Gelt! Komm! Komm!”だった(自宅のUniversal E.を確認すると同様だった)。
本題に戻ると、3曲ともフルートのような軽やかな跳躍が際立って素晴らしい。フレーズもきりりと引き締まっており、清潔感のあるピュアな味わいが本当に見事だった。ピアノも背景のリズムが繰り返されるときにふと反行型になっているなど、それらが複雑さや多義性を齎す。この多義性が愛らしいのだがどこか空虚な世界を予感させる。「この歌を~」ではトリオの後半”dein rosiger Mund”(君のバラ色の唇が)でぐっとテンポを落としてとろりとした表情も聴かせる。外にエネルギーを発散するのではなく、聴き手をマーラーの内面の世界に引き入れるような「角笛」だった。
中江の名唱に触発されて自宅のCDを色々と聴いてみたのだが、かのシュヴァルツコップでも、もっと誇張している箇所が多かった(例えば「ラインの伝説」の最後の”Kannst”のアクセント等)。中江は余計な脚色なし。それでいて無類の充実。焦点がボヤけた箇所も皆無。楽譜自体が訴える力を信じている。中江のこの作品に賭ける真剣さや、準備にかけた時間はおそらくは大変なものだったはずだ。ぜひオーケストラでも“中江の角笛”が聴きたい。
さて、氷見のブラームスも負けてはいない。「4つの厳粛な歌」はブラームスがバロック風の様式に古典回帰した最晩年の傑作。交響曲第4番も終楽章にパッサカリアが用いられるなど古典への志向が強いが、筆者の感覚だとどこかせっかちで寸足らずな印象が拭えない(その切迫感がよいのかもしれないが)。余計な雑念が消えてすっきりとした深い味わいが出てくるのはやはりさらに最晩年のいくつかのピアノ小品集と、この「4つの厳粛な歌」だろう。一つひとつを手作りで丁寧に作られた家具のような佇まいがある。その風合いが、氷見の高価な木材のような歌声によって実に映えていた。

ウィステリアホール提供
厭世的で現世否定的な歌詞が荘重に歌われてゆくが、和声的に歌を支えるパートにも巧みな陰影がある。だから表情が揺らぐ。ブラームスは少ない音でこうした陰影を出すのが本当に上手い。この歌曲集でも短調の第1曲の後半、AllegroからAndanteに戻ったところ(daß nichts Bessers ist, Denn daß der Mensch fröhlich sei in seiner Arbeit,)で2回ほど、ドミナントを介さず不意に長三和音が幻のように明滅する。氷見がここでほんの微かな慰めのようにデリケートな表情を聴かせる。ピアノの新堀も確かにこの繊細な和声を感じながら弾いていた。
ちなみにこの第1曲は原曲はニ短調で、高声用にヘ短調の楽譜も出版されている。だが氷見は全音低いハ短調で歌った(終演後本人に確認したところIMSLPのサイトにバス用のハ短調の楽譜があるのだそうだ。データも送ってもらい確認できた)。最初の序奏を聴いてハ短調だったので、低くひきずるような感じにならないかと一瞬過ったのだが、まったくそうではなかった。実に端正だった。こうしてバスで聴くとこの作品には独特の美しさがある。
ブラームス最晩年の復古主義というのは、昔のものの復元のようなものではなく、廃墟のような佇まいを感じさせる。埃をかぶっているのだが、指で拭うと往年の輝きに誘われる。氷見と新堀のアンサンブルからは、深い茶色だが、そのなかから黒に近い色もあれば明るく透明感のある茶色も聴こえてくる。この味わいは、濁りのないストレートな音響のこのホールでよく映えるのだ。欲を言えば、第1曲のAllegroに入るところで、ピアノが断固とした確信的なアレグロに一瞬で空気を変えることができればさらに申し分なかった(sf、sfp、持続的なcresc.等の効果が明晰な音の粒から立ち上がるとよりよいと感じた)。
第3曲では”O Tod“(ああ、死よ)の甘美な死への憧れを氷見が陶酔的に歌う。ここも印象深かった。あくまでも格調が高い。こうしたところで無防備に旋律一本でダサくならないのも晩年のブラームスの美質だと思われる。最大の聴きどころは信仰と希望と愛によって厭世観を乗り越える第4曲。とりわけ後半のAdagioで徐々に光が差し込んでくるような静かな時間の推移を氷見は内面的に、内側から少しずつ湧き上がってくるように歌い感動的な瞬間となった。こうした抑制された抒情的な美しさはある程度の鑑賞経験と作品についての知識があるとよりその素晴らしさが分かるだろう。最後の”unter ihnen”では大きくルバートをかけ深い感慨を残して締めくくった。

ウィステリアホール提供
このプレミアム・クラシックのシリーズで歌曲が取り上げられる際、舞台にはいつも字幕が表示される。ドイツ語の歌曲に馴染みがない人でも安心して楽しむことができるよう手間をかけている。たった1回の上演で消えてゆく公演のために毎回このように手数を惜しまずに準備する姿勢は本当に尊いものがある。ホワイエに入るとスタッフの親密な空気も優しい。
いうまでもなくクラシック音楽とは豊かさや贅沢の象徴のようなところがある。仕事を終え服装を整え、劇場でワインの杯を傾ける。だが、ときにその華やかさの影でどれほどの競争があり、どれほどの敗北者がいるのだろうかと思うこともある。だがこのウィステリアホールの主催公演では安価で本格的な室内楽を楽しむことができる。札幌では3年早くオープンした六花亭のふきのとうホールにもその雰囲気がある。どちらも、豊かではあるが、日々に彩りを添えるような生活に密着した豊かさが目指されているように感じられる。思えば、札幌ではここ10年ちょっとのことだ。ふきのとうホールに続いてこのウィステリアホールがオープンしたことで札幌では常時、上質な室内楽や歌曲の公演を気軽に楽しむ環境が整ってきた。公立のホールの存在も大きいがそれだけではこうした多様性は生まれない。この記事はWeb版なので道外の読者も多いことだろう。ぜひ札幌のこうした環境に注目してもらいたいと思い書き添えた。
(多田圭介)
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