【クロスレビュー後篇】 札幌交響楽団 第677回定期演奏会レビュー<プロフェッショナルの矜持とは-グランディ&札響のマーラーを聴く->(26/5/31@Kitara)執筆:遠藤研司

今回はマーラーの3番(5/31)について書く。グランディのマーラーは第1番「巨人」、第2番「復活」と作曲順に演奏されてきたが、両方共私は評価できず、特に2番は全く音楽性が感じられずただ強弱のついた音の塊の羅列、恣意的なところが多く聴いているのが本当に辛かった。今思い出してもただ長かったことしか覚えていない。よって今回は最後まで聴きに行くかどうか逡巡した。でも札幌で3番を聴けるのはめったにないことなので(札響で今回4回目?)覚悟を決めてキタラに向かった。
マーラーの3番は1990年代前半に、インバル指揮N響で聴いたのが印象的。理由はN響のホルンソロがはずしまくりで、今となってはそこしか思い出せない。更に印象的に覚えているのが、2000年のPMFでのマイケル・ティルソン・トーマスの演奏。この日、演奏会開始時間を1時間まちがえて遅く到着したため、第1楽章はLAブロックの出入口のドアに耳をつけて聴いた。そのおかげか、会場の中で聴いた第4楽章のミッシェル・デヤングの出だしの声は今でもはっきり覚えている。私の体全体、心の奥底まで染みてくるその感覚は、楽器では出せない人間の声のすごさを圧倒的かつ静かに現わしていた。途中からしか聴けなかった演奏だったが、忘れられない貴重なものを与えてくれたものだった。

札幌交響楽団提供
さてグランディはどうか。
曲冒頭のホルン、音デカ。その後の弦とのバランスをすぐ心配したが、予想どおり弦はハッキリ聴こえず、トランペットの3連符に救われる。アレ、トランペット福田さんだ、春香さんはどこだ(後でわかる)?
でも、前回の2番の様なあおり運転の暴走は少なく(いや曲の構造上できる箇所が少ない)、丁寧に進められている印象があった。それがはっきりわかったのが、初めてヴァイオリンのソロが出てくる箇所。田島さんのソロ。明確にテンポが指揮者と違い若干遅め。さらにビックリしたのが、直後のフルート、ホルンの背景音のテンポが、完璧に田島ソロのテンポとピッタシ。この札響のすごさ、それによりせせこましかった音楽の流れが余裕を持ち全く聴こえてこなかった歌が聴こえてきた。グランディもさすがにさからえず、すぐテンポを落とした。この間1秒か2秒、田島さんのすごさ、カッコよさ。私はこの時、「すごい」と声が出そうになり小さく笑ってしまった。予兆はあった。以前書いたが、リヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」の田島さんのソロ。彼のソロが始まった途端、「英雄の生涯」が始まったのである。ただその時はまだ田島さんが健闘しているぜ、という段階だったが、今回は違う。他のパートがすかさず寄り添い私たちの演奏はこれよ!という札響の矜持が現れた瞬間だった。私にはそう聴こえた。そう見えた。もちろん楽員が意識的にそうしたかは分からないが、逆に無意識にできたとすれば、田島さんの音楽家としてのポテンシャリティーの高さとコンサートマスターとしての本当の力量の高さの証明以外の何ものでもないと思う。
非音楽的な内容に首をつっこんでいる様に思えるかもしれないが、オーケストラの様な大人数で音楽を行う形態においては、必ず生じる要素でありそれが指揮との関係の内容となると、事態は簡単ではない。
第1楽章はいろんな問題をはらんでいるとはいえ、大きく崩れることはなく終了した。ただ、その基準は前回の2番のそれであり、歌が聴こえてこないという致命的な部分は解消されていない(田島さんのソロ以外は)。
第2楽章から始まる第2部は、声楽が入ってくる楽しみがある(ホント、苦しみにならなければいいが)。2番の時は声楽が入っても更にヒドクなり正直途中で帰りたくなった。復活で全く復活しなかったのである。
今回はどうか。
第2楽章、第3楽章は声楽(アルト)の入る第4楽章と長大な第1楽章にはさまれた短い楽章だが、札響の演奏は(あえて札響と書く)とてもよかった。楽員のアンサンブルの精密さとテンポのよさ(ほとんどが田島さんの弓に合わせていた)で、第1楽章の解毒ができた感じ。歌に関してはグランディは第1楽章よりはいい。

札幌交響楽団提供
そして期待の第4楽章。ロンベルガーの立ち位置、若干の違和感があったが声が発せられて音響的には大満足。オケの低音部に溶け込んでいるにもかかわらず明晰で歌詞がすべて聴きとれた。札響の弦のアンサンブルも完璧。あっ、忘れてはいけない。田島さんのソロに絡むオーボエ、関さんのすばらしさ。本当に良かった。ここはホントに歌があった。
そして第5楽章。ここで児童合唱と女声合唱が加わるが、児童合唱のあの‟オーイ“の様な口に手を合わせることの必要性はあったのか。天上からの歌声はあの様な形からは生まれないと思うのだが。音響的にもビジュアル的にも全くいらないものだ。それとあの2つの合唱団の位置も意味不明。おかしい。音響的に混ぜたいのか、分離させたいのか全く意図がわからず中途半端。歌詞もほとんど聴きとれず、音が鳴っているだけ。前回の2番の時もそうだったが、グランディがあえて実施した新機軸(?)で、こちらがよしと納得したものは、一つもなかったと言っていい。何かこれ見よがしだなあ~。

札幌交響楽団提供
違和感が残ったまま始まった第6楽章は、いい演奏でした。とにかく札響の弦のアンサンブルがとてもよかった。私はこの楽章の出だしを聴くと、なんてマーラーっていいんだ、なんて音楽ってステキなんだ、なんてありがたいんだ、という思いが心底わいてくる。そう、3番ってこのためにあるんだ、ここを書きたくてマーラーはこの曲を書いたんだと、私は信じて疑わない。私は特定の宗教を信じている人間ではないが、この楽章の出だしからの音楽を聴いていると、自然に視線が下から水平、そして上に向かって徐々に上がっていく様な気持ちになる。その先に見えるのが神ですよ、と言われると素直にそうですか(普段ではありえないこと)、と言える心的状況になる。音楽には不思議な力があると言わざるを得ない。それが言葉でできるなら音楽はいらない。その一番基底にある音楽を、札響はすばらしい集中力と合奏力で表現していた。しかもゆずれない箇所はグランディ抜きで。
第6楽章の最初には“ゆっくりと。静かに”と書いてあるではないか。弱音ではないのだ。静かな音なのだ。札響の楽員は全員その意味がわかっていての集中だった。たった一人違っていたのがグランディ。彼はクライマックスに向かっての出発点としての弱音としてとらえている。それが克明にわかる現象が、最後のクライマックスの手前で一度弦楽器群にあおられて管楽器がほえる箇所で、グランディが例のごとくあおるだけあおるが、弦を中心として全く乗せられることなくあおり運転をうまく無視してppに戻るところ。それによって音楽が音量はffだがキリッと引き締まっていて全くくずれていなかった(前回の第2番はそういう箇所でくずれっぱなしだった)。つまりクライマックスに向かっているために存在している弱音ではない。静かな音のために存在している静かな音なのである。よってその存在状態は無限の可能性を有している。だから深い。
だがグランディの考えている音楽の有り方は常に先のための何とかと思えてくる構成なのだ。だから常に単純、常に同じ、常に静かなところからの強音への、遅いところから速いところへの“あおり運転”なのだ。それを音楽、エネルギッシュで新しい音楽としてゴリ押ししているのである。さすがに札響も第1番、第2番では振り回されっぱなしだったが、今回の第3番では合わせている振りをしながら大事な音楽の根幹のところでは、うまくすり抜け代わりの指揮者(田島コンマス)の元、札響のマーラーを表現していた。

札幌交響楽団提供
あ、大事なことを忘れていた(忘れてばかりだが)。トランペットに福田さんがいて(以前の様に)、春香さんはどこへ行ったの件だ。そう、第4楽章のポストホルンのソロを吹いていたのが春香さんだったのだ。そのうまかったこと。ほとほと感心した。天上の音楽(まさしく天上から聴こえた)、心が溶けたね。札響はすばらしいトランぺッターを得た。
グランディ&札響はマーラー・プロジェクトを企画実施中。次回は第4番。グランディには一番合わないと私が思う作品。ただ、逆に札響が打って出て主導権を握り、彼を支配下に置けばおもしろいことになる。それができなければ、また“あおり運転”ばかりの5、6、7番が待っている死のロードになりかねない。札響の音楽集団としての矜持に私は賭けたい。
(遠藤研司:札響くらぶ)
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