【Kitaraワールドオーケストラシリーズ】トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団<指揮:ペルトコスキ、ピアノ:辻井伸行>演奏会レビュー(26/6/13@Kitara大)執筆:多田圭介

Kitaraワールド・オーケストラ・シリーズでタルモ・ペルトコスキ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団を聴いた。ピアノ協奏曲の独奏は辻井伸行。ここ10年ほどのKitaraのこのシリーズで聴いた欧州のオーケストラ公演では、なんといっても2024年のロンドン響が素晴らしかった。パッパーノの指揮のもといかにも文化の薫りがする誇り高い音楽がKitaraに響き、古豪の実力に唸らされた。ソリストのユジャ・ワンも彼女の最良の舞台の一つだった。
今回のトゥールーズ・キャピトル国立管もそれに匹敵する手応えがあった。ペルトコスキは25/26シーズンより同オーケストラの音楽監督に就任している。オーケストラの相性もかなりよいように感じた。今回聴いたかぎりで分かったペルトコスキの特徴を簡単にまとめてみたい。まず、すっきりとしたスマートな音楽づくりが際立つ。汗臭くならない。そしてこれがおそらくは肝なのだが、絶対に感情を剥き出しにしない。洗練された音の遊びという感覚が強い。アメリカ的な軽さともアジア的な親密さとも異なる。ヨーロッパからでなければ出てこないと思わされるような品がある。

提供:札幌コンサートホール(c)Hiroharu Takeda
いくつか気づいたことを挙げると、ペルトコスキは息の長いフレーズを動機単位で細かく区切っている。そしてその処理(終わりの部分)を実にデリケートにディミヌエンドする。その短距離の動機の連なりで自然に息の長いフレーズが立ち上がってくる。ひきずるような歌い方を決してしないので、優雅で上品な色気がある。
プログラム前半のラフマニノフのピアノ協奏曲第2番では、ペルトコスキのもう一つの特徴も際立っていた。それは、独奏のピアノとオーケストラの各セクションを横並びで把握して、その全体の声部のなかから前景にくるパートと後景をなすパートの距離感を丁寧に構築していたところだ。その結果、巨大編成のピアノ協奏曲というより、小アンサンブルと大アンサンブルのコンチェルトグロッソのような親密な音楽となった。ピアノは声部単位で縦横無尽に前景と後景を往来する。ラフマニノフがむやみと濃厚でロマンティックにならなかったのはこうした設計の成果だ。
辻井伸行の貢献なしにはそうはならなかった。辻井の特徴にも簡単に触れておこう。筆者は彼を相当な回数聴いているが、多忙なスターであるにもかかわらず彼は絶対に手を抜かない。ひたむきに音を紡ぐ。ただその姿勢がマイナスに出ると、全部の音がびっしりと前景に並び陰影や濃淡が薄くなることもある。またアンサンブルや協奏曲ではややマイペースに映るときもある。だが今回の辻井は全面的に素晴らしかった。普段のひたむきさはそのままに冷静で知的な面が前面に出た。前述のペルトコスキの設計にうまく嵌まったのか、得意な作品だからなのか断定はできないが、普段の彼とは趣を異にした。ラフマニノフでまるでラヴェルのようなデリケートな美しさを感じさせたのだ。

提供:札幌コンサートホール(c)Hiroharu Takeda
ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番について
ラフマニノフは冒頭のピアノの和音に続く分厚い弦の主題からすでに際立っていた。のしかかるような重たさがない。先行する単純な音型から当たり前のように旋律が生まれ出て、軽やかに流れだすように聴こえる。こうした演奏で聴くと曲がどう書かれているのかとてもよく分かって面白い。最初の主題が提示されるあいだ(実に90小節強に及ぶ)、ピアノ独奏はほぼ主題を奏でていない。今まで気づかなかった。通常は分厚い弦楽器が波打つが、ペルトコスキは旋律をひきずらないし、埋め尽くすように鳴らさない。だから背景のピアノの分散和音が明瞭に視界に入る。不思議なものでどっちが前景なのか空間的な距離感もはっきりと分かる。意外と元々こういう曲だったのではないかと思わされたり。

提供:札幌コンサートホール(c)Hiroharu Takeda
続いて推移の主題がピアノに出てくる練習番号8(55小節~)。辻井がたくさんある音のなかから推移の主題(譜例1)だけをくっきりと浮き上がらせる。過剰に陶酔的にならない。きりりと締まっていている。ピアノの6連符が連なるUn poco più mosso(練習番号6)でも、6連音の頭の音が前景にきてそれを繋ぐとラフマニノフ固有の原型的動機(パガニーニバリエーションなどでも頻出するG-As-F-G-C)の変形が浮かび上がってくる。筆者はこの曲をさほど好んでおらずスコアも細かく読んでいないので、ここも今まで気づかなかった。手に取るような明瞭さがある。

譜例1
再現部に向かうピアノの猛烈な2拍3連の連打でもピアノがまったく埋もれない。オケも心理的にはもの凄い音圧だが、響きがすっきりしているので、互いが打ち消し合うことがない。この部分ではピアニストが両手を打ち付ける動作だけが視覚で確認できてピアノの音が客席にまったく届かないことも少なくないので興味深かった。オケが遠慮しているわけではなく、音響の構成によってそう聞こえるのだ。
第1楽章でもっとも素晴らしかったのは終わりが近いmoderato(練習番号14~)。ピアノの分散和音のさなか、またイニシャルのような原型的音形がスッと浮かび上がる(319小節)。重たい雲がたちこめ、まどろむような空気が支配する印象が強い箇所だが、キリっと冴えていている。空気が優しく振動するような、木漏れ日がちらちらと明滅するような温かさがある。
第2楽章では冒頭の木管の明るい音色に惹きつけられる。ああ、フランスのオケだ。そう思わされる。カデンツァの後、Adagio sostenutoが戻ってくるところ(練習番号26)は辻井とペルトコスキの美質が光る。ピアノの分散和音のさなか主題の断片がやはりスッと浮き上がると、それにごく自然にヴァイオリンが呼応する(譜例2)。ひとつの響きがおのずと次の響きを生み出してゆくような音楽の本質を見る思いがする。冬の弱々しい太陽のような大切な温かさの感覚がある素晴らしい緩徐楽章だった。
それに比べると第3楽章の前半はやや平凡だったかもしれない。ピアノは克明に音を刻むし、指揮者も丁寧ではあるのだが、新鮮さや発見があったかというと、筆者には見つけられなかった。フーガの部分も、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3やブラームスのピアノ協奏曲第1のフィナーレを想起するなら、音楽そのものが常套的なきらいがある。誠実に奏でた結果その弱さが出たように感じられた。もちろん前述のデリケートな美しさは依然として保ってはいたが。楽章の後半はまた聴きどころがあった。
木管に優美な第2主題(譜例3)が出るところ。旋律線が上昇を始めると嫌でも万感が込み上げる箇所だが、ペルトコスキはクレッシェンドの頂点で逆にスッと弱めるのだ。テンポもまったく溜めない。複雑な感情をダダ漏れにするのは美学に反するとばかりにスマート。ちょうど4月に札響のhitaru定期で円光寺雅彦がここを命を削るように奏でたのを聴いたばかりだが、好一対だった。真逆だが、どちらも素晴らしい。
最後のMaestosoは、さすがに全開で鳴らしたが、それでもなお音色がスリムで涼しい。水彩用の細い筆で丁寧にグラデーションを作ったような色彩がある。もしかしたら、普段聴いているこの曲の演奏は、一皿一皿順番に出てくる料理を一挙にテーブルに並べたような無粋さがあるのかもしれない。そんなことを思わされた。
分厚い弦楽器が波打たない、感傷性もかぎりなくゼロに近い、おそらくは日本でオーケストラ音楽を聴いていると滅多に触れる機会がないようなラフマニノフだった。常識的な盛り上がりや大オーケストラの咆哮の興奮を期待するとはぐらかされるかもしれない。だが、きれいな和声の連なり、声の絡み合いのような繊細な響きを聴き取ることができるラフマニノフも悪くない(というか、かなりよかった)。
アンコールでは辻井とペルトコスキが連弾を披露したが、あくまでもアンコールピースであり内容に言及するほど仕上げられてはいなかった。
ショスタコーヴィチの交響曲第10番について
後半のショスタコーヴィチも基本的には協奏曲と同じことが言える。音色も明るくリズムも軽い。ソヴィエトだ社会主義だと想起させないような音のパノラマだった。だが、不思議なもので無内容かというと、そうではないのだ。指揮者も楽員も心のなかから湧き上がってくるように奏でているのが伝わる。無感動、鈍感というわけではない。絶望や恐怖をいくらでも知っている人が、あえてそれを表に出すまいとする美学のようなものがある。

提供:札幌コンサートホール(c)Hiroharu Takeda
印象に残った箇所を順に挙げよう。第1楽章では、最初の主題がフォルテで盛り上がりを見せる練習番号9(119小節)。弦にスベスベのレガートがかけられている。弓の返しも柔らかくてギスギスしていない。不安や閉塞感が襲い掛かるはずだが、ヒラリとかわす。以前ウルバンスキが指揮したショスタコーヴィチを何度か聴いたが、彼もワックスを塗ったようなツルツルのレガートを多用していたことを思い出した。暴力が襲ってくるような箇所も、ことごとくするりと流れる。楽章の最後、ピッコロがやや不調でピアニッシモが出ないのが惜しかった。ピッコロは他の楽章でも指定のppが出せずずっとmp以上で吹いていた(ショスタコーヴィチでは痛い傷になりかねないのだが、ツアーの最終日でコンディションの維持が難しかったかもしれない)。
第2楽章は2/4拍子の2拍を一つで振っていた。音符一つまでトルクがかかると戦闘機が滑空するようなスピード感が出る楽章だが、問答無用の酷薄な感覚ではない。肌を突き刺すような冷たさもない。どこか優雅なのだ。主題も軽やかに弧を描く。驚いたのは、主題の下降音型には洒落っ気たっぷりにポルタメントがかけられていたことだ(譜例4)。金管の威嚇的なファンファーレも柔らかくマルカートさせている(練習番号90~)。
第3楽章も推進力のあるテンポで次々とカラフルな音楽が展開する。嘲笑するようなイロニカルな雰囲気はここでも影を潜めている。反復されるD-Es-C-Hのモチーフの最後には威嚇するような<(クレッシェンド)が指示されている(譜例5)が、ペルトコスキはここを押さない。フランス語の語尾が上がるように切り上げる。モチーフが連呼される楽章の最後も同様だった。ここでもクレッシェンド(譜例6)は回避。無慈悲な音楽のはずがダンスのように舞う。だが耳を凝らすと必死に不安を押し隠しているような不気味さもある。感情は隠したほうが伝わることもある。それはショスタコーヴィチの音楽の複雑性の本質でもある。作曲家が聴いたらこんなのは違うというかもしれない。だが外から見たほうが分かることというのはある。そんな複雑なリアリティがあるAllegrettoだった。
フィナーレは、まず冒頭のオーボエが絶美。こんなに哀しいほど明るいオーボエの音色をオーケストラで聴くのは、ルツェルン祝祭管やヨーロッパ室内管以来だったかもしれない。Allegroに入ると、クラリネットのスタッカートがユーモラス。クラリネットの周りの木管の奏者たちが皆笑っていた。やはりフィナーレも音響快楽系。音楽が第2楽章の悪魔的なスケルツォに回帰すると音響の明晰さが際立つ。ここは第2楽章と同じ♩=176が指示されており、両者がピタッと一致するのでいやがうえにも悪魔の再来を思わせる。こうしたテンポ感もさすがだ。さらにオーボエの主題が弦の大行進によって“意図的に”搔き消されてゆき蹂躙される音楽の構成が手に取るように分かる。だがその絶叫でも頭のアクセントの後、すぐに抜く(練習番号184)ので戦車で踏みつぶされてゆくような恐怖感とはやはり異なる。これがペルトコスキ流なのだろう。
クライマックスはやや問題を感じた。作曲者は木管群にfff、金管にfを指示しているが、音量バランスが逆だった(譜例7)。金管ばかりが聴こえてきてやや単純な行進曲調になってしまったのは惜しかった。構成のミスなのか、意図的なのかは分からなかった。
だが、この独特の軽薄な主題が最大の力と結びつく音楽には、意外とこういう薄っぺらさがあるのかもしれない。個人の声を軽々と圧殺する途方もない権力の暴走の実態は、往々にして軽薄な思惑から始まるものだ。まるで、超大国の首相のニューロンの発火程度のことで他国の要人の斬首作戦が実行されてしまう現在の世相のようだとも思わされた。ショスタコーヴィチの音楽は、「この曲はいったい何を示しているのだろう」と聴き手に考えさせたらもう作品の勝利だ。その意味では筆者はその術中に嵌まったのかもしれない。
さて、初めて聴いたペルトコスキ。日本では昨年N響に客演しており、そのときは筆者の信頼している友人たちが口を揃えて「よくなかった」と言っていたのだが、オーケストラとの相性もかなりあるように感じた。この一回を聴くかぎりオーケストラの掌握力も優れているし、何より絶対に下品にならない趣味のよさがある。剥き出しをよしとしないダンディズムがある。そして、彼にはヨーロッパの長大な歴史を引き受けて少しずつ変化してきた流れの先端にいるという感覚がある。若手でこういう指揮者は今は意外と少ないのではあるまいか。
(多田圭介)
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