札幌劇場ジャーナル

イル・ド・フランス国立管弦楽団<指揮:ユージン・ツィガーン、ピアノ:石井琢磨>演奏会レビュー(26/7/9@hitaru)執筆:多田圭介

“イル・ド・フランス国立管弦楽団with石井琢磨”と銘打たれた同オケ初の来日公演を7/9に札幌のhitaruで聴いた。指揮はユージン・ツィガーン。初めて聴くこのオーケストラは、よい意味でヨーロッパのローカル色のあるオーケストラで、親密な喜びに溢れた音楽をする特徴があるように感じられた。日本のオーケストラを聴き慣れていると弦の音程や縦が揃わないことが気になったかもしれないが、彼らは合わせることよりも音楽することを優先している。だから、この“ローカル色”という言葉は必ずしも否定的な意味ではない。最後にまた立ち返ろう。

提供:TVhテレビ北海道

1.グリーグのピアノ協奏曲について

前半はグリーグのピアノ協奏曲でソリストは石井琢磨。石井のピアノを聴くのも今回が初めてだったのだが、一瞬で魅了された。彼のピアノは旋律、装飾、和音、アルペジオetc、あらゆる要素が明晰・明快を極める。旋律の途中の装飾が旋律の一部なのか装飾なのか分からなくなるところがない。フレーズが美しく歌われるときにだらしなくなることも絶対にない。音が多いところで塊のようになることもない。音と音がぶつかり合ってガチャガチャするところも皆無。もう一度繰り返すが、明晰・明快。筆者個人の好みでもドンピシャだった。

提供:TVhテレビ北海道

石井のピアノは音楽を響きや音色の複合体として成立させている。これみよがしに嘆いたり悲しむような身振りはない。しかし、その響きになんと透明感があって心に沁みることか。次から次へと明快に音色が移り変わる儚い美感。すべての音、すべての要素が手に取るように聴こえてくる知的な構成力、技術、音楽性。

だが、彼の美質は本質的には、そこではない。いや、正確に言おう。それらの諸要素がこれほど美しく響くための前提条件こそが彼の最大の美質だ。それは、たった一音を単音で奏でたときの、有無を言わせない音の美しさだ。それこそが彼を凡百から隔たった音楽家たらしめている。今の若い世代の日本人ピアニストは皆本当に上手いが、彼をそのなかでも際立った存在の一人にしているのは、間違いなくこの美質ゆえだろう。

今回聴いたグリーグでもそれが際立っていた。順番は前後するが第2楽章からいこう。ここで彼の本当の凄さが分かった。グリーグのピアノ協奏曲の第2楽章はシンプルな3部形式で書かれている。最初の第1部は弦を中心としたメランコリックな音楽。第1部にピアノ独奏は登場しない。筆者はこの楽章に、感傷的な旋律が連綿と続くようなイメージを持っていたのだが、違うことを教えられた。よい演奏とはいつも作品の本質を教えてくれる。

ではこの楽章の本質とは何か、それは明と暗、陰と陽の対比の音楽だということだ。第一部は夜明け前の静謐な空気のようなまどろみを感じさせる。そして第2部の冒頭。石井のピアノがDes音をたった一音奏でると(正確に言えば4オクターブユニゾンだが)、それだけで空気が一変する。世界中に太陽の光が差し込むように景色が変わる。渾身のDes音が奏でられたとき、“ああ、素晴らしい音楽だ”という感慨が全身を駆け巡った。たった一音の音のみで、一切の虚飾を許さない一つだけの音で、息をするのもはばかられるような美を出現させてしまう。作品と演奏家の凄さ。これこそが石井琢磨を特別な音楽家たらしめている。Des音を弾くときの石井の顔は恐ろしく集中力を高めた、わずかの夾雑物も許さないという表情だった。スポイトからほんの一滴を垂らしただけで淀んだ水たまりがサーッと浄化されるような、そんな感覚に襲われた。

さて、第1楽章から印象に残った箇所をいくつか挙げてみよう。ティンパニのトレモロに続くピアノの和音の氷をアスファルトに叩きつけたような鮮烈な音響。丹念に弾かれる主題の次の経過部(譜例1)。装飾や32分音符が愉悦感を放つが、実は寛いで弾いているわけではない。反対に極度の緊張感をもって奏でられている。続く3度の下降音型(41小節)も水しぶきを上げるように鮮明。この3度は少し前に高木竜馬が柔らかくディミヌエンドしたのを聴いた。硬質な石井とは好対照だがどちらも本当にハイレベル。ここまででもの凄い情報量だった。まるで宝石商が石を様々な角度から何度も何度も眺めるような執拗さがある。だが流れ出る音楽はいたって伸びやかなのだ。

譜例1

第1楽章はカデンツァも凄かった。次々に客席に襲い掛かってくる鮮烈を極める音色。油彩や水彩というより、レーザー光的。両手のオクターブで下降する際の鋼のような強靭さ。まるで大地が割れるようだが、まったく濁らない。凝縮力はここで最大となるが温度が上がらない。冷たい。

オーケストラはトランペットのシグナルなどもいたって柔らかい。筆者の好みだと、Più Lentのチェロの主題などは、もう少し斉一性が欲しいと感じてしまうところはあるのだが、音楽は心から歌われている。

第3楽章ではガンガルのリズム(譜例2)でオケが見事なトゥッティを奏でる。蛮族の襲来のような土俗性がある。いざというときはビタッと合わせる。これもこのオケの個性なのだろう。ツィガーンの棒もCでほんの少し歩みを緩めたり、過不足のない手綱さばき。だがどうしても耳がピアノを追いかけてしまう。

譜例2

続くPoco più tranquilloのピアノはメロディの背景で分散和音が絶妙に揺らぐ。非常に簡単な伴奏なのだが、あまりに絶妙のバランスで奏でられており、息を詰めて聴き入ってしまう。その最後に2回出てくるアルペジオ(226,228小節)の何という優しさ。ただのアルペジオなのに、聴き手に親密に語りかけるような趣きがある。アルペジオの一番上のF音を聴いてから丁寧に入る弦にも心がこもっている。

第3楽章のクライマックスに向かうHのあたりはオケの響きにやや緩みがみられ惜しかったが、ピアノはやはり圧巻だった。最後のマエストーソへと流れ込む13連符、続く12連符がオケの最強奏でも埋もれずに威風を放つとき、全身に鳥肌が立った。

アンコールはジョスランの子守歌。石井が鍵盤上で指を遊ばせるといともやすやすと多彩な音色が鳴り響く。この様子は一見の価値がある。一見すると早めのテンポで無造作に奏でられているようにも聴こえるのだが、ほんの1分少々の時間のなかで、余韻に耳を澄ませてみたり、心の揺れがある。一部カットしてサッと駆け抜けていったのもセンスを感じさせた。

2018年にhitaruがオープンしてから、舞台の迫り(※オーケストラピットを上げて舞台として使った箇所のこと)にピアノを乗せてピアノ協奏曲を演奏すると、ピアノがあまり聞こえなくなってしまうのを何度も経験した。まったく聞こえないこともあった。今回も迫りにピアノを乗せていたのだが、それでピアノがこれほど鮮明だったことにまず驚かされた。初めてのことだった。こういう特徴は録音では分からない。

石井のピアノは強弱のコントラストも凄いが、ただたんに大きかったり弱かったりすることがない。ちゃんと心理的な裏付けがある。内面がある。そして彼のピアノは、音楽が痛切な箇所でも前向きな力を感じさせる。肯定的な強さがあるのだ。だから聴いていて本当に気持がいい。言葉でこう言うのは簡単だがそんな音楽を奏でられる音楽家などなかなかいるものではない。石井は12月にまたリサイタルツアーで札幌に来るようだ。リサイタルではどんな音楽を聴かせてくれるか今から楽しみだ。

2.ブラームの交響曲第1番について

後半はブラームスの1番。まずツィガーンについてだが、筆者は以前都響で彼の演奏を聴いたことがある。そのときは木管を前面に出して緻密にバランスをとり艶やかな音響を作り出していた。だが今回はそうした“縦”の音響設計よりも“横”のテンポによる造形が目立った。10年以上経つのと、曲目の違いもあると思われるが、ツィガーンという指揮者はそれぞれのオケのやり方を尊重してそこから自ずと流れ出る音楽を大事にしている指揮者なのではないかと感じた。今回のブラームスにも「このオーケストラはこの曲をいつもこうやっているのだろうな」と感じる部分と、「指揮者のこだわり(主にテンポ)」の部分が上手く融合していたように思われたのだ。

提供:TVhテレビ北海道

ブラームスという作曲家は絶妙なニュアンスのある何気ないメロディーを書くことにとても秀でている。だが、それでいて、短い動機、音型を執拗に繰り返す構築的な音楽を作らなければ気が済まないという面もある。前者と後者は両方ブラームスの本質だ。そして、このイル・ド・フランス管というオケはブラームスを前者の要素、伸び伸びと歌う要素を大事に演奏する慣習のようなものがあるのではないかと感じた。後者の突き詰めた構築的な要素は影を潜め、各パートがおおらかに歌うブラームスとなった。

こういう演奏は各楽器に表現力がないと途端に薄味になる。だがこのオケは、精密な磨き抜かれた美という点では日本のオケに劣るが、それを補って余りある歌がある。各奏者の音に個性がある。日本人が「フランスのオーケストラ」と聞くとイメージする明るく華やかなサウンドを見事に体現している。第1楽章の冒頭から弦楽器群の豊麗な歌に彩られた音楽が展開された。

しかも、音程や縦が甘いとはいえ、肝心な箇所ではピタッと合う。例えば第2楽章の中間部。29小節のアウフタクトから始まる弦楽器群の旋律の響きが端正に整う。「ここが大事なのだ」というオケのスタンスを感じる。全身をかっちりとコーディネートするのではなく、適度な曖昧さを持たせた余裕のようなものがある。しかも各楽器には十分な馬力がある。だがあえてそれを使い切らないことで生まれる余裕のようなものがあるのだ。

提供:TVhテレビ北海道

とはいえ、厳格で丹念な演奏を好む筆者としては、第1~3楽章はやや常套的な印象が強かったことも正直に記しておきたい。指揮者の本領が発揮されたのは第4楽章。まず、アルペンホルンを模したブリッジ(譜例3)。この全音符には譜例のように漸強弱の指示(<f>)が書かれている。これを指示通りに演奏したのをあまり聴いた記憶がない。だがツィガーンは手のひらをホルンに向けてヒラリとくゆらせ、この強弱をフレーズのなかで息づかせる。とても丁寧。

譜例3

そして、次の主要主題(譜例4)。いよいよ音楽は長調に移行する。この最初のドミナントのG音をツィガーンは両手のなかで長く保持する。おそらく2~3拍分ほど伸ばした気がする。そしておもむろにCへと上昇させ、主題が流れ始めた。何が大事なのか聴き手に印象付ける効果が絶大。この一瞬の変化で大きなものがもっと大きくなる。煽りたてることも、絶叫することも、決してしない。

譜例4

さらに、主要主題が推移に入る箇所(94小節)で一気に加速した。これはかのG.ヴァントを想起させる。心が高鳴った。このあたりは譲れない指揮者の拘りがあり、オケも心から共鳴して奏でているのがよく分かった。とはいえ、終楽章でも個々の動機の立体的な音響構築という点ではやはり食い足りなさを感じさせたこともたしかではあった。ツィガーンが日本のオーケストラでブラームスをどう振るのかも聴いてみたいと感じた。まったく別のブラームス像になるだろう。オーケストラについても、他の指揮者でどのくらい変わるのか興味がある。日本のオケのように指揮者で激変はしないような気がする。確固たる“自分たちのやり方”を持っているオーケストラという印象がある。

提供:TVhテレビ北海道

さて、初来日したイル・ド・フランス国立管弦楽団は、よい意味でのヨーロッパのローカルな香りを纏ったオーケストラだった。今回聴いたかぎりでは彼らの音楽は、突き詰めた、魂が震撼させられるような音楽を目指してはいない。もっと、自分たちの日常的な生活空間を大切にした音楽をしているように感じられた。そこには彼らの土地や風土への感度のようなものが確かに息づいている。

だいぶ前に京都で過ごした時期があった。宿のすぐそばには国宝とか重要文化財がたくさんあった。そこでは外国人向けに禅の体験みたいなこともよくやっていた。そういうイベントの類は、京都で過ごしていると暮らしから切断されていると感じられた。そうやって「切り出された」ものがその土地の何かを表しているようにはどうしても思えなかった。

もちろん「暮らし」と言っても、「丁寧な暮らし」が大事とかそんなことが言いたいわけではない。自分の心身と場所(土地の風土)に開かれていれば、スローフード的だったりケア的だったりする必要は微塵もない。アニメイト巡りとかでも全然よい。だが、たんなる記号消費にならないような仕方で、日常的な生活空間への感度のある経験をするためには、旅先でこそいつもと同じ生活をすることが大事なのではないかなどと考えたものだ。そうやって確保される自分の「速度」のようなもの。このイル・ド・フランス管にはそういう彼ら固有の速度と進入角度のようなものがある。言い換えると、「ちゃんと生きる」ことのよさのようなものがある。

シャツにちゃんとアイロンがかかっているとか、高級素材ではなくても生地のしっかりしたものを着るとか、革靴がかかとまで磨かれているとか、食事に行くときは落ち着いた雰囲気でうるさくない店を選ぶとか、そうして確保される自分の速度のようなものがたしかに脈打っているのだ。そうして自分たちの音を育んできたオーケストラなのだろう。今回が初来日とのことだが日本の音楽ファンの心をしっかり掴んだことだろう。

(多田圭介)

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