PMF2026 オーケストラ公演 ダイジェスト(執筆:多田圭介)

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今年のPMFはオーケストラ公演の3公演のみを聴いた。今年はオーケストラのレベルが例年になく高水準だった。かつ楽しみなプログラムも多く楽しませてもらった。毎年取材していると、オーケストラと指揮者の関係について気づくことがある。レビューの前にそれについて先に少々。
PMFのオーケストラには世界各地から若い音楽家が集まっている。メンバーは学生か若手の奏者である。こういう形態だと指揮者の力量が演奏にやや複雑に反映されるようなのだ。少なくともプロのオーケストラでよい演奏をする指揮者がPMF(のような臨時編成のユースオケ)でもそうなるかは分からない(もちろんプロでも相性が大きいが)。
ここ数年の例で言えばまずは、昨年PMFに出演した指揮者のカネラキスのことが頭に浮かぶ。昨年カネラキスはマーラーの「巨人」でPMFのオケから見事な色彩を引き出した。作品が求める音価やイントネーションを根気強くオーケストラに要求していた。その痕跡がはっきりと演奏に表れていた。その結果、勢いや音量に頼らない美しいグラデーションに彩られたマーラーがKitaraに鳴り響いた。だが、その直前にカネラキスは都響で同じ作品を指揮しており、そのときはあの精密美を誇る都響が機能不全に陥る寸前だった。都響というオーケストラは長年に渡るマーラーの演奏の蓄積を持っている。その「型」のようなものと折り合いが悪かったのではないかと思う。そこへいくとPMFはまっさら。しかも、ユースオケなので指揮者の要求に真剣に応えやすい。それで指揮者の能力がうまく発揮されたのだろう。
昨年だとヤノフスキは逆だった。剛腕によって鉄壁のアンサンブルを築き上げる名匠だが、PMFではよい演奏にはならなかった。シューマンのラインで、3拍子を2拍ずつとる(かつ指揮者は1小節を1つで振る)冒頭でアンサンブルが大きく乱れるなど、普段プロのオーケストラを振っているときとは異なる結果となった。
さらに記憶に強く残っているのが2023年にPMFに出演したダウスゴー。PMFでは乱暴で大雑把な面が目立ってしまい、筆者はこの指揮者によい印象がなかった。だが昨年札響に出演した際、普段水彩のような淡い音色が際立つ札響から油絵のような粘りを引き出した。オーケストラの音を数日のリハーサルでここまで変えてしまうのはただ事ではない。つくづく分からないものだ。勉強になった出来事だった。
今年はどうだったか。私見では、オーケストラの個々の奏者の水準の高さによって指揮者の力量が例年よりも素直に演奏に結実した演奏会が多かったように感じられた。特によい演奏だった作品にフォーカスしてダイジェストでお伝えしたい。

写真提供:PMF組織委員会
1. PMFオーケストラ演奏会(7/12)
7/12のPMFオーケストラ演奏会からいきたい。指揮者はライアン・バンクロフト。まず最初に演奏されたシベリウスの交響詩「タピオラ」が大変に素晴らしかった。アカデミー生のみによる編成。安直な歌や効果を徹底して排除して、モノクロームで峻厳な音楽が立ち現れた。あの厳しい交響曲第7番をさらに先へ進めたようなシベリウス晩年のストイックな世界を十分に堪能させてくれた。

写真提供:PMF組織委員会
印象に残った箇所を挙げよう。まずは冒頭。タピオラの動機の最初の2分音符。重たいものが圧し掛かるように始まると、そこへホルンの和音が見事に決まる。そこへ木管が加わると、詠嘆の感情が広がる。そして寒風が突き刺さるように弦がざわめく。文句の付けようがない、プロのオーケストラに遜色がない開始だった。2つ目の主題に差しかかるとオーケストラがまるで闇夜のオーロラのような輝きを発する。太古の昔から、人知れず輝いているような時間感覚はやはり晩年のシベリウスの真骨頂。

写真提供:PMF組織委員会
練習番号Kでは和音が氷の柱のような佇まいを見せるし、そこから音域が下がると一転して人肌を感じさせる。コーダの入りのトレモロは吹雪で視界が覆いつくされてゆくように聴こえる。技術ではなく音楽だけが聴こえてくる。唯一惜しかったのは、クライマックスの直前の木管群の急降下、そして弦へ受け継がれる急上昇の音型(練習番号R)。ここがバチッと決まれば言うことなしだった。エンディングではH-durの和音に乗って漸強弱が押し寄せる。凍てついた大地、人間が存在する遥か以前から存在する悠久の自然、そんなものを実感させる。指揮者のバンクロフトは余計な味付けに一切頼っていない。だから自然物が永遠に生成を繰り返すような有機的な動機の展開、変奏が素晴らしく際立つのだ。

写真提供:PMF組織委員会
2曲目はショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番。こちらはやや問題含みのように感じた。ソリストはヤメン・サーディ。ウィーンフィルのコンサートマスターに就任した俊英。彼のヴァイオリンはやや暗がりを宿したような音色には個性があるし、ピアニッシモやフラジオの美しさにも十分な魅力がある。だが、コンチェルトの独奏者としてみた場合は、できないことがやや多いように聴こえた。第3楽章の主題には念を押すようなクレッシェンドが頻出する(譜例1)。だが、視覚的にはやろうとしているのだが音色が変化しない。それよりも力んで潰れてしまうほうが目立ってしまう。同様な難点をずっと感じてしまった。また第2楽章では、トリオのハ長調の行進曲への移行でぐんぐん加速するなど(楽譜にその指示はない)音楽の基礎設計の点でも問題を感じるところが多かった。テンポに関しては指揮者とソリストのどちらがイニシアチブを取った結果なのかは分からなかった。最小限の編成と素材、テンポの動きで極限の精神を表現したこの作品の核心に触れる演奏ではなかったように感じた。
3曲目はストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」。編成に講師陣が加わる。例年、PMFのオーケストラはアカデミー生だけの編成のほうが純度が高くなる傾向があるが、今年もそうだった。バランスが崩れてしまうのだろう。ペトルーシュカも賑々しい雰囲気は十分に楽しめたが、シベリウスと比べると大幅に整理不足を感じさせてしまった。3曲のなかで出来にかなり差が出たが、このタピオラが聴けて本当によかった。
2. PMFホストシティ・オーケストラ演奏会(7/19)

写真提供:PMF組織委員会
続いて7/19のホストシティ・オーケストラ演奏会。指揮はアンドレアス・オッテンザマー。オーケストラは札響を主体としたPMF講師とアカデミー生の混合編成。今年のプログラムが発表されたときからブリテンのチェロとオーケストラのための交響曲を楽しみにしていた。ソリストは上野通明。現代最高のチェロ奏者で、かつこの曲には上野しかいないだろうと思わされる適任者。晦渋で抽象的なこの作品を上野が奏でると、不安、閉塞感、悲しみ等が次々と舞台に立ち上る。オーケストラにも上野の音楽が伝播したのか、透徹した響きを発し続けた。指揮はオッテンザマーだったが、いつもの彼の伸びやかな音楽とはまったく趣きを異にしている。上野の個性が際立っていたのは第3楽章の中間部。ヴィブラフォンとシンバルが静かに奏でられ、そこへ独奏チェロが加わる。おそらくこの作品中の唯一、親しみやすい旋律だと思う(譜例2)。だが上野は一切表情を付けない。歌わない。凍り付いたように奏でる。鳥肌が立った。第1楽章と第2楽章の終わりの黄泉の国へ沈み込んでゆくような最弱音にも耳をそばだてられた。とはいえ、オーケストラ側にはスコアを掌握し切れていない感覚も多少出てしまったし、2~3箇所落ちてしまったパートもあった。だが難曲のうえ演奏機会も極端に少ないので致し方ないだろう。十分に堪能させてくれた。

譜例2
上野は札響定期のソリストやふきのとうホールの主催公演、それにPMFなど札幌でも頻繁に聴くことができる奏者だが、今回も作品の価値を一新するほどの素晴らしい仕事だった。PMF2022ではブラームスのピアノ三重奏曲も忘れがたい。筆者はあの曲の第2楽章の最初のチェロの主題が、あれ以来誰を聴いても鈍く聴こえるようになってしまった。

写真提供:PMF組織委員会
後半はドヴォルジャークの交響曲第6番。こちらはいつものオッテンザマーらしい音楽。快適なテンポでオーケストラを大きく歌わせる。音楽が瑞々しく躍動する。滑らかなレガートもとても美しい。のだが、スケルツォのフリアントのリズム(※譜例3)などはもう少し歯切れが欲しい。3拍子を2拍でとるリズムが不鮮明になってしまった。だがオッテンザマーがこの曲を振るとブラームスの第2番のような寛いだ感覚が広がる。オーケストラは札響の楽員とPMFの講師が一緒に演奏したことで、ややセクションごとの統率が落ちてしまったところもあった。PMF講師のオーボエ奏者の不調も惜しかった。古いリードを使っていたように聴こえた。

譜例3

写真提供:PMF組織委員会
3. PMF GALAコンサート(7/26)
GALAコンサートは少々丁寧に書いてみたい。プログラムはストラヴィンスキーの「管楽器のためのシンフォニーズ」、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、プロコフィエフの交響曲第5番。指揮はデイヴィット・ロバートソン、ヴァイオリン独奏は吉本梨乃。ロバートソンのザッハリヒで情緒に流されない音楽性がストラヴィンスキーとプロコフィエフによく合っており、この2曲は優れた演奏だった。他方でベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は評価が難しい演奏だったように思われた。
ストラヴィンスキーとプロコフィエフの同曲に共通するのは、初期の奇抜な作風から一転して古典回帰した時期の作品ということだ。ストラヴィンスキーは情緒が枯渇したようなトーンとパッチワークによるコラージュへ、プロコフィエフは抒情的で親しみやすい古典の佇まいへと。ロバートソンとPMFオーケストラはこの性格を見事に抉り出した。

写真提供:PMF組織委員会
3.1 ストラヴィンスキー:管楽器のためのシンフォニーズ
冒頭の最初のクラリネットの甲高い音色がどこか乾いた空気を感じさせる見事なスタート。透明で寛いだ風情がある。新しいものを生み出すことをどこか諦めたような複雑さも聴こえてくる。「春の祭典」もこだましているのだが、あの賑々しさはない。かつて栄華を極めた繁華街の廃墟を上空から眺めているような不思議な感覚がある。拍子が目まぐるしく変化するが、どこかへ向かって垂直的/連続的に変容しているのではなく、まるでテレビのチャンネルを次々と切り替えるようなそんな退屈しのぎの匂いさえある。これは後期のストラヴィンスキーが持つ特有の空気感で、ロバートソンのドライな棒がそれを際立たせているのだ。

写真提供:PMF組織委員会
筆者はこの作品に妙に関心がある。演奏会で聴くことができる機会も多くはないので今回は前日までにスコアを細かく読み込んだ。すると脈絡なく継ぎ接ぎのように展開する音楽には、一つの秩序があることに気づいた。このパッチワークのような一見取り留めのない音楽には、実は3つのテンポによる枠が与えられている。それらは♩=72、♩=108、♩=144という三種に大別できる。それぞれ基本となる72から1.5倍、2倍に符合する。各素材は一見無秩序ながらこれらのいずれかを基礎としている。気になって研究文献をあたってみたところ、ストラヴィンスキー研究者のE.ホワイトがそう指摘しており同分野の研究者にとっては共通見解であるようだ。
それでテンポ設定がどうなるかに注目していたのだが、一瞬も留まらずに拍子が変化しているのに、基本となる3つのテンポは揺るがないのだ。速度感も表情も1小節ごとに推移してゆくのだが、基本テンポの枠組みを決して逸脱しない。こういう厳格な演奏で聴くと、後期ストラヴィンスキーの無秩序なパッチワークは、あくまでも人間から見て恣意的に見えるだけで神の視点から鳥瞰するなら歴史の連続性の一部をなしているのだというように聴こえる。なにかメタレベルの視点が設定されているように感じさせられるのだ。帰宅してCDを何種類か聴いてみたがブーレーズの録音でも同じようなテンポ処理が達成されていた。PMFオーケストラの管楽器奏者たちも複雑なリズムを落ち着いて捌いており見事な舞台だった。
3.2 ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲
次のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、なんというか言葉で表現するのが難しい演奏だった。頑張って説明してみよう。まずロバートソンとオケは、依然として余計な情緒を排除して楽譜が要求するトーンを丁寧に紡ぐことに徹している。全楽章に渡ってそうだった。一箇所だけ例を挙げてみよう。第1楽章の長大な序奏部には優美な最初の主題が推移に入ると譜例4のような、同一のリズムパターンが2度繰り返される箇所がある。
前半をA、後半をBとしよう。Aはニ長調のなだらかな音楽が借用和音によって一時転調し調性が不安定になる。Bは安定した主調Dへの復帰を予感させる。細かく楽譜を見るとAの最後は8分音符で、Bの最後は4分音符となっている。Aでは行方が定まらず緊張が走り、Bでは安定感が戻る。ロバートソンはAの最後をスパッと切り、Bの最後は右手で4分音符の音価を明確に指示していた。オケの反応も素晴らしい。ただ楽譜通りなのではなく、一つひとつの処理に意味がある。終楽章の最後までこうした態度が徹底されていた。ベートーヴェンの演奏で、こうした音価やリズムの細かい差異の意味を一つひとつ丁寧に処理してゆく演奏というのはそう多くはない(近年はその傾向が確かに強まっている)。

写真提供:PMF組織委員会
他方で、独奏の吉本梨乃はすべての音を陶酔的に歌おうとしている。しかも美麗に歌うことに集中するあまり、上述のようなフレーズの処理の音価が恣意的(楽譜通りではない)になる箇所が目立った。またベートーヴェンが丁寧に書き込んだスタッカーティシモも少なからぬ箇所で無視され、レガートやテヌートに変更されていた。ただ、吉本の技術はかなりのレベルで、歌い込んでもフレーズがだらしなくなることはない。しかも同曲はそもそも豊麗な歌に彩られているので、こういう演奏ももしかしたらあり得るのかもしれない。
だが問題は、オーケストラの前述の厳格さと美麗な独奏との間にどうにもならない齟齬があるのだ。筆者は別の場所で録音した音を同時に鳴らしているような不思議な感覚に襲われた。それは最後まで解消しなかった。オケと独奏、それぞれには立派な演奏をしているのだが、この噛み合わなさでは聴き手を音楽の世界に誘うのは難しい。言葉で表現するのが難しいと言ったのはこういうことだった。
吉本の独奏について記憶に残ったところをいくつか挙げてみたい。まずオーケストラの理知的な序奏に続いて独奏が登場すると、前打音がひきずるように長く引き伸ばされていた。ここでまず「おや?」と過った。第2提示部で独奏が裸になる箇所では、スタッカーティシモが無視されレガートになっている(同じパターンが頻出するので以下は割愛する)。違う曲を聴いているような印象が脳裏を過り始める。続く箇所では同じリズムのフレーズの最後の音が任意に伸ばされていたり、とにかく美麗に弾こう弾こうとしている。

写真提供:PMF組織委員会
続くラルゲットでも基本的に同じ特徴が頻出していた。ラルゲットで疑問を感じたのは再現部にあたる56小節~。ベートーヴェンは”sempre perdendo”(常に徐々に弱く遅く)を指示し、その先には“pp”がある。このppは瞑想的で同楽章の最大の聴きどころだと思うのだが、吉本はここでmfで朗々と弾いていた。たっぷりとレガートをかけ、豊麗に、蠱惑的といってよいほどの官能を聴かせる。さすがにここは「楽譜をちゃんと読みましょうよ」と心のなかで呟いた瞬間だった。ただ、ヴァイオリンから発せられる音色は依然として美麗を極めるので、美しく歌い込まれたよい演奏に聴こえた人もいたことだろう(もちろんそれが悪いことだとは思わない)。
終楽章でもスタッカーティシモが随所で無視されレガートに変更されているのは同じだった(特に驚かされたのは45小節、308小節の2箇所)。他には89小節に”perdendo”の指示がある(譜例5)が、独奏がどこまで行っても遅くならず、90小節の最後の1拍で突然遅くしたので、さすがに指揮者とオケも合わせることができなかった。こうした噛み合いの悪さも全楽章に渡って目立ってしまった。繰り返すが、オケは立派だったし、独奏も技術的にはかなりの水準だった。それは間違いない。だがオケと独奏の食い違いがどうにも歯痒く音楽に集中させてくれない恨みが強くなってしまった。
吉本はパガニーニやクライスラーを弾いたらきっと映えるだろうと思っていたところ、アンコールがクライスラーだった。やはりこちらは彼女の個性にドンピシャで言うことなしのアンコールピースとなった。吉本には華麗で陶酔的な音楽が似合う。ベートーヴェンでは似合わない服を着せられたような感じが出てしまう。これは彼女の音楽性なのだろうと思う。技術と媚びるような音楽性には際立ったものがあるので、また違う曲でちゃんと聴いてみたい。

写真提供:PMF組織委員会
3.3 プロコフィエフ:交響曲第5番
休憩を挟んでプロコフィエフの交響曲第5番。これはシベリウスの「タピオラ」と並んで今年のPMFの最大の成果だったかもしれない。毎年書いていることだが、PMFのオーケストラは、プログラム後半で講師が加わると演奏の水準が目に見えて落ちてしまう。また会期前半の公演の演奏がよく、最後のGALAコンサートでは疲労からか、集中力が下がる傾向がある。だが、このプロコフィエフはそうならなかった。PMFの規模が縮小され公演数が減ったことで負担が軽くなったのか、何が要因かは分からないが、最後のGALAコンサートを気持ちよく聴くことができたのは本当に幸いだった。

写真提供:PMF組織委員会
さて、作曲家はこの作品を「人間の魂の勝利」と呼んだ。まさにそのような快哉を叫びたくなるような演奏だった。第1楽章はまるでショスタコーヴィチの第7番のエンディングのような巨大さを感じさせる。コーダの金管の軍隊のような巨大さは圧巻の一言。第2楽章もせかせかしない、落ち着き払った風格のなかからプロコフィエフらしい細やかな表情が次々に耳に飛び込んでくる。練習番号37ではスィング・ジャズのような空気が、やはりゆったりと聴こえてくる。構えが大きい。主部へ戻る直前の挿入的な部分(48~)の不規則で奇妙な表情やTbのソロもバチッと決まる。第3楽章はロバートソンの賭けがあった。スコアの指示は♩60だが、ロバートソンは♩=48で弾かせた。これは第1楽章の頭と同じテンポだ。この演奏には、全体を悠然とした気配が一貫していたのだが、こうしたテンポの処理もそれに一役買っていた。不思議なもので新古典主義のイロニカルなアダージョがこの演奏で聴くとどこか第九のアダージョのように崇高に聴こえるのだ。おそらく、もともと作品にそういう性格があるのだろうと思う。
終楽章へはアタッカで入った。最初に第1楽章の主題が反芻されると、やはり第九の終楽章のようだと気づかされる。そして主要主題に入ると、今度はブラームスの第1番の終楽章のように聴こえる。悠然と勝利の音楽が流れ始めるのだ。こんな曲だったか??と「?」が頭を駆け巡るが、筆者が知らなかっただけなのだろう。途中、木管のとろけるような甘美な味わいも後期のプロコフィエフならでは。コーダでは複数の主題がトゥッテイで鳴り始めるが、響きの明瞭さが凄い。あらゆる要素が手に取るように聴こえてくる。声部が減らされて独奏が交錯して一気に駆け上がる最後も、演出皆無。テンポも音量も微動だにしない。堂々たる横綱相撲で締めくくった。このエンディングにはちょっと鳥肌が立った。交響曲の歴史を包括するような、そんな巨大な視野をきっとこの作品は持っているのだろう。

写真提供:PMF組織委員会
他にも気づいたことはたくさんあったのだが、細かすぎるので言挙しない。ただ、帰宅してすぐにスコアを開くとそれらはすべて楽譜通りであったことを書き留めておきたい。
さて、ダイジェストでPMF2026のオーケストラ公演を振り返ってみた。長くなってきたのでこの辺で終わるが、初めて聴いた指揮者のバンクロフトが今後プロのオーケストラを指揮したときに、PMFでの演奏とどんな変化があるかも楽しみだ。それに今年はブリテンやストラヴィンスキーなど、名曲路線とは異なるところもありそれも嬉しかった。
(多田圭介)
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