札響【名曲シリーズ】音のスケッチ・よろこびの秋
2020年9月12日(土)札幌コンサートホールKitara (大ホール)
川瀬賢太郎が指揮した札響の名曲コンサートを聴いた。川瀬は様々な意味で豊かな可能性を実感させる指揮者であるが、10分ほどの小品を集めたこのコンサートではその才気が一層際立つように感じられた。川瀬の才能は本質的に新しい。その新しさを表現するためにどんな言葉が相応しいか。コンサートの休憩中にそんなことを考えていた。そうすると、映画「スカイ・クロラ」のあるセリフが頭に浮かんだ。主人公の函南(=押井)はこう言う。
「日常の外側ではなくて日常のなかに混在する超越性を見出すべきだ」。
この「日常に混在する超越性」という言葉。川瀬の音楽が持つ新しさ、優れた可能性を表現する言葉はこれだと感じた。言い換えれば、「ここではない、どこか」(=「日常の外部」)ではなく「いま、ここ」の可能性を拡張する(=「日常に混在する超越性」)音楽。これである。
日本ではクラシック音楽には長く「ここではない、どこか」が期待されていた。だが、この役割は二重の意味で終わろうとしている。まず、そもそもなのだが、現代では日常がその外部を失って(かのように見える)久しい。ゆえに、つまらない日常からの逃避先として「ここではない、どこか」を語るのは、それ自体難しい。これはクラシック音楽という分野に限らず、本質的にそう言える。すなわち、虚構を用いたあらゆる文化現象は、現実に追いつかれ、現実を追認することしかできなくなっている。あるいは、かつて現実を忘れ趣味に没頭できていたネット空間はどうか。だがSNSが普及した2010年以降、ネットに接続すると私たちは過剰に他者と接続されるようになっている。ネットはインフラとなり、日常を忘れる「外部」の機能を失っている。政治的な面で革命の可能性を失った等々はもはや云々する必要もなかろう。また日本では、かつては、「クラシック音楽」という分野そのものが「ここではない、(憧れの)どこか」として機能していた時期はたしかにあった。70~80年代までであろうか。しかし、日本の演奏団体の水準が飛躍的に向上し、また欧州が心理的に近くなった現代において、このジャンルに「手が届かないものへの憧れ」を投影するのも難しくなった。日本の演奏団体のレベルアップは、(もちろん歓迎される事態であるが)クラシック音楽という分野の日常化を生んだとも言えるからだ。日常の「外部」がリアリティを失い、かつ、その投影先であったクラシック音楽というジャンルが日本人にとって日常化したのだ。
クラシック音楽の催しが、こうした状況でもし日常化を突破しようとするなら、その試みはまずプログラミングに求められよう。しかし、現代音楽を採り上げようにも、集客が難しいし、何より、作曲技法自体、そこに本質的な新しさを期待するのが困難(前提として開拓すべきだが)であることも無視できない。かといって、この先も延々と19世紀前後の作品を演奏し続けるのでは業界全体が縮小再生産にしかならない。フロンティアなきところに美や崇高はない。
こうしたなかで、川瀬は、筆者には、「ここではない、どこか」を求めるのではなく、「いま、ここ」を豊かにする、すなわち「日常に混在する超越性を見出す」(函南)音楽家だと感じさせるなにかがある。それは聴き古したいつものよく知っている曲(それ自体「終わりなき日常のように」)から、未知の音楽を引き出すところに顕著だ。いつも通っている見慣れた風景から、見慣れているがゆえに見落してしまうような日常に混在する超越性を日常から逸脱することなく引き出すのだ。そうすることで、「ここではない、どこか」ではなく、「いま、ここ」の可能性を拡張する。ここではないどこかのロマンに満ちた大冒険を描くのではなく、いまここの現実の可能性を掘り起こし、現実を拡張する。もちろん、小品を並べた名曲コンサートだったからそう感じたというのもあるだろう。しかし、この美質こそが川瀬の本質なのではないかと感じさせられた。
1曲目はドヴォルザークの「謝肉祭序曲」。まずこれが初めて聴いた曲のように聴こえた。冒頭、テンポはほぼスコアの指示通り(二分=132)の快速だったと思われるが、それでも音楽は落ち着き払い、一つ一つの音がゆっくりと克明に耳に飛び込んでくる。さらに、弾けるような祝祭的な熱狂が同時に響いてくる。この2つの要素が矛盾しない。こうした、明晰さと複雑さの併存を文章で表現するのは至難を極める。音楽でしか表現できないのではないか。札響だけに限っても、バボラクが指揮した昨年のPMFホストシティやかつての定期でのエリシュカなど、何度も聴いている曲だが、それらとは比較にならない。群を抜いた出来だった。未知のものに触れて自分が変化させられるような思いさえした。
スコアの読みも深い。第一主題部では、まず推移部(9~24小節)。響きが軽くなりHr、木管後列、Va、Vcが躍る。繰り返される主題はフォルテの指示であるが、あくまでも軽く、続く確保に向けて周到に伏線を張る。主題の確保では、トゥッティで律動する終止音型を、髪を梳くように透明に鳴らし、PiccとObのアウフタクトを強調する。そのままクレッシェンドを持続し新しい主題に雪崩れ込む。43小節からのこの主題は推移主題と解されることが多いが、川瀬で聴くと、提示部の中心はここであったようにさえ聴こえる。聴きどころはまだまだ続く。第2主題Aの哀切な調べを経て、Bに入る(132小節)ときの、俊敏な空気感の変化、キリッと冴えたTpの強調、冴え渡るフォルテピアノ、すべてが新鮮だ。
提示部の終結には痺れた。弦が徐々に静まるpppに達すると、川瀬はシンバルの静かな一撃に向けてpppのさなか1.st.Vn.をわずかにクレッシェンドさせ(210小節)、ハープの鮮明なアルペジオに繋げた。小さなことだが、音楽をリフレッシュした。
G-durに転じる218小節からの挿入部は、フッと視界が開ける。神秘の空気のなかで敬虔な祈りの音楽が始まる。あくまで上質な官能もある。こういう音楽なのだと教えられる。弱音のなか主題にほんのわずかだがポルタメントがかけられた(243小節、VnのD-H)。これが神の手が心を撫でるように優しいのだ。忘れ難い。再現部では、407小節のVnの合いの手が目を醒ませという警告のように聴こえる。これも初めて感じた。コーダでは、479小節でfffの弦を落とし、木管の終結主題を湧き立つように鳴らしたところも印象深い。A.ロバートソンはこの作品をワーグナーのタンホイザーの影響下にあるとしている。川瀬の指揮で聴くと、たしかに、挿入部の精神的な逸楽と主部の現世での祝祭の対比など、そこにヴェーヌスがこだましているのを実感させられる。
続いてレスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」から第3番。これもただの物理的な音響が一つもない、心の音楽だった。第1楽章は、薄幸の美と言えばよいだろうか。儚い青春の詩。川瀬の指先から音が聴こえてくるように弦楽合奏が生きた呼吸で歌う。変奏に入ると、伴奏のVcがそっとニュアンスを添える(12-13小節のタイ)。丁寧なのだが、丁寧であることを意識させない。旋律はレースが風に舞うようで人為をまったく感じさせない。第2楽章の重たい思念。第3楽章では冒頭動機が反復されると、ほんの少しだけ弱くする(4小節~)。実際はほんの些細な音量の変化にすぎないのだが痛ましいほど哀しく響く。ガイヤルドやテレプシコーレのような宮廷音楽の和声を20世紀初頭の新古典主義の意匠で飾ったこの作品が、なにか心理劇のように内面的に聴こえた。ちなみに、第1楽章の終わり近くでVaから受け継がれる上昇アルペジオがリコーダーのように聴こえたのだが、なんの音だっただろうか。Vaの4度のdivisi.であんな音がするだろうか。筆者は目が悪いので確認できなかった。古雅な趣きを感じさせる響きだった。
休憩を挟んで後半は、ベルリオーズの「ローマの謝肉祭序曲」、チャイコフスキーの「白鳥の湖」の抜粋、そしてスメタナの「モルダウ」。後半に入るとやや当たり前の音楽になってしまった感があった。集中力が落ちたか。もちろん高いレベルで充実した演奏だったのは間違いないのだが、前半のような初めて接するような感興は感じなかった。想像力の及ぶ範囲の充実だった。一箇所だけ、気になった箇所を挙げると、モルダウの最後。ここに出てくる「わが祖国」第1曲の「ヴィシェフラド」の主題がなぜか不鮮明で威容を感じなかった。何を意図したのだろうか。分からなかった。
アンコールはベートーヴェンの英雄のスケルツォ。川瀬のお茶目であざとい側面が爆発した。弦にスタッカートが続く主部でVaが裸になる箇所をテヌートで撫でるように弾かせ、121小節では木管のハーモニーもレガート。コーダではアクセントを付けてヘミオラ。あまりにあざといが、”してやったり”で、川瀬も楽員も、もちろん聴衆も心から楽しんだはずだ。元来、天才のおもちゃ箱のような楽章であるが、才は才を知るといったところなのだろう。仕事で遅くなり遅刻してアンコールしか聴けなかったという知人がいたが、チケット代分は十分に楽しんだはずだ。
さて、私たちは何のために「他人の演奏」を聴くのか。いや、そもそも、他人の書いた音楽、小説、映画などなど、「他人の物語」を受け取る意味は何か。それは、自分の想像力を超えたところにある隔絶されたものに出会い、そのことによって自分が絶対的に変化させられるような体験にあるのではないか。しかし、その隔絶されたものとは、日常の外部、まるでオンとオフがスイッチで切り替わるような非日常にあると思いがちである。だが、見慣れてしまった日常の景色の瞬間瞬間にこそそうした隔絶されたものは開かれている。日常を退屈にしているのはそれを見出すことができない自分の知的想像力の退行のせいなのではないか。畢竟、世界に差異を見出すのは自分の眼でしかない。その眼なしには地球の裏まで旅しようとも、毎日、最上級の舞台に触れようとも何も見えるようにはならない。演奏者も聴き手も聴き古した有名曲から全身が覚醒するような表情を引き出した川瀬の音楽に触れてそんなことを考えさせられた。
(多田 圭介)
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