札幌劇場ジャーナル

【アイーダ】見どころ聴きどころ ④

STJセレクト

シリーズでお届けしてきた【アイーダ見どころ聴きどころ】、いよいよ今回が最終回。来週末にはhitaruの幕は上がる。創刊号からもったいぶってきた本紙の結論は?最終回は最後の幕である第4幕から第13曲と14曲。タイトルは「アイーダの主役は誰?」でお贈りする。安心してください。「主役はみなさんです!」とか言わないので。

 

舞台はエジプトの王宮内の一室。アムネリスが塞ぎこんでいる。前の幕でラダメスが軍事機密を敵将アモナズロにバラしてしまい、エジプトの神官たちに現行犯で捕えられた。そして、ラダメスはアムネリスがいる部屋の隣に監禁されおり裁判を待っているのだ。

 

13曲はアムネリスのシェーナ※1とラダメスとの二重唱からなる「シェーナと二重唱、憎い恋敵はいなくなった」だ。ここでもう一度アムネリスに注目しよう。この物語のタイトルはアイーダ。その恋人はラダメス。しかし、この第13曲でアムネリスが存在感を発揮すると、アイーダとラダメスはアムネリスのたんなる引き立て役にしか見えなくなることがある。この二重唱でのアムネリスの存在感はそれほど強い。第13曲が終わった後、客席の喝采が終わらず指揮者が一休みすることもある。ただ、第13曲は音楽的にはこれまで紹介したナンバーほど特徴があるわけではない。オーソドックスなのだ。だからこそアムネリスを歌う歌手の力量が試される。第一幕の紹介でも、アムネリスのはじめの一言だけで彼女がこの物語の鍵になることが理解できなければアムネリス失格だと書いた。アムネリスを演じる歌手はここでもう一度真価を問われることになる。

 

さて第13曲に入ろう。アムネリスはラダメスが国を売ったことに怒りながらも彼を想う心を止めることができなくて苦しんでいる。ここで音楽は譜例12の旋律を繰り返している。これはアムネリスのモチーフだ。このモチーフは「王女」アムネリスを表現している。これが繰り返されるたびに徐々に王女の威厳が戻ってくる。このあたりのモチーフの使い方は巧みだ。

譜例① アムネリスのモチーフ

 

ここでアムネリスは衛兵たちにラダメスを牢屋からここへ連れてくるよう命令する。アムネリスはエジプトの権力の象徴。こんなこともできるのだ。やはり本当の主役はアムネリスか。この箇所、音楽は3/4拍子に変わっている。調は変ホ短調というややこしい調で最初の和音は属9である。少し説明しよう。属和音とは、例えばハ長調ではソシレである。属9とはこの属和音の上にさらに属音から数えて9度まで重なる和音のことだ。もう、この先どこへ向かうのかわからない陰鬱な音がする。ラダメスがアムネリスの説得に従うかどうかで物語の行く末が左右されることを意味しているのだろう。この属9に乗ってラダメスは登場する。

 

アムネリスはラダメスにアイーダが生きていると告げ、アイーダを忘れ自分と一緒になるなら裁判を取りやめにできるという。しかし、ラダメスは頑として首を縦に振らない。自分が愛しているのはアイーダだけ。生き恥をさらすくらいなら死ぬという。アムネリスは「あの女を忘れよ」と何度も説得する。だが最後に諦め「死ぬがいい」と言い放つ。

 

この二人の応酬ではまたもやアレグロ・アジタートで全オーケストラが絶叫するように半音階を下降する。だが、前の幕までで激昂の表現を何度も体験した観客はもうこのくらいでは驚かないだろう。すでにこの程度は型通りだ。この第13曲の聴きどころはその次だ。二人の激しい応酬の後ラダメスが衛兵に連れていかれ、アムネリスは悲嘆にくれてその場にうずくまる。ここで音楽はイ短調の属和音に伴われたままの状態で静かに悲嘆にくれるアムネリスに寄り添い、しかも緊張をまったく切らせない。しかしこの緊張はどこか身近なのだ。

 

ついさっき、ラダメスが登場したときはホ短調の属9という複雑な和音だった。しかしここでは緊張が維持されているとはいえイ短調の属和音。つまりただのミソ♯シなのだ。実にシンプルに身近な響きで緊張を表現している。アムネリスが王女のプライドをすべて打ち砕かれて倒れこむこのシーンからは、私たちが身をもって知っている生きた人間の心が垣間見えてくるのだ。王女とか奴隷とか浮世離れした設定が続いたが、ここで王女は一人の女性になる。ヴェルディはここでやっと「一人の人間」を描いたのだ。アムネリスを歌う歌手がここでこのリアリティを表現できるかどうか、これは「アイーダ」という作品の主役は誰であるのかを左右する。

 

一人の人間に戻ったアムネリスは次の第14曲でもこの物語で初めて「何か」を失う。場面は裁判の場だ。ラダメスには生きたまま石室へ閉じ込めるという判決が下る。ここでアムネリスはなんと2オクターブを上下しながら錯乱したように抵抗する。自分が裁判へ送り込んでしまったことの後悔に、今目の前で愛しいラダメスに死刑が下りどうにもできない無力が重なり錯乱しているのだ。今までと何かが違う。ここで描かれているアムネリスは「権力」を喪失しているのだ。いや、正確に言えば、アムネリスは最初から誰かよりは権限が低かったのだ。アイーダの本当の主役は誰だ。

 

13曲でアムネリスは投獄されている政治犯を自分の部屋に連れてくるほどの強大な権力を誇示していた。にもかかわらず、ここではアムネリスといえども神官に下ったイシスの神託には逆らうことができないでいる。思い返してほしい。第一幕でラダメスを将軍に指名したのも神託であったことを。この第14曲はこの作品の主役がアイーダやラダメスでもなく、アムネリスでもなく、実は国家であったことが明らかになるシーンなのだ。アイーダの主役は、スバリ国家だ。

 

さて、シリーズでお贈りしてきた【アイーダ見どころ聴きどころ】。いくらなんでも「凱旋行進曲」を無視するなよと憤慨した方もいたことだろう。しかし、ここまで進まなくてはあの虚無的なほど大規模なセレモニーの意味は見えてこないはずだ。あの大行進曲は国家権力の強大さ、また、その薄気味悪さを表現していた。と、筆者は思う。「公」と「個」という「一」と「多」は、あの「一」を象徴する大スペクタクルによって結びついていた。それによってこの物語は成り立っていたのだ。アムネリス以外の登場人物はみんなこの「一」によって翻弄されていた。最終幕の第4幕に至って、なぜこの作品にあんなお祭りを挿入する必要があったのか、ようやく嫌というほど知らしめられる(と思う)。アムネリスも「国家」という「一」の前では一人の人間にすぎない。この第14曲の後、ラダメスが閉じ込められた石室にアイーダが忍び込み、二人は死ぬ。だがどこか満ち足りた印象的な音楽で幕は下りる。しかし、筆者にとってこの物語の終わりはアムネリスが泣き崩れ一人の人間に戻ったところだ。あの凱旋行進曲は、一見エジプトがエチオピアに勝利し、意気揚揚とするアムネリスの絶頂を表現しているように見える。しかし実際はそのアムネリスの心の崩壊(=権力の後ろ盾を離れた再生)が始まる「終わりの始まり」を表していたのだ(と筆者は思う)。

 

国家とは何か。権力とは何か。私たちはなぜ何に従って生きているのか。アイーダという作品は国と国の戦争の物語ではなく、あくまで、女性の戦い、親子の葛藤を描いた心理劇だというスタンスでこの連載を続けてきた。しかし、その解釈を通して最後に見えてくる作品の主役は、まぎれもなく目に見えない「国家」なのである。

 

1シェーナとはレチタティーヴォ・アコンパニャートが大規模に拡大されたものでヴェルディが好んで使用した呼称。レチタティーヴォ・アコンパニャートが分からないひとはググってください。

 

2譜例1がアムネリスのモチーフ。この旋律を覚えておいてほしい。王女の威厳の行方が目にみえるだろう。また譜例2はアイーダのモチーフ。前奏曲の一番最初で出てくる旋律だ。このモチーフが聴こえたらアイーダの存在が示唆されていることになる。これもぜひ覚えてほしい。観劇の奥行きを幾重にも深めてくれる。

譜例② アイーダのモチーフ

 

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