<Kitaraワールドソリストシリーズ>内田光子 ピアノリサイタル
2018年10月24日(水) 札幌コンサートホールKitara(大ホール)
内田光子のオールシューベルトプログラムを聴いた。曲目は前半がピアノ・ソナタ第7番変ホ長調D568、第14番イ短調D784、休憩を挟んで第20番イ長調D959。
シューベルトのピアノ作品は、20世紀にレオンスカヤなどが暗く救いようのない演奏をするようになって以来、あてどなくさ迷い歩くような孤独な側面に注目が集まるようになった。コヴァセヴィッチなどもそうだ。彼らは、長調で暗い深淵を描き、短調で道化を演じる。平易な長調の旋律の中から世界中に自分だけしかいないかのような孤独感を取り出して見せたのだ。その側面を押し進めたのが、まず一人はアファナシエフ。もう一人が内田光子である。内田の奏でるシューベルトからは、レオンスカヤでははまだ聴くことができる短調の道化すら消えさる。道化は、誰かに向けて演じるものだ。だが、内田のシューベルトには「他者」がいない。いや、普通は他者が消えても、なお、動植物などの自然や記憶、希望は残る。しかし、それもなくなる。
内田はシューベルトが20歳のときの作品、ピアノソナタ第7番さえも、静寂の音楽に変えてしまう。第二楽章、冒頭の主題が虚空に向かってうわ言を呟くように奏でられる。主題が確保された最後12小節目の8分休符になぜか付されたフェルマータ。内田は、ここで一瞬間だけ間を開けた。ほんの一瞬なのだが、深淵がパックリと口を開き、気を抜くと吸い込まれるようだ。真っ暗闇につき落とされる。それを回避するために、また音を奏でる。誰かに向ってではなく、虚空に向かって。それをやめたその瞬間、あらゆる生命が死に絶える。そんな純度100%の孤独。
もちろん、内田の音楽は構築面の厳格さも持っている。第一楽章は、感傷をすべて排除した氷の彫刻のような響きで始まる。主題が持つ優雅さも消えている。一貫してそうなのだが、気づかされることもある。静寂の中、気ままに調子を変え呟くような音楽が続くのだが、3つある主題ではすべてテンポが同一に保たれている。ベートーヴェン風の即興的経過句で自在にアゴーギグを効かせつつも、冒頭主題、第二主題(41小節)、第3主題(71小節)、はすべて♩=120~126に整理されている。シューベルト研究のH.ファーガスンは、各主題間でテンポ感の統一の難しさ、およびその重要性に触れている。内田はただ「気分」で弾いているわけでは、まったくないのだ。
第三楽章は、装飾音符が愛らしい。通常アッポジャトゥーラと解釈される箇所も媚びるような装飾で彩られる。作品が本来持つリリックな側面が生きる。だが、音色はあくまでも冷たく暗い。中間部は、ふと我に返って自己問答を繰り返すような表情が聴こえる。終楽章は、四声体で進む箇所が多く、簡単そうに聴こえるが高度な技巧が要求される。意外だったのだが、この日の内田は体調がよくなかったのか、最初から技術的にやや不安定だった。この楽章は四声をしっかり鳴らすことで精いっぱいになってしまった印象が強い。とはいえ、87小節、104小節でソプラノからテノール声部に旋律が移る微細な色合いの変化には耳を奪われた。徹底して丁寧に奏でられた。
第7番は生きるのを諦めたような厭世的な演奏だったのだが、2曲目の第14番で内田は現世に返ってきた。何かに必死に立ち向かうような音楽だった。生と死の境目を行き来しつつ、暗闇で必死にもがく。この日の演奏ではこの第14番がもっとも優れていた。響きのコントロールにも偶然性が消え、すべての音を手中に納め出したい響きを自在に操っていた。調子自体は悪かったのだが、思い入れも強いのだろう、頭から音に気持ちが乗り移っていた。
冒頭、オクターブで中身がカラッぽのユニゾン。第7番よりずっと不気味な響きがするはずなのだが、内田の音楽は決然としており、ピアノという楽器と完全に結びついた美感のある音がする。不思議と不安定さはない。26小節まで主題が確定しないにもかかわらず、そうなのだ。教会のコラールのような第二主題も前進的。展開部は、調性が不安定になる。しかし、長3度下のへ長調へ着地したがっている。苦悩のなかでも、手探りで安定を諦めずに闘っている音楽がはっきり聴こえてくる。声部は縦に何重にも重なりあうがここではすべての音が明晰に、意味深く鳴り切った。
第二楽章は優しく慰めるような演奏。だが、楽章の終わり近くで、また、ふと思い出すようなフェルマータが登場する。少し沈黙するが、考えるのをやめるように、静かに終わった。フィナーレでは一度は考えるのをやめた苦悩が嵐のように走り抜けてゆく。指定のテンポでは演奏不可能と思われる箇所も委細構わず暗闇に突進してゆくようだった。
休憩を挟んで、第20番。後期三大のなかではもっとも歌謡的で寛いだ曲調を持つ作品。第一楽章は軽やかにで、適度な即興性もあった。第二楽章では考えないようにしていた、嬰へ短調の深みに足を踏み込む。内田の出す音はメランコリックの極み。行く当てなく彷徨う。中間部では暴風が吹きつけてくる。何かに切りつけられるような響きと、それに身を切られるような凄惨な音が交代する。ここは、何度か耳を覆いたくなった。再現部では新しく追加される右手の三連符が救いようのない孤独さを訴える。提示部と同じ旋律なのだが、もうメランコリックには聴こえない。誰もいないのに、「もうダメだ」とつい声が出てしまったようにさえ聴こえる。第三楽章はスケルツォ。アクセントのついたアルペッジォが小気味よく、96小節で右手のDのレガートが丁寧に優しくかけられる。フィナーレでは、気持ちを切り替えたような歌が連綿と続くが、最後、335小節で、道に迷うように響きが暗くなる。337小節で、不意にへ長調のドミナントで宙づりになり、また、あの虚空に引きづり込まれそうになるが、意を決するように右手が進路を奪還する。音楽は死の淵から帰ってきた。恐怖に抗う懸命の努力にも聴こえた。
ただ、この日の内田は、やはり全体的に技巧的に集中を欠いていた。風邪でもひいていたのかと何度か感じた。いつもの、徹底的に結晶化した純度の高い音楽は、影を潜めていた。抑制された超絶的な暗い美感よりも、難所を弾きこなすことに難儀している地上的な姿が何度も見え隠れしていたことが気がかりだった。ツアーの初日でまだエンジンがかかっていなかったのかもしれない。とはいえ、会場は惜しみない拍手に包まれ、みな満足していた。札幌でこのような晦渋なプログラムに接する機会は本当に貴重だ。