札幌劇場ジャーナル

ことばと文化(6)- アフター・コロナの共助論

編集長コラム

このコラムではこれまで映画など文化作品を取り上げてきました。ですが、今回はちょっと趣向を変えます。本紙も1年以上発行停止を余儀なくされたこのパンデミックを経て、私たちはこれからのために何を考えるべきなのか。私たちがすべきこと、またしてはいけないことは何なのか。丁寧に線を引く作業が必要な時期であるように感じます。

今回のパンデミックは、現代の都市生活の基盤の脆弱さを露呈させました。ワンルームマンションと核家族だらけの社会だと、ちょっと景気が悪くなったり社会不安が起きると、保育所の数が足りない程度のことで人生詰んでしまうのです。自助と公助ではどうにもならない共助の脆弱さを露呈させました。昔なら地域コミュニティが担っていたような共助が現代では機能しなくなっています。そこで、社会学や公共政策学で注目が集まっているのが、シェアリングエコノミーです(以下「シェアエコ」と略)。シェアエコとは、ネット上のプラットフォームを介して、個人間で売買や貸借を行うサービスのことです。日本ではまだ普及していませんが自動車のライドシェアのウーバーや、民泊なんかがそうです。小論のテーマは、シェアエコを通して考えるアフターコロナの共助です。

シェアエコはそもそもなぜ広まってきたのでしょうか。昔の日本ではご近所から醤油を借りていました。ムラ社会のよい面ですね。しかし、次第に社会は工業化・資本主義化していきました。そのダイナミズムによって住空間はどんどん都市化していき、結果、人間は孤立していきました。もちろん、資本主義には、地域で孤立しているような人でもお金さえ出せばコンビニで醤油が買えるという利点があります。ただ、そうなると、その社会で「共助」は機能しなくなります。そこへ登場したのがシェアエコです。このシステムの何が素晴らしいかというと、一面識もない人にクルマに乗せてもらうようなことが安全にできるところです。ローカルなムラ社会から切り離されていても、シェア経済の恩恵が受けられるところです。ただ、今、シェアエコには、それに加えて、都市の非人間性や都市生活がもたらす人間の孤独をケアする役割が期待されています。この流れ、ちょっと変じゃないですか?何か気づくことありませんか。

もう一度戻りましょう。日本的ムラ社会はたしかに温かかったけど不自由だった。そして、徐々に都市化するなかで私たちは自由になったけれど、ちょっと景気が悪くなる程度のことで、保育所に落ちると人生詰むような社会になってしまった。そこで、別に仲良くない(知り合いになるつもりさえない)人とでも、プラットフォームを介して助け合えるようにしましょう。これがシェアエコを導入した理由でした。イマココです。ここから、孤独をケアするご近所様コミュニティには戻らないはずなんです。むしろ、ご近所様コミュニティには絶対に戻らない(戻るべきでもない)からこそ、シェアエコが必要とされたはずなんです。「シェア」と「つながり」は本質的に矛盾します。ムラ社会的「つながり」から切り離されていてもシェア経済の恩恵にあずかることができるのがシェアエコの素晴らしいところです。ご近所コミュティ的「つながり」とシェアエコとは、本来は正反対のものなのです。しかし、一見、温かく優しいことを言っているように見えてしまうのでしょう。少なからぬ人が、シェアエコによって実現される人と人の「温かいつながり」こそ、アフターコロナの共助だ、こうやってしまっています。

つながりがないと生きていけない社会と、つながりなんてなくても生きてゆける社会。どちらのほうがよりよい社会でしょうか。「一人も取り残さない教育(世の中)を!」と叫んでいる人(組織)で、これを真摯に考えている人はいるでしょうか。地方出身で、近所に両親が住んでいない共働きの夫婦がいるとしましょう。それで保育園に落ちても、子育てのシェアがあるだけでその夫婦は生き延びることができます。子供の世話をお願いできる友人が近くにいないと人生詰む社会より、ずっと、本当の意味で「一人も取りこぼさない社会」に近いはずです。

友達が多くないと生き残れない社会はディストピアです。今までは「ちょっと子供みてて」とか「空港まで乗せてほしいんだけど」とやっていたとろが、クリック一つでおカネを払えば助けてもらえる。それがシェアエコの素晴らしさです。知り合いからモノを借りるとそれは負債になり徐々に骨がらみになっていきます。人は必要以上に強いつながりに拘束されます。ソーシャルキャピタルがないと生きていけない社会に逆戻りするのは、ムラ社会への退行でしかありません。「人間はソーシャルな存在だ」とか「つながりは宝です」。もっともらしくこう言う人がいます。でも、そういう人によくよくその真意を訊ねると、人恋しい自分を肯定するマジックワードにしかなっていないことがほとんどです。

そもそも、なんで国家や社会が必要なのか。まったく一面識もない、福岡で明太子屋さんをやっているおばあちゃんが、ある日、両腕を骨折して明太子を作れなくなったとしましょう。8ヵ月入院すると失業保険がおります。そのおばあちゃんのことが大好きで、そのおばあちゃんのつくる明太子が大好きで個人的に支援したい。それは素晴らしいことです。でもそれでは社会は成り立たないのです。税金を通じてお金が降りるから社会が維持されるのです。シェアエコによって実現される共助も同じ論理です。心の温かい交流や来歴に一切関係ないから尊いのです。ウーバーの点数制度があるおかげで、見ず知らずの人のクルマに安心して乗ることができます。私たちは、今こそこの逆説についてもっと真剣に考えるべきです。ウーバーの点数制度とは、中国で発達していますが、プラットフォーム上の仕事の相互評価履歴によって、銀行の融資や入れる学校が決まるような制度のことです。この制度の恩恵で、赤の他人のクルマに安心して乗ることができます。

いま地方公共団体が推進している、「〇〇コミュニティづくり」とか「〇〇コミュニケーション」といった類の試みは、そのほとんどが、これまたマジックワードになってしまっています。一口にコミュニティといっても、匿名性の高い緩いものもあれば、連合赤軍みたいな空気を読み間違えたらリンチにあうようなものまで、すべてコミュニティです。大事なのは、こういった場所にはこういうコミュニティが求められていて、そのためにはこういう設計が必要だという、具体的なビジョンのほうです。なんとなくコミュニティが生まれれば寂しさが埋まるでしょうレベルの議論があまりに多すぎるのです。たんに地域コミュニティを復活させるだけでは、イジメとコネ社会の温床になるだけで、副作用が大きすぎます。

とはいえ、人間にとって、心の置き場が必要であるのもたしか。でも、だからこそ、シェアエコの導入によって、私たちは、「生活の必需」と「心の置き場」を徹底して分けることを考えなくてはいけないのです。なんで上司のデフレ居酒屋めぐりに部下が付き合うかというと、それはたんにお金(立場や進退を含む)を握られているからです。だから、お金と関係ないところに心の置き場があれば、嫌なコミュニティから逃げることもできる。以前から社会学では、「地域コミュニティ」から「テーマコミュニティ」へ、と言われていました。ガンダムオフ会、城めぐりの会。テーマはなんでもいいのです。テーマコミュニティの何が素晴らしいかというと生活に紐づいていないこと。嫌なら辞められる。それが人を自由にします。シェアエコは、ソーシャルキャピタルの少ない、若い都市生活者のセーフティネットにはなり得るけど、それ以上のものではありません。あくまでもライフライン。だからこそ、それとはまったく別の問題としてコミュニティケアの問題が発生するのです。コミュニティケアの問題は小論の手に余るので、シェアエコの警戒すべき点にここでもう一歩踏み込みましょう。それは、デジタルレーニン主義の危険性です。

デジタルレーニン主義とは、上で書いたレーティングシステムで進学や就職、銀行の融資額まで決まる社会です。このシステムは、例えば濃厚接触者の行動を記録するなど感染症対策に相性がいいというメリットもあります。今回のパンデミックが、西側諸国のデジタルレーニン主義への軟着陸を促すことは間違いないでしょう。しかし、こうなると、情報を握っているGAFA的な企業と国家の緊張関係は変化することになります。徴税をめぐっても、個人情報に関してもそうです。その結果、GAFAは、社会インフラを担う企業として、重商的に国家へ接近する可能性があります。この動きを、国家と市場の和解と評価するのは危険が大きすぎます。ここに警戒すべきポイントがあります。こうした社会が、インターネットが普及し始めたとき、私たちが望んだ社会でしょうか。きっと違うと思います。私たちは、もっと、精神的、経済的な自由を獲得しようとしていたはずです。

シェアエコに期待されるのはあくまでも社会へコミットする方法の増加です。一元化ではありません。そうすることで、個々(普通選挙とそれ以外)の決定力を相対的に下げることができるからです。シェアエコによってもたらされる「シェア」を「つながり」から分離して考えるのも、社会の決定力を分散することに役立ちます。今回のパンデミックは、本来バラバラであるはずのものを一つのゲームボードにまとめてしまうことのリスクの高さをある意味で証明しました。あるべき仕方で公助・共助・自助へ分散したより自由な社会を目指すことは、コネ社会への逆戻りへのブレーキになります。

そして、究極的には制度の問題なのではありません。どのような制度が、なぜ、どう相応しいのか。性急に結論を出さずに、問いを解体しつつ議論を続ける態度こそが肝要なのでしょう。私たちはどう議論すべきでしょうか。問題についてのコミュニケーション(人間関係)ではなく、問題そのものの解決(ないし解体)を重視できるような世の中の実現を目指すことはいかに可能でしょうか。シェアエコには、きっかけとして、その豊かな可能性があることがお分かり頂けると思います。いまネット上では、議論は、自分では賢いと思っている(だけで実際は思慮深さのない)人を騙して点数を稼ぐゲームになってしまっています。議論は勝ち負けではありません。あくまでも問題の解決と解体。バラバラの個人のままで、一緒に首をひねる。その時間の共有が本当の「つながり」です。人がそれを忘れた瞬間、どんな希望に満ちていたはずのテクノロジー(ここではシェアエコ)であっても、ブレーキの壊れた装置になってしまいます。そうして私たちは無意識に壁の再生産に加担することになります。

シェアリングエコノミーをきっかけとしてアフターコロナの共助について考えてきました。いま私たちに最も必要なものは何でしょうか。それは、繋がっているのだけれどバラバラのままでいい、このビジョンです。私たちは繋がりすぎました。これからはもっと一人でいることに慣れる必要があるのです。その態度がアフターコロナの共助のための第一歩と言えないでしょうか。

(多田圭介)

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