<CrossReview>札幌交響楽団 第640回定期演奏会(執筆:平岡拓也)
クロスレビューでお届けしている札幌交響楽団 第640回定期(60周年記念演奏会)の演奏会評。多田の記事に続いて、今回は平岡拓也のレビューをご覧ください。(事務局)
2021年9月11日(土)、12日(日) 札幌コンサートホールKitara
札幌にバーメルトが帰ってきた。昨年2月以来、約1年半ぶりの再会だという。2020年2月の東京公演で聴いた鮮やかなヴェーベルンとベートーヴェン『第7番』は本誌でも書いたとおりだ。淀みのない引き締まったプロポーションをもった響きは、今でも脳裏に焼き付いている。今回の札響60周年記念演奏会は元来ブラームス『ドイツ・レクイエム』が予定されていたが、大規模な声楽曲の実現にはまだまだ困難が伴い、ブルックナー『第7番』に変更された。緊急事態宣言に伴う座席数の制限こそあったが、まずはバーメルトが無事来日でき、演奏会が開催されたことが祝着であった。(近い将来の『ドイツ・レクイエム』の再プログラミングも祈りたい)
結果的にそうなったとはいえ、シューベルト『未完成』とブルックナー『第7番』という重厚な取り合わせを見ると、聴き手の耳もどこかどっしりとした巨匠の運びを期待してしまいはしないか(少なくとも筆者は自然にそう誘導された)。しかしながら、バーメルトはあくまでバーメルトだった。淡々と、しかし必要な仕事をする。なんの威圧感もない。
突然だが、札響のサウンドはとりたてて「大きい」部類には入らない。シカゴ響の無尽蔵のエネルギーやベルリン・フィルの圧倒的な弦の迫力はない。しかし、この日の札響の音は息を吞むppから天上へ届かんばかりのfffまで、すさまじい幅を有していた。なぜこんなにも拡がりをもって響くのだろう?と聴きながら時折考えていたのだが―恐らく、各パートがよく聴き合い、音色を磨き上げ、その瞬間毎に最良の状態の和音へと導いていたからだろう。美しく和音が融け合う時、オーケストラのサウンドは濁らず、力まずともホールの隅々まで行き渡るからだ。そして、そのような状態にオーケストラを導くのもまた、指揮者の仕事の一つであるはずなのである。(その段階以前の演奏会も決して少なくないのだが!)
札響サウンドの存在感は、『未完成』冒頭の厳粛な低弦から目覚ましかった。アゴーギクは排され、ぶっきらぼう寄りの響かせ方であるのに、彼岸の世界へと招く手が見えるようだ。第2主題も甘さは殆ど感じず、その主題断片で弦が交わす対話(77~85小節)はスタッカートを鋭く強調する。バーメルトは音楽自体に陶酔することを是とせず、厳しく引き締めるのだ。第2楽章始まってまもなく、弦5部と第3トロンボーンがユニゾンで堂々と進行する箇所(33小節~44小節)も明確にスタッカートだが、ここではリズムに幾分重みをもたせており、演奏全体に重量感を与えていただろう。
『未完成』は昔から広く知られる作品だが、実にシンプルで、ゆえに誤魔化しがきかない。そんな楽曲においても必要最低限の味付けで挑むあたり、バーメルトの職人としての腕の確かさが分かるというものだ。味気なく感じる瞬間がなかったのは、木管のハーモニーや弦から管、管から弦の受け継ぎを札響が積極的に美しく彩り、深みを与えたからだ。バーメルトも安心してリズムと声部間バランスの彫琢に専念できたのではないか。
後半のブルックナーにおいても、バーメルトの基本的な姿勢は変わらない。リズム、フレージング、バランス、強弱を精緻に積み上げていく。リハーサルはかなり根気のいるものだったのではないかと推察する。巨大なジグソーパズルのように一つずつピースをはめてゆき、結果として壮麗な伽藍がそびえ立つ。気の遠くなるような作業を、バーメルトと札響は成し遂げた。
前半2楽章は、瞬間毎に「今ここで顕現する奇跡」を目撃するような思いで聴いた。大げさなようだが、こうとしか表現できないのだから仕方がない。第1主題の伸びやかさ、第2主題の地に足のついた推進力と、第1楽章は理想的な運びがいきなり続いた。そして、第3主題開始(123小節)に至るまで、オーケストラは息長いクレッシェンドを続けて視界を広げていくが、バーメルトは終盤のリテヌートを活用しつつ、僅かなパウゼを採った。所謂「ブルックナー・パウゼ」だが、このパウゼを境界としてそれまでの主題による世界が終結し、跳躍を多用した軽妙な第3主題の世界がまた創始される。その切り替えを聴衆に意識させるパウゼなのだ。優れた映画監督のカット割りのように雄弁である。第3主題中では、同一リズムを反復する中での突然のpp(226小節)をしっかりと弾き分けていたのが印象的だ。ブルックナーがあらかじめ譜面に織り込んだ愉しい対比を、バーメルトは見逃さない。
この楽章で初めてティンパニが登場するのは391小節。練習番号W(そう、第2楽章の頂点と同じ「W」なのだ―)で厳かにトレモロを始めるティンパニは、息長くクレッシェンドを続け、哀惜のコーダの支柱としての役割を果たす。この箇所の切々とした表情は忘れ難い。表面的に嘆き身をよじるのではなく、さりげない音色の変化(トレモロの質感も変わった)で内面の悲しみを滲み出させていた。ブルックナーは、楽章終結間際のこの箇所まで、敢えてティンパニを加えていない。それによって、音楽はリズム面で強い楔を打たれることなく、清らかに流れてきた。そこに突如地鳴りのようなティンパニが押し寄せることのインパクトは、絶大だ。
アダージョ楽章は、極北の美といってよかった。ワーグナー・テューバとホルン、テューバの響かせ方はこれ以外ないという確信に満ちたもので、「外す」「外さない」という次元はとうに超え、どこまで美しく響かせられるかを愚直に追及する芸術家集団の真剣勝負に耳をそばだてた。外来オーケストラも含めて、これほどに完璧にハマったこの楽章の実演を聴いたことがあっただろうか?弦楽器はディヴィジの美しさ、自然発生的なうねり、フレージングの収斂と、あたかもゾーンに入ったかのようにどんどん磨き上げられていく。バーメルトと札響が眼前で奏でているはずなのに、その存在が徐々に消え去って音楽だけが残るような感覚に陥った。その奇妙な感覚から現実に引き戻されたのは、打楽器が加わる頂点Wの直前、172小節におけるヴァイオリン群の切り裂くようなハイポジションのHの音を聴いた瞬間だった。この時、バーメルトの自我を感じたようにも思ったのだが―帰宅後楽譜を開くと、ここにはgestrichen(はっきりと弾いて)。彼はここでもまた、楽譜の指示を活かしただけだった。
リズムを精緻に重ねて、大柄になりすぎず進行するスケルツォ楽章を経て、第4楽章。ノヴァーク版は煩雑なまでにテンポ変化の指示が書き込まれているが、バーメルトは練習番号W(275小節。またもや「W」か!)の変化指示には相当忠実に従っていた。「楽譜の指示だから」という表層的な理由ではなく、音楽の推進力・弾力を得るための必然として、彼はテンポ変化を使いこなし、全身の律動でも表現していた。そうしてもたらされたリタルダンドとア・テンポの対比は実に雄弁で、この他にない、という説得力を帯びた。コーダに入ってもつい先ほどのテンポ変化の余韻は続いているようで、雄大に曲を締め括るというよりはオーケストラ全体が軽やかにスキップするように駆け上った。
札響とバーメルトは、また一つ階段を上ったのではないか。国内・海外オーケストラという区分はもはや意味がなく、純粋に理想的なブルックナー『第7番』がKitaraに現出し、それに立ち会ってしまった、という感情だけが残った。感極まって泣きじゃくるような部類のものではなく、その成果に「ああ…」と茫然自失するしかなかった。コロナ禍で分断された首席指揮者と楽団が久々の再会を果たし、渾身の力で演奏会に取り組んだからなのか、あるいは他の要因があったのか。真相は分からない。ただ間違いないのは、この組み合わせで他のブルックナー(とりわけ来日中止で流れた『第8番』は是が非でも復活を願いたい)作品が取り上げられるとなれば、筆者は間違いなくまた札幌へ飛ぶだろう、ということだ。衝撃的な2日間だった。
(平岡 拓也)
<著者紹介>
平岡 拓也(Takuya Hiraoka)
1996 年生まれ。幼少よりクラシック音楽に親しみ、全寮制中高一貫校を経て慶應義塾大学文学部卒業。在学中はドイツ語圏の文学や音楽について学ぶ。大学在学中にはフェスタサマーミューザKAWASAKIの関連企画「ほぼ日刊サマーミューザ」(2015 年)、「サマーミューザ・ナビ」(2016 年)でコーナーを担当。現在までにオペラ・エクスプレス、Mercure des Arts、さっぽろ劇場ジャーナルといったウェブメディア、在京楽団のプログラム等にコンサート評やコラムを寄稿している。
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