札幌劇場ジャーナル

【STJ第7号掲載】(公社)日本バレエ協会 北海道支部 第40回記念公演 「白鳥の湖」レビュー(執筆:多田圭介)

さっぽろ劇場ジャーナル第7号の完成記念に、紙面に掲載している記事の一部をWebでも公開いたします。第三弾は、6-7面のバレエ&オペラコーナーより、今年2月にhitaruで開催された「白鳥の湖」のレビューをご覧ください。記事の最後に主催者さまからお寄せいただいた特別メッセージも掲載しています。(事務局)

序曲が始まり幕が上がると、黒色の衣装を纏った少女が死の床に臥している。そこへ父親と思しき男性が現れ少女の死を嘆く。その男性は、悪魔に身体を売り渡し、その引き換えとして手に入れた魔力で少女を蘇らせる。白鳥のモチーフがオーケストラによって最強奏され場内に稲光が走るさなか、少女は目覚め、死の床からゆっくりと起き上がる。本公演では、この男性こそがロットバルト、そして少女はロットバルトの愛娘である黒鳥のオディールという設定だった。ロットバルトは娘の幸せを想いジークフリート王子との結婚を望む、一人の男性として描かれた。振付演出は篠原聖一。篠原は「白鳥」に原作では描かれていないロットバルトの「人生」を読み込んだ。

撮影:フォトワークス 西岡克浩

ロットバルトには元来、内面がない。来歴はもちろんすべての情報が空白の存在である。その過去が空白であるのと同様に目的も空白だ。彼の目的は権力奪取でも金銭でも、もちろん社会正義でもない。何もない。あらゆる目的が空白なのがロットバルトである。強いていうなら、ただ「世界が燃えるのを見たい」、つまり悪そのものが目的である。だからロットバルトは強い。現代は誰も父になることができない時代である。あらゆる立場が相対化され、あるのは小さな正義の無数の林立だけだ。正義なき時代には同時に悪も存在しない。正義が存在しない現代において、破壊それ自体を目的化するロットバルトは極めて現代的な超越の可能性を秘めている。ロットバルトとは映画「ダークナイト」でノーランが描いた9.11以降の正義なき時代の超越者、ジョーカーに近いポテンシャルを秘めているのだ。同作で目的を持ち小さな正義を執行しようとする人物はことごとくジョーカーに翻弄される。ジョーカーは目的を持たないがゆえに最強なのだ。

撮影:フォトワークス 西岡克浩

だが、篠原の演出ではこのロットバルトが持つ現代的なポテンシャルがすべて引き算された。ロットバルトは、理解できる、共感できる一人の男性として父であろうとする。筆者は幕が上がってすぐこれは作品のポテンシャルの矮小化ではないかと感じた。だがエンディングで篠原の意図が理解できた気がした。第4幕の最後で、オディールと王子が湖に投身すると、コールドバレエの白鳥たちが一斉にロットバルトを羽で責め立てる。堪えかねたロットバルトも湖に身を投げる。現代における超越性を剥奪された(目的を持たされた)ロットバルトはやはり弱かった。相対的に大きいだけの正義(人数という)の前に相対的に小さいロットバルトは敗北する。ダークナイトでいえば、失われた父性を回復しようとするトゥーフェイスが誰にも勝てないのと同じように。篠原が再構成した「白鳥」は現代における失われた父性とその仮構の不可能性をその臨界点までを正しく描いてしまったように思える。ジョーカー=ロットバルトなき世界で、等身大の人間として、過去のトラウマを抱え、ファミリーロマンスによる父性の回復を願う。それはたしかに個人の自意識に閉じ籠ることによる、世界、社会の描写の放棄ではある。だが、だからこそ、篠原がこの臨界点から次に見せる世界に期待が膨らむ。

撮影:フォトワークス 西岡克浩

さて、公益社団法人日本バレエ協会北海道支部の第40回記念公演と銘打たれた本公演は、同団体として初のダブルキャストによる2日公演だったという。両日完売で筆者は2日目に観劇したがほぼ満席だった。舞台、セット、バレエ、音楽、いずれも首都圏の常設団体の定期公演に引けを取らない水準だった。ピットに入ったオケはカンマーフィルハーモニー札幌で、指揮は磯部省吾。すばらしく物語を盛りたてた。第2幕、オデットが王子に身の上話を語る2/2拍子の箇所で、オーケストラは切々とオデットの感情を語る。加速し疾走するのが常の箇所だけに印象深い。また、第3幕で王子がオディールに魅了されるときの王子の心が高鳴るような弦のトレモロも素晴らしく生きていた。

2日目にオデット/オディールを踊ったのは川島麻実子。川島は痩身だが、全身を駆使して雄弁に物語る。ときに両の拳を握り身の上を訴えるオデットは、抒情性よりも強さを思わせる。オディールよりのオデットといえる。オディールのときも、よくある凶悪の相を露わにして悪魔とこれ見よがしに目配せするリアリティのないオディールではない。もっと観客の目から見てもオデットの面影を汲み取ることができ、そして王子が一目ぼれしてしまうのに納得のいく優美さを持っている。オデットでもオディールでも、顎を高くあげ、また引いているときも目線が高く、強く上昇する意思的なラインを感じさせた。

撮影:フォトワークス 西岡克浩

また、道化の高橋真之のジャンプの高さ、表現力が際立っており、カーテンコールの際に一際大きな拍手を浴びた。他に筆者が注目したのは第1幕パ・ド・トロワの女性第1バリアシオン(Es-dur、2/4、Allegro semplice)だった。主催に問い合わせると、郷翠(ごう みどり)という踊り手だそうだ。彼女の体重を感じさせない静止の美には魅了された。ぜひ彼女のソロで空気の精、ラ・シルフィードを観てみたいと思った。

当日までコロナ禍で思うように練習時間が確保できず苦労したのだそうだが、ほとんどそれを感じさせない舞台だった。それは本公演ではコールドの幾何学的な均整の美によく表れていた。これがあったからこそ、エンディングでの白鳥の群れによるロットバルトへの怒涛の攻撃がカタルシスをもたらした。思えば、冒頭とエンディングを読み替えただけで、他は概ねプティパ=イワノフ版に従ったスタンダードな舞台だった。それだけで作品の世界をこれほど激変させるというのは古典の舞台作品の演出の秘めたる可能性を示したように思える。

(多田圭介)

主催者さまからメッセージをいただきました

第40回記念公演に寄せて 

(公社)日本バレエ協会北海道支部 運営委員 真下百百子さま

年一回で開催してきた「全道バレエフェスティバル・イン・サッポロ」も、第40回を迎えました。第1回は札幌市民会館からスタートし、教育文化会館、厚生年金会館(ニトリホール)を経て、2018年には札幌芸術文化劇場hitaruのオープニング事業で「ドン・キホーテ」全幕を上演。そして、コロナウイルス感染拡大の影響で2年延期をした今回は「hitaruバレエプロジェクト」のプレ公演として「白鳥の湖」全幕を共同開催させていただきました。

「白鳥の湖」は古典バレエの代表作ですが、大人数のダンサーに舞台美術・衣裳・オーケストラなど大がかりな舞台となるため、大きなバレエ団以外では全幕上演されることの少ない演目です。観る機会がないということは、踊る機会もないということ。長くバレエを習っていても「白鳥の湖」に全く触れないままバレエ人生を終えてしまう子もたくさんいます。

今回、コロナ禍にありながら「白鳥の湖」を全幕上演できたことは、出演者・制作側にとってはこの上ない喜びでした。と同時に、ご来場の皆さまにとりましても、生での舞台鑑賞は久しぶりに「心の動く体験」だったのではないでしょうか。

初めて「白鳥の湖」に出演した子たち、初めて「白鳥の湖」を鑑賞した子たち、それぞれ大きな刺激を受け、新たな夢に向けて日々レッスンを続けています。「全道バレエフェスティバル」はこれからも、この白鳥のヒナたちが羽ばたいていける場でありたいと思っております。

((公社)日本バレエ協会北海道支部 運営委員 真下百百子)

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