札幌劇場ジャーナル

【特別寄稿】今に生きる受難の物語‐武尾和彦が聴く受難曲(執筆:武尾 和彦)

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INDEX

はじめに
1.受難曲を聴く本質的な魅力
2.受難曲の聴きどころ(1)三層構造
3.受難曲の聴きどころ(2)福音書記者(エヴァンゲリスト)
4.受難曲の聴きどころ(3)コラール
5.キリスト教信者でなくても受難曲は理解できるか
6.受難曲の名盤10選

はじめに

キリスト教会の暦では、毎年春分後最初の満月の次の日曜日(今年2022年は417日)をキリストの復活を記念する復活祭(イースター)と定め、その前々日の金曜日をイエス・キリストの十字架上の死を記念する日(聖金曜日、受難日)としている。この時期、現代でも受難曲の演奏などが行われることが多い。今回、受難節にあたり機会を頂いたので、受難曲の魅力などについて筆者の思うところをまとめてみた。

もとより筆者は音楽の専門家ではないが、一受難曲ファンとしての視点からその魅力や聴きどころなどの一端を述べることで、少しでも受難曲が広く聴かれることの糸口となれば幸いである。

なお、受難曲の歴史や様式、バッハの受難曲等については、礒山雅氏の『マタイ受難曲』(ちくま学芸文庫、初出は1994年東京書籍刊)、『ヨハネ受難曲』(筑摩書房、2020年)の両著書が明快かつ詳細に述べているので、ぜひ参照されたい。

1.受難曲を聴く本質的な魅力

キリスト教の教義では、イエスの十字架上の死は人類の罪を贖うための供え物[1]であり、旧約宗教においては過越の犠牲として子羊の血が流されるのに対し、新約では罪なきイエスの犠牲の血によって人類の罪が贖われるとする。しかもその死は他の死に方ではなく十字架の死でなければならなかった。なぜなら十字架は神の呪いのしるしであり[2]、イエスは全人類に代わって神の呪いを一手に引き受けることによって人類を罪から解放したとするからである。この「キリストの十字架の犠牲によってのみ人類と神との和解が成立する」という教義はキリスト教会が死守すべき根本教義であり、受難音楽は教会音楽に携わる者にとって最も心血を注ぐべき分野と言えるだろう。実際、作曲家にとって受難曲がその代表作であることは多く、単にエッセンスというのにとどまらず、その作曲家の心の最も深い所から湧き出る音楽の神髄が盛り込まれていると言っていい。またその意義はひとり作曲する者の側にあるのではない。受難曲は聴く者ひとりひとりの内面に必ず存在する罪の問題に触れてくる[3]。受難曲に接する時、私たちは自分の内面の罪と向き合い、自分の人間存在としての本質に思いを致さざるを得ない。しかし、受難曲の目的は罪の自覚を促すとともにその罪からの赦しを語るところにある。どうしようもない自分、醜い自分。それにもかかわらず、そのような自分でも生かされていることを強く思うのだ。筆者はそこに受難曲を聴く本質的な魅力を見出すのである。


[1]「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(新約聖書「ローマの信徒への手紙」3章25節。以下聖書の引用は日本聖書協会『聖書 新共同訳』による。)

[2] 「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。」(旧約聖書「申命記」21章23節)、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。」(新約聖書「ガラテアの信徒への手紙」3章13節)

[3] 受難曲が扱う「罪」は直接的には神に背くことである。しかし、他者に対する憎しみ、妬み、嫉み、蔑みといったものもみな「罪」である。あるいは、いざ自分の身に危険が迫るとイエスを否認するペテロや、自らの保身のためにイエスを有罪に定めるピラトのようなことも、誰の身にも起こり得るのではないだろうか。

2.受難曲の聴きどころ(1)三層構造

受難曲を構成するテキストは、(1)福音書記事、(2)自由詩、(3)コラール(会衆讃美歌)の三つの層に分類することができ、作品によってそのいずれか、または全部が存在する。

礒山雅氏はこの三層構造を

福音書記事……客観的報告としての「彼」

自由詩  ……主体的省察としての「われ」

コラール ……共同体的応答としての「われわれ」

と捉えている[4]。また、鈴木雅明氏はバッハの受難曲のテキストの三層構造を

福音書記事……聖書の時代

自由詩  ……バッハの時代

コラール ……現代(聴く者にとっての)

と時間的構造としても捉えている[5]。もちろんこれらの考えは背反するものではなく共存できるものである。

この三層構造を効果的に用いているのはやはりバッハの受難曲である。例えば、《マタイ受難曲》第3840[6]の「ペテロの否認」の場面では

第38曲……「マタイによる福音書」26章69~75節の記事

第39曲……アルトのアリア「憐れみたまえ」(ピカンダーによる自由詩)

第40曲……コラール「たとえあなたから離れても」(ヨハン・リストによるコラール)

というように、漸進的に聴く者の内面に迫ってくるように配列されている。この構造を踏まえて聴くと、ペテロの否認の物語は実は聴く自分の内面の物語であることが迫ってくるのである。(ちなみに、ペテロの否認の物語はドラマティックであるせいか、どの作曲家も力を入れ工夫を凝らして作曲している。ある意味受難曲中随一の聴きどころと言ってもいいかもしれない。)

このように、受難曲を聴く際には、聴く主体としての自分が今どの層に接しているのかに注意を向けるとその理解が深まると思う。


[4] 『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』(講談社学術文庫、初出は1985年東京書籍刊)

[5] 2022年3月10日、ミューザ川崎シンフォニーホール主催の講座「鈴木雅明が語る《マタイ受難曲》」。なおこのレクチャーの内容は加藤浩子氏のレポートによって下記のサイトから閲覧できる。
https://www.kawasaki-sym-hall.jp/blog/?p=14717
https://www.kawasaki-sym-hall.jp/blog/?p=14757

[6] バッハの受難曲の曲番号については「新バッハ全集」(Bärenreiter版スコア)によった。

3.受難曲の聴きどころ(2)福音書記者(エヴァンゲリスト)

受難曲を聴く愉しみ(と言っては不謹慎かもしれないが)の一つは福音書記者がどのような語りを聴かせるかである。

前項の三層構造の(1)福音書記事のうち、登場人物の会話文など以外、いわゆる地の文を語るのが福音書記者(エヴァンゲリスト。「福音史家」とも訳される)である。

受難曲の歴史の中で、その役割が分担化されるようになってから、福音書記者は伝統的にテノール歌手に割り当てられてきた。福音書記者の語り次第で、受難曲の演奏は生きもすれば死にもする。重要な役どころである。

福音書記者は物語の進行を司る役であるから、何よりもディクションが明晰でなければならない。加えて、よく通る声が必要とされる。もちろん、音程の正確さなど技巧の確かさも欠かせない。そして、いわゆるナレーターであるのだから前面に出過ぎてはいけない。控えめで客観的な歌い方が必須である。かといって全く棒読みのような福音書記者も味気なく、物語の内容に沿った微妙なニュアンス付けも求められる。こうした条件を備えた優れた福音書記者の語りに出会うと、受難曲を聴く無上の喜びを感じる。

筆者が惹かれる名エヴァンゲリスト歌手を何人かあげておこう。

エルンスト・ヘフリガー
柔和で温かみのある声。真摯で心をこめた語りには思わず襟を正したくなる。カール・リヒター指揮《マタイ》(1958年録音)のひたむきな語りがいい。

ペーター・シュライヤー
20世紀を代表するエヴァンゲリスト歌手。その語りの正確さと訴求力は傑出している。多くの録音で歌っているが、筆者が最も好むのはルドルフ・マウエルスベルガー指揮《マタイ》の端正で歯切れよい語り。カール・リヒター指揮《マタイ》の映像も、真っ直ぐカメラ目線で語る姿にぐいぐい引き込まれる。

クリストフ・プレガルディエン
この人こそ筆者の考える最も理想的な福音書記者である。よく通る澄んだ声、美しいディクション。決して出しゃばらず客観的な語り手役に徹するも、場面場面に応じた絶妙なニュアンスが聴く者を自然に受難の物語に誘い入れる。グスタフ・レオンハルトとニコラウス・アーノンクールという2人の古楽大家の《マタイ》に起用されている。最近は息子のユリアンも優れたエヴァンゲリスト歌手となっている。

ゲルト・テュルク
バッハ・コレギウム・ジャパンのソリストとして毎年のように来日し、筆者が最も多く実演を聴いた福音書記者。伸びのある美声と正確なディクションで物語を明確に形作る。鈴木雅明、ホス・ファン・ヘルトホーフェン等の録音に起用されている。

国内歌手では櫻田がよく通る声と明晰なディクションで群を抜いている。「さっぽろ劇場ジャーナル」の読者の方なら、201910月マックス・ポンマー指揮札幌交響楽団定期演奏会《ヨハネ受難曲》の名唱を記憶している方もおありだろう。

4.受難曲の聴きどころ(3)コラール

当時の教会で歌われていた会衆讃美歌を採り入れたもの。コラールは宗教改革者マルティン・ルターが会衆も積極的・主体的に礼拝に参加できるように導入したもので、受難曲が初演された当時の会衆にとってなじみの深いものだった。旋律はもちろん、歌詞までそらんじていた会衆も多いと思う。当時の会衆は、初めて聴くアリアなどの後にコラールが出てくると、「あ、この曲知ってる」と親しみを覚え、ほっとしたであろう。それだけに、聴く者の意識に最も近い所にあると言える。前前項の「三層構造」のうちの第3の層であり、「われわれ」ととるにしても「現代」ととるにしても、聴く者が最も積極的に関われる層である。

特にバッハはコラールの挿入の仕方が絶妙であった。一つ例を挙げれば、《マタイ受難曲》第9曲。イエスが弟子の裏切りを予告すると狼狽した弟子たちが「主よ、私ですかHerr,bin ichs?」と口々に尋ねる。そこへすかさずバッハは第10曲「私です、私こそ償うべき者ですIch bins,ich sollte büßen」とパウル・ゲルハルト作のコラール「おお世よ、見よ、ここでおまえの命が」の第5節を挿入する。「bin ichs?」という問いに「Ich bins」と答えるということは、とりもなおさずキリストの受難の責任が他ならぬこの私の罪にあるという告白である。当時の会衆はよく親しんだこのコラールを聴くに及んで、受難のメッセージを自分のものとして受け取ったであろう。

また、《ヨハネ受難曲》は終曲に《マタイ》と同じような3/4拍子の合唱曲を置いた後、さらにマルティン・シャリング作のコラール「心から私はあなたを愛します、おお主よ」の第3節を置く。このコラールは当時葬儀などでよく歌われて親しまれていたようで、歌詞は明らかに復活を待望する内容である。つまりバッハはイエスの埋葬にふさわしいコラールを選びつつ、受難曲を悲しみだけで終わらせるのでなく、復活の希望を会衆一同が共有する形で終わらせるのである。筆者は《ヨハネ受難曲》を聴き終わるに及んで天の窓が開かれたような得も言われぬ清々しい感動を覚える。また、この終曲コラールがあるが故に《マタイ》より《ヨハネ》の方に惹かれる、と言う人を何人も知っている。

礼拝におけるカンタータや受難曲などの演奏において、コラールの部分を会衆も一緒に歌ったかどうかには諸説ある。しかし、たとえ演奏に参加するのでなくても、心の中で歌っていた会衆はいたであろうし、筆者もそうである。もちろん筆者はドイツ語のコラールの歌詞を全部そらんじているわけではないので、そういう場合は日本語の讃美歌の歌詞を心の中で歌う。そうすることによって受難曲が語るメッセージを自分の中に新たにするのだ。

読者諸氏にも、受難曲を聴く際にはもとのコラールを知り親しむことをお勧めしたい。ドイツ語のコラール集を手に入れるのはそう容易ではないが、一般に教会で使われている日本語の讃美歌集[7]にもコラールは多く採り入れられており、それならば簡単に入手することができるので、手元に置いておくと受難曲をより意義深く聴けると思う。


[7] 例えば日本基督教団出版局刊行の『讃美歌21』には多くのコラールが収録され、このパウル・ゲルハルトのコラールも295番に「見よ、十字架を」のタイトルで収められている。

5.キリスト教信者でなくても受難曲は理解できるか

さて、前項のようなコラールの意義を説くと、きっと読者諸氏の中には「それではキリスト教の信仰を持っていなければ受難曲を理解できないのではないか」という疑問を抱かれる方がおありだろう。

キリスト教の信仰を持っていなくても教会音楽を理解できるか。これは永遠の課題と言っていい。筆者も何回となくこの疑問を投げかけられたことがある。

この問いに対しては、筆者は「理解できます」と答えたい。なぜなら、信仰は人間の個々人の心の持ちようの問題ではないからである。信仰は神からの働きかけによるものだからである[8]。たとえクリスチャンや求道者でなくても、受難曲から、いやもっと広く教会音楽全般から真剣に何かを聴き取ろうとする時に、必ずや神からの働きかけがあるのである。喩えて言えば、神からの働きかけ―それは教会的には「聖霊」の働きという―が電波のようなものであるならば、「何かを聴き取ろうとする心」がアンテナである。このアンテナが電波をキャッチした時に、そこに単なる情緒的反応にとどまらない理解が生まれる[9]。筆者はキリスト教信者でない方が《マタイ受難曲》や《ヨハネ受難曲》を聴いてポロポロ涙を流す姿を何度も目撃している。そういう時、その人に神からの働きかけが強く臨んでいることを実感する。

ただし、キリスト教信仰を持っていなくとも、聖書の知識はある程度あった方がより理解が深まるのも事実である。


[8] 「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(新約聖書「コリントの信徒への手紙一」12章3節」)

[9] 「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(新約聖書「ヨハネによる福音書」14章26節)、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。」(同16章13節)。

6.受難曲の名盤10

最後に筆者が推す受難曲(典礼音楽としての受難曲だけでなく、受難オラトリオ等を含む)の名盤を10点挙げて、読者諸氏の参考に供したい。演奏者が重複しないように選んだ。また、受難曲の名盤の中には現在入手困難なものも多いが、ここでは入手可能なものに限定した。

①ハインリヒ・シュッツ(1585~1672)/《十字架上の七つの言葉》SWV478、《ヨハネ受難曲》SWV481
ポール・ヒリアー指揮、アルス・ノヴァ・コペンハーゲン

録音時期:2009
レーベル:Dacapo
カタログNo.8226093

《十字架上の七つの言葉》は4つの福音書に散らばるイエスの十字架上の七つの発言をまとめた、いわゆる調和受難曲。器楽を伴った進歩的なスタイル。一方《ヨハネ受難曲》はアカペラでしかも福音書記事のみをテキストとする厳しく古風なスタイル。しかしどちらも豊かな表現力を持つ。こうしたシュッツの世界にはヒリアーの研ぎ澄まされた感性がふさわしい。

②ディートリヒ・ブクステフーデ(1637~1707)/《われらがイエスのお体》BuxWV75
セバスティアン・ドゥセ指揮、アンサンブル・コレスポンダンス

録音時期:2020年
レーベル:Harmonia Mundi
カタログNo.HMM902350-1

イエスの足、膝、手、脇腹、胸、心臓、顔の七つの部分に呼びかけ想いを寄せる連作受難カンタータ。各曲は器楽によるソナタ、教会コンチェルト風の声楽曲、アリアなどからなる。近年ブクステフーデの作品の中でとみに人気が高くなり、毎年のように新録音が出ている。ドゥセの新録音はブクステフーデの甘美な面を遺憾なく引き出している。

③ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685~1759)/《ブロッケス受難曲》HWV48
リチャード・エガー指揮、アカデミー・オブ・エンシェント・ミュージック

録音時期:2019
レーベル:Academy of Ancient Music
カタログNo. AAM007

ハンブルクの宗教詩人B.H.ブロッケスが書いた受難オラトリオ台本は人気が高く、テレマンやカイザーなども作曲している。当作品はいかにもヘンデルらしい大らかさとアリアの美しさを備え、オペラ的にドラマが進行する。エガーの新録音は演奏自体の清新さに加え、異稿の録音や資料満載のブックレットなど学術価値も高い。

④ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)/《マタイ受難曲》BWV244
カール・リヒター指揮、ミュンヘン・バッハ管弦楽団&合唱団

録音時期:1958
レーベル:ARCHIV
カタログNo.UCCA-5064-6

《マタイ》演奏史のエポックメーキングたる歴史的名盤。その峻厳さと集中力は比類なく、聴く者に強く訴えかけてくる。一番の聴きどころは第63曲「ほんとうにこの人は神の子だった」。わずか2小節ほどの合唱に1分近くをかけて大きなうねりのような盛り上がりを作り、この信仰告白が《マタイ受難曲》の頂点であることをはっきりと示している。

⑤ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)/《マタイ受難曲》BWV244
グスタフ・レオンハルト指揮、ラ・プティット・バンド

録音時期:1989
レーベル:Deutsche Harmonia Mundi
カタログNo. BVCD-34051-3

オリジナル楽器による《マタイ》の最もピュアなイメージを具現化。明鏡止水という言葉がぴったりの演奏だ。器楽ソロの冴え冴えとした妙技もいいが、やはりこの録音の最大の聴きどころはクリストフ・プレガルディエンの福音書記者。あらゆる録音の中で最高のエヴァンゲリストだろう。最盛期のルネ・ヤーコプスのカウンターテナーも素晴らしい。

⑥ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)/《マタイ受難曲》BWV244
ラファエル・ピション指揮、ピグマリオン

録音時期:2021
レーベル:Harmonia Mundi
カタログNo. HMM902691

この23年、「新世代古楽」とでも言いたいような《マタイ》の新録音が次々と出ているが、その極めつけがこれ。とにかく音楽に生命感があって美しい。通奏低音の多彩さなどは特筆だ。しかもただ感覚的に美しいのではなく、輪郭が明晰で言葉の抑揚が生きている。ユリアン・プレガルディエンが父クリストフ譲りの清冽な福音書記者を務めている。

⑦ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)/《ヨハネ受難曲》BWV245
鈴木雅明指揮、バッハ・コレギウム・ジャパン

録音時期:2020
レーベル:BIS
カタログNo. BIS-2551

《ヨハネ受難曲》は《マタイ》に比べてよりドラマティックな性格が強いが、その劇性が極限まで発揮されたのがこの録音。ヨーロッパ・ツアーの途中でコロナ禍のために次々と都市がロックダウンに追い込まれる中、閉鎖寸前のケルンで行われたレコーディング。その緊迫感がはからずも《ヨハネ》の劇性をさらに高めている。言葉と音楽との関係への飽くなき追求も特筆される。

⑧ヨハン・セバスティアン・バッハ(1685~1750)/《ヨハネ受難曲》BWV245
ジョン・バット指揮、ダニーデン・コンソート

録音時期:2012
レーベル:Linn Records
カタログNo. CKD419

18世紀前半のライプツィヒにおける聖金曜日の礼拝の再現を試みたもの。受難曲とともにオルガン前奏曲や会衆のコラールが収録されているが、特に当時受難曲演奏の後に決まって歌われていたヤコブス・ガルスのモテット《見よ、義人が死にゆくさまを》の美しさは格別だ。受難曲の「生活の座」を追体験できる。演奏自体も緊張感に満ちている。

 ⑨ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)/《オリーヴ山のキリスト》作品85
サイモン・ラトル指揮、ロンドン交響楽団

録音時期:2020年
レーベル:LSO Live
カタログNo. LSO0862

オリーヴ山(ゲツセマネの園)で迫り来る十字架の恐怖に悶え苦しむキリスト。しかし「汝の敵を愛せよ」という自らの教えを思い、全人類の救済のために苦悩を克服し勝利の歓喜へと向かう決意をする。受難オラトリオでありながら完全にベートーヴェン的理念の世界。伝統的にバスに割り当てられてきたイエスがテノールで歌われるのもイエスを「英雄」と見る考えの表れか。これをシンフォニックに構成したラトルの造形が鮮やか。

 ⑩クシシュトフ・ペンデレツキ(1933~2020)/《ルカ受難曲》
ケント・ナガノ指揮、モントリオール交響楽団

録音時期:2018年ザルツブルク音楽祭ライヴ
レーベル:BIS
カタログNo. BIS-2287

 1966年に作曲された20世紀を代表する受難曲の一つ。ルカ福音書に旧約聖書の言葉などを織り込んだテキストによる。トーンクラスターや十二音技法といった現代手法を用いつつ、形式はバッハの受難曲に倣い、ため息音型やB-A-C-H音型の使用など、伝統と現代を融合しより普遍的な世界を目指す。ナガノ指揮の当録音は高い解像度がこの曲の情報量の多さを雄弁に物語っている。

(武尾 和彦)


<著者紹介>

武尾 和彦(Kazuhiko TAKEO)

青山学院大学文学部卒業、同大学院修了。高校生の時から教会でオルガンを弾き、大学では聖歌隊に所属し学生指揮者を務め、以来教会音楽に親しんできた。現在、キリスト教系の学校で教鞭をとる。

 

 

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