札幌劇場ジャーナル

カンマーフィルハーモニー札幌 第11回演奏会 with 成田達輝 レビュー(9月3日@札幌コンサートホールKitara小)執筆:多田 圭介

2018年に本紙を創刊した頃、それまではあまり触れる機会がなかった地元札幌の団体の公演に努めて足を運ぶようにしていた。そのなかでひときわ筆者の心を捉えたのがこのカンマーフィルハーモニー札幌だった。放たれたら最後、消えるしかない「音」を、彼ら自身が真剣に味わい尽くし、楽しもうとする姿勢。たった一回の本番を少しでもよいものにするためならどんな努力も厭わない(おそらく本人たちは努力だと思っていない)パッション。それがカンマーフィルの魅力であるとすぐに気づいた。気になった筆者はその後、主宰のメンバーにインタビューを申し込み、紙の第5号(20203月発行)で特集も組んだ。その間も、彼らの舞台には欠かさず顔を出した(20201月開催の定期は行けなかった)。本番のたびに、彼らの音楽は一歩ずつグレードアップした。弦の響きの倍音の豊かさ、管の安定感、正確さ、互いによく聴き合った合奏、いずれもが毎回、長足の進歩を遂げた。その最高の成果が今回の第11回定期となった。色んな偶然が重なったこともあるが、この定期は恐らくは彼ら自身にとっても特別なものになったことと思われる。

そもそも今回の定期は、当初は2020年の6月に予定されていた。だが例によって中止を余儀なくされており、やっとのことで開催に漕ぎ着けたのだ。その間、世界はコロナ・ショックに揺れ、あのオリ/パラの狂騒が駆け抜けていった。だが、世間の動揺を余所に、彼ら/彼女らの情熱が変わることはなかった。いや、メンバーの大変な心労をよそにこう言うのはやや憚られるが、この2年は彼らの音楽に力を与えた。いや、正確にいうなら力に変えたというべきか。

繰り返すがこの定期は特別なものになった。そこにはもう一つキーポイントが噛んでいる。ソリストの成田達輝である。カンマーフィルの主要メンバーと成田は、札幌のHBCジュニアオーケストラで共に育った仲であり、その縁もあって、第3回定期(20168月開催)では、シベリウスの協奏曲で共演を果たしている。成田も、この団体の魅力とポテンシャルにすぐに気づいたようで、再度の共演を望んだという。そうしてやっと実現するはずだった再共演が、中止になった20206月の定期だったのだ。そのとき予定されていた曲目がそのまま持ち越されて、やっとの開催となった。

思えば、成田の音楽にはカンマーフィルと共通点がある。それは舞台上の本人が誰よりも音楽を楽しみ、一回一回の本番で完全燃焼するところである。成田ほど忙しくなると、ほとんどの場合で「抜く」というか「流す」本番が出てくるものだ。演奏家とはそういうものだ。だが、成田にはそれがない。見ているこっちが心配になるほど毎回全力で燃焼する。成田とカンマーフィルに響き合うものがあったのはおそらくこういったところだったのだろう。

撮影:hiroki TAKEUCHI

撮影:hiroki TAKEUCHI

成田についてもう少し述べたい。今、彼と彼よりもう少し上の世代の日本のヴァイオリニスト達のレベルは凄まじいものがある。筆者の心を捉えて離さないのは、強靭で剣豪のような郷古廉、ビロードのような深みを聴かせる白井圭、バロックヴァイオリンの世界をさらに先へ進めようかという原田陽、そして洗練を極める成田達輝。(他にもたくさんいるが)彼らはつい20~30年前までは想像ができなかった世界を切り拓いている。その中でも成田は、「内面の完全燃焼」と「外面の洗練」が比類のない仕方で結びついている。成田の音楽は、その洗練された外面からは想像し難いほど、実はギリギリまで攻め込むのが常である。だが、その外観がほんの僅かでも崩れることは決してない。分かりやすく歌い崩したり情緒に耽溺することが絶対にないので、人によってはクールで澄ましているように聴こえる人もいることだろう。だが、目を凝らし、耳を澄ますと、厳しく鍛え上げられた白銀の造形から、もうミリ単位の、いやミクロン単位の無限の表情が、心の襞を染め上げるように襲いかかってくる。これが本物の洗練でなくてなんであろうか。

おっと。成田について書くと止まらなくなってしまう。定期に戻ろう。当日のプログラムは、ワーグナーのジークフリート牧歌、ドビュッシーの小組曲、休憩を挟んでソリストに成田を迎えたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。

ジークフリート牧歌は、ワーグナーが妻コジマへの贈り物として作曲した作品。冒頭の「愛の平和」の動機が繰り返されただけで目頭が熱くなった。ごく静かに、だが震えるような感動をもって始まった。ホルンの「恋の絆」の動機も、素晴らしく安定している。弱音が指定されており、本当に難しいのだが視界が開けるようだった。そこへ重ねられる木管の「鳥の声」の愛らしさ、ついにハ長調に転じトランペットが重なる内的な充実。心がこもり切っている。

撮影:hiroki TAKEUCHI

ドビュッシーの小組曲(ビュッセル編)もよかった。最初のフルートのソロの、可憐で清澄な響きにまず耳を奪われた。奏者は竹内紫。前のワーグナーでも何度か惹きつけられたのだが、彼女の澄んだ手触りの豊かな音と伸びやかで明快なフレージングは本当に素晴らしい。別の機会に独奏や室内楽でも聴いてみたいと思った。それに、その主題にそっと彩りを添える弦の漸強弱の詩情豊かさ。第2曲、フルートからオーボエへ引き継がれる平行3度の主題の可憐さ、木管の充実にワクワクする。第3曲のメヌエットでは、ヴァイオリンの冒頭の主題が素晴らしく高雅。冷たい音がする。おそらく、近くこのコンサートの配信があるはずだ。ここの響きをぜひ聴いてみてほしい。これで不満を言う人がいようか。 

撮影:hiroki TAKEUCHI

撮影:hiroki TAKEUCHI

休憩を挟みベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、成田がモデルのような立ち姿で舞台に登場するだけで空気が一変する。演奏は、前のめりのテンションを厳しく統制したもので、楽譜に忠実で規範的ながら、どこをとっても(宇野功芳風に言えば)切れば血が出るようなのだ。オーケストラの長い序奏。ここは細かいアゴーギグが必要になるが、短い練習で形だけ整えても音楽にならない難しさがある。だが、この日のカンマーはどうだろう。楽員が音楽と一つになって呼吸しており、揺るぎない音楽が聴こえてくる。指揮は林正樹。カンマーフィルの創設者の一人。林も小手先の棒などどうでもいいとばかりにオーケストラと一つになって呼吸している。こうなると、些細な響きの不揃いや音程のズレはまったく問題にならなくなる。序奏部の最後、独奏が入る直前の雄大さに心を打たれなかった者はいないだろう。 

撮影:hiroki TAKEUCHI

成田の独奏も比類がない。あらゆる音を統制下に置き、覚醒しきった陶酔を聴かせる。殊にカデンツァの後半で、楽章冒頭の4連打が出てくるあたり(カデンツァはクライスラー版だった)の身体の奥底から絞り出すような重音、そして続く第1主題の熾烈な憧れ。あまりの気迫に唖然となった。カデンツァの後、オーケストラが入ってからしばらくは、もうすべてを吐き出し切って時間が止まったかのようだった。第2楽章の独奏とオーケストラの会話もしっかり練習が行き届いている。だが即興性もある。”cantabile”が指示された終止部で、成田はぐっとテンポを落とす。おそらく練習よりも大きくテンポを落としたのだろう。待ち切れずに木管が飛び出した。だが、それすらライブの生きた醍醐味となる。成田もこのときはそう感じた以上こうしか弾けなかったのだろう。フィナーレも火の玉のようでありながら、どこにも踏み外しがなく規範的。終演後に楽屋を訪ね成田に素晴らしかったと伝えると、成田は「ベートーヴェンがね、、」とややはにかんで答えた。このときの笑顔が忘れられない。

撮影:hiroki TAKEUCHI

撮影:hiroki TAKEUCHI

撮影:hiroki TAKEUCHI

この定期はカンマーフィルにとって、おそらくは彼らの最高水準にあり、今後の基準となることだろう。常設の団体ではない臨時編成のオーケストラでも、条件が整えばこれほどの演奏が可能になるということを彼らは示した。当たり前のことかもしれないが、理論や技術よりも大事なものはある。だけどついそれを忘れそうになる。それが何であるのか、いざ言葉にしようとすると、あれ?となりがちである。いや、それは実際に言語化し難いものなのだ。帰り道で筆者の頭をこんなセリフが過った。

 「本気で殴り合えばお前のほうが強い。だがお前は俺に勝てない。な~~んでだ??お前には遊び心がない。心の余裕がない。張り詰めた糸は、すぐに切れる。そういうことだ。」(「仮面ライダーキバ」より)

大事なのはパッションである。だからそれを受け取ったこの記事も、レトリックに酔ったり、斜から嫌味を放つような小賢しいことも、すべてやめた。気持ちいい。本物の音楽をありがとう、カンマーフィル&成田達輝。

(多田圭介)

 

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