札幌劇場ジャーナル

<演奏会レビュー>札幌交響楽団 第650回定期演奏会 2/4,5@札幌コンサートホールKitara(執筆:多田圭介)

2023年2月4日(土)、5日(日) 札幌コンサートホールKitara

マティアス・バーメルトが登場した札響2月定期を聴いた。初日に聴いて、あまりの素晴らしさに急遽予定を変更して2日目も聴かせていただいた。バーメルトの資質については本紙創刊以来、何度も詳述してきたのでここで長々と繰り返すことはしないが、モーツァルトのK.299とシューベルトのD.944という純白のハ長調2曲によって、彼の美質が最大限に生きる結果となった。

バーメルトの芸術の本質は何か。彼の音楽にはセンチメンタルな催涙効果が皆無である。加えてあざとい効果とも無縁。つまり大衆のアドレナリンに働きかける要素が極めて微弱なのだ。その代わりに、じっくりと腰を据えて対象から引き出されたディティールの明晰さと、それに支えられた端正な造型美が立ち現われる。情緒に陶酔していい気分になったりするところは見たことがない。徹底してスコアを熟読玩味し、その結果得られたテキストの構造を根気強くオーケストラから引き出す。無駄を削ぎ落とされた合理的なフォルムは、単純なようでいて念入りな準備からしか生まれない種類のものだ。その仕事をスイスの時計工のようだと言えば牽強付会だろうか(バーメルトはスイス出身)。ともあれ、余計な色づけを受け付けない純粋なハ長調の2曲でその資質が美しく結実したのは間違いない。

1曲目は武満の「雨ぞふる」でこれも入念な仕上がり具合だったが、まずはモーツァルトから。曲目はフルートとハープのための協奏曲K.299。フルート独奏はハインリッヒ・シュッツでハープが吉野直子。

冒頭のハ長調の単純な主題だけでもう魅了された。薄い絹地が宙にふわっと舞うように始まる。最初の付点4分音符を長めにとるので音の滞空時間が長い。エレガントだが抑制も効いており品格がある。おそらく繰り返し練習したはずだ。続くオーケストラだけによる第2主題も素晴らしい。第2主題では、Hr→Ob&Va→Vnと短距離のキビキビした音型が受け継がれるが、実はそこにVcが重なっている。Vcはあくまで伴奏だが、この存在感がかつて聴いたことがないほど優美だった。気になって終演後にスコアを開いてみたのだが、譜例(1)のようにVcとCbがまったく別の動きをしている。

譜例1(クリックすると拡大できます)

モーツァルトのオーケストレーションでVcとCbがそれぞれ独立した動きをするのはそもそも珍しいことなのだが、調べてみるとこの曲ではこの一箇所しかなかった。このVcのモチーフはよほど重要なのだろう。キビキビした短距離の動機による愛らしい第2主題に、息の長い優美なVcのモチーフが彩りを添える。札響のVcの斉一性も素晴らしい。あざとくバランスを操作するのではなく、あくまでも響きによって複数の要素の並行を聴かせるのはいかにもバーメルトらしい。まだ演奏会は始まったばかりだったが、ここを聴いて翌日も来ようと決心した。

と、細部を逐一挙げていると無限に長くなってしまうので今回はなるべく簡潔に。フルートのシュッツもこれ以上は望めないほどだった。筆者はフルートという楽器がどうにも得意ではない。世界的なソリストになればなるほど、どんな音楽でも口笛のように気軽にやってしまうところがある。エマニュエル・パユなどその最たる例である。だが、シュッツのフルートからは「技術」がまったく聴こえてこない。もちろん最高度に上手いのは言うまでもないが、彼のフルートからは音楽しか聴こえてこない。どんなにテクニカルなパッセージでも透明で至純な歌だけが響いてくる。特に第2楽章の最初の主題。この主題は譜例(2)のように8小節で、4小節+4小節に分節できる。

譜例2(クリックすると拡大できます)

シュッツはここの初めの4小節の最後を最弱音でスッと抜く。なんという可憐さ、哀しさ。そしてその次のフォルテは涙が溢れ出すように出てくる。しかも、大騒ぎして泣きじゃくるのではなく、笑顔で必死に涙を隠そうとしているように、である。モーツァルトはなぜここに”フォルテ”を書いたのか。なぜオケはピアノなのか。ここにはどんな音楽が秘められているのか。シュッツで聴くとそれがたちどころに理解できる。この表情はランパルからもゴールウエイからもパユからも聴こえてこなかったものだ。

札幌交響楽団提供

ハープの吉野も可憐の極み。吉野より華麗なハープを奏でる奏者はいくらでもいるが、彼女の品格のある佇まいはこの作品にぴったりである。華美に過ぎては作品の世界観が死んでしまう。吉野は日本の茶道のような抑制美を聴かせる。だが、第3楽章の最後、コーダに入りもう曲も終わろうとするときに、オーケストラが沈黙してハープが主題を奏でる。ここで吉野は、それまでの強い抑制から音楽を開放し「この黄金の時間よ、まだ終わるな!」とばかりに歌い始める。天へと伸びゆくように歌うのだ。明るければ明るいほど哀しく、美しければ美しいほど儚い。純粋さに涙が滲んだ。

モーツァルトの傷つきやすい魂は、演奏家が「料理してやろう」という色気を出すとその瞬間に口を閉ざす。指揮者も独奏2人もオケもその魂に共感しないかぎりこんな美しい音楽にはならない。それは、シューベルトの交響曲第8番「ザ・グレイト」(以下「グレイト」と略)にもまったく同じことが言える。

札幌交響楽団提供

グレイトも生半可な思いつきを寄せ付けない難曲である。下手に演出すると純粋さ(モーツァルトのK.299と共通する)が損なわれるし、何もしないとただ長いだけの平板な音楽になってしまう。聴くたびに、究極の難曲だと思わされる。かつて東フィルで聴いたチョン・ミュンフンなどは、まさにこの難しさに阻まれ、セカセカして小煩くなってしまっていた。指揮者によほどの自信がないと演出の多寡で失敗する傾向が強い。言うまでもなくバーメルトはその轍は踏まない。バーメルトは、この作品のキモはリズムにあると見抜き、その複数の単位が延々と変形・増殖を繰り返す様を抉り出す。そしてそれが繰り返されるたびに、ほんの少しだけテンポを変える。ほとんど気づかないほどの小さなギアチェンジを瞬間ごとに繰り返し単調になることを避けるのだ。それどころか、繰り返すうちに、威容が屹立してくる。ここでもあざとい効果を狙った強調などは徹底して排除。その手管はやはり名職人という他ない。おそらくは、注意深く聴かないとインテンポに聴こえたことだろう。バーメルトの設計がそのくらい自然で理に適っているということだ。

とはいえ、冒頭だけは少々解せないところがあった。冒頭のHrの主題は、8小節から成るが、これは2+1、2+1、2で計8小節という分節。ここがこの分節構造を持っているということは、主題がフォルテで確保される29小節で明らかになるという仕組み。ところがバーメルトはこの冒頭8小節を一息で吹かせた。ここだけは「??」となった。ただ、ここが2+1、2+1、2であることはちょっとアナリーゼができれば誰にでも分かることなので、バーメルトがあえてそうしなかったということは、間違いなく何か意図があるはずだ。いずれ質問してみたい。

札幌交響楽団提供

小言はこれで終わり。この主題が木管から弦へ受け渡されるとまたバーメルトの手腕が際立つ。16小節からは、VaとVcがそれぞれdivisi.になる(※編注:divisi.とは、同一のパート内を複数の声部に分割する書法)。モーツァルトの序奏と同じことが言えるのだが、ここの分割された声部の透き通った響きの明晰さには脱帽させられる。同じ旋律の3回目なので、旋律をベタ塗りしてしまうとさすがに飽きる。だがバーメルトが振ると繰り返すたびに奥行きを増す。繰り返しにいつも必然性がある。これは繰り返しの多いこの作品のすべての箇所に共通して言えることだ。

リズムとテンポによる構築、そして響きの明晰さだけでも十分に凄いのだが、それだけではなく、柔らかな流れの線の美しさも十分にある。第2楽章の93小節からの2つ目の主題を導くブリッジで急に柔らかい空気が流れ込む。たった4小節であるが、この柔らかく息づいたパッセージは見事に雰囲気を変えた。そして、それに続く静かな祈りの音楽は、この日の最大の聴きどころだった。最弱音で何も表情は加えられないが、言葉を発さずじっと祈るような静けさが一貫する。その後の崩壊と断絶、そしてVcの詠嘆の歌とObのオブリガードにも心がこもり切っている。続いてほんの少し歩みを速めるB主題の慰めの音楽の優しさ。完璧である。楽員たちの共感も半端なものではない。この第2楽章に関しては、筆者がこれまでに聴いた数え切れないグレイトのなかでも最美の一つに数えられる。全4楽章のなかでもこの第2楽章が突出して優れていた。

おっと、結局長くなってきた(独り言)。後半楽章での指揮ぶりも究極。最小限の棒の動きだけで微細なリズムのニュアンスを正確に伝え、オケも見事な呼吸でそれに応える。計算し尽くされているのに、作為を感じさせない。終楽章の最後のTb(※編注)だけはもう少し強調してほしくなったが、まあ、バーメルトがそんなハッタリをかますようなことはしないだろう。

(※編注:1101小節のE→Gへの3度上昇のこと。ここはコーダに入って変イ長調、二短調、ト短調という対比領域を挟みつつ最後にハ長調に到達する箇所であり、同じモチーフの3回目のダメ押しでハ長調に転ずるため、強調する指揮者が多い。最も効果的にそれを成し遂げているのはG.ヴァント(録音は多いが、91年北ドイツ放送響、93年ベルリンドイツ響、95年北ドイツ放送響など90年代前半のライブが優れている)。)

武満の「雨ぞふる」にもバーメルトの美質が確かに刻みつけられていた。武満の音楽は、事物が明確な輪郭を持って立ち現われる手前の曖昧な世界を描いているが、バーメルトの手にかかるとその背後で数比のような論理が明確に支配していることを感じさせる。「雨ぞふる」でも最後に調性へと着地する足取りの確かさが際立ち、武満がよりメシアン的に響く結果となった。

札幌交響楽団提供

やはりバーメルトという指揮者の本質は合理性にある。つねに理に適ったフォルムを手で掴み出そうとする彼の姿勢には理性への揺るぎない信頼がある。彼の芸術はこの意味で成熟するのに時間を要するタイプのものであるし、聴く側にも相応の修練を要求する。分かりやすい熱狂や忘我のカタルシスには初めから目を向けていないからだ。

ダニエル・カーネマンという経済学者がいる。彼は、「理性」は「遅い思考」であり、「不安」や「恐怖」そして「快楽」は「速い思考」だと述べている。そして未知の災厄や、非日常の祝祭が現れたとき、遅い思考である理性はあっという間に脇に追いやられる。そしてこの10年ほど、遅い思考である理性はその価値を急速に喪失しつつあるという。速い思考にはカタルシスがある。不安を煽り、被害者の立場から留保なく「ともに頑張ろう」という言葉に寄りかかるとき、また、タイムラインで沸騰している話題に一石を投じて株を上げようとするとき、人は理性的な慎重さを失う。時間を要する理性的な精神の充実には根気がいるから多くの人は手軽な快に流れる。これは芸術のあり方にも当然影響している。視聴するのに10分以上かかる映像は見向きもされない。成熟するのに長い時間がかかるような芸術が今後延命するのは厳しい状況になりつつある。こうした流れが加速している現在、時間と経験を要するタイプの芸術家がもし本当に理解され尊敬を集めるのであれば、それは希望だと言えるのではないか。札響にも、エンタメ性は低くても真に世界を深く掘り下げる音楽家の招聘を今後も継続してほしいと心から感じた2月定期であった。

(多田圭介)

 

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