札幌劇場ジャーナル

「北国のフィガロ」に寄せて -hitaruオペラプロジェクト「フィガロの結婚」レビュー(執筆:多田 圭介)

革命、敗戦、グローバル化。こうした世の中の変革期には社会の流動性が急激に上昇する。すると、それまで人々を統合していた規範性(規範性:常識やルールのこと)が一時的に機能しなくなり、多くの人が人と人との新しい結び付き方に思いを巡らせるようになる。モーツァルトのオペラ、「フィガロの結婚」はそのような状況下で誕生している。ときはフランス革命。封建的な身分社会が揺らぎつつある。そんな状況において生まれた同作では「理性ragioneの麻痺」というキーワードが頻出する。それは、このような規範性の機能不全と、さらに欲求の解放を意味している。ダ・ポンテ3部作(※編注)ではその欲求の解放は何よりもエロスの解放として表現される。規範性が機能しなくなり、エロスが前面に出ると思いがけないところで恋愛が発生する。恋の火花はそれまで社会を統合していた枠組みを容易に越境するようになる。ダ・ポンテと同時代の作家であるゲーテの『若きウェルテルの悩み』(1774年)、ルソーの『新エロイーズ』(1761年)はいずれも身分差を「越境」したがゆえに起きた悲恋を描いている。フィガロはもう少し複雑である。描かれるのは身分差を越境したがゆえに露わになってしまう、滑稽ではあるが愛らしい人間模様と愚かしさ。そしてそこに注がれる人間愛。とはいえ、革命後に成立した市民社会の道徳はしごく謹厳実直なものであった。こうしたエロスを通奏低音とする文芸は、社会の流動性が上昇したときに一時的に現われる現象である。
(※編注:ダ・ポンテ3部作とはダ・ポンテが脚本を提供したモーツァルトのオペラ、「フィガロの結婚」、「ドン・ジョヴァンニ」、「コジ・ファン・トゥッテ」の3作のこと。いずれも規範性の失効とエロスの解放をテーマとしている。)

©kenzo kosuge

第一回の開催に漕ぎ着けたhitaruオペラプロジェクトの「フィガロの結婚」は「北国のフィガロ」を標榜し、その時代を原作より100年と少し後のロシア革命前夜に設定した。雪国を連想させる白を基調とする舞台。そこに新しい社会が勃興しようとする革命の時代を重ね合わせた。演出の三浦安浩は、さらにグローバル化が急激に進行する現代社会も映し出したように思われた。このhitaruオペラプロジェクトは2018年に誕生した同劇場がオリジナルで発信する新しい取り組みである。キャストは当地・北海道とゆかりのある出演者に限定された。このプロジェクトは、グローバル化の進行によって個々人がバラバラに離散してゆく現代において、人と人をもう一度どう結び付けることができるのかの実験でもある。舞台にはこの意味での新しさも響かなくてはならない。それゆえに多少の勇み足は大歓迎と言える。

(本公演は2023年の226日と28日の2公演で開催された。筆者は初日は都合で出席できなかった。この記事は2日目を観劇してのものである。)

さて、フィガロという作品はもとから登場人物が多い。主役級の911人がそれぞれに魅力を発揮するアンサンブルが醍醐味のオペラである。舞台は視覚的にもそもそも複雑になりがちである。ところが演出の三浦は、その複雑な舞台をさらに攪拌しようとする。主役級の出演者たちがト書きでは登場しない場面で縦横無尽に舞台を闊歩する。それだけではなく、脚本にそもそも指定されていない名もなき人物たちが所狭しと舞台を往来する。意図がないとこんなことはしない。この舞台の錯綜は、規範性が失効したことによる「社会のカオス化」を表現しようとしているように思われる。喫煙、暴力、何よりセクハラ。舞台では「欲求の開放」が散りばめられる。細かい人物設定は存在はするのだろうが、むしろこの舞台においては観客がそれを伏線として単一の視点で回収「できない」ことにこそ意味がある。さらにいわゆる「百合要素(※編注)」も随所に配置されていた。18世紀にゲーテやルソーが身分差を「越境」したように、本公演では性差を越境する。もちろんそれで現代性を表現するというのは少々安易ではあるのだが、むしろ本公演が単一の世界観に回収されずにまだ見えていない未来に突入してゆくことを意図したとも解釈できる。
(※編注:「百合要素」とは女性同士の恋愛を意味する本邦の戦後文学で生まれた言葉である。)

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個別に振り返ろう。歌手ではまずなんといってもスザンナを歌った倉本絵里が輝いていた。フィガロという作品は初演に出演した9人全員にアリアが与えられており、かつアンサンブル楽曲が多い。多彩さが特徴である。しかし、その中でスザンナだけがすべてのアンサンブル楽曲に参加している。舞台の推移の中心には常にスザンナがいる。倉本のスザンナはその意味を教えてくれるようだった。小憎らしいまでのコケットリ、仔犬のような愛らしさ、声には常に表情がある。マルチェッリーナと小競合いを繰り広げる小二重唱(第5曲)での慇懃無礼な振る舞い、第3幕冒頭で伯爵を手玉に取ってゆく演技、歌だけではなく立ち振る舞いも卓越している。ほぼ理想的なスザンナだった。こうしたコケットリに特徴がある歌手なのかと思ったのだが、どっこい。伯爵夫人に扮して歌われる第4幕のレチタティーヴォとアリア(第28曲)では、別人のように澄んだ歌声を響かせる。ここを聴いてカンタータやミサ曲のアリアを歌う倉本も聴いてみたくなった。きっと素晴らしいはずだ。筆者はどうも出演者の名前を覚えるのが苦手でおそらくは道外の公演で何度か聴いているはずなのだがどこで何を聴いたか思い出せない。だが今回はさすがに覚えた。そのくらいのインパクトだった。新国立劇場や東京二期会本公演の主役と比較しても遜色がない。第4幕のフィナーレでは、フィガロに腹を立てて伯爵夫人のフリをするのを忘れる箇所があるがそこでのキャンキャン吠えているうちに自分でもどっちなのか分からなくなっていくような様子には夢中にさせられた。フィガロを平手打ちして泣き崩れると、あまりの愛らしさに涙が滲んだ。ああ、もうすぐ終わってしまうと哀しくなった。

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泣き崩れたスザンナに優しく語りかけるフィガロを歌ったのは三輪主恭。仲直りをしようと語りかける三輪の優しい歌声にも痺れた。筆者は三輪に特別に関心があり彼が出演するときは欠かさず聴きに行くようにしている。三輪は小柄だが身体に無理をさせない。響きの豊かさを大切にした歌唱には趣味のよさがあるし、合理的な発声の研究にも相当に熱心なはずだ。吠えるようなうるさい歌い方をしているところは聴いたことがない。また歌詞を丁寧に掘り下げるのも三輪の美質である。幕が上がって最初こそ緊張が見られたがすぐにペースを掴んだ。スザンナとの二重唱で呑気だったフィガロに徐々に疑念の影が過る。ここで低域の深い声色を生かしたのはさすがだと感じた(三輪はバスとバリトンの両方を歌う)。第一幕最後のアリアでのケルビーノをからかうような歌いっぷりには品格があり三輪の面目躍如。4月のリサイタルでもこのアリアを歌うようなので今から楽しみだ。

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アルマヴィーヴァ伯爵を歌った門間信樹もこの舞台のキーとなった。この舞台は社会の変革期に規範性が失効したことによるエロスの解放を原作より一層強調する。ボーマルシェの原作の序文にはこの伯爵について「あくまでも貴族らしい品位をもって演じられること。仕草は優雅でなくてはならない」と書かれている。だが門間(&三浦安浩)のアルマヴィーヴァ伯爵はこの貴族らしい品位を意図的に捨象する。ほぼ「エロ親父」と言っていいタガの外れっぷりだったがそれこそ意図するところだろう。唯一惜しいと感じたのは、第3幕でスザンナが会いに来る口実でしたと嘘をつく箇所。ここの伯爵の「なんてかわいい!carissima!」は、スザンナとついに主従が逆転した瞬間であるが、ここはもっと身体の奥底から喜び(と性欲)が湧き上がってくるように歌ってほしかった。

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伯爵夫人は石岡幸恵。彼女も声楽家としての資質は群を抜いている。透明で豊かな声が楽々と出てくる。だが声質の変わり目のコントロールなど技術面のより探究を求めたい場面が多かった。第3幕のアリア”Dove sono”などはこうした技術面をクリアするとより説得力が出ると思われる。一人一人に触れたいがさすがに長くなる(申し訳ない)。歌手以外では、チェンバロの鎌倉亮太も印象に残った。即興的な合いの手のチャーミングさや音楽を掌握した呼吸のよさにはまるで劇場叩き上げの雰囲気がある。歌手たちも歌いやすかったことだろう。オーケストラが伴奏しているときよりも鎌倉のチェンバロのときのほうが声楽のアンサンブルは生き生きしていた。

ということは指揮者には少々食い足りなさを感じた。テンポの動きやアーティキュレーションを丁寧にまとめ、歌手たちに明確に指示を出し舞台を手堅く進める手腕には確かなものがあるのだが、なにせ表情の彫りが浅い。最も疑問を感じたのは第3幕の第17番。伯爵が「むごいぞ、なぜ今までじらした」と歌うときの悲痛な感情吐露。そしてそれをスザンナがひらりとかわすときに悲壮な音楽が木管で彩られた肉感的な響きにさっと移行する。よほど注意しないと聴き手としても聴き漏らしてしまう一瞬の変化だがここにも雰囲気の変化がなかった。こうしたほんの数小節の経過句での瞬間の芳香にこそモーツァルトの天才性がある。こういう小さい絶妙な音楽こそ大事にしてほしい。幕が上がってすぐのフィガロとスザンナの二重唱で、呑気なフィガロからスザンナに交代するときのほんの一瞬の陰りにも響きの変化がなかった。続くスザンナとマルチェッリーナの二重唱でスザンナが「ご年齢も」とマルチェッリーナをやりこめる際の下降音型にもコミカルさがない。奥村哲也は劇場での十分な経験がある指揮者であるがやや外形的な印象が否めなかった。ピットに入った札響がオペラに不慣れなこともあると思われるが、やはり指揮者の領分が大きいように感じた。エンディングのいわゆる「赦しの場」に入るときに大きく間を空けたのは指揮者の意図か舞台の都合かどっちだったのだろうか。このオペラの最大の聴きどころで、ここで一瞬で空気が変わらなかったらその公演は成功したとは言えなくなる。ここはそのレベルの要石である。だからこそ大きく間をあけたくなるのは気持ちとしては分かるのだが、ここは「一瞬で」空気が入れ替わるからこそ美しいのではないか。

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合唱はなかなかに優れていた。第89番の牧歌的な素朴さは舞台を華やいだものにしたし、第22番の村娘たちの合唱にも可憐さがあった。響きが明るくパリッと冴えており喜ばしい雰囲気が一貫する。厳しい鍛練を積まないとこうした優雅さは出てこないものだ。よく練習を積んだはずだ。地元の音楽学校で学んだ歌い手がほとんどだが身びいきではなく掛け値なしにレベルは高かった。合唱の一人一人と合唱指揮者に大拍手を贈りたい。おそらく今後も北海道勢で運営されるこのオペラプロジェクトで合唱がこのレベルを維持できるのであれば期待が膨らむ。

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舞台についてまだまだ書きたいことはあるのだが先へ進めよう。開館から5年目を迎えた札幌文化芸術劇場hitaruがオリジナルで制作するhitaruオペラプロジェクトは第一回の幕を降ろした。今後継続することでノウハウが蓄積されればより洗練された舞台になってゆくだろう。地元で音楽や舞台を学ぶ学生にとってもこのプロジェクトへの出演は目標になる。「北国のフィガロ」が撒いた種への期待は大きい。

だからこそである。最初に述べたように、北海道の地から発信するこのプロジェクトには、土地を(文化を)媒介にしてもう一度どう人と人を繋ぐことができるのかの挑戦という意味がある。これについて、筆者はこのプロジェクトの始動当初から気がかりなことがあった。それは、オーディションの参加資格に「北海道の出身者か在住経験がある者」という条件が課されたことである。どこかで誰かが問題視するのではないかと経過を観察していたが出なかったようだ。当日配布されたプログラムにもそう明記されていた。地縁や血縁というものはほとんどの場合自分で選ぶことはできない。自分で選べない要素によって権利を制限するのは、言葉の本来の意味での差別に該当する。考えてみてほしい。移動の自由を実現したEUからイギリスが脱退したことがなぜあれほどショックだと受け止められたのか。自由化を推進しようとしたヒラリーではなくトランプが当選したことがなぜあれほど世界に衝撃を与えたのか。生まれつきの自分で選べない要素で権利が制限されることは本来は好ましいことではないと皆気づいているからであろう。もちろん、その制限がより上位の目的によって合理化されるのであればその限りではない。例えば、医者が少ない過疎地で働くことを条件に医大が入学条件を緩和するなどがそれにあたる。だがこのケースでは変えられない過去ではなくあくまで自分で選べる未来の制限である。当たり前だが、その未来の勤務地が本人の出身地であるかどうかが問われることはない。

参加資格を出身者or在住経験者に限る根拠は、もしあり得るとすればどこに求められるか。仮に、北海道オリジナルの舞台なのだからこの土地を心から愛し風土を理解している者の出演が相応しいから、と仮定してみよう。ただこの場合さらに不合理になる。今まじめに地方や土着のものを背負い、かつ現代的な生き方を選ぶことはとてつもなく難しい。伝統というものはどこまでが近代につくられたものでどこまでが土着かという議論がすぐに出てきてしまう。言うまでもなく「北海道」は明治期の廃藩置県による近代の産物である。むしろ、北海道に育った人が北海道を嫌いであってもいいし、沖縄に育った人が北海道を大好きであってもまったく構わないはずだ。道外では県境で隣接する複数の自治体が一つの生活文化圏をなしていることだってザラにある。

実は昨今の言論界は、まじめでちゃんとものを考える人ほど、地方の問題をケアしようとしても「おまえは本当に地方の立場でそれを考えているのか」という自己反省にとらわれてしまい何もできなくなるということを繰り返してきている。その上でそれでもなお、地方と文化を媒介としてもう一度どう人と人を繋ぐことができるか。これは、この20年ほど(震災後はより一層)本邦の文芸諸分野が何度も挑戦して(そして座礁して)きたテーマなのだ。そのなかにヒントはたくさんある。例えば、震災をテーマにしたNHKのドラマ「あまちゃん」(2013)は、岩手の三陸を舞台にしたその最大の成果だった。

物語には「アキ」という登場人物が出てくる。彼女は自分をインチキ東北人であると自覚している。東京生まれで高校生になってはじめて母親の実家の東北に行っただけである。だが、ニセモノで何が悪いんだ、適当で何が悪いんだと開き直って東北愛を貫く。出身がどこかなど関係ない。自分が好きになったからそこにコミットする。そうして複雑に捻じれてしまった前提を吹き飛ばす。あまちゃんを観ていると、東北大変だね、一生懸命やっている人は応援したいねという気持ちが自然に出てくる。自分の出身地などの属性から自由に一人の個人としてそうなってゆく。ファンタジー的なものこそが現実を変えられるのだと教えられる。舞台も同じであろう。ファンタジー的なものこそがいい意味で人間をしがらみから解き放つはずだ。何より東日本大震災とは、こうした人間性よりも公的な論理を優先させてきた末の出来事だった。hitaruオペラプロジェクトのオーディション参加資格も同じではないか。なぜただの行政区分に過ぎない個人の属性で権利が制限されるのか。もし東京発の新しいオペラがオーディション参加資格を東京都出身者に限るとしたらどう思うだろうか。

あまちゃんの最終回には、現実が映し出されたことを覚えておいでだろうか。画面には三陸に生きる人たち、土地を愛する人たちがいっぱいに写り込んでいた。実際に文化の力で土地が息吹を取り戻すための原動力(土地を愛する人)があそこに映し出されていた。あのドラマは最後にどこまでが虚構でどこからが現実なのか境界が曖昧になっていった。筆者はこの「北国フィガロ」で舞台いっぱいに出演者が並んでいるのを観て、そのことが頭のなかで重なった。経済もガタガタでエキサイティングな非日常も必要とされない。人々が求めるファンタジーは実際に起こってしまった過酷な現実を日常の背景にどう織り込んでいくか、その手掛かりを探す物語に変わっている。あまちゃんはその代表にすぎない。

あまちゃんのインチキ主義(アマチュアリズム)は、私的なものと公的なものの対立を融解させている。何か自分の好きなもののために役に立ちたいとか、そういうごく私的な動機が公的なものに繋がっている。それでいいじゃないか、それしかないじゃないか、と。公と私をどう繋ぐか。戦後文学のパースペクティブでいえば政治と文学をどう繋ぐか。あまちゃんの挑戦はその現代的な最も美しい回答例の一つであったのだ。もう上から号令をかけて世の中を一つにまとめるビジョンは説得力をもたない。ボトムアップで下から横同士で繋がるビジョンが必要である。hitaruオペラプロジェクトが、これから真に意味のあるプロジェクトになってゆくためには、こうした政治と文学(公と私)、政治と文化の関係について本質的な洞察を持つ人物が新たに企画の中核に関わるようになることが望ましいと思われる。見識のある人物を外部から招いて一定の権利を委ねるなども必要となってくるだろう。そうすることで、もっと「手前」から、もっと根本から、このプロジェクトを前に進めるようになるべきだ。開館から5年、外から見て気づくことは本当にたくさんあった。もちろんhitaruだけのことではない。日本の戦後民主主義とは、表面的には公的な権威を否定するが、それが逆説的に戦後民主主義という公的な精神に繋がっていく、みたいなひねくれた回路を産み出していた。そろそろ、こんな世の中をつくりたい、こんな世の中になったら楽しいというごく私的な欲望と公的な使命がイコールになるようなビジョンを出していってもいいはずだ。hitaruオペラプロジェクトの”pro-ject”という言葉は、「pro前へ(未来へ)-jacio投げる」というラテン語を語源とする。このプロジェクトが本当の意味で未来へ開かれたものに成長してゆくことを心から期待し、そして皆で応援したい。

©kenzo kosuge

(多田圭介)

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