札幌劇場ジャーナル

【特別寄稿】仕える者、フィガロ(執筆:三輪 主恭)

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INDEX

1.フィガロは本当に「デキるやつ」なのか?

2.何でも屋の承認欲求

3.革命は起こらなかった

4.輪廻するオペラ歌手

1.フィガロは本当に「デキるやつ」なのか?

2023年2月28日、第1回hitaruオペラプロジェクト『フィガロの結婚』に、私は千秋楽組のフィガロとして出演した。9ヶ月の過酷な稽古を経て臨んだ公演では、幕が上がった瞬間に妙な落ち着きと勝利の確信とを抱いていた。全力で愛そうと努力しながら、愛しきることができなかったフィガロという人物との別れに、安堵しているようでもあった。各組、たった一回の公演なのである。幕が進むごとに、私の演じたフィガロは過去のものとなっていき、二度とこの身に宿ることはない。レチタティーヴォも、歌唱も、ひと言ひと言が演者にとっては別れの言葉なのである。公演は無事に終了した。私は、私の演じたフィガロを晴れやかな気持ちで送った。もし同じオペラで、同じ役をやったとしても、その日と同じ演じ方になることは決してないだろう。オペラ歌手として学び続けるならば、そうでなくてはならない。

ところで、演じた当の本人がフィガロという人物を愛しきることができなかったと言えば、幻滅する人もいるかもしれない。そもそも私はフィガロをいけ好かない奴だと思っていた。頭脳明晰、自由闊達、行動力とユーモアにあふれ、多くの人に頼りにされるジェネラリスト。まさに理想的な男性と言っていい。スケベ心に忠実な伯爵や、陰険なバルトロのほうがまだ理解できる。フィガロはどこか嘘くさい人物だ。『セヴィリアの理髪師』での彼は、登場するや否やアリア“私は町の何でも屋”で優れた能力をひけらかし、いかに人々に必要とされているかをアピールし、自分の人生を全肯定する。例えばこんな人物をSNSで見かけたら、すごい奴だと感心する反面、どこか胡散臭いという気持ちも生まれるに違いない。今風に置き換えれば、意識高い系ビジネスマンのような印象かもしれない。ただし、ボーマルシェ原作の『セヴィリアの理髪師』には、このアリアに該当するセリフは存在せず、代わりに「酒と怠惰が分かち合う、この心」などとしみったれた自作の歌を口ずさんでいるのだが。世故に長け、知恵も働くが、スマートとまではいえない。それというのも、ボーマルシェの作品においては、フィガロは少なくとも二十四年を芝居小屋で過ごした、肥った中年男性なのである。この事実を知ったとき、私は少し拍子抜けしたものだ。

だからといって、モーツァルトの『フィガロの結婚』より後発であるロッシーニの『セヴィリアの理髪師』も含め、理想化されたフィガロ像への反感を拭い去ることはできなかった。現代の私たちがこの二つのオペラを切り離してフィガロという人物を見ることは、おそらく不可能である。オーディションを通過したあとには、こう考えていた。きっと多くの人が期待する「フィガロらしさ」を押し付けられ、苦しむことになるだろう。それと全くかけ離れた人間である私が、果たして最後まで演じることができるのか、と。

オペラ『フィガロの結婚』の幕が上がると、フィガロは前作で影も形もなかった女中のスザンナと、文字通りに結婚しようとしている。もともと脂ぎった中年男として描かれた彼は、ここで三十歳の働き盛りの男性に書き換えられ、伯爵に召し抱えられて上機嫌である。新婚のベッドの寸法を測る彼は自分の幸福を信じて疑っていない。一抹の不安も感じてはいない。なぜ断言できるかといえば、そのように演じろと私は稽古場で繰り返し要求されてきたからである。フィガロが幸せであればあるほど、伯爵の初夜権挽回に端を発する数々の障害が際立つのだ。現代においても我々は、ピンチに陥った人物がいかにそれを乗り越え、幸福を取り戻すのかを期待しながら、映画やドラマを見ているはずである。

スザンナを手篭めにしたい伯爵の思惑を覆そうと、フィガロは自分なりに行動を起こす。館に仕える平民たちを味方につけ、策略をめぐらし、何としてもスザンナとの結婚を実現しようとする。だが実は彼が発信した計画は何一つとして成功していない、というのが当公演で指揮を務めた奥村マエストロの弁である。実際、初夜権撤廃を称える平民たちの大合唱も効果はなかったし、スザンナの代わりにケルビーノを女装させて伯爵の浮気現場を押さえる方策も、自分で書いた手紙の効き目が強すぎたせいでかえって台無しにしてしまった。伯爵に追及されればとぼけることしかできず、昔こさえた借金のせいでマルチェッリーナとあわや結婚かと思いきや、苦し紛れに貴族だと自称したら奇跡的にその場に生き別れの両親が居合わせて事なきを得たというだけ。ことごとく失敗を重ねた挙句、フィガロを蚊帳の外にして展開された伯爵夫人とスザンナの共同作戦には伯爵もろとも騙され、動揺し、怒りと絶望に打ちひしがれるボンクラぶり。私の脳裏にふとこんな思いがよぎる。若き伯爵の恋路を成就へと導いた『セヴィリアの理髪師』での快挙は単なるまぐれだった……とは言わないまでも、実はさほど有能ではないのではないか? あるいは、他人の問題を解決することにかけては超一流だが、自分の問題となると途端に判断力が鈍る欠点でもあるのではないか?

私がかつて抱いていた理想化されたフィガロ像への疑問は、ここから始まった。

2.何でも屋の承認欲求

役作りのキーポイントは「その人物にとっての幸福とは何か」を考えることだと、私が尊敬する、ある俳優のワークショップで教わったことがある。『フィガロの結婚』におけるフィガロの幸福は「スザンナと結婚すること」であるには違いない。だが、それはストーリーラインに明示されていることで、フィガロ以外の登場人物はおろか、観客すらも知っている。これは「幸福」というより、いわば物語上の「目的」である。もっと原初的な、人格形成にかかわる部分での「幸福」を想像しなければならない。「欲望」と言い換えても良い。それを満たすことによって喜びを見出しうる欲望。フィガロは果たして何に喜びを感じる人間なのだろうか。

フィガロの身分はservo、すなわち「仕える者」である。ソルボンヌ大学で学んだ俳優の長塚京三によれば、フランスの古典演劇にはvaletという伝統的な役柄があり、いわゆる貴族に仕える従僕を指すのだそうだ。フィガロ三部作を書いたボーマルシェも、これを踏襲してフィガロという人物を創出したと見られている。が、古い時代のvaletが、せいぜい主人の見ていない隙に反抗的なそぶりを見せる程度であったのに対し、フィガロは正面から貴族と対立し、戦いを挑む。仕える身でありながらも貴族と対等な人間であるという自負があるのだ。長塚は演劇におけるvaletの役割の変遷を軸に、民衆の社会意識の高まりが見えると語っている。(その点、『ドン・ジョヴァンニ』のレポレッロは、フィガロよりも古典的なvaletの域を出ていないように思える)

ところで、第一幕の第一曲が終わった直後のレチタティーヴォで、スザンナはフィガロにこう問いかける。

”Sei tu mio servo,o no?”

「あなたは私の奴隷じゃないの?」というわけである。フィガロは実際には伯爵つきのservoという身分であるにもかかわらず、この問いを否定しない。もちろん、恋人同士の戯言の範疇と捉えられる一言ではあるが、だとすれば何らかの応酬があってしかるべきである。フィガロは問いかけには答えず、すぐさまスザンナの不機嫌の理由を追及する。いわばスルーしたのである。この反応に私は着目せざるを得なかった。答えたくない、というほど深刻な問いかけではない。フィガロが気分を害していないからである。このやり取りは日常的なもの。つまりフィガロがスザンナにとってもservoであることは、答えるまでもないほど自明の理なのだ、と感ぜられたのだ。そして、スザンナがフィガロという人間の本質を理解しているのだとしたら……

フィガロが生涯をかけてservoであり続けたことは、最終作の『罪ある母』の幕切れを見ても明らかである。最後の騒動を片付けたあと、彼は「私にとっての最高の報酬は、このお邸で息を引き取らせていただくことで」と伯爵に言う。「仕える者」としての人生が自分にとって最高のものであると表明したのだ。これは単なる職業的なこだわりではない。フィガロの喜びは「仕えること」、すなわち誰かの役に立つことなのである。「誰か」とは雇い主である伯爵に限らない。前述した『セヴィリアの理髪師』でも、いかに町中の人々が自分を必要としているかをまくし立て、それを素晴らしい人生だと謳い上げているし、『フィガロの結婚』の劇中においても、長広舌でもって自分の計略を披露し、実行に移すときの得意げな様子は、だれかれ構わずアッと言わせたくて仕方がない彼の欲求を隠し切れずにいる。まさにフィガロのアイデンティティはここにある。己の知恵と、能力と、実行力。これを他人に認めさせること。無理もない。生後間もなく盗賊に誘拐され、富も地位も両親も無く育たねばならない少年が、現代よりもずっと厳しい18世紀フランス社会に分け入っていくためには、歳若くとも自分が役に立つ存在であることを周囲に知らしめるしか方法がないのである。

生きるための手段が、いつしか喜びに変わるのはごく自然なことである。私自身にしてからが、若いころにいろいろと足掻いてみては失敗を繰り返し、結果として歌うことでしか社会に参加することができなかった。他者に認められる方法が他になく、仕方なく歌っているという思いが今もある。しかし、喜びがあることも事実だ。形はどうあれ、他者から必要とされているという実感は何にも代えがたい喜びであるし、それを求めずにはいられないところに人間の哀しみがある。フィガロもまた、この陳腐なまでの承認欲求を克服できずにいる。実に平凡で、親近感を禁じ得ない。いけ好かない何でも屋との共通点を、私はようやくここに見出したのである。

3.革命は起こらなかった 

フィガロ役の歌唱に関わる部分で大きく原作と異なるのは、四幕のアリアである。モーツァルトのオペラにおいては、伯爵との逢瀬に赴くスザンナの(計略上の)裏切りに対する失意を、女性一般という概念への呪詛に転化する独白。男が齢三十にもなって、今更何を言っているというのが正直な感想だ。しかし、原作者のボーマルシェはこの場面で、とてつもなく膨大なセリフをフィガロに課している。そこで語られるのは彼の人生そのものであり、『フィガロの結婚』の狂おしき一日に至るまで、いかに屈辱を味わい、苦労を重ねてきたかを皮肉と自嘲を交えて吐露するのだ。中でも気になるのは次の箇所である。

「おれの頭上にこんなことを全部差し向けたのはどこのどいつだ? それと知らず分け入った人生の道を無理やり走らされて、やがては望みもしないのに出ていかされるにしても、俺は自分の陽気な性質が許す限り、この道に花を撒き散らしてきた。もっとも、陽気だ陽気だと言ってるが、他の性質と同じくほんとに自分のものだと言えるのか、それに、おれがどうのこうのと言ってみても、このおれとはいったいなんなのか、さっぱりわかりゃしない」(鈴木康司訳) 

すっかり錯乱しているが、未曽有の困難を前にして長年積み上げてきた自信が揺らぐのは大いにありうることであり、これがフィガロの最も人間らしい部分でもあるのだ。自分をさらった盗賊どものしきたりの中で育ち、真人間になろうと努力しても彼を快く思わない者たちから迫害され、数々の挫折を味わい、セヴィリアで理髪師を営むまでに並々ならぬ多難があったことを、ここで初めて語るのである。

私が演じた中で最も評価が高かった役のひとつに、八木幸三氏が作曲した歌劇『ノンノ』の海鵜がある。花の精霊であるノンノの弟で、美しい姉とは似ても似つかぬ黒い翼に覆われた怪鳥である。月と太陽、あらゆる神々の愛を一身に受ける姉を妬み、その命を繰り返し付け狙うというのが、私に与えられた役どころであった。この役を理解し、自分と同化するのはさほど難しくはなかった。己の醜さを呪い、世の中を憎悪し、良識をかなぐり捨て、歪んだ自意識に囚われて他者を傷つける姿は、思春期の私そのものであったからだ。既知の感情をフィードバックし、暴れまわっていれば自然と海鵜という役が成立したのである。

フィガロという役も同じ根幹を持っていると気付くのには、さほど時間はかからなかった。彼の生い立ちは恵まれたものではなかったし、相応に心に傷を負ってきてもいる。ただ、フィガロ本人がむやみに自身のコンプレックスを露わにするのを良しとしないがゆえに、ストレートにそれを表現することができない。先述したセリフの内容に基づけば、彼は自分を陽気だと「思い込んで」いた。この性質を「ほんとに自分のものだと言えるのか」と疑問を呈するところに、つらい人生を生き抜く中で彼が努めて陽気にふるまってきたことがすでに暗示されている。しかし、フィガロがほの暗い潜在意識を抱いていたとしても、自身の「陽気であれ」というポリシーがある以上、それは常に抑制されている。個人的なことを言えば、私は普段から自分の暗い性格を隠す努力をしていない。だからフィガロのポリシーには共感することができない。人間性は理解できても、表現が全く異なるという点で、フィガロは私にとって至難の役であった。

この男の問題点はまだある。すでに述べた通り、フィガロの喜びは他人の役に立つことである。生来の苦境を乗り越えるために身に着けた知恵も、経験も、行動力も、すべて他人に認められるために磨いたものでしかない。『フィガロの結婚』では伯爵と対等であると言わんばかりの自負心を見せた人物が、『罪ある母』では死ぬまでservoであることを望み、結局、貴族と平民の主従関係から逸脱することはなかった。他者との関係性の中にしか、彼の存在意義はない。つまり自分がないのである。自分のために力を使おうとすると必ず失敗してしまうのは、そのせいなのではないか。ここにフィガロという人物の限界が見て取れるのである。

よくフランス革命との関係を取り沙汰される『フィガロの結婚』であるが、三部作の締めくくりをフィガロの自立ではなく、伯爵との主従関係で終えてしまったボーマルシェが革命を意図していたかどうかは疑わしい(何しろヴォルテールに心酔するコテコテの王党派であったといわれている)。フィガロは優れた人物であったかもしれないが、それはあくまで従僕としてであった。で、あるからして、その行く末を知っている私にしてみれば、スザンナの”Sei tu mio servo,o no? ”という軽口が非常に皮肉な響きを帯びて聞こえるのであり、それを否定しないフィガロにも将来性を感じとることができないのである。幼少から、社会に出るまでの成長段階で彼が学んだことは何だったのか。自分を捨てて陽気に振る舞うことである。有能であっても自我が強い人間は、世間から用いられにくい。挫折を繰り返す中でフィガロは処世術を身に着け、誰からも必要とされる存在を目指したのだ。 

「おれは道具入れのケースとイギリス革のカミソリ砥ぎを取り出し、むなしい名声はそれを得て喜ぶ阿呆どもに任せ、歩く人間には重すぎる恥ってやつは道端に捨て、町から町へと髭剃り商売、ようやくのんきに暮らすようになった」(高橋康司訳) 

『セヴィリアの理髪師』での暮らしを手に入れるまでフィガロの人生が失敗の連続だったことは、このセリフを抜粋するだけでもわかる。名誉を捨て、恥を捨て、人の役に立つことに徹してようやく世間に受け入れられたのである。しかし時代や境遇は違えども、こんなことは平々凡々、人生の常ではないか。多くの人が社会に参加するために自意識を捨て去り、他者との摩擦をなるべく回避しながら、少しずつ居場所を見つけていく。それは社会と同化する上で避けがたいプロセスだ。しかし本当に自立した精神を持つ人物ならば、一時的にやむを得ずプライドを捨てたとしても、それを取り戻そうとするのではないか。フィガロは伯爵との対立の中で自由人としてのプライドを取り戻しかけながら、続編で伯爵と和解し、それを放棄してしまった。結局は進んで旧体制に甘んじたのである。私はこれをフィガロの性格の善良さであると同時に、物足りなさであるとも感じている。最後まで強烈な自我を持ちえなかったフィガロに、私は心から共感を示すことも、憧れることもできなかった。そして、これは残念ながら私がフィガロという人物を考察する以前から抱いていた印象と、あまり変わらなかったのである。変わったのはフィガロが万能で理想的な男性などではなく、案外平凡な人間であるという点だけであった。

小屋入り日の直前にこの結論に達したとき、体中の熱が引いていくかのように、フィガロと同化したいという希求も醒めていった。かつては手の届かないヒーローのごとく眺めていたフィガロへのコンプレックスは消失し、ただ性格の合わない平凡な男の姿だけが残った。好きになるために最大限の努力はしたが、やはり好きになれなかった。彼を一人のリアルな人間とみなして、徹底的に向き合った結果だった。もう無理をする必要はない。肩の荷が下りたような、妙な解放感があった。

4.輪廻するオペラ歌手

ここまで書き連ねてきたフィガロ像は、もちろん私個人が演じるために考察を重ねた結果に過ぎないし、あくまで現時点での考察である。全て書き尽くしたわけではないが、書き尽くそうとすればきりがない。だから、この辺でひと区切りつけようと思う。キャラクターの解釈に正解など無いとよく言われるものの、未熟な点はあるだろうし、受け入れがたいと感じる人もいるだろう。だが、9ヶ月にわたって自分の演じる役と毎日向き合いながら、その人物を好きになれなかった私の喪失感も察してほしい。幸い、好きではない人物を演じるのは気が楽だという側面もある。過度に役と自分とを重ねずに済むからである。公演当日、フィガロとして舞台に立ちながら、私は醒めた思いでいた。4時間の公演をやりおおせるには、それくらいの距離感がちょうどよかったのかもしれない。演じる上で役になりきることは最善ではない。特に『フィガロの結婚』のようなアンサンブルオペラで、役への過剰な自己投影は全体の調和を乱す可能性がある。永久に続くかと思われた稽古の中で培ったことを、ただ粛々と遂行する。本番はそれで充分だし、そうあるべきだ。

さて、来年一月出演予定のオペラで、私はまたしてもservoを演じることになった。能天気なフィガロと似た立場でありながら性格は極めてシリアスで、フィガロとは全く異なる道を辿った人物である。己の境遇に疑問を抱き、変革のために武力闘争も辞さなかった。民衆を率いて貴族に挑戦し、旧体制からの逸脱を実現したかに見えたが、内心では自分の手を血に染めたことを後悔し、自己嫌悪に苛まれている。雇い主に対して本気で反旗を翻した、いわばパラレルワールドのフィガロである。暴力を肯定することはできないものの、その苛烈な自我と人間臭さはあまりにも魅力的だ。彼を愛することはきっと容易いだろう。だが、容易いだけに危険でもある。どちらにせよ、一人の人間を舞台に出現させるために、また役と真剣に向き合わなければならない。それがオペラ歌手の仕事なのである。

もし再びフィガロを演じる機会があれば、新たな観点から理解を深め、できることなら骨まで愛するほどになりたいとも思う。何年先の話になるか分からないし、今後公演される『フィガロの結婚』にフィガロ役として携わる幸運があるとも限らない。伯爵かもしれないし、バルトロかもしれないし、アントニオかもしれないし、あるいは……。別に何でも構わないが、仮にまたフィガロを演じる日が来たとして、それまでに一体いくつの役と向き合うことになるのだろうか。オペラ公演を乗り越えるたびに必ずつかむものがある。稽古場で試行錯誤しながら生み出したキャラクターは、公演が終わってからも確実に演者の一部となり、ふとした瞬間に顔を出す。かつて演じた人間は、これから演じる人間と、どこか似たところがあるだろう。しかし巡り巡って同じ役と向き合ったとき、全くの別人に見えるほど自分自身が新しく、複雑になっていたい。演者は新たな人間を生み出すために、常に出会いと変化を求めている。私がオペラ歌手として生きる限り出会う役のひとつひとつが、フィガロとの再会を素晴らしいものにしてくれると願いつつ。

2023年327日    三輪 主恭

三輪 主恭 1st ソロ・コンサート

2023/4/29(土)19時~
札幌コンサートホールKitara 小ホール

プログラム

モーツァルト:歌劇『フィガロの結婚』より “もう飛ぶまいぞ、この蝶々”
ヴェルディ:歌劇『マクベス』より “空にはいつもより暗い影が落ち” 他

ご予約方法

キタラチケットセンター
道新プレイガイド
札幌市民交流プラザチケットセンター
平和ステージ・オフィス チケット申し込みページ


<著者紹介>

三輪 主恭(Miwa Kazuyasu)

(C)藤原邦匡

バリトン歌手。長崎市出身。新圭子、木村俊光などより指導を受けたのち、昭和音楽大学へ進学。給費生として学費免除され、テレサ・ベルガンサ、ウィリアム・マッテウッツィ、ダンテ・マッツォーラ、堀内康雄の各氏よりレッスンを受ける。日演連推薦新進演奏家育成プロジェクト合格。バーゼル国際新人音楽オーディション合格、審査員賞。印西国際音楽コンクールプロフェッショナル部門審査員特別賞。これまでに『カルメン』『ラ・ボエーム』『椿姫』『ロングクリスマス・ディナー』など、多くのオペラにメインキャストとして出演。特に『ノンノ』海鵜役と『アドリアーナ・ルクヴルール』ミショネ役の歌唱、演技は音楽現代、音楽の友、さっぽろ劇場ジャーナル、新聞各紙で絶賛された。ベートーヴェンの第九交響曲のソリストとして秋山和慶氏と共演。同曲のソリストとして札幌交響楽団と共演を重ねるほか、J.S.バッハの『クリスマス・オラトリオ』などでバス・ソロを務める。第1回hitaruオペラプロジェクト『フィガロの結婚』タイトルロール。

ホームページ:https://thomasdididimo.wixsite.com/website-4

 

 

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