輪廻する仮面ライダー ‐時代が望むとき、仮面ライダーは必ず蘇る(石ノ森章太郎)‐(執筆:多田 圭介)
いま真に観るべき仮面ライダーは何か。それは庵野監督のシン・仮面ライダーでもリバイスでもギーツでもない。仮面ライダー初監督作品となった白石和彌監督が手掛け、2022年10月に公開された配信ドラマ、「仮面ライダーBLACK SUN」(以下、「ブラックサン」と略)である。仮面ライダー生誕50周年記念作品として制作された同作の思想的射程は広く深い。TV版の仮面ライダーが放映開始となった1972年と現代(2022年)を交互に並走させるという特異な演出が施された同作は、この50年間に失われたものの追悼を通して、我が国の戦後史のクリティカルポイントを浮上させる。ではその「失われたもの」とは何か。白石は確信を持ってこう答えるだろう。それは、革命によって世界を変える全共闘的なロマンティシズムであって、政治的・経済的・文化的に行き詰まった日本にいま決定的に必要なのはその復活だ、と。だから本作では、仮面ライダーが放映開始となった1972年が、全共闘運動が決定的に収縮するきっかけとなった浅間山荘事件(1972年)のトレースを通して描かれる。危ない。危なすぎる。自分で書いていながら嫌悪感を禁じ得ない。だが、白石の眼はその危険性を覚悟でそうしなければ視えないものをまっすぐに見つめている。
TV版の初期仮面ライダーは、石ノ森の原作が豊富に宿していた政治性を意図的にカットすることで人気を得た作品だ。本放送のスタートは、全共闘が下火となり、世の中が世界的に消費社会に移行する時期とちょうど重なっている。単純なアクション=着ぐるみプロレスをたっぷり見せるTV版仮面ライダーの初期作は、その意味で時代の転換点を象徴することになった。だが、ブラックサンは、その放映開始年=浅間山荘事件の1972年から現代までの50年を、全共闘に代表される左翼思想の敗北の歴史として総括する。このコンセプトは仮面ライダーという作品の歴史を概観するならそれ自体批評性の高い試みだと言える。もちろん、「え~、この50年他にも色々あったじゃん」、と難癖をつけることは簡単だ(だし、その難癖は妥当でもある)。だが、臆することなく他の要素を切り落とし、コンセプチュアルな視座を徹底したことが本作を名作にしたことは間違いない。だから、「仮面ライダーに政治を持ち込むな」というよくある批判の類型は、そもそも石ノ森作品に対する無知か、創作物についての基礎的リテラシーが欠如した輩の戯言にすぎない。
1.左翼運動の復権としての仮面ライダー
本作ブラックサンは、1987-1988年に放送された「仮面ライダーBLACK」のリブートである。南光太郎=仮面ライダーBLACK SUNを演じたのは西島秀俊、秋月信彦=仮面ライダーSHADOWMOONは中村倫也。だが実質的な主人公はそのどちらでもない。監督の白石は14歳の反差別活動家である少女、和泉葵(平澤宏々路)に自らの思想を代弁させる。本作ブラックサンでは、「怪人」(人体改造を受け動植物と融合した人間のこと)はマイノリティの比喩となっている。具体的には移民、LGBT、障害者などが念頭に置かれていることが仄めかされている。そして、その怪人と人間の人種差別がキーとなる。葵は「人間」であるが、人間による怪人の差別に反対する運動家である。第1話で葵は、国連で反差別スピーチを行い中学校の教師から称賛される。いかにも学校の先生に好まれそうな、実質的に無内容なスピーチだ。曰く、命の重さは地球以上、怪人でも人間でも1グラムだって違いはない、と。だが、第1話にこのエピソードを持ってきた白石の目論見は周到である。同作が公開されてすぐ指摘されたことだが、この和泉葵という少女は、環境活動家のグレタ・トゥーンベリがモデルであることは間違いないだろう。葵と同じように、国連で環境保全を訴えるスピーチを行い世界中から称賛され、また実質を欠いた売名行為だと非難もされた少女である。白石は葵=グレタを通して彼女たち自身というよりは、彼女たちを気分よく消費する、いわゆる自分探し文化左翼のマインドを批判しようとしている。そのマインドとは、安全圏から自分は一滴の血も流すことなく、自尊心を満足させるためだけにきれいごとをTwitterで呟く。そうして、せっせと「いいね」を集める大喜利に興じる文化左翼的なマインドである。だが、監督の白石は、物語の中盤で葵自身を怪人(被差別の対象である)に改造させる。そうすることで、葵が身にまとっていた文化左翼性を克服させ、全共闘的な左翼思想を継承させる。ヒリヒリする展開だ。
全共闘的な左翼思想とは、大きな物語を他の大きな物語で解体するということ、つまりは革命である。精神分析的な言い方をすれば「父」=「象徴的なもの」を別の象徴的なものに置き換えるということだ。「想像的(イマジネール)」なものは移ろうもので漠としており定まらない。だから想像的なもの=移り変わる不定なものを、象徴的なものが支配する。革命の思想は、想像的なものを象徴的なものの劣位に置く。当然、暴力を伴うし、それを肯定することになる。しかも、権威的でない社会を作ろうというその運動体が権威性を帯びることも不可避であるし、その運動体の内部で浄化の暴力が発生することも必然である。後者は、浅間山荘事件へと繋がったいわゆる「内ゲバ」に顕著である。だから、まっとうに社会のことを考える人でも(人こそ)徐々に消費社会が進行する中で革命を信じなくなり、むしろ資本や情報のルールに思いっきり乗っかることでそのルールをどう書き換えるかという発想に変わっていった(※注1)。だが、白石は、いや革命こそが必要だと視聴者に全面的に説教をかます。それを厭わない。白石は、(おそらくは)こう考える。現代の私たちは何をしたって、どうやっても権力を他者に及ぼすことになってしまう。Twitterで一言つぶやいただけでもどこで誰の人生に影響を与えるか分からない。であれば、むしろ父であることを受け止めろ。いや、父であれ。他者に暴力を及ぼすことになっても(必然的にそうなるからこそ)正しいことをして世界を導け。これが白石の思想だ。全10話中の第9話で、文化左翼性を克服した葵は、廃バスの中でスマホを通じてもう一度国連で演説する。その際に白石の思想が露わになる。葵=白石にその強さを与えたのは何か。ビルゲニアである。ビルゲニアは、おそらくは本作で唯一、真に血の通った一人の人間として(怪人だが)描かれた。彼は、何を諦め、何を選んで生きてきたのか。旧作から一転して彼の人生と内面が掘り下げられた。ビルゲニアについて語るには、本作の勢力図を概観する必要がある。
(※注1:この側面は仮面ライダーシリーズだと平成初期作で描写された。)
2.呼びかける人、ビルゲニア
まず旧作で暗黒結社だったゴルゴムは、本作では1972年に当時の大学生が組織した反差別運動のグループという位置付けになる。ビルゲニアはその中心人物。やがてゴルゴムは内部分裂を始め、その流れで浅間山荘事件のように内部粛清を敢行するようになる。分裂したゴルゴムの第一勢力は、統治権力(自民党が念頭に置かれている)と妥協することで政府の保護を受け政府の補完勢力となる(なぜかその政党名もゴルゴム党)。ビシュムらの三神官がその主要メンバー。そこで首相の裏の汚れ仕事を一手に引き受けることになるのがビルゲニアだ。第二勢力は、徹底抵抗派で、怪人が人間を支配する世界を打ち立てようとする。これはシャドームーンの一派。第三勢力は、政権との妥協はしないが、暴力革命も行使しない。いま生きている怪人の権利は擁護するが、被差別人種である怪人がこれ以上生まれない世界を作ろうとしている。これがブラックサンの一派である。なぜかタイトルロールの勢力が最も穏健であるのは、まあ現代的とも言えるが、いまいち気が抜けるところでもある。
さて、葵はこのビルゲニアから、革命、つまり社会の摂理を改変するための決定的な「きっかけ」を与えられることになる。物語の終盤で、ビルゲニアは葵に政府の謀略を暴くための証拠を与える。さらに、二度目の演説中には、演説を中止させるための政府の特殊部隊を一人で撃退して葵を守りきる。だが、物語当初のビルゲニアは、首相の犬として汚れ仕事に手を染める役回りだった。しかも、葵の両親もビルゲニアによって殺されている。さらには、葵をたんなる悪意から怪人に改造したのも当のビルゲニアだった。葵にとって当初のビルゲニアは、「殺してやりたい他者」以外の何者でもなかった。もし、二度目の演説中に葵を守ったのが、ビルゲニア以外の人物であれば、おそらくこの物語は、葵がその相手の想いに応えたという見立てになったことだろう。だが白石は断固としてその読み方を退けるために、ビルゲニアにその役割を与える。つまり、葵がビルゲニアの呼びかけに応えたことを、間違っても「人情の有難さに感動したから」とか「愛された以上は愛し返さねば」というような互酬性や対等性の義務論として読解されたくないのだ。だから葵に呼びかけたのは、葵にとって「殺してやりたい」ビルゲニアでなければならなかったのだ。
ビルゲニアはたしかに葵にとって敵だった。だが、ビルゲニアは葵に、自分の存在を支える関係性の意味の網の目の複雑さを教えた。それが空間的にも時間的にも裾野に際限がないことを(結果的に)教えることとなったのだ。ビルゲニアはあくまでもそのきっかけであって、だから葵はビルゲニア個人に感謝するというよりも、その関係性そのものを恩義に感じるがゆえに、自分の存在の消滅と引き換えに社会の摂理を改変しようとするのだ。ビルゲニアの献身(と蛮行)に気づくことを通して、自分自身を支えてきた関係性に気づくという、こうした思想は西洋ではレスポンシビリティ(応答=責任)と呼ばれる。キリスト教圏では馴染み深いものである。「イエスの贖罪」に典型的に見られるように、イエスは律法を守るものだけが救われるという旧い契約をトートロジーとして廃棄し、他者に応答できる者が真に救われると告知する。本物と偽物の区別をしようとするのではなく、何に応答して何をしようとするか「だけ」が問われる。もちろん、こうした発想は国家総動員にでも何にでも利用できる危険なものでそれ自体では無規定である。だが、自分の存在と引き換えに社会の摂理を調整しようとする動機はこうした感覚においてしか与えられないという、おそらくは白石の原直観的な眼差しがここにはある。ビルゲニアは葵に何を教えた(教えてしまった)のか。
葵は、第1話の国連演説の段階では、怪人が被差別者で人間が差別する側であると疑っていない。だが、ビルゲニアの蛮行を通して、世界の深さを知ることになる。怪人はヒートヘブンという謎の食糧で命を繋いでいる。これは政府によって生産性がないと判断された人間の肉片から製造されている。怪人たちは高額でヒートヘブンを購入する。そのために一生懸命生産活動を行う。こうして国が潤う。そうして生産性のない人間が駆逐されることに加担していた。この構造を作り上げたのが、葵のスピーチを第1話で称賛していた、ときの首相・堂波であった。だが、ビルゲニアが葵を怪人に改造し、葵自らがスティグマと呼べるものを背負わなければ、葵はこの世界の深さを知ることはなかった。それに、怪人にならなければ両親から託された首飾りの石が怪人のルーツであることにも気付かなかった。この石(キングストーン)こそが争いと差別の元凶でありながら葵はそれによって守られてもいたのだ。これらは結果的にではあるがビルゲニアが葵に与えた「気付き」であり、葵がそれに応えたのだ。こうした描き方は原作者の石ノ森の真骨頂である。ウルトラマンが外宇宙から来訪し地上の混沌に秩序を与えるのに対し、仮面ライダーは善も悪も同じ混沌から由来している。だから、正義も悪も、動植物という自然物と融合するのだ。石ノ森はこうした善と悪が共存する世界を反復して描いてきた作家だ。彼の世界では善と悪の双方がその力の根源を等しくする。絶えずその循環構造が描かれる。ある面から見ると自分にとっては「悪」に見えるとしても、(実際に悪であることも許容しつつ)その関係性の網の目が実は自分の存在を支えているという世界の構造を示そうとする。だから、その関係性に恩義を感じるから世界を調整しようとする。世界で応報性が成り立っていないと、その犠牲になる人を放ってはおけないということになるのだ。ビルゲニアは、葵にこの構造を見せる=気付かせる。そうして、第1話では「任せて文句垂れる」だけだった葵の中から「引き受けて考える」作法を呼び覚ました。だから葵は二度目の演説で「私は世界の深さを知った」と中置きをするのだ。葵の二度目の演説の後、自分を守って立ったまま絶命しているビルゲニアに対して、葵は「ビルゲニアさん」と「さん付け」で呼びかける。ビルゲニアに対しては「お前を殺す」しか言っていなかった葵が、である。このたった一言がなぜこれほど心に響くのか。この一言に白石はどれほど多くを含意させたことか。
3.コミットメントのきっかけとしての「気付き」
いや、葵は両親と親友を殺され、そして理不尽に怪人に改造された怒りによって目覚めたのであってビルゲニアは関係ない。こういう人もいるだろう。もちろんそれも何割かはあるし、表面的にはそう見える。実際に、結成当初のゴルゴムで新城ゆかりが、光太郎と信彦をゴルゴムに勧誘する際に「もっと怒りなよ。君たちにはその権利があるんだよ」と言っている(第2話)。「怒り」は同作のキーワードでもある。光太郎が最初に変身したのは葵を怪人に改造された「怒り」からだし、信彦も俊介が殺された「怒り」からシャドームーンに変身した。だが、よく見てほしい。作中でもっとも悲痛な立場に追い込まれ続ける葵に、はっきりとした特定の「誰か」に対する怒りを見て取ることはできるだろうか。父親を殺した(葵を助けるためとはいえ)クジラ怪人に対しては怒りを向ける気配もなかった。(ビルゲニアの指示で)自分を騙したニックや、自分の怪人への改造を(同じくビルゲニアの指示で)実行したノミ怪人に対しても怒っていない。それどころか「2人にも、色々あるし。ね。」と理解を見せている。葵は二度目の国連演説の際も怒りだけに駆動されたわけではないのだ。そこにレスポンシビリティがあることを見逃してはいけない。葵を駆動したのは「怒り」というよりは「理解=気付き」だ。自分の怒りでも誰かからの説教でもなく「気付き」こそがコミットメントをもたらすというこうした発想は、やはりヨーロッパ的で、キリスト教圏では受け入れられやすいものだ(逆に日本人はこれが苦手)。宗教や倫理を持ち出さなくても、事実をきちんと認識すれば自ずからそうなるという理性に対する自然な信頼がベースとなっている。
葵は二度目の演説でもう一度「命の重さは地球以上。人間でも怪人でも1グラムだって違いはない」と繰り返す。おそらくは廃バスの外でビルゲニアが自分を守っていることを感じながら。その際、一度目の国連演説のときとはその同じ言葉の意味が決定的に変容している。第1話の一度目の演説では、「人間も怪人も違いはない」→だから「争わずに仲良く共存しよう」、こうだった。だが、二度目の演説では、「人間も怪人も違いはない」→だから「そこにどんな友情があっても、愛情があっても、同じ夢を見ていても」「戦わなければならない」へと変わった。正しいことを実行すると必ず泥にまみれることになる。親しいかどうかに関係なく戦うことになる。場合によっては法を破る人との結託もどこかで犯すことになるかもしれない。それは根源的な意味で「仕方ない」ことだ。だが「仕方ない」から「何でもあり」が出てくることはない。葛藤を強いられつつ戦うしかない。葵はこの逆説を引き受けている。自分はどうしようもない存在なのにどうして存在することが赦されているんだろう。こんな贈与がなぜあり得るのだろう。こうした奇跡の感覚が、自分の存在と引き換えに世界の摂理を調整しようという動機を与える。この「気付き」の感覚が、この言葉の意味の変容にたしかに表われている。葵は変身したのだ。
さて、もう一つ語るべきものがある。それは「無敵の男」問題である。
4.「無敵の人」問題の行方
「無敵の人」とはネットスラングで、「仕事も地位もすべて失っているがゆえに逆に何でもできる人」という意味である。本作の公開後に出た批評でかなり鋭いものにこの「無敵の人」問題を指摘したものが複数あった。本作の第10話では、首相の堂波が暗殺される。公開より半年前のあの事件が頭を過るが、制作時期的におそらくはただの偶然だろう。だが、この一致が偶然であるがゆえにそれをもって、本作が復権しようとする左翼思想が現実に追い抜かされたという見方が多かったのだ。十分に説得力もある。現実に世の中を変えるような行動ができるのは、いまや左翼運動ではなくただの「無敵の人」だったという絶望的な事実である。だが、この事実をもって本作の射程が短くなるかというとそれもちょっと違うのではないか。
そもそも「無敵の人」問題の背景には何があるか。まずは、世界的な中流家庭の経済的なアイデンティティの崩壊がある。これがトランプ現象やブレクジットの引き金になったのは誰しも知るところだろう。そして、このグローバル化の中での戦後中流の没落とコインの裏表にあるのが、グレタ・トゥーンベリのような、はじめから世界規模の環境問題を掲げて活動するような文化左翼的なメンタリティである。この両者は裏で結託している。おそらく、監督の白石はそのことに自覚的である。だから第1話の葵がグレタの比喩だと誰の目にも分かるように演出したのだ。そして、だからこそ、その葵の変容=気付きによって、無敵の人問題を超えようとしたのだ。
気付きこそがコミットメントを与える。この発想は、例えば「どうすれば倫理的なコミットメントができるか」ということをオウム以降に延々と繰り返して堂々めぐりしている村上春樹に対する批判としても有効性が高い。コミットメントというのは意図して行うものではなく、特にSNS以降はただ生きているだけで自動的に発生してしまっているという事実の認識である。オウム以降の村上の思考停止は、有名なエルサレムスピーチでの「卵と壁」に顕著だ。そこで村上は「卵がぶつかって割れ続ける壁がある限り、自分は卵の側に立つ」と言う。これは第1話の葵のスピーチと実質的に同じ主張だ。当初の葵と同じように、壁というものは自分=卵が生き延びるために築いたもので「も」ある、という関係性の意味の網の目には、村上の目は一向に向かない。世界を単純に卵と壁に切り分けて自分が卵の側だと疑わない。こうした思考の短絡性こそが、実際には差別や無自覚な暴力の連鎖の発生源になっているということに気付かない。だが、村上のようなこうした無内容な言葉はSNS上では票が集まりやすい。そしてそれが容易に換金される。皆、手軽に気持よくなりたいのだ。本作ブラックサンは、現代の情報環境におけるこうしたアテンションエコノミーの弊害に対する批判としても有効射程が長いことは忘れてはなるまい。
5.終わりに 蘇る仮面ライダー
さて、本作は公開当初から、賛否両論というよりは、いっせいに批判と低評価が集まった。そりゃそうだろう。目を背けたくなるような残酷なシーンの連続で爽快感ゼロ。毎エピソードを観終えるたびに本気でへこむ。ギャグも随所にあるが笑えない。例えば、もっともシリアスなシーンの一つだった、葵の実の父がカニ怪人となって葵を襲うシーン。カニのコミカルな動きや、葵が父の形見にとれたカニの手を持ち帰るなど、これらは明らかにギャグだ。だがしんどすぎて笑えない。ショックを和らげる役割も果たしていない。たんに悪趣味といわれても仕方がない。脚本も随所で破綻しているし、演出や基本コンセプトにも穴が多い。その弱点は主役であるはずのブラックサンの人物造形を直撃したように思えた。ブラックサンには、孫(のような)葵から自分の人生を最後に肯定されて天国へ行きたいくらいの欲望しかない。小論でも、当初はこの理由から主役について字数を割く気がしないのが難点だと感じていた。だが、下書きを始めたときに、もう1周全10話を通して見た。すると、ヒーローではない、あくまでもただの中学生が変身するからこそ、本作のコンセプトは真に効いたのだと思えるようになった。仮面ライダーは葵だったのだ。最終話で葵が変身したのはダテやサービスではなかった。
さて、内容的にこれほど錯綜した上にエンタメ性の低いこの作品は、TVでは難しかったはずだ。劇場でもコンプライアンス的に厳しい。配信だから破綻を覚悟でここまで踏み込むことが可能になったのは間違いなくある。本作は50年に渡る仮面ライダーの歴史で特異点として機能し続けることだろう。繰り返すが本作はエンタメ性が低い。第4話まではほぼ現実のトレースのみで進むし、仮面ライダーの変身もなんと第5話まで一度もない(全10話で)。だが、まあこういう企画なのだろうと頭を切り替えていたところでの最終話。ブラックサンがバトルホッパー(バイクです)に跨って最終戦闘に向かうとき、なんと旧作「仮面ライダーBLACK」の主題歌がかかったのだ。第9話までの陰鬱な雰囲気とはあまりの場違い。そして注目すべきはその歌詞。
“信じる奴がジャスティス、真実の王者、夢を見続けることが俺のファンタジー”
白石は、まさに50年の「時を超え」(歌詞の最初です)て、全共闘的な革命の「夢」を現代に復活させたのだ。旧作の主題歌が最後にかかるのは、近年のリブートものでは定番になりつつあるが、ここまでハマッたものは見たことがない。全身の血が逆流するような興奮のなか、そして、ついに、ついに、ここまでお預けをくらったライダーキックが解禁。最後に心ゆくまで仮面ライダーを堪能させてくれた。
「時代が望むとき、仮面ライダーは必ず蘇る」。
石ノ森の予言は成就した。
(多田 圭介)
※「投げ銭」するための詳しい手順はこちらからご確認いただけます