「hitaru午後のひととき」鑑賞記‐平日マチネの社会学的ポテンシャル
「hitaru午後のひととき 華麗なるフィギュアスケートの世界」と題されたコンサートを聴いた。平日の木曜日の14時開演。いわゆる「平日マチネ」。おそらく、札幌でこれだけ大規模な平日マチネのコンサートが開催されるのは初めてのことだろう。客層も多様だった。これは働き方の多様化が進んだ結果であり喜ばしいことだ。今後もっと盛んになってほしい形態だ。今回のSTJセレクトは、演奏会レポートと合わせて、平日マチネがこうした形で開催されるようになった背景についての考察として「平日マチネの社会学的ポテンシャル」という副題でお届けする。
つい十数年前までクラシックのコンサートは、平日は夜、マチネと呼ばれる昼公演は休日に行われるのが習わしだった。だが、2005年にラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンがはじまり、その勢いが金沢などの地方に飛び火すると、次第に首都圏のオーケストラや新国立劇場のオペラ、バレエ公演でも平日の昼公演が行われるようになってきた。ほんのここ十数年の動向である。20年前であれば、平日の昼間に公演を行っても「主婦とリタイア組しか来れないだろ」という冷ややかな見方をされるのが関の山だっただろう。しかし、現在の同種公演は、夜の公演と変わらない多様な客層で溢れている。今回の公演でもそうだった。ここ札幌でも、多様な働き方が市民権を得て、平日の時間の使い方を個々人が自分で管理するように変わってきているのだろう。
これからは個々人が学んでスキルを上げ、高い専門性を持つフリーランスが法人と契約してゆく、そのようなライフスタイルに否応なく変わってゆく。特殊な専門性が要求される職域であるほどそうなる。男女問わずそうだ。そうなると、平日の午前に家事や仕事をひと段落させ、午後にこうしたコンサートを楽しむというような生活はより身近になってゆくはずだ。
現在は、戦後的な社会構造(終身雇用・年功序列)が過去のものになっていると同時に、企業社会も大きく変貌している。企業は社会福祉の担い手として機能できなくなっている。まっさらな新卒を採用し企業内で教育し定年まで囲うという構造は維持できないし、すべきでもない。
このことは必ずしも悪いことではない。戦後的終身雇用を維持しようとすると、誰かは家事のみをやることになる。そうなると、家庭のあり方はいわゆる戦後総務省が定めた「標準家庭」に逆戻りすることになる。標準家庭とは、終身雇用のお父さんと専業主婦のお母さんと子供1人ないし2人という形態だ。昭和55年頃までこうした家庭形態は全家庭の実に7割を占めていたが、現在では2割台にまで減っている。現在、日本社会で起きている歪みの何割かは、各種制度を標準家庭を基準に定めていることに原因がある。にもかかわらず、依然として、税制や保育園の数、家電のスペックにいたるまで、ことごとく「標準家庭」が基準になっていることはもっと知られるべきだろう。一例を挙げると、家屋のスペック。標準家庭を基準に考えると主婦は家にいることになるから、2000年以前にできたマンションには宅配ボックスがない。宅配ボックスがないと配送業者の再配達が増え業者は人手不足に陥るのだ。
家庭の標準家庭化を推し進めると、GDPの面でも大きな弊害がある。GDPを因数分解してみると誰にも自明だが、GDPの構成要素は、労働者の数と設備投資の額と教育の質の3つに収まる。このうちもっとも基礎をなすのは労働者の数。しかし、お父さんの終身雇用を前提にした「標準家庭」ではこの条件をクリアできないのだ。そのためにも、女性を家庭から解放し、男性を企業社会から解放しなければならない。そのためには、正規雇用、正社員のように終身雇用の形態に「正」という言葉を冠し、あたかも終身雇用が「正しい」雇用形態であるかのような幻想を助長するのをやめなくてはならない。さらに、年契約やフリーランスを「非正規」と表現するのも同様にやめなくてはならない。戦後社会は、雇用問題について、「考えないですむ」時代だったが、見方を変えれば「考えてはいけない」時代だった。今は「考えなくてはならない」時代だが同様に「考えてもいい」時代になっているのだ。
もはや標準家庭が「普通」だった時代に戻すのでもなく、新しいスタンダードをつくるのでもなく、そうではなく、どういう家族構成でも適切な処遇が受けられるような、それぞれの家族構成に合った使い勝手のよい仕組みに変えてゆかなければならない。年功序列・終身雇用が維持できるための最低条件は、まず人口が増え続けること、それに、企業が保有している土地の値段が上昇し続けること、これは小学生でも分かることだ。もうそんな時代は来ない。じゃあどうするのか。非正規(という表現は避けたいのだが)ないしフリーランスの両親が共働きで二人の子供を育てることができるような社会。これが望ましい。社会構造をこのように変えるのが現状のベターな施策だ。もちろん簡単なことではない。だが、制度面では社会保障制度の一元化、慣習面では子育てを社会全体で担うように意識変革するなど、できることはたくさんある。女性の社会進出を促進することは倫理的責務であるだけではなく、もはやインフラでさえあるのだ。自民党でも石破茂はこのことの重要性に気づいており幾度かメディアでも語っていた。だが自民党の主流派は標準家庭に戻そうとしている。実現不可能なベストを語るのはテロリストか自分探しの若者だけでいい。可能なベターを一歩ずつ進めることが必要だ。
『Always 3丁目の夕日』がヒットするこのご時世。人は変わることを恐れる生き物である。こうした「変わろう」という発言は敬遠されやすいだろう。変わるのはリスクだ、と。しかし、もしリスク軽減を重視するのであれば、今の時代は変わらないことは、よりリスクであることにも気づかなければならない。「歩きスマホ」なんて言葉ができることを10年前に誰が予想できたか。戦後中流のような同一かつ均一の社会構造が数十年に渡って続くなんてことはもうない。
平日マチネの開催が増えてきたのは、こうした社会の構造の変化に対応した自然な現象といえる。とはいえ、まだまだ民間主導では平日のマチネ公演は、興行的に厳しいのも事実。hitaruやKitara、札響といった地方公共団体やそれに準ずる団体が、自分たちが世論を牽引するのだ、市民の意識を変革するのだ、という矜持を持って、明確な展望のもと、こうした公演に力を入れることが期待される。hitaruはこれからも平日マチネを継続するということだ。ぜひ、その意義について広く市民とともに考える機縁にするべきだろう。
さて、コンサートでは、副題に「華麗なるフィギュアスケートの世界」とあるように、前半では浅田真央などの有名選手が競技に使用したオペラのアリアが数曲演奏された。後半は指揮者の大友直人による選曲で、白鳥の湖のセレクションが演奏された。オーケストラは札幌交響楽団。前半にアリアを歌ったのは、ソプラノの中村恵理、テナーのジョン・健・ヌッツォ。司会はFMノースウェーブDJのわたなべゆうか。
中村はまずボエームのムゼッタのアリア「私が街を歩けば」で優れたセンスを披露した。このアリアは男たちの気を引く芝居を打つことで、マルチェッロにヤキモチを焼かせ、マルチェッロが自分に気があるかどうか試そうとしている歌だ。男なら誰でもいいというようなタガが外れたような歌になってはいけない。人前で足を出したり、かなり大胆なのだが、ぎりぎりのところで彼女の可憐さが聴き取れなくてはならない。中村のムゼッタはこのあたりのさじ加減に優れていた。
蝶々夫人の「ある晴れた日に」とトゥーランドットの「誰も寝てはならぬ」では中村とヌッツォがともにプッチーニめぐり対照的な表現を聴かせた。中村は、プッチーニの分厚いオーケストレーションを前にしても声を張り上げない。イタリアの伝統的な正攻法の発声を貫き、かつ蝶々さんの可憐な心情を見事に表現した。
対するヌッツォは、分厚いオケを突き破るべく余計な力を入れて頑張れば頑張るほど声が身体にまとわりつき客席に届かない。ヌッツォは不調だったこともあるのだろう。やや気の毒だった。だが、中村は大きな拍手と歓声を浴び、ここ札幌でもオペラの文化が少しずつ浸透してきていることを実感させた。オーケストラは、おそらく前半に関してはオケのみの練習は行わなかったのだろう。奏者がお互いに探り合いながら音を出すような様子が見受けられた。だが、後半の白鳥は十分に練習時間が取られたのだろう。各奏者が自信を持って音を出すようになった。
ただ、肝心の大友の指揮が精彩を欠いた。大友はつい先々月の12月に札響で第九を指揮し、立派な演奏を聴かせてくれた。だが、今回はマイナスが目立った。第一幕のワルツは、主旋律のアーティキュレーションに丁寧に神経を注ぎ、フレーズの終わりをスッと力を抜くことを徹底していたが、神経質な印象が強まるばかりで、優美ななかにほの暗い雲がたちこめるようなこの曲のメランコリーが感じられなかった。ナポリの踊りではTpの福田が軽やかで見事な吹奏を聴かせた。しかし、指揮には疑問を感じた。この曲は初めはAndantino quasi moderatoで軽快なカンツォネッタなのだが、後半はプレストになり熱狂的なタランテルラに展開する。大友はコンサートピースとして聴き応えを重視したのかもしれないが、カンツォネッタからテンポが速すぎてタランテルラへの展開にリズムの変化がなく単調だった。そのせいでカンツォネッタで色彩豊かにトランペットに絡みつく木管にも目が行き届かなかったのは残念だった。もちろん意図はあるのだろうが音楽的に何がしたいのか伝わらなかった。終曲、二人の愛が悪を打ち負かしたことを暗示するモデラート・マエストーソでも力みが感じられ響きが広々と広がってゆかない。ロ長調に転調するエンディングは高弦のトレモロに輝きがなく、ハープの下降対位が効果的に組み合わないなど、最後まで無用な力みが目立ち、チャイコフスキーのオーケストレーションの豊かな色彩を生かしきれなかったように感じられた。ただ、そんななかでも札響は後ろのプルトまで一生懸命演奏しており、いつもながら好感が持てた。
練習時間の短いこうした公演にあまり多くを望むのは酷かもしれないが、平日マチネをどのようなコンセプトで継続すべきかについては、ファンを巻きこみながらディスカッションすべきテーマだと思われる。ディスカッションは、答えを出すことが目的なのではなく考えることそれ自体が目的だ。自分と違うものに触れること、それを排除しないこと、文化に関わるすべてのひとがこうしたコミュニケーションに慣れる必要がある。いつの時代でもポピュラリティを獲得するのは“考えないための言葉”(=自分をマジョリティの側に置いて安心するための言葉)であるが、必要なのは「考えるための言葉」であるはずだ。