PMF2024 GALAコンサート レビュー -PMF、響け!ユーフォニアム、共同体と社会の問題-
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1.PMF GALAコンサートを聴いて
PMFのGALAコンサートでマンフレート・ホーネックが見事な仕事をやってのけた。毎年取材を続けていて、長期に渡る音楽祭の最後に、その教育の成果がはっきりと見える形に結実したところを、やっと目にすることが叶った。色々と事情はあるのだと思うが、これまで会期最後のGALAコンサートでは、アカデミー生たちの成長した姿を客席から歓びそして言祝ぐようなことは難しい状況が続いていた。ときには、未来のある、そして十分に能力もあるアカデミー生のポテンシャルが溝に流されてしまうような気持ちにさせられたこともあった。PMFは会期前半のオーケストラ公演ではかなりのところまで仕上がった演奏を披露することがあっても、スター指揮者を招聘する最後のGALAコンサートではガクッと水準を落としてしまう事態が続いていた(それが最も顕著だったのは昨年2023のダウスゴーと以前のゲルギエフ)。どこに問題があるのかは外からはもちろん見えない。だが、今年のGALAコンサートの成果に触れて、何か変えよう、変えなければ、というPMFの真剣な変化への意欲があったのではないかと感じさせられた。
PMF2024のGALAコンサートを指揮したホーネックは、20年ほど前までは頻繁に来日しており筆者も読響の客演を中心にかなりの回数を聴いている。ただその当時の印象はあまりよいものではなかった。分厚い壁に寄りかかって細部から目を逸らしたような音響が目立ち、旋律を太い筆でくっきり描き分かりやすくデフォルメされた音楽という印象が強かった。当時の彼の音楽は明快ではあるのだが陰影に乏しく、ひどく単純な、そう真夏に爽快に喉を通りすぎる炭酸水のようだった。だから、このGALAコンサートも不安のほうが大きかった。だが、あれから20年。久しぶりに来日したホーネックは別人のような名職人ぶりを見せた。一曲目のモーツァルトの冒頭を聴いて目が覚るような感覚に襲われた。
曲目はピアノ協奏曲の第22番K.482。この作品はティンパニにトランペット、それにクラリネットも組み入れられた大変に大規模なオーケストレーションを誇る。この曲に関しては「モーツァルトだから」とオケをこじんまり鳴らすと魅力が出ない。だがホーネックは堂々と、しかも引き締まった響きで奏でる。木管の扱いも丁寧。序奏に加わるクラリネットの儚さ、可憐なフルート、次々と視界に空間性が生まれる。木管の奏者(特にクラリネット)のレベルもすこぶる高い。続くヴァイオリンの旋律も、ボウイングが徹底的に整えられており、フレージングが豊かに息づいている。ここまで聴いただけで厳しい練習を積んでこの本番を迎えたことがよく伝わってきた。かつてPMFのオーケストラから(筆者の経験では一度も)聴こえたことがない種類のもので、ユースオケとしては申し分のない開始だった。第一楽章では、カデンツァに入る前のオーケストラの16分音符にもっと湧き上がるような躍動感があればもっとよかったのだが、おそらく、ボウイングを念入りに整えたために、部分的に生気が減退してしまった箇所は少なからずあったように感じた。もちろん、アカデミー生にとってよい試練であって、こうした経験を大事に乗り越えていってほしい。
ソリストはティル・フェルナー。一つ一つの音がキリッと冴えており、それが滑らかに連なる。繋がってしまうのでもなく、バラバラになってしまうのでもない。絶妙なのだ。そしてほとんど表情をつけずにスッと弾く(※注1)。なにもしてないように自然なのが、哀しいほど美しい。
(※注1:実際は展開部冒頭の弱音指定のアルペジオをフォルテに変えたり(220小節)、フェルナーは随所にかなり手を入れていたのだが、それをまったく感じさせないほど自然だったということである。)
第2楽章では、ロマン派を予告するようなこの悲しみの変奏曲を緻密に設計する。主題は深沈としている。かなり遅い。だが流れは止まらない。指揮とは本当に不思議なもので、才能のない指揮者が指揮台に立つと、音楽が一定のテンポで前に進むことさえ怪しくなる(その典型は大植英次)。ホーネックの音楽の流れのよさは本当に優れている。木管のアンサンブルになる第2変奏は彼岸から響いてくるように聴こえる。面白かったのはハ長調で明るくなる第4変奏に向けて1変奏ごとにほんのすこしずつテンポを速めたことだ。ハ長調への期待が少しずつ膨らんでゆくように前へ前へと歩みを進める。こんな表情があったのかと思わされた。コーダで元のテンポに戻すときの雰囲気の変化も素晴らしい。ホーネックの指揮姿を見ていると、どこでどのように雰囲気が変わるのか手に取るように分かる。そして、その通りに音が出てくる。ずっと指揮から目が離せなかった。
快速なフィナーレには、中間部にAndantino cantabileが出てくる。ホーネックはここをallegrettoくらいで、もたれないように細心の注意を払う。木管のハーモニーの豊かさ、フェルナーが自在に即興を加える艶やかさ。ここも聴きどころの一つとなった。モーツァルトの20番以降のピアノ協奏曲では、このK.482は演奏される機会が少なすぎる。こうしたよい演奏で聴くと、有名なK.488やK.467にまったくひけをとらないし、個人的にはK.595と並ぶ最高傑作だと言いたくなる。モーツァルトのピアノ協奏曲で最もオーケストレーションが豊かなのだが、それをホーネックが丁寧に音にしていったからそう感じさせられたのだろう。
後半はマーラーの交響曲第5番。演奏には講師陣が加わった。だがオーケストラはアカデミー生だけのモーツァルトのほうがずっとよかった(PMFのオケはいつもそうなる)。とはいえ、規範的で立派な演奏だった。近年の刺激的に細部を強調したマーラーの演奏(筆者は好みだが)とはまったく違う。安心して身を委ねることができる(マーラーが安心できる音楽であっていいのかという疑問はあるが)。だがひたすらエネルギッシュに前進するのとはまったく違う誠実な仕事だったのは第一楽章が開始してすぐに分かった。例えば、最初の葬送でチェロに出てくる3連符の音型は、フォルテとスフォルツァンドに細かく書き分けられているのだが、こうしたところを勢いで誤魔化さずに念入りに処理してゆく。金管のトゥッティのさなかのスネアのロールもよくコントロールされている。ホーネックの指揮の集中力も依然落ちない。主部の変容では(練習番号12)”schwer(重く)”の指示があるが、ホーネックはテンポを変えることなく、重たい身体を引きずるような表情を引き出す。遅いのだが遅さを感じさせない。神経が行き届き陰影に富んでいるからそう感じさせないのだ。
スケルツォもよかった。3拍を一つでとって、優雅に弧を描くなかに様々なニュアンスのアクセントが明滅する。ウィンナワルツのようなレントラーを切り裂くスフォルツァンドも申し分ない。フィナーレは、まず冒頭のクラリネットが上手い。プロのオーケストラ奏者にまったく遜色ない。低弦から始まるフーガ主題のスフォルツァンドがずっと弱かったのは残念だったが(理由は分からない)以降は村祭りのように音楽が弾んでいる。やはりボウイングをよく統一された結果、弦の生気が失われてしまった箇所はあったのだが、オケと指揮者ともども並々ならぬトレーニングの結果を実感させたマーラーだった。
アカデミー生にとっては、おそらくラクで楽しい演奏ではなかっただろう。苦しいリハーサルを重ねた後の極度に集中力を強いられる本番だったはずだ。だが、だからこそ価値がある成果となった。
2.「響け!ユーフォニアム」と共同体の問題
筆者はこのPMFの変化を目の当たりにして、同じ7月に完結したTVアニメ「響け!ユーフォニアム」のことを思い出していた。約9年続いたこのシリーズは、主人公の黄前久美子の北宇治高校の吹奏楽部での3年間の成長物語を描いた。久美子は、シリーズ全体を通して、友達と楽しく誰も嫌な思いをしないで音楽ができればよいという「共同体」重視の姿勢から、何よりよい演奏をすること、結果を残すことを優先する「社会」重視へと変化する。部内の空気も実力主義を当然のものとして受け入れるように変化してゆく。学年が上でも、どれだけ人望があっても、実力がなければコンクールには出場できなくなる。
ここには、人を温かく支える「共同体」を美しく描いてきた京アニ自身の自己批判がある。もう自分たちは現実をごまかすためのサプリメントではなく、口当たりはよくなくても、しっかり食べ応えと栄養のあるもの出していくんだという態度表明である。その姿勢は7月に完結したアニメ第3期に顕著に表れていた。
第3期では3年生になった久美子の元に強豪校から同じパートの転校生、黒江真由が現われる。真由は最強のライバルとして久美子の前に立ちはだかり、久美子とコンクールのソロの座をめぐってオーディションで激しく争うことになる。原作では、3回ある大会の2回目の関西大会で真由にソロを奪われた久美子は、最後の全国大会でその座を奪還し、読者の誰もが傷つかないハッピーエンドを迎える。だが、京アニはTVアニメ版でここにメスを入れた。これでは、だれも嫌な思いをしない「共同体」に戻ってしまうからだ。アニメ版の第12話では、全国大会直前の最終オーディションで久美子は再びオーディションに敗れソロの座を真由に二度続けて奪われることになる。部員全員から慕われている久美子が負けたことで部内には動揺が走る。だが、そこで久美子は「これが今の北宇治のベストメンバーです!」と演説をぶちかまし、共同体重視の生ぬるい空気を突破させる。
このシーンは、同質性の高い共同体にフォーカスして現実を誤魔化すのではなく、現実そのものに対峙しようという京アニの意志表示であり、かつ、「共同体内部での承認」と「社会的な評価(仕事の内容)」では、明確に後者を優先すべきというアニメ版「響け!ユーフォニアム」の思想の完成だった。オーディションの後で久美子は親友の高坂麗奈の前でだけ「死ぬほど悔しい、でもこの気持ちも誇りにしたい」と涙をこぼす。このシーンがなぜこれほど心を揺さぶるのか。それは、人の気持ちなどよりも遥かに大切にすべきものがあるという絶対的な真実の尊さとそれを追求することの厳しさを久美子が身を持って自覚した瞬間だからだ。この第12話の原作からの改変がなければ、京アニ版「響け!ユーフォニアム」は傑作にはならなかったし、同作は成長物語としてのコンセプトをまっとうすることもできなかっただろう。
3.「江戸しぐさ」と共同体の問題
この「響け!ユーフォニアム」の「共同体から社会へ」という変化にはPMFの今後を考える上で大きな示唆がある。PMFが「バーンスタイン」、「平和」などの「物語」を大切にしていることはよく知られていよう。だがそうした物語の内実が事実上、問われないままに、その物語を記号的に信じることでPMFという組織は「社会」ではなく「共同体」となってゆき、結果、十分に思考されていない言説を、権威を背景に流通させてきてしまった。それが年に一回の祝祭の空洞化を招いてきた。そこから私たちが気づくべきことは、伝統を守るために共同体が必要なのではなく、実際のところは、共同体を維持するために伝統のような(記号化された)物語が必要になるという逆転現象が起きているという事実だ。それが30数年かけてPMFを内側から蝕んできてしまったのは間違いなくある。
Qアノンや陰謀論などがその典型だが、人を惹きつける運動というものは、大なり小なりこうした物語を必要とする。そして同じ物語を信じることで、構成員のメンバーシップを確認することが目的であるかぎり、その物語の「内実」は問われない。「元ウィーンフィルのメンバーが今でもPMFに参加してくれているのは彼らにとってバーンスタイン時代の思い出があるからです」(注2)。PMFを愛する人はこうした語り口を好む。こうした語り口は、物語を信じること、そしてそれを信仰する人同士で関係が結ばれることのほうを目的にしてしまう。となれば、物語の中身は実質的に入れ替え可能となる。そしてその仕事の内容は問われなくなってゆく。ライナー・キュッヒルが十分に功績があり敬意を払われるべき人物であるのは間違いない。だが、いまでもその演奏で範を示すに相応しい存在であるかどうかがなぜ問われないのか。PMF2023のPMFベルリンで、おそらくはリハを行っていない金管アンサンブルを披露した後にホルン奏者のサラ・ウィリスはマイクをとって「私たちはPMFが大好きです!」と叫び会場を興奮の渦に巻き込んだが、なぜそれについて疑問の声が聞こえてこないのか。
(注2:北大で開催されたイベント「レナード・バーンスタインの生きた世界とレガシー」(2023/7/17)の中でのパネリストの発言。北海道新聞の2023年7月29日夕刊にその報告記事「バーンスタインの「遺産」今も」が掲載されている。)
「江戸しぐさ」を例にもう少し考えてみよう。「江戸しぐさ」とは江戸時代の慣習や所作を意味する言葉で、現在でも東京都民の行動の指針となっているとされている。「傘かしげ」(人とすれ違うときに傘を傾けて雨がかからないよう配慮すること)や「こぶし腰浮かせ」(他の人も座れるように長イスの端を空けること)などがそうだ。これらは1980年代から他者の心への細やかな気配りを大切にする文化だとしてある団体で推奨されて広められてきた。だが、実際はそれらは芝三光が創作物のなかで作り上げた「お話」であることが明らかとなっている。つまり「でっちあげ」だったのだ。だが、ここで注目したいことは、この「江戸しぐさ」が90年代から21世紀にかけて、保守派の市民運動のなかで再度注目され定着していったという歴史的経緯だ。実際は右派の市民運動に都合よく利用されて持ち上げられたのだが、小中学校の道徳教育の副読本に採用されるまでに拡がりを見せてしまった。
なぜここで「江戸しぐさ」の例を挙げるのか。それは、「江戸しぐさ」からQアノンまで、名前だけが引き継がれ、メンバーシップの確認(政治的動員)が優先されるときに何が起きるのかを考えてほしいからだ。連帯したい、集まりたい、そこで継続的に承認を獲得したい。こうした欲望を性急に叶えようとするとき、そこで掲げられる物語の内実はどうでもよくなってしまうのだ。関係が維持され、共同体内での承認を維持しようとすると、往々にしてその求心力を耕地率的に獲得するために、名前が持つ記号的な物語が採用され続けることになる(注3)。
(注3:「江戸しぐさ」については、歴史研究家の原田実氏の研究から多くの示唆を得た。月刊誌『第三文明』の2014年12月号に掲載された「虚偽で形づくられた「江戸しぐさ」の正体とは」、『江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統』(星海社新書、2014)等、丁寧に典拠をあたって積み重ねられた原田の議論には説得力がある。)
その口では敵/味方の境界線をひかない共同体を標榜しながら、実際は「名前」に対する批判やそれどころかその内実についての丁寧な検討を求める声を排除し、その対象を敵視することで結束を固める。こうした現象は私たちの身近に溢れている。「名前」に帰依するという「関係」があればすべては認められる(批判されない)し、他の要素は事後的にいくらでも書き換えられる。これがもっとも参入コストの低い「共同体」の本質であり、吉本隆明はそれを「関係の絶対性」と呼んで蔑視した(注4)。メンバーシップの確認と権威づけに対する効率がよければ、その背景となる思想の内実や歴史的経緯は、あるレベルから問われなくなる。これが共同体の罠である。
(注4:吉本隆明『〈信〉の構造2 キリスト教論集成』春秋社、1988、109頁)
「響け!ユーフォニアム」でも、久美子が入部する前の、楽しいことが一番だった頃の共同体主義の北宇治高校吹奏楽部のエピソードが挿入されている。そこでは、空気を読み違えて部の中心メンバーの機嫌を損ねた部員が大量退部に追い込まれていた。そして、そうやって「共同体の中心に近い人だけ」は誰も嫌な気持ちにならない楽しい部活が維持されていたことが仄めかされている。そこから、共同体内の空気によってハラスメントが黙認されるの「ではなく」、実際は、ハラスメントを黙認することで、共同体内の「空気」が発生し、その空気を共有することで共同体は維持されるという構造を読み取るのは難しくない。筆者は「響け!ユーフォニアム」の第3期の12話は、その現実から目を逸らすべきではないという意思を示したと理解している。
しばしば誤解されているが、「共同体」は弱者に優しく、「社会」は弱者に冷たいというのは嘘だ。共同体は実際には強者が圧倒的に得をするシステムだ。主役と端役が区別され、敵が設定され、共同体内では共通の敵が再設定され続けることで求心力が維持される。対して「社会」のほうは、同じ物語を共有していなくても、同じ人を尊敬していなくても、互いがどこの誰かを知らなくても、同じルールに従ってただ目的(PMFの場合はよい演奏)を共有してさえいれば成立する。本当の意味で多様性が高いのはどちらか。どのような才能であっても、横断的に物語を共有して「いない」異質なものと掛け合わせないと新しいものは生まれない。だから、人と人の繋がりが共同体になってしまわないように、常に注意深く、知恵を出し合って、そしてそれを記号的な名前ではなく、具体的な仕組みに落とし込んでゆく努力を不断に継続しなければいけないのだ。それが本当の意味で人を成長させる。
4.共同体と文化の問題
とはいえ、共同体は不可避的に発生するものであって、私たちはその存在から免れることはできない。だが共同体内の文脈に思考停止することで人は想像できないほど多くのものを失う。最後になぜ人は共同体を求めてしまうのかについても考えてみたい。もちろん、動員したい、継続的な承認を獲得したい、という欲望を性急に叶えようとするときにそうなることはすでに述べた。だが、「文化」という側面からもう少し考えを進めたい。
筆者は、文化に関わる人が性急に共同体を求めてしまうのは、端的に「作品をしっかり味わうことをしていないから」ではないかと考えている。どうも少なからぬ人は、音楽を、映画を、料理を、しっかりと味わっていないように見えて仕方がない。違う言い方をすれば、対象に魅了されていないし、夢中になっていない。だから、見せびらかしたり、依存したり(あの人が「よい」と言っているものを「よい」と理解できる自分の感受性はダメではないという自己正当化ツールとして文化を使う)が目的になってしまい、対象をしっかり味わうことから遠ざかってしまうのではないか。目の前の一食一食を、目の前の音楽を、大切に、真剣に、全身で味わうとき、こうした自慢や依存などは極めてどうでもよくなる。こう考えるとき、文化に関わる人が(資本主義を批判して新しい生活様式を提案する人がetc.)、共同体に回帰し続けて人間関係で得られる承認を求めてしまうのは、他ならぬ自分が関わっている文化の対象を心から大切に思い、それを味わっていないからなのではないかと思えてくる。
「ぼくがこの活動を通して本当にやりたいことはコミュニティづくりです」。文化的な活動の主宰者からしばしば聞かれる言葉だ。だが、こうした言葉にうっとりすることができる人は皆どこか共通した鈍感さを感じさせる。それは、コミュニティというものが内側と外側を区別することで成立するものであること、そしてその維持には常に線を引き直し続ける必要があること、そしてその事実がもたらす膨大な副作用に対する鈍感さなのではないか。「いや、人間は遥か昔から共同体を形成して生き延びてきたんだ。人間はソーシャル(共同体的という意味で)な存在です、繋がりは宝です」という人がいるかもしれない。そういう人のほとんどは、自分が有利な立場でコミュニケーションすることができるコミュニティを手放せなくなっているだけのように見える。もし本気でそう考えるのなら、熱帯雨林で仲間と狩猟生活でもして、不衛生な水を飲んで感染症にかかりまくる生活をすればいいと思う。
人は裸眼では自分の周囲を取り囲んでいる共同性を割引いて見ることが難しい。だから批評的な知性というメガネが必要となる。PMFに必要なのはこうした人間の知性への信頼だと感じる。そこで求められるのは「メンバーシップ」ではなく、つまり、共同体の一員としての承認ではなく、何よりよい音楽をすることを目的とした「パーミッション」(邪魔しない、排除しない)という消極的な容認のビジョンだ。PMF2024のGALAコンサートに触れて、少なくとも筆者はその可能性を感じた。それが、変化を求める意図的な姿勢の結果なのか、それとも外的な要因の積み重ねによる偶然の産物なのか、筆者には分からない。だが、垣間見えた希望の種を大切に育て、そうしていつかは誇りある音楽祭へと変わっていってほしい。心からそう願っている。
(多田圭介)
オマケ:クララ=ジュミ・カン&キム・ソヌク、デュオリサイタルのこと
7/15にKitaraの小ホールで開催されたVnのクララ=ジュミ・カンとPfのキム・ソヌクのデュオリサイタルは稀にみる素晴らしさだった。筆者はクララ=ジュミ・カンというヴァイオリニストに以前から関心があったのだが、この日、初めて彼女の神髄に触れたと感じた。それはピアニストのキム・ソヌクとのデュオで発揮されたものだった。このコンビが持つ極めて繊細な味わいは、可能な限り振幅を広くとった演奏家らは絶対に期待できない種類のものだ。開放弦やノンヴィヴラートの効果も、それ自体は今は古楽でなくてもどこでも聴けるものだが、彼女たちの演奏から聴こえるものは独特だ。まるで雪片が風に舞うように軽やかなのだが、どこか感傷と恍惚の匂いがある。もちろん、感傷や恍惚といっても、かつての名演奏家のようなものではない。潔癖といってもよいくらい清潔感があり、まるで白糸の滝が線をなしているようなのだ。背後で動くピアノもときに夜の闇でゆらめく水面のようだし、ヴァイオリンとの響きの重なりは万華鏡のように細やかな表情を創り出す。ヴァイオリンとピアノのデュオとしては、おそらく現在聴くことのできる最上のコンビのいくつかに匹敵、あるいは部分的には凌駕するだろう。演奏の歴史に新しいページを付け加える素晴らしいコンビの招聘に讃辞を贈りたい。