札幌劇場ジャーナル

ウィーン放送交響楽団 <指揮:マリン・オルソップ/ピアノ:角野隼斗>演奏会レビュー 9/17@Kitara大(執筆:多田圭介)

ウィーン放送交響楽団
日時:2024年9月17日(火)19:00開演(18:15開場)
会場:札幌コンサートホール Kitara大ホール
曲目:
●モンゴメリー:ストラム
●モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番「戴冠式」ニ長調 K.537
●ベートーヴェン:交響曲第3番「英雄」変ホ短調 Op.55

主催:オフィス・ワン

ウィーン放送交響楽団の札幌公演を聴いた。指揮はマリン・オルソップ、ピアノ協奏曲のソリストには角野隼斗が登場した。プログラムの3曲の中ではモーツァルトのピアノ協奏曲第26番「戴冠式」が突出して素晴らしい演奏だったのでそれを中心に書きたい。

角野のピアノを聴くのはこれが初めて。たまたまタイミングがなかったためだが、今まで聴かなかったことを後悔した。彼の凄さについて何から書けばよいだろうか。驚きの連続だったので書きたいことがとめどなく溢れてくる。演奏家としての最も基本となる「音」から始めることにしよう。

当日の座席はKitara大ホールの2F正面のCBブロックだった。このブロックはKitaraの全エリアで最も音がよくない。濁るし、のっぺりするし、視覚的には近いのに音が遠い。オーケストラの演奏で指揮者が特定の声部を際立たせても、この席だとほとんどの場合それが分からなくなる。均されてしまって平板になる。低音の輪郭もなくなってボヤけてしまいがちだ。ここでピアノ協奏曲を聴くと、ピアノソロがほとんど聴こえないこともよくある。だが逆に言えば、よほど奏者が優れていればその悪条件を撥ね退けることもあるということになる。その意味では奏者の力量を計るのにはよい面もあるエリアだ(あまり座りたくはないが)。

この席でピアノ独奏を聴いて、この楽器が持っている豊かな響き、クリアな輪郭、ささやくような弱音、そのすべてが伝わってきたのは、最近だと牛田智大くらいだろうか。だが牛田は深々とピアノを鳴らすタイプ。ホールの音響のハンデを受けにくい。角野はどうか。彼の音は清流のように透明で絶対に威圧的にならない。このタイプは席を選ぶ。はずなのだが、すーっと伸びてくる。まずこのことに驚かされた。駆け抜けるようなパッセージでもだらしなく繋がってしまうことがないし、装飾音符も和音もすべてが明瞭。その澄み切った音は、やはり川の流れのようだ。それもうんと上流のまったく濁りがない清流。こんな音でピアノが弾けることがまず驚異だし、大ホールの、それも音響的に不利な席にも自然に届くようコントロールされていることも本当に凄い。ちょっと経験したことがない種類の美感だった。

(C)Takida

演奏についても何から書けばよいのか。全3楽章に渡ってモーツァルトの魅惑が全開になっており、どこかに絞るのが難しい。帰宅後にスコアを開き印象に残った箇所に付箋をペタペタと貼っていったのだが、その数は数十枚になった。だが、一箇所だけ挙げろと言われたらここしかないだろう。第2楽章ラルゲットの後半だ。この楽章は単純な3部形式で書かれている。まず、その中間部で角野はほとんど即興演奏のように華麗な彩りを聴かせた。その直後のことだ。

フェルマータを挟んで最初の主題に戻るところ(72小節)。角野は実際の記譜よりも1オクターブ上に駆け上がり、ピアニッシモで主題を奏でた。かつて聴いたことがないオルゴールのような音がする。魔法の世界に迷い込んだようにメルヘンチックな響きが拡がる。その魔法の時間はほんの一瞬。4小節後には元の音域と音色に戻る。創作カデンツァと言ってもよい。だが、いくら角野の音色のコントロールが優れていようとも、ピアノからこんな音はするだろうか。タネをばらそう。この楽章はA-dur(イ長調)なのだが、角野は第3部に戻る直前のフェマータに即興を入れ、そこでオクターブ駆け上がるときに半音低いAs-dur(変イ長調)に転調させたのだ。異世界に紛れ込んだようなあのピアニッシモはこの半音の「差異」が生んだ効果だ。オケが休みでピアノが裸になる一瞬の間隙を突いた心理劇だった。もちろん楽譜にそんなことは一つも書いていない。すべて角野の創作だ。転調は3度でも5度でもこの効果は出なかった。しかも、その演奏にあざとさは皆無。純粋で無垢で無邪気。最後に同じ主題が繰り返されるところで角野はもう主題を弾かない。高いE音のトリルを奏でた。天国の明るい光が降り注ぐように優しい。触れたものを一瞬で浄化してしまうような明るさで、涙が滲むように優しい。

(C)Ryuya Amao

ピアニッシモの音色、大ホールの隅々までしっかり届くコントロール、そして心理的な効果を完璧に計算した理知的な設計。にもかかわらず(ここが何より大事なのだが)モーツァルトの音楽が持つ純粋で傷つきやすい魂がまったく壊れない。筆者は仕事柄、年中優れたピアニストの演奏を聴いている。才能の塊のようなピアニストに出会うことも珍しくない。だが、そのほとんどは予想できる範囲の驚きに収まる。しかし、角野のピアノはちょっと辞書にない感覚がある。その天衣無縫な才能の迸りはモーツァルト本人を思わせるのだ。

角野のピアノを清流のようだと書いたが、その「川」はすべてを優しく受け入れる「海」に繋がっているような感覚がある。吉田秋生の小説に『海街diary』という作品がある。同作には、「どうしようもない理不尽」に人生を翻弄された人々が登場する。夢を掴みかけた瞬間にすべてを奪い去る病魔、遺産をむしり取ろうとする親戚。世の中にはこうした個人の力ではどうやっても抗えないような世界の欠損がある。青年期であれば撥ね退ける力やそれを受け入れ克服する成熟の物語も描けよう。だが、同作でそうした欠損と向き合っているのは死と直面しているホスピスで暮らす人々なのだ。終わりが近づいた人に世界の欠損に抗う時間はない。死の間際まで絶対に納得できない出来事とどう向き合うか。これがこの小説のテーマ、つまりすべてを受け入れる「海」のテーマなのだ。吉田は、死の予感と共に欠落と対峙する人々に、ぎりぎりまでその痛みを緩和する優しさを提示し続ける。けっして大上段に構えない。説教もしない。あくまでも静かな語り口で、しかし確信を持ってそれを言葉にしてゆく。角野の音楽は川のように清らかでありながら、海のように人を受け入れる。彼が奏でたモーツァルトには、吉田が描いた「海」の優しさと強さがたしかに響いている。けっして大言壮語しない。まるで毎日の食事を一食ずつ大切に経てゆくような強さで音を奏でてゆく。そこに彼の最大の美質がある。文学でも音楽でも、こうした優しさを確信をもって提示する姿勢と手腕は本当に貴重だと思う。世の中には政治が機能しない領域というものが絶対に必要だし、それだけが救えるものというのは間違いなく存在する。角野が奏でたモーツァルトにはその豊かさがたしかに響いている。

(C)Takida

ウィーン放送交響楽団 (c) Theresa Wey

他にもスコアと違った箇所についてずらずらと書こうと思っていたのだが、角野の音楽について書いていると、そんな衒学的なことはどうでもよくなってきてしまった。オルソップとのコンビもこれしかないという呼吸感だった。第1楽章の疾走するようなテンポもソリストが角野であればあれしかなかっただろう。ただ、後半のベートーヴェンの英雄は筆者にはよく分からないところが多かった。少しだけ書いておこう。フレーズを短くとり速めのテンポで焚きつけるような基本コンセプトは現代的なのだが、それにしては個々の箇所にそのコンセプトとの食い違いが多かった。それが出てくる音楽にチグハグな印象を与えてしまった。

(C) Nancy Horowitz

一箇所だけ挙げよう。第2楽章の展開部にはこの楽章の最大の聴きどころである3重フーガがあり、その頂点で3番ホルンにその主題がくる(135小節)。ここは20世紀中頃の指揮者たちは、手の空いている他の12番ホルン奏者にも吹かせることが多かった。かつてはテンポも遅かったので、悲しみが膨れ上がってゆくような音楽になる。だが、現代では、楽譜通りに3番だけで吹かせることがほとんどだ。テンポも速めでむしろフーガの各声部(ホルン以外も)がしっかり聴こえるように、すっきりと明晰に鳴らすことが多い。オルソップの基本コンセプトも明らかに後者なのだが、なぜかホルンを3人で吹かせている。しかも、にもかかわらずホルンがほとんど聴こえない。二重によく分からない。全楽章に渡ってこういうところが多く筆者はあまり音楽に集中できなかった。だがオルソップはよく振れており視覚的には指示も的確で、オケの疲労など他の問題があったのかもしれない(特に管楽器にそれを感じた)。1曲目に演奏されたモンゴメリー作曲のストラムのほうが、このオケの弦楽器の高級な木材のような風合いがよく映えており聴き応えがあったが、モーツァルトのインパクトが大きすぎた。

(C)Takida

この記事はどうしても角野の美しい記憶で締めたいので角野のアンコールについて書こう。アンコールはショパンの子犬のワルツだった。各音が完全にキリっと立っているのだがそれでいて音楽の流れが失われない。結晶化した音の粒が嬉々として駆け抜けてゆく。中間部は一転して夜の音楽。ジャズのリズムで再構成されたショパン。後半は3拍子を2拍でとったり変幻自在だが、やはりまったくの自然体。奇を衒っているように聴こえないし、誇張も感じさせない。上質の極みだ。

角野の音楽は「こうでなくてはならない」という枠組みから半歩離れて、イメージが変わるそのたびにその都度のイメージを肯定する。移り変わるたびに、名づけられなくても、自ら輝きだす。そういう強さがある音楽だ。ヨーロッパの近代は人間の内面に本質があり、それを葛藤に耐えながら発現させてゆくことが人間の成熟だと考えた。角野にその匂いはない。むしろ、自分の外側にアクセスすることでその都度変化するイメージを自分の力で肯定する。

ただ、こう言っても、正直に言ってなかなか言葉が追いつかないところがある。手持ちの言葉で彼の音楽を切り取ってしまうことにも抵抗感が出てしまう。この特別な音楽家を言葉で表現するためには、自分の言葉ももっと研ぎ澄ませなければいけない。いつか、彼の音楽を相応しい言葉で語れるようになりたい。そんな風に感じさせてくれた筆者の人生にとっても特別な夜だった。

(C)Takida

(多田圭介)

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