【特別寄稿】「ブルックナーの使徒」フェルディナント・レーヴェ ~「私のベルリオーズ」(ブルックナー)の忘れられた功績と遺された罪~(執筆:甲斐 貴也)
目次 |
1. はじめに
ブルックナーの交響曲第9番の初版楽譜を改竄したことで悪名高いフェルディナント・レーヴェ(Ferdinand Löwe, 1863-1925)は、一方で当時指折りの偉大なブルックナー指揮者であり、師ブルックナーの音楽の普及に尽力した功労者であった。今日忘れられたその人物像と功績に光を当てるとともに、第9番のほぼ完成に近づいていた第4楽章自筆譜の部分散逸と過小評価に関わったとされるその「罪」の両側面を考察する。
2. 人物と業績
1863年ウィーンに生まれたレーヴェは、まずピアノ演奏で頭角を現し、1872年ウィーンのピアノ教師エドゥワルト・ホラークのピアノ学校(現在のフランツ・シューベルト音楽院)に学んだ。1877年ウィーン楽友協会音楽院に入学。大ピアニスト、ヴラディーミル・ド・パハマンの師でもあるヨゼフ・ダックスにピアノを、フランツ・クレンに作曲を、そしてブルックナーにオルガンと対位法を学んだ。同音楽院でレーヴェは後に初版の校訂で同じく名を残すヨゼフ・シャルク(Joseph Schalk, 1857-1900)とフランツ・シャルク(Franz Schalk, 1863-1931)のシャルク兄弟、シリル・ヒュナイス(Cyrill Hynais, 1862-1913)らと共にブルックナーのお気に入りの生徒となり、1875年に入学していたグスタフ・マーラー、フーゴー・ヴォルフらとの親交を得た。ヴォルフ、シャルク兄弟とはワーグナーへの熱狂で意気投合し、共にバイロイトを訪ねてワーグナーの楽劇を鑑賞した。レーヴェはヴォルフの歌曲作曲やオペラの台本探しを助け、歌曲作品演奏会でピアノを弾くこともままあった。
音楽院卒業後は、同学院で1897年までピアノ科と合唱科の教授を務めるかたわら、オーケストラの指揮活動を始めた。またブルックナーの交響曲第1番、第3番のピアノ編曲を手がけ、ヨゼフ・シャルクと協力して、ウィーン・アカデミック・ワーグナー協会(Wiener Akademischer Wagner-Verein)において、ブルックナー交響曲のピアノ編曲版の演奏会を度々開き、上演機会の少なかったブルックナー作品の普及に努めた。(Rauner, p.61)
1888年には交響曲第4番の初版譜校訂に携わり、翌1889年の出版に尽力した。この第4番の校訂もかつてはレーヴェによる改竄を疑われたが、その後の研究によって現在ではブルックナーの承認を得ていたことが明らかになり(ヒンリンセン、p.123)、2004年にコーストヴェット校訂による原典版第3稿として出版された。1895年にはミュンヘンのカイム管弦楽団(現ミュンヘン・フィル)を指揮して交響曲第4番初版を演奏。同年ブダペストに赴き、フランツ・シャルクが校訂した第5番初版を、ブダペスト・フィルを指揮して演奏。ついでミュンヘンでも上演して大成功を収めた。この時の第5番の名演奏ぶりは、ブラームスの友人でブルックナーを攻撃したことで有名な批評家マックス・カルベック(Max Kalbeck, 1850-1921)までもが絶賛するほどであった。当時の『新ウィーン日刊新聞』にカルベックの批評が掲載されている。
「熟練した大家の忍耐強い愛だけが、この鳴り響く混乱から、秩序だった世界を築き上げることに到達できた。混乱の中にある秩序だった世界を・・・【略】・・・彼の交響曲は、価値の高い細部において豊かで、トロンボーンによるコラールを伴う終結部は、あるときは教会の雲の中へ高められた変容のように、あるときには天から落ちてくる最後の審判のように現れる。その終結部は、響きの尊厳においてベルリオーズ以来この点に関して成し遂げられたものすべてを凌駕している。」(渡辺美奈子訳)(Rauner(1995), p.128)
レーヴェはこの年カイム管弦楽団の首席指揮者に就任し、在任中にブルックナーの交響曲を次々と上演して評判を高め、同管弦楽団は「ブルックナー・オーケストラ”Bruckner-Orchester”」の異名を得ることとなった。1896年10月11日に死去したブルックナーの葬儀(同月13日)において、レーヴェは宮廷歌劇場の管楽器奏者たちを指揮し、自らの編曲によるブルックナーの交響曲第7番のアダージョを演奏して追悼した(Rauner (1995), p.77)。
1898年にはオペラ指揮者となる念願が叶い、ウィーン宮廷歌劇場芸術総監督となっていた先輩マーラーの元で副指揮者を務めた。だが、これはわずか1年という短期間で契約満了になった。マーラーの助手を事実上解任された形とは言え、二人の友好関係は継続していく。その間1899年4月にはウィーン・フィルに客演してブルックナーの交響曲第5番ウィーン初演を指揮し、反ブルックナー派を沈黙させる大成功を収めた。フランツ・シャルクにより華麗に編曲された第5番初版の相次ぐ大成功は、レーヴェにそうした校訂への確信を深めさせたことだろう。
1900年、ウィーン楽友協会はウィーン市民に高まるオーケストラ演奏会への需要に応えるべく、主催する予約演奏会に編成される専属オーケストラ(宮廷歌劇場団員による自主運営のウィーン・フィルは楽友協会とは別組織である)を改組し、市民のためにより低価格で多くの演奏会を開き、新作の上演も積極的に行う常設のオーケストラ、ウィーン演奏協会管弦楽団(Wiener Concertverein Orchester)を設立。演奏協会監督および首席指揮者にレーヴェが就任した。レーヴェは現在ウィーン交響楽団として知られるこのオーケストラで師ブルックナーの作品を上演プログラムに多く組み、精力的に演奏した。第一次大戦の勃発と終戦、オーストリア=ハンガリー帝国の終焉を跨ぐ、レーヴェ治世下26年のウィーン演奏協会におけるブルックナー作品上演リストは驚くべきものである。
1900年 | 第3番(第2稿1877/78)、第4番 |
1901年 | 第5番、第7番 |
1902年 | 第4番、第6番、テ・デウム |
1903年 | 第4番、第8番、第9番(世界初演)&テ・デウム〔レーヴェ指揮〕、第9番〔レーヴェ指揮:2回〕、ミサ曲第3番 |
1904年 | 第2番(1877初版)、第3番(初稿1873)、第4番〔2回〕、第8番、第9番〔レーヴェ指揮:4回〕 |
1905年 | 第1番(リンツ稿)、第9番〔レーヴェ指揮:2回〕 |
1906年 | 第3番(初稿1873)〔2回〕、第4番〔2回〕、第7番〔2回〕、第8番、第9番〔レーヴェ指揮〕 |
1907年 | 第1番(ウィーン稿)、第3番(初稿1873)、第5番、第7番〔2回〕、第9番〔ベルンハルト・シュターフェンハーゲン指揮〕 |
1908年 | 第3番(初稿1873)、第4番〔3回〕、第5番〔3回〕、第8番、第9番〔レーヴェ指揮〕 |
1909年 | 第3番(初稿1873)、第4番、第7番〔4回〕、第6番 |
1910年 |
第1番(リンツ稿)、第2番〔3回〕、第3番(初稿1873)〔2回〕、第3番(第3稿1889)〔9回〕、第4番〔6回〕、第5番〔4回〕、第9番〔レーヴェ指揮〕、ミサ曲第2番 |
1911年 |
第1番(ウィーン稿)、第2番、第3番(第2稿1877)〔3回〕、第4番〔7回〕、第5番、第6番、第7番〔2回〕、第8番〔2回〕、第9番〔レーヴェ指揮〕※ブルックナー・チクルス |
1912年 |
第2番、第4番、第7番〔5回〕、第8番、第9番〔F.シャルク指揮〕 |
1913年 |
へ短調~第2楽章〔2回〕、第1番(ウィーン稿)、第3番(第2稿)、第4番〔2回〕、第5番〔5回〕、第7番、第8番、ミサ曲第2番、ミサ曲第3番、テ・デウム |
1914年 |
第3番(第2稿)、第5番、第7番〔3回〕、第8番〔2回〕、第9番〔フランツ・パウリコフスキー指揮トンキュンストラー管弦楽団、ネドバル指揮同:2回〕、ミサ曲第1番 |
1915年 |
第2番、第3番(第2稿)、第4番〔4回〕、第5番、第6番〔3回〕、第7番〔3回〕、ミサ曲第1番、テ・デウム |
1916年 |
第1番(ウィーン稿)〔3回〕、第2番〔2回〕、第3番(第2稿)〔2回〕、第4番、第9番&テ・デウム〔F.シャルク指揮〕、ミサ曲第1番 |
1917年 |
第3番(第2稿)〔2回〕、第3番(第3稿)〔3回〕、第4番〔3回〕、第5番〔2回〕、第7番、第9番〔レーヴェ指揮〕、ミサ曲第1番、ミサ曲第3番〔2回〕、テ・デウム |
1918年 |
第2番、第3番(第2稿)、第3番(第3稿)、第4番〔6回〕、第6番、第8番、詩篇第150篇 |
1919年 |
第3番(第2稿)〔4回〕、第4番、第5番、第6番、第7番~アダージョ(レーヴェ編)、第8番、第9番&テ・デウム〔レーヴェ指揮:2回〕、ミサ曲第1番、ミサ曲第3番、詩篇第150篇 |
1920年 |
第1番(ウィーン稿)、第2番、第3番(第2稿)、第4番〔3回〕、第5番〔3回〕、第7番〔3回〕、第9番〔ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮〕 |
1921年 |
第1番(ウィーン稿)、第3番(第3稿)、第4番〔2回〕、第5番、第6番、第第7番、第8番〔5回〕、序曲ト短調、詩篇第150篇〔2回〕 |
1922年 |
第3番(第3稿)〔2回〕、第4番〔9回〕、第5番〔2回〕、第7番〔4回〕、第8番、第9番&テ・デウム〔レオポルト・ライヒヴァイン指揮〕 |
1923年 |
第1番(ウィーン稿)、第2番〔3回〕、第4番〔5回〕、第6番、第7番、第8番、第9番〔レーヴェ指揮:2回〕、第9番〔ヴィクトル・ケルドルファー指揮:2回〕 |
1924年 |
第2番、第3番(第3稿)〔2回〕、第5番、第6番、第7番〔3回〕、第8番〔3回〕、9番&テ・デウム〔ルドルフ・ニリウス指揮〕、9番(5月9日レーヴェ指揮による最後の演奏会。シューベルト「未完成」と)、ミサ曲第3番 |
1925年 |
第2番、第3番(第3稿)〔2回〕、第4番〔2回〕、第5番〔4回〕、第6番、第7番、第8番、テ・デウム〔2回〕 |
(ウィーン交響楽団HP: CONCERT ARCHIVE )より
指揮は第9番以外表記を省いたが、多くがレーヴェ自身の他、マルティン・シュペル(Martin Sporr,1866-1937)、アントン・コンラート(Anton Konrath,1888-1981)〔※コンラートにはウィーン響を指揮した第3番初版第3楽章のSP録音がある〕、オスカル・ネドバル(Oskar Nedbal,1874-1930)という当時のウィーン演奏協会の指揮者に加え、ウィーン・フィル常任指揮者のフランツ・シャルクや若きフルトヴェングラーらが客演している。稿の記載の無い第4、5、6、7、8番は初版と思われるが、第1番と第3番で複数の稿を交互に繰り返し上演していることにも驚かされる。第3番の初稿を演奏しているのも驚きだが、筆者が入手した当時のプログラムによれば、これはフランツ・シャルク校訂の初版に初稿の一部を付加したものであるらしい。
1910年からブルックナー没後15年の1911年にかけては、ウィーン演奏協会管弦楽団と、1908年から14年まで首席指揮者を兼任したミュンヘン・フィル両方で、ブルックナー・チクルス(交響曲全曲演奏会)を同時敢行するという壮挙を成し遂げている。
当時のミュンヘン・フィルのブルックナー・チクルス告知には、古典派、ロマン派の大家たちとリヒャルト・シュトラウス、マーラーに加え、ベルリオーズ、デュカス、ドビュッシーらフランス音楽と新作の初演を交えた興味深い演目に、クライスラー、カザルスら豪華な独奏者が記されている。最終日のブルックナー第9番と『テ・デウム』は、実際の上演では『テ・デウム』が取りやめとなり、前月にも演奏されているブラームスの交響曲第3番が冒頭に演奏されたという(Meyer (1994) p.257)。
同時期のウィーン・フィルは、演奏会の数そのものが演奏協会より少ないとは言え、1924年の作曲家生誕100年の年を除き、年平均1、2曲程度しかブルックナーを上演していない。第9番原典版スコアのノヴァークによる序文で言及されている、「ブルックナーの全作品に対するレーヴェの功績はそれでも、ザンクト・フローリアンの巨匠のためにかつて人が行った最も偉大な手柄のひとつに数えられよう」(音楽之友社スコア(1986)、p.iii)という最大級の賛辞は、このような業績に対して与えられたものなのだ。
ブルックナーの交響曲第3番は第1楽章がMäßig bewegtなのでフランツ・シャルク校訂の初版だが、「(Die heutige Aufführung folgt an einigen Stellen der älteren Fassung des Werkes aus dem Jahre 1874.)〔今日の演奏は、ところどころで1874年の旧版を踏襲している〕」という注記がある。ウィーン交響楽団HPの演奏会記録では「初稿1873」と表示されている。
レーヴェは楽団員に室内楽を奨励したが、それに応じて、1912年にマンハイムから招聘した若きコンサートマスターのアドルフ・ブッシュが、ヴィオラのカール・ドクトル、チェロのパウル・グリュンマーらウィーン響首席奏者と結成したウィーン・コンツェルトフェライン弦楽四重奏団は、高名なブッシュ弦楽四重奏団の母体となった。ピアノの名手で、ブラームスのピアノ入り室内楽にも高い見識を持っていたというレーヴェは(コルストヴェト/アルデボルフ(1998)、p.23)、第一次大戦中の1915年から1917年にかけて、ブッシュ、グリュンマーとのピアノ三重奏も行っていた。
そしてレーヴェは死の前年、ブルックナーの生誕100年にあたる1924年に出演した3回の演奏会で全てブルックナー作品を指揮し、最後の回においてはブルックナーの第9番を振って、その音楽家として、師ブルックナーの使徒としての生涯を締めくくった。その人柄は、マーラー、ヴォルフらエキセントリックな天才や、風変わりなブルックナーと異なり、穏やかで人望が高かったという(ibid. (1998)、p.23)。
3. 作曲者の承認を得た校訂か改竄か
このように、師ブルックナーに献身的だった好人物が、本当に師の作品をその承認を得ずに改竄したのだろうか。1920年代にレーヴェの元でたびたびブルックナーを演奏していたヴィオラ奏者ジョセフ・ブラウンスタイン(Joseph Braunstein, 1892-1996)と、大指揮者フルトヴェングラーは、レーヴェが勝手な改変を行ったとは考えられないと証言している。(同上、p.24) 同じくレーヴェを直接知るクナッパーツブッシュ、ジョージ・セル(※レーヴェはセル作曲のオーケストラ作品を演奏協会で上演したことがある)、ヨゼフ・クリップス、チャールズ・アドラーなどの指揮者も、原典版使用が一般的になった戦後まで第9番のレーヴェ校訂版を演奏し続けた。
だが残念ながら、レーヴェの改竄容疑は限りなく黒に近いようだ。デルンベルクによれば、フランツ・シャルク校訂の第5番と、レーヴェ校訂による第9番初版の自筆譜との異同の多さは早い段階で問題になっていた。レーヴェはブルックナー自身が印刷用原稿に訂正を書き入れたのだと断言していたが、それについての討論会が、紆余曲折の末、宮廷歌劇場内のシャルクの執務室で開かれた折、証人として招かれたレーヴェは出席を拒否した。そしてこの改竄の度合いが大きいと思われる2曲に限って、編者に返却されるか出版業者が保管するはずの印刷用原稿が当時から紛失しており、ブルックナーの筆跡による修正の跡や承認のサインなどの証拠がないというのである。(デルンベルク(1967)、p.193)
1906年6月、レーヴェによる初演のわずか3年後に、カイム管弦楽団でレーヴェ版ブルックナー第9番を指揮し、弱冠20歳で指揮者デビューしたフルトヴェングラーは(※父親が楽団オーナーのカイムの友人であったことから実現した演奏会という)、レーヴェ版についていくつかの異なった発言を残している。
「レーヴェによるブルックナーの第九交響曲の改訂が特筆に値する労作であることがわかってきた。【略】レーヴェはまず第一に管弦楽法を柔軟化し、それによって内容がより明確に聴き取れるようにと心がけている。この意味において、彼の修正はどこまでも実演者による改訂であると言ってよい。【略】レーヴェがブルックナーの理念を放棄することなく現存する諸関係に適応させた強弱法についても、これと同じことが言える。【略】第三に、レーヴェはしばしば主題にもとづいて楽句を仕上げたり、経過句をつくったりしている。これらはもちろん原譜からの明らかな逸脱を示すものである。たとえこれに関する詳細は不明であるにせよ、レーヴェの心に浸みわたっていた巨匠に対するかぎりない崇拝の念、また彼の作品に対する忠実さを考えれば、レーヴェがこれらの改訂をブルックナーの合意なしに企てるというようなことは決してなかっただろうとわたしは考えている。」(1934年のカレンダーへの書き込み。)(フルトヴェングラー (1971)、p.12)
「巨匠と親しく交友し愛していた、真摯な、着実な人々、シャルクやレーヴェのような音楽家たちは、彼が生きていた時代には、彼の作品をその原形のままで聴衆の前に演奏することは、明らかに不可能だと考え、それをそのまま端的に理解させることに絶望していました。彼らはそれに橋を架し、媒介しようと試みました。これらのシンフォニーの編曲はそのような架橋を、そのような媒介作業を物語っているのです。」(フルトヴェングラー(1954)、p.62)
「【朝比奈隆が1953年にフランクフルトで偶然会ったフルトヴェングラーに】「おまえ、最近にはどんな曲をやるんだ」と聞かれたので、「ブルックナーの〈9番〉だ」と答えたのです。すると彼は、「あれは非常にいい作品だから結構だ。時にどの版でやるのか」と、こうきたわけです。私はムニャムニャといい加減な返事をしたら、彼は「ブルックナーは絶対に原典版でやらなくてはいけない。それだけは注意しなさい。その辺の楽器屋にあるから買って帰りなさい」と言われました。」(朝比奈/小石 (1978)、p.183)
フルトヴェングラーは、初版に比較的問題の少ない第4番と第7番は、晩年の録音でも初版を演奏しており、過剰な編曲に疑義のある第5番と第9番は原典版を演奏しているので、朝比奈の証言での絶対に原典版をとの発言は、一般論ではなく第9番についてのことと考えられる。ブルックナーの音楽を深く愛し、レーヴェの人柄を身近に親しんだフルトヴェングラーの発言の変遷は、レーヴェの功罪と初版・原典版問題の難しさ、そして苦渋を伴ったであろうその結論の重みを窺わせるものである。
4. ブルックナー交響曲第9番 初版(レーヴェ版)~ベルリオーズ風ブルックナー
1887年、交響曲第8番の作曲を完了したブルックナーは、直ちに第9番の作曲に取りかかったが、信頼する大指揮者ヘルマン・レヴィの否定的評価により第8番の改訂に着手する。また、初期の第1番の改作にも取り組んだため、作曲の進行は遅々として進まなかった。その間に健康状態は悪化の一途を辿った。そして、第3楽章作曲中の1894年には、第4楽章が未完に終わることを予感し、自作の声楽曲『テ・デウム』をその代わりに演奏するようにと発言した。その後、第4楽章の作曲はかなりの程度進行し、一旦完成まで間もなくのところまで達していた。そんな中の1896年10月11日、午前中作曲に取り組んでいた老巨匠は午後3時、急に容態が悪化して死去した。
弟子のレーヴェにより、完成していた第3楽章までが校訂され、作曲家の遺言通り『テ・デウム』を終楽章として、1903年2月11日にレーヴェ指揮ウィーン演奏協会管弦楽団が初演した。同時にレーヴェ編曲のピアノ独奏譜と、レーヴェ、ヨゼフ・シャルク編曲の4手ピアノ版が、いずれも『テ・デウム』を含まない形でドブリンガー社から出版された。これらの楽譜にはレーヴェによる簡潔な序文が付されている。
「完成した3つの楽章をここで公開する「アントン・ブルックナーの第9交響曲」は、(巨匠の当初の意図では)、純粋に器楽的な終楽章で終わるはずであった。重度の肉体的苦痛によって、しばしば、時には長期にわたる作曲の中断を強いられ、ブルックナーはますます、自らの最後の作品を、もはや終えることができないという恐れを抱かざるを得なかった。次第に彼の中で、完結した3つの楽章に、終楽章として彼の『テ・デウム』を添えるという決心が固まったのかもしれない。大まかに構想されたそのための経過部のスケッチが我々に残されている。だがそこから読み取れるものは、ただ巨匠の最後の意図を暗示させるだけである。
(1903年2月11日ウィーンでの)初演時の主催者らが、交響曲に『テ・デウム』を続けさせるのを、巨匠への畏敬からの要求とみなしたとしても、そのような終楽章のない上演もまた、まったく正統的と思われる。この作品が今ある形で全体として非常に効果的で有り得るだけに、このことはなおさら正統的なことである。1903年8月ウィーンにて フェルディナント・レーヴェ」(渡辺美奈子訳)(Bruckner / Schalck /Löwe(1903))
ここで初演時の『テ・デウム』併演が、初演指揮者レーヴェではなく主催者らの意向であることを明記し、全3楽章での上演が非常に効果的で正統的であると表明していることは注目される。7年後の1910年にはレーヴェ校訂による初版オーケストラ総譜が、『テ・デウム』を含まない全3楽章の形でドブリンガー社から出版された。さらに上記ピアノ4手版にヨゼフ・ヴェス編曲の『テ・デウム』を加えた増補版楽譜がウニヴェルザール社から出版された。いずれも1903年のピアノ版と同じレーヴェの序文が付されているが、『テ・デウム』を加えたピアノ4手版の序文の下には、ウニヴェルザール社名による追記がある。
「多くのご要望にお応えするため、ブルックナーの第9交響曲に『テ・デウム』を加えることを決定しました。1910年10月ウィーンにて ウニヴェルザール出版」 (Bruckner/ Löwe /J.Schalck / Wöss(1910))
レーヴェは1903年の初演から1910年の初版総譜出版と4手版増補再版まで、ブルックナー第9番を全3楽章で何度も指揮しているが、『テ・デウム』の併演は少なくともウィーン演奏協会では、初演以後他の指揮者による上演を含め一度も行っていない。象徴的なのは1911年ミュンヘン・フィルのブルックナー・チクルスで、前記の通り告知には最終日に第9番と『テ・デウム』併演が記されているが、実際の上演では『テ・デウム』はブラームスの交響曲第3番に差し替えられたことである。第4楽章フィナーレがピアニッシモで穏やかに終わるブラームス第3番を冒頭に置くあたり、アダージョで終わるブルックナー第9番全3楽章形態上演の正統性をアピールするかのような曲目変更ではある。
しかしその後は、ウィーン演奏協会でフランツ・シャルクら他の指揮者に『テ・デウム』併演を複数回上演させており、レーヴェ自身もようやく1919年に、初演以来の併演再演を行っている。レーヴェ自身は第9番単独での上演を好んでいたようだが、世論に押されてしぶしぶ『テ・デウム』を併せて取り上げるようになったのであろうか。
初版校訂譜はブルックナーの原譜と管弦楽法にかなりの相違があり、オーレルら原典版研究者から異議が出されることになった。レーヴェ校訂による初版の原典版との相違は、主にオーケストレーションに関するものであり、楽曲構造にはほとんど手をつけていない。その点で、フランツ・シャルク校訂の第5番初版とは異なる。カットは第2楽章スケルツォ主部のコーダに4小節あるだけで、繰り返し時にはない。マイケル・ケネディ編の『オックスフォード音楽事典』や、アーノンクールが自らの第9番録音に付した解説では、レーヴェ版には大きなカットがあるかのような事実誤認があり、専門家の間でレーヴェ版が真面目な検討の対象にさえなっていない風潮があるようだ。
楽器編成は第3フルートをピッコロ持ち替えとし、第3ファゴットをコントラファゴットに変えているだけで、基本的に原典とほぼ同じである。だが、原典では休みの多いファゴットのパートの追加や、オーボエとクラリネットのパートの入れ替えがほとんど全曲に渡って施されている。ブルックナー独特の突然のフォルテッシモは段階的な強弱に改められ、弦楽と管楽器のバランスが整えられている。
一般的にレーヴェ、シャルクらの管弦楽法の改変は、ブルックナーをワーグナー風に変えたとされることが多いが、レーヴェによる第9番の色彩豊かな改変はむしろ、コールスが指摘する「ベルリオーズ風”Berlioz-artigen”」に改訂の手を加えた(コールス (2003) sup.13)」と言える。ブルックナーがレーヴェに「私のベルリオーズ”mei Berlioz”」とあだ名をつけていたというエピソードは、オーストリア人名辞典のレーヴェの項にまで記載されている(ÖBL,p.287)。ブルックナーはベルリオーズのレクイエムを高く評価していた一方、レーヴェは前記ウィーン演奏協会の演奏会で、ベルリオーズの幻想交響曲、『イタリアのハロルド』、劇的物語『ファウストの劫罰』全曲と抜粋、劇的交響曲『ロミオとジュリエット』抜粋、いくつかの序曲などを複数回指揮しており、得意演目としていた。原典版との細かい相違は数え切れないので、目立ったところをいくつか挙げる。
5. 原典版とレーヴェ初版の主な相違点
第1楽章
・302小節目の総休止にオーボエとクラリネットの繋ぎの楽想がある。
・502-3小節のホルン2本のユニゾンが6本になり、続く4小節の木管のコラールの後半2小節が弦楽合奏になっている。
第2楽章
・主部冒頭は全曲中で最もオーケストレーションの改変が顕著なので、原典版との比較を譜例で示す。弦のピッチカートにフルート、ファゴットを被せたり、置き換えたりして軽妙で色彩的な音楽に仕立てている。
・原典の奇妙だが印象的なオーボエとクラリネットの持続音(3小節からオーボエは41小節まで。クラリネットは21小節まで)をカットしているが、12小節から41小節までのトランペットの持続音は残されている。音量をメゾフォルテからピアニッシモに変更し、全体に色彩的で繊細、軽妙な音楽にしようとしている感がある。続く強烈なフォルテッシモの和音連打は弱められている。
ブルックナーの弟子で評伝作家のアウグスト・ゲレリヒ(August Göllerich, 1859-1923)は、レーヴェ版に基づき「ブルックナーのユーモアと最も溌剌としたウィットに驚嘆させられるもので、非常に優れた鑑賞家たちは「フランス的」とさえ呼んでいる。」と書いている(Göllerich / Auer(1974),p.476)。原典版のごつごつした破壊的な力を持った音楽よりも、洗練された受け入れやすい音楽であったことがうかがわれる。
・スケルツォ主部初回のコーダに全曲でただ1か所のカット(原典版242-245の4小節)があり、トリオに繋ぐ3小節の総休止がティンパニーのソロで埋められている。トリオ結尾の3小節の総休止にも同じくティンパニーのソロがある。トリオについてレーヴェ版のスコアを基に解説しているヴェルナー・ヴォルフ(Werner Wolff,1883-1961)は、ベルリオーズの劇的交響曲『ロミオとジュリエット』の「愛の妖精マブ女王のスケルツォ」(この曲はレーヴェのレパートリーで、単独でも取り上げていた)を思わせるとしている(W.ヴォルフ(1998) p.263)。続くスケルツォ再現はダカーポ記号を用いずにスケルツォ主部がすべて記譜されており、コーダには初回の4小節カットがない。初回再現共にコーダのフルートがトリルになっており、色彩的に装飾されている。
第3楽章
・楽章終盤のクライマックスの最後、206小節で轟然と鳴り響いて総休止で断ち切られる、属13の不協和音(あるいは嬰ハ短調の和声的短音階の7音が全て鳴らされたもの)によるクラスター風の響きが属9和音に変更され、不協和な響きを減じられている。その4分音符は8分音符に変更されて音価が半減され、アクセントも弱められているが、木管とホルンは一時的に4/4拍子を12/8拍子に改めてまで(初版、原典版共に187小節、練習番号Oの箇所から)、さらに音価を縮めて目立たなくする小細工がなされている。こうして解決感の無い属音上の不協和音で断ち切られた感じを極力弱めたうえ、総休止の後に原典版では第2ヴァイオリンのピアニッシモのトレモロだけで鳴る主音を、弦のピッチカートと木管金管のフォルテピアノを強く響かせて解決感を与えるという、手の込んだ改変が加えられている(以下の譜例を参照)。
このレーヴェの改変は、当時としては耳障りな不協和音を和らげ、聴衆に親しみやすい音楽に洗練させるのが目的というのが大方の見方である。だが、属13の解決されない不協和音のフォルテッシモと無音(総休止)の対比という「ブルックナーの創作全体を見渡しても最もラディカルな瞬間の一つ」(池上(2014)、p.327)であるこの個所のもたらす効果は、作曲技法としての先進性だけにとどまらない。この作品は絶対音楽であるとともに、自らの死に直面したブルックナーの心境が投影されていることで、多くの研究者の見解が一致している。よって、非常に強い印象を与えるこの個所は、標題的象徴性を担う重要な部分であるとも考えらえる。吉田秀和は第3楽章についてこう述べている。
「だが、ここで、私を特にとらえるのは、このアダージョには、「絶望とすれすれ」といいたいような、これまでのブルックナーにきかれなかった何か兇暴なものの爆発と、それに対するこの世のものとも思われない慰謝の声がきかれることである。【略】第二主題は再現になって拡大され、巨大な影のような形で私たちのうえに蔽いかぶさってくるのである。私には、破局的なものの迫ってくるのに直面したブルックナーの驚愕がこの楽章には底流しているような気がしてならない。」(吉田 (1981), p.132)
吉田の指摘する第2主題再現とは206小節の属13和音に至る部分だろうが、まさに破局への驚愕、死への怖れとも受け取れる属13和音の絶叫は、続く神への賛美の歌となる終楽章により救済されなければ、ブルックナー最後の4楽章交響曲の構成は完結しない。
「敬虔なカトリック信者であったブルックナーにとって、アダージョに代表される「生への別れ」は終着点ではなかった。たとえそれが『テ・デウム』にしなければならなかったとしても、「交響曲が、私が多くを負っている親愛なる主への賛美の歌で終わる」ために、アダージョに続く楽章が必要だったのである。」(Phillips, (2022))
こうしたブルックナーの構想と完成への願いを、側近だったレーヴェが知らなかったはずはあるまい。だがレーヴェは全3楽章のみの校訂譜を出版し、序文で終楽章は未完成だが、全3楽章のみの演奏で完結した作品たり得ると強調している。ならばこの属13和音の事実上削除という編曲も、全3楽章のアダージョ・フィナーレ交響曲として完結したイメージを聴衆に与えるための、印象操作の一環なのではないだろうか。というのも、属13和音の強力で不穏な効果を取り除くことにより、それを解決する終楽章が不要となるからである。そこまでして全3楽章で終わらせなければならなかった事情がレーヴェにはあった。
6. レーヴェの罪 ― 終楽章自筆譜散逸の責任
「ブルックナーが終楽章の音楽をほぼ完成させていたにもかかわらず、誰かがブルックナーの遺品をきちんと管理しなかったために公表できなくなったと、果たして世間に説明できるだろうか。【略】終楽章補作のために利用可能な素材は、作曲家だけが意味を理解できるいくつかのスケッチだけだと世間に思わせる方がずっと簡単だったのだ。」(del Arte(2016),p.4)
未完成の終楽章について、驚くべき事実が1980年代の調査以後明らかになっている。ブルックナー死去の時点において終楽章はほぼ完成に近づいていたが、死去直後の遺品管理人の怠慢により、自由に出入りできたブルックナーの自室の机上から、複数の周辺関係者が自筆譜の一部を故人の記念品として持ち去ってしまったために、部分的に散逸したというのだ。
「アントン・ブルックナーの死の時点では、交響曲第9番のフィナーレの総譜は、スケッチでも草稿でもなく、非常に高度な自筆譜であった。この自筆譜は悲劇的にも、作曲者の死後、記念品漁りの人達によってバラバラにされてしまった。【略】ブルックナーの遺品は、「ハゲタカの急襲」(ブルックナーの主治医リヒャルト・ヘラーの言葉)の後、ヨゼフ・シャルクに託され、1930年代後半になってようやく正式に保管されるようになった。」(Phllips, (2022))
レーヴェの評伝はこの間の状況を「ハゲタカの急襲」には触れずこう記している。
「ブルックナーの指示による遺言執行者テオドール・ライシュ(Theodor Reisch, ?-?)から、フェルディナント・レーヴェとヨゼフ・シャルクの両名は、遺稿を閲覧する権限を与えられた。ブルックナーは1893年11月10日の遺言で、すでに交響曲やその他の主要作品の自筆譜を、彼が承認した証人であるフェルディナント・レーヴェとシリル・ヒュナイスの前で宮廷図書館に遺贈していたため、この調査は未完成の交響曲第9番の終楽章のスケッチにのみ関連するものであった。ヨゼフ・シャルクは、これらの自筆譜を後で編集するつもりで預かった。彼の死後(甲斐注:1900年)、フランツ・シャルクが自筆原稿を引き継いだ。1939年、それらはフランツ・シャルクの遺産とともに国立図書館に寄贈された。」(Rauner (1995), p.77)
ノヴァークによれば、遺言執行者であり宮廷公証人であったライシュが、ブルックナーの相続人の許可を得て、様々な自筆譜をブルックナーと親交のあった団体や人物に記念品として譲渡し、交響曲第9番のスケッチはフェルディナンド・レーヴェとヨゼフ、そして彼らの後にはフランツ・シャルクが引き継いだという(ノヴァーク (1966), p.30)。
終楽章の補筆完成者の一人、ベンヤミン=グンナー・コールス(Benjamin-Gunnar Cohrs, (1965-2023))によれば「その後の所持者、特にフランツ・シャルクとフェルディナント・レーヴェ(もしくはその相続人)は、何ページかを売却したり、記念品として贈与したりしていた。結果として自筆譜は世界じゅうに散らばってしまった。(コールス(2003), p.12)」
コールスは更に、レーヴェが第9初版の序文で、終楽章がほぼ完成に近づいていた事実に全く触れず、ブルックナーの遺志である『テ・デウム』併演をも省いた、アダージョで終結する3楽章のみの上演も正統的であるとしたことが、この作品の本来の形を歪曲する印象操作になったとして、レーヴェを厳しく批判している(同上、p.13)。
同じく補筆完成者ジョン・A・フィリップス(John Alan Phillips, (1960-))は、もしシャルクかレーヴェがブルックナーの死後すぐに、終楽章の草稿を補筆完成させていたら草稿は散逸しなかっただろうし、補筆の出来栄え自体の評価は分かれても、4楽章での演奏自体はモーツァルトのジュスマイヤー編レクイエムと同じような編曲として、演奏会の慣行として定着していただろうとする(Phillips(2003),p.171)。フィリップスはさらに、レーヴェによる第9の上演とジャーナリズムへの影響から、『テ・デウム』を続けて上演することも、終楽章補筆完成も不要な、アダージョで終了する全3楽章の交響曲として受容、定着されていく過程を、多くの資料を用いて丹念に批判している(ibid, p.137)。
こうした経緯を経て、1980年代に終楽章補作の試みが関心を集め始めるまでの、ブルックナー第9への音楽家、音楽愛好家における一般的な認識は、1960年にデルンベルクが書いたことでほぼ集約されているだろう。
「ブルックナーがこの交響曲を未完成であると考えていたことは、なんら疑う余地のないところである。【略】アダージョの終止は、いまやわれわれには聴き慣れたものとなっている。そのうえわれわれは、このような終止をもついくつかの交響曲に慣れているので、ブルックナーが当然感じていたほどには、おだやかな終止に気持を乱されることはない。たとえばチャイコフスキーの『悲愴』、ブラームスの『第三』、またはマーラーの『第九』がそれである。【略】フィナーレのスケッチは、すでに述べたように、あまりに暫定的なものであるから実際的な役にはたたないし、『テ・デウム』への移行句の着想も、ブルックナーは意にみたないものとして放棄してしまった。しかし演奏会の第一部でこの交響曲を演奏し、休憩のあとで『テ・デウム』を演奏するという可能性は、いぜんとして考えられることであろう。(デルンベルク(1967), p.315)」
熱烈なハース原典版支持者でシャルク、レーヴェの編曲の非正統性を明らかにし、厳しく批判したデルンベルクですら、終楽章がほぼ出来上がっていたことと散逸の事情は、我々愛好家と同じく全く知らなかったようである。コールス、フィリップスらの言うレーヴェの情報操作が功を奏し、レーヴェは生前この罪についてまんまと非難を免れたということになる。
7. 原典版の普及と我が国における受容
レーヴェの没後、1932年にオーレル校訂の原典版が完成し、第4楽章の草稿とスケッチをまとめた別冊と共に1934年に出版された。1932年のジークムント・ハウゼッガー指揮ミュンヘン・フィルによる初演は、演奏会前半にレーヴェ版、後半に原典版を演奏するという大掛かりなイベントとなった。結果は原典版が圧倒的に聴衆の支持を得、これ以後レーヴェ版は廃れていくことになる。両者の優劣はもちろん、リヒャルト・シュトラウスの交響詩やマーラーの中期までの交響曲と同時代の初演より約30年の歳月が過ぎ、シェーンベルク、バルトーク、ヒンデミットらが活躍する時代の聴衆が、ブルックナー第9番原典の先進性に追いついたのかもしれない。
ブルックナー第9番の日本初演は1936年、クラウス・プリングスハイム指揮東京音楽学校管弦楽団により上野奏楽堂にて行われた。使用された版は不明だが、残された写真(東京藝術大学附属図書館 デジタルコレクション)にはレーヴェ版の特徴であるコントラファゴットが写っていないので、2年前に出版されたオーレル校訂原典版の可能性が高い(前年のマーラー第3番の写真にはコントラファゴットがある)。関西初演は朝比奈隆指揮関西交響楽団(現大阪フィル)によって1954年に行われたが、前述のようにフルトヴェングラーから原典版を使用するように助言されたのは有名なエピソードである。朝比奈が帰国すると既にフィルハーモニア社初版総譜(レーヴェ版)から書き起こされたパート譜が準備されており、現地で購入して持ち帰ったオーレル校訂原典版との違いに驚いたものの、時間的制約から大まかな異同部分の訂正で上演に臨んだと朝比奈は証言している(朝比奈/小石(1978)、p.182)。大指揮者フルトヴェングラーから、東洋の偉大なブルックナー指揮者の出発点に、原典版による演奏という原則が伝えられた、奇跡的な邂逅であった。
(甲斐 貴也)
(※レーヴェ編曲によるピアノ独奏版の日本初演は2015年大井浩明によって行われたが、本稿はそのプログラム掲載のため大井氏の依頼により書いたノートに加筆改稿したものである。)
参考文献
著作
- Rauner,R.,: Ferdinand Löwe Leben und Wirken,1.Teil 1863-1900(Peter Lang,1995) (甲斐注:唯一の評伝。ブルックナー第4交響曲レーヴェ校訂初版再評価の機運に乗じて、レーヴェの業績再評価と名誉回復を目論み、レーヴェの遺族、子孫の協力を得て出版されたと序文にある。多くの資料を駆使した労作だが、なぜか1900年までの第1巻のみに終わっている。)
- エルヴィン・デルンベルク『ブルックナー その生涯と作品』(和田亘訳、白水社、1967)
- 吉田秀和「ブルックナー第九交響曲」(『音楽の手帖ブルックナー』、青土社、1981)
- 金子建志『ブルックナーの交響曲』(音楽之友社、1994)
- 土田英三郎「交響曲第9番ニ短調」(『作曲家別名曲解説ライブラリー⑤ブルックナー』音楽之友社、1993)
- Hinrichsen,H.-J., (Hg.): 《Bruckner-Handbuch》(J.B. Metzler,2010)
- ハンス=ヨアヒム・ヒンリンセン『ブルックナー交響曲』(髙松祐介訳、春秋社、2018)
- ベンジャミン・M・コルストヴェト/デヴィッド・H・アルデボルフ(望月広愛訳)「ジョゼフ・ブラウンスタイン(一八九二~一九九六):ブルックナーを良く知る人の過去からの証言」『音楽芸術1998年3月号(特集:次世代へ伝えるブルックナー)』(音楽之友社、1998)(甲斐注:コルストヴェトBenjamin M. Korstvedt (1963- )は、現在ではコーストヴェットと表記されている。)
- ヴェルナー・ヴォルフ(喜多尾道冬・仲間雄三共訳)『ブルックナー』(音楽之友社、1998)
- 幸松肇『ウィーンの弦楽四重奏団200年史』(クゥアルテット・ハウス・ジャパン、1995)
- Meyer,G.-E., : 100Jahre Münchner Philharmoniker, (Alois Knürr,1994)
- ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(芦津丈夫訳)『音楽ノート』(白水社、1971)
- 朝比奈隆/小石忠男『朝比奈隆音楽談義』(芸術現代社、1978)
- Göllerich,A., / Auer,M.,:Anton Bruckner IV/3(Gustav Bosse Verlag Regensburg,1974)
論文
- 池上健一郎『「二重の存在」としてのブルックナー:《交響曲第9番》第3楽章(アダージョ)における自律性と表題性をめぐって』(三田哲学会 慶応義塾大学学術情報リポジトリ 2014)(甲斐注:ブルックナー交響曲研究者による、ブルックナーの音楽における絶対音楽と標題音楽の二重性を詳細に分析する論考。本稿も基本的にこの立場をとっている。)
- Phillips,J.-A., : » Erst Fakteln, dann Deuteln.« Dichtung und Wahrheit im Umgang mit Bruckners IX. Symphonie (Musik-Konzepte 120/121/122, Bruckners Neunte im Fegefeuer der Rezeption,2003)
(甲斐注:同論文名を邦訳するなら「『まずは事実、お次に歪曲』ブルックナーの交響曲第九番をめぐる詩と真実」。タイトルはサリエリのオペラブッファ『まずは音楽、お次に言葉』のパロディー、「詩と真実」はゲーテの書名の借用だろう。) - Phillips, J.-A., : The“SPCM” Finale of Bruckner’s Ninth Redux: Revision 2021-2022 (The Bruckner Journal 2022) (甲斐注:フィリップスによるSPCM終楽章補筆完成最新版の報告。その完成度の高い仕上がりはMIDIによる音源をYouTubeで聴くことが出来る。
https://www.brucknerjournal.com/resources/b9-finale/phillips-b9-finale/
https://www.youtube.com/watch?v=WGnoOhHLWUE&list=LL&index=2) - ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(芳賀檀訳)「アントン・ブルックナーについて」『音楽の手帖ブルックナー』青土社、1981)
- ベンヤミン=グンナー・コールス「ブルックナーの交響曲第9番と、第4楽章フィナーレの「断片資料」について」木幡一誠訳:アーノンクール指揮ウィーン・フィル:ブルックナー交響曲第9番〔第4楽章フラグメント付〕(BMG BVCC-34080-1)2003(※CD解説書)
- Charles,F., Adler conducts Bruckner(M&A1283)2015(※CD解説書)
- Nowak, L.. Zu Anton Bruckners 70. Todestag (11. Oktober 1966)”BRUCKNER-ERBE” DER ÖSTERREICHISCHEN NATIONALBIBLIOTHEK(1966)
WEB記事
- 耳澄「愛する神へ捧げた交響曲〜ブルックナー第9交響曲(Vol.3)」(note.com 2023) https://tinyurl.com/25cs4mvu(甲斐注:ブルックナー第9と終楽章完成版についての優れた論考。)
- del Arte,A., :A brief overview of Löwe’s arrangement of Bruckner’s Ninth Symphony(ABRUCKNER.COM 2016)
WEBサイト
- ウィーン交響楽団公式サイト https://www.wienersymphoniker.at/
(甲斐注:コンサート・チケットのコーナーに、1900年創立時から現在までの演奏記録がある。) - Österreichisches Biographisches Lexikon 1815-1950 WEB版 https://www.biographien
楽譜
- Neunte SYMPHONY für GROSSESORCHESTER von ANTON BRUCKNER herausgegeben von FerdinandLöwe(Wien.Ludwig Doblinger, 1910) https://imslp.org/wiki/Special:ImagefromIndex/562277/wc28
- Anton Bruckner IX.Symphonie u. Te Deum Klavier zu 4 handen/ J.Schalk u. Löwe/Wöss (Wien. Universal, 1910)
https://imslp.org/wiki/Special:ImagefromIndex/86353/wc28 - ブルックナー(L.ノヴァーク)『交響曲第九番ニ短調スコア』(音楽之友社、1986)
<著者紹介>
甲斐 貴也(Takaya KAI)
1960年11月4日生まれ
ブルックナー、マーラーの長くてうるさい交響曲と、ヴォルフ、
HP「フィヒテとリンデ」http://mahler.
HP「世田谷ブルックナーの家」http://mahler.