札幌劇場ジャーナル

<STJ新春エッセイ>パパはコミュ障-2025年、卑しい人生に別れを告げて、美に触れるために(執筆:多田圭介)

編集長コラム

目次

1. パパはコミュ障

年始に大学の先輩から突然メッセンジャーで連絡がきた。久しぶりすぎて一瞬「誰?」と思った。が、そんな暇を与える間もなく先輩(以下A)は何かの勧誘かのような速度感でこう切り出した。

「娘が文系か理系か選ばなきゃいけないんだけど、今って情報系とか色々増えて、文理の感覚、昔と違うじゃん?それで大学の先生に相談しようと思って」とのことだった。「娘さんはなんて言ってるんですか?」と僕が返すとAはこう答えた。

「得意科目は理数系なんだけど、興味は人文系らしいんだよね」。

う~ん、何が聞きたいのか。その直前に自分の仕事に無心に取り組んでいた僕は、そのノリでAにこう答えた。

「文系だろうが、理系だろうが、作家だろうが、ラーメン屋だろうが、唯一のもの(人はそれを神と呼ぶ)へ至る道であるということにおいて変わりはない。大事なのはどの道でそれに近づこうとするかだ」(多少、省略&脚色されています)。

Aから返事がなくなった。

2日後、もう忘れかけていたときにAから再びメッセンジャーがきた。「多田くんに言われたことを娘に伝えたら、パパはコミュ障なの?と言われた」とのことだった。

ぶはは。きっと心優しいAの娘さんはAを小馬鹿にしたかったわけではない。抽象的な話がすぐには呑み込めず、かといってコミュニケーションは継続しなければない。パパを大切に思うからこそだ。その結果として、場の空気を維持するための効率的な選択として咄嗟に「茶化す」という選択をしたのだろう。Aも「そうだと思う」と。ちょっと面白かったので記事で書いていい?とAに尋ねると、「自分が誰か分からんようならいいよ」とOKをもらったのでいまこれを書いている。

「パパはコミュ障なの?」

この言葉からは父娘の親しさや愛情が伝わってくる。それは確かだ。だが、そこには、コミュニケーションを成立させる(維持する)ために、内容は問われなくなるという、いつからか我が国の精神を覆い尽くしている罠が間違いなく口を開いている。その罠とは、ちょっとおおげさに言えば、真正なことを語ることに対して、それを茶化すという作法だ。20世紀後半のテレビ的な「笑い」の感性がそうしたコミュニケーションの作法を広め、いつしか学校のクラスや職場の飲み会のコミュニケーションもそうした感性に汚染されていった。こうしたコミュニケーションは共同体のなかで、「中心」に近い人と「端っこ」に配置された人とを区別する。そして後者にキャラづけされた人を「いじる」ことでそれを笑いに変え、そうしてコミュニケーションが維持される。石橋貴明や松本人志の「笑い」もほぼそれがすべてだった。幼少時からこうしたコミュニケーションに身を浸していると、できるかぎり空気を読み違えず、そうしてできるかぎり共同体の中心に近づくことがよい生き方だと身体に教え込むことになる。

こうした作法が染みついた人は、ひたすら人間関係の話題に埋没する。音楽や、映画や、自然や、目の前の豊かな事物について語ることは、ほぼない。というか、そうした話題に触れているときでさえ「いま自分は話題の物事について相手よりも高いレベルで理解しているか」、「見下されていないか」とかそんな矮小なことばかり気にしている。共同体の中心に近づいて「生きやすく過ごす」ことだけが生きるテーマとなってしまっていると、実際は物事には関心がないのでそうなるのだ。

私たちは、2020年代もなかばを迎えた今でもこの「罠」のただなかにいる。だが、その結果失われるものこそが、Aの愛娘が求めているものであるのではないか。

Aとのやりとりはもう少し続いた。Aは突然昔のことを話し始めた。

「昔、納期が近づくと、おかーさん!おかーさん!と叫ぶ同僚がいた。」

Aはその昔、広告代理店で働いていたのだ。僕がリアクションできずに固まっているとAは続けた。

「なんか、SNSで流れてきた動画で、誰かと一緒にいて会話が途切れると必ず好きなビールの銘柄を訊ねる人がいてさ。彼は相手が好きなビールが知りたいわけじゃないんだよね。納期が近づいておかーさん!って叫ぶ人もお母さんに会いたいわけじゃないんだよね。」

「ああ、静寂が気まずくて実際は興味ないこと喋っちゃうんでしょうね」。僕は面倒くさいなと感じつつ先輩を義理立てしてそう答えた。

すると調子に乗った(かにみえた)Aは、「コミュニケーションってほとんどそうなんだよね。多田くんもよく僕に「ガンダム見ました?早く見てくださいよ」って言うじゃない。あれも同じなんだよね」と続けた。僕はイラッとして答えた。

「心外ですね。まったく違いますよ。僕はAさんに本当にガンダムを見てほしいんですよ。まだ見てねえのかよって憤ってます。ガンダムをみて人間が成長するってどういうことなのか、人と人がすれ違ってしまうことについて、手が届かないものに憧れることについて、真剣に語り合いたいって思ってるんですよ?」

Aは「じゃあ、都庁に登らない?とか突然切り出すけど、あれは?」と食い気味に続けた。

僕は答えた。「あれはGoogle Earth的な、吉本隆明風に言えばハイ・イメージ論的に僕たちの身体が世間なるものから自由になることを考えてのことです。僕ってAさんにとってそういう人たちと同じフォルダに入ってるんですね。」

A:「多田くんのことは面白い人だと思ってるよ。」

僕:「じゃあガンダム見ます?」

A:「いや」

A2時間サスペンスドラマのファンだった。

僕:「じゃあ都庁登ります?」

A:「いや」

Aは高所恐怖症だった。

2. ショッカー戦闘員に欲望はあるのか?

さて、他者からの承認や共同体の中心に近づくための競争と無関係に成立する、物事に対する強い愛情や欲望というものは、どのようにして生まれるものなのか。もっと言えば、ほとんどの人にとってそうした欲望らしきものはそもそも発動しておらず、それどころか、あらゆる物事を自尊心を満足させるための手段に貶めてしまっているように見受けられるのはなぜなのか。

仮面ライダーに登場するショッカー戦闘員を知っているだろうか。いまの若い人はもう知らないかもしれない。「イーー!」と叫んでいるひとたちと言えば分かるだろうか。彼らは、命じられるままに人を襲い、誘拐し、殺害する。彼らに「やりたいこと」はない。さてそれでは、ショッカーの戦闘員たちは、もし仮に適切に労働環境を整えられて、ゆとりを持った生活が保障されたとき、自分のやりたいことをやり始めるのだろうか。たぶんやらない。ショッカー戦闘員は居心地のよさ以外求めていない。

ほとんどの人の同じ会社に居続ける理由は、「人間関係が悪くないから」だろう。居心地がよくて、共同体(この場合社内)で中心に近くて、そこそこの承認が得られる場所が確保されていれば、人はショッカー戦闘員でいることに疑問を持たない。だから命じられたことをただする。軋轢を起こして居心地が悪くなるくらいなら、疑問があってもあえて忘れるように、考えないようにする。そうしているうちにショッカー戦闘員になってゆく。共同体のなかで競争し、居心地のよい場所(中心に近い場所)を確保できていることが、なんらかの度合いで「楽しい」とさえ感じているはずだ。こうなってしまうと、余暇の時間も同じように浪費するようになる。音楽を、小説を、SNSコミュニティで優位な立ち位置に近づくための手段として使う。結局、少なからぬ人に、自分のオリジナルの欲望のようなものは、ないのだ。いや、欲望<心地よい居場所、という不等式が成り立ってしまっている。では、人間の欲望とはどのように起動するのか。どのような条件で多様化するのか。

3. 二次創作の快楽‐欲望と、産み出すことと、傷つくこと

僕が「この人は事物そのものに魅了されていて、そこから生まれる欲望に突き動かされて作品を生み出し続けている」と感じる人に、「えこさん」(@eiko_qn)という二次創作の作家がいる。この人は、評価や承認よりも、「遊び」の快楽そのものに間違いなく強く突き動かされている。

えこさんは、機動戦士ガンダムの二次創作作家だ。作品のほとんどは、アムロとシャアの「あり得たかもしれない恋愛」を巡っている(そこにララァ・スンが絡む)。たしかに「逆襲のシャア」などを観るとアムロとシャアは互いに強く求めあっている。原作者の富野由悠季はそう思ってはいないのだが、深く知れば知るほどボーイズラブっぽく見えちゃうのは僕も分かる。シャアはアムロと対決するとき最高に生き生きしている。誰よりも自分のことを理解しているのは敵のアムロだと確信している(そしてすれ違う)。アムロはアムロで、子供組(クエスとハサウェイ)をほったらかしてさっさとシャアとの対決へ向かう。

だけど、えこさんが、2人の恋愛を生々しく描けば描くほど、2人のあいだに恋愛は実際は“なかった”ことが結局は強調されることになる。そうして、えこさんは傷つくことになる。そしてその「傷」が、またアムロとシャアについての“えこさんオリジナル”な物語を紡ぎだす欲望へと繋がる。

えこさんの作品を見ていると、「表現への欲望」というものが、どう生まれるのかについて考えさせられる。それも、人間関係のあらゆる評価や承認やマウントと無関係にどう生まれるのかについてだ。えこさんは、ガンダムを、アムロとシャアの2人の関係を、ひれ伏すほどに愛している。だけど自分はそれをコントロールできない。創作を通じてこの傷は深くなり続けるはずだ。だが、この傷には、手が届かないものへの憧れの感情がある。手が届かないと分かっていて憧れる。そのとき、人は何か欲望し、何かを産み出す。そうして新しいストーリーが生まれる。欲望の起動には、なにか、こうした「傷つくこと」のようなものがある。

えこさんは、間違いなく<唯一のもの>へ近づきつつある。そして近づけば近づくほどそれが遠のくことにも気づいている。ヨーロッパの偉い哲学者たちは、こうした経験を<美に触れること>と呼んだ。

4. ガードを下げる/上げること

えこさんには、作品に出会って、そうして自分自身が深く浸食された原体験のようなものがあるはずだ。物事に<触れる>ためには、こうした経験が必要になる。そうした体験はどうすれば起動するのだろうか。ひとつ言えることは、ドヤるとか、自分の武器を誇るとか、自分けっこうイケてるぞとアピールするとか、そうした思考を一旦アンインストールして、無心に物事を診る(「見る」でも「観る」でもなく)、つまり「触れる」姿勢が大切になるのではないか。

基準になるものがまず先にあって、それに適合する/適合しない、近い/遠い、というジャッジ的な発想に脳が支配されていると、物事に触れることはできなくなる。それが、コミュニケーション依存的に働くと、ひどい場合は、「ボスの嫌いなあいつを貶めておきました。さあ、私の評価を上げてください」みたいなメタ・メッセージにまみれた思考しかできなくなる。だが、狭い人間関係(大嫌いな言葉だが「界隈」と呼ばれている、あれ)と少ないフォロワーに向けて「自分けっこうイケてるぞ」と誇ることより、ずっと強く、深い快楽というものは、ある。そのためには、物事に触れること、さらにそのためには、どこかで「ガードを下げる」ような態勢がポイントになるように思う。それは、自分が侵食されるような経験へと身を開くような、いわば、「外部」を欲望するような態勢なのだろう。J-POPの歌詞っぽく言うと「傷つくことを恐れないで」みたいな感じかもしれない。

もちろん、人間は社会的な動物なので、人間関係に埋没した卑しい欲求を完全に捨て去るることは、たぶんできない(もしできたら、それはそれで危ない)。その手の人が問題なのは、その中毒になっていることなのだ。例えば、ありがちなのが、自己啓発本とか(読めるはずもない)哲学書の読書歴をポストして「圧倒的に頭よくなったような気がする」とか呟く人がよくいる。もちろん、それだけなら(非常にイタいが)まあ無害だ。だが、中毒が加速すると、誰かがSNS上で失敗した人として生贄になると、「やっぱこいつはダメな奴だった」みたいな後だしジャンケンを始めたり、最悪な場合は、「俺のキライなあいつとつるんでるってことはお前も敵ってことでOK?」みたいなリプライを本当に送るようになる。もっと身近な例で言うと、自分の今の境遇を肯定してくれる「うまいことを言っている」ポストをリポストしてスッキリしようとするパターンだ。この行為が手放せなくなっている人には、間違いなく中毒の兆候が出ていると考えていい。

だから、自分自身が物事に触れることと同時にもう一つ必要なのは、こうしたパフォーマンスがとても「恥ずかしい行為」なのだという見方を定着させるための啓蒙が有効だろう。人間関係に埋没している人が、わざわざ軽蔑される言動を選ぶことは考えにくいからだ。文化的なレベルでのこうした啓蒙に皆が取り組むことは、やめてはいけない。

そのためには逆に「ガードを上げる」ことが大事になる。どういうことか。一見するとハートフルに見えて、多くの人が(たいがい自分は弱い立場にいるという被害者意識が強い人※)が溜飲を下げるような「心温まるポスト」は拡散されやすい。そうしたものをみかけたときに、それを好意的に引用したり、反応を示すことで、「だから自分はダメではない」と(やはり少ないフォロワーに)アピールしたい欲求が湧き上がってきたら、ガードを上げて、その欲求に打ち克つことだ。それがどれほど卑しい行為であるのか、ちゃんと言語化して自己分析することだ。

(※例えば、人生がうまくいっていないのは自分が就職氷河期世代だからであって自分の能力のせいではないとか、専業主婦(夫)だから低く見られるとか、常に言い訳を探しているタイプの人)

心温まる系、溜飲を下げる系のポストに私たちが「反応」したくなったとき、そのある種の高揚した気分のなかに自分がいるとき、自分自身の心理をよく省察してみるといい。そこで起きていることは、ほとんどの場合、自分自身のコンプレックスを癒そうという発想や、自分が嫌いな人を陥れたいという妬み、そして自分がマジョリティなのだという保護色のなかで安心したいという欲求が隠されている。大事なのは、自分がなにを欲求して、流れてきたポストに反応をしたくなるほど興奮しているのかを厳しく自己点検することだ。この欲求への自己点検を怠ってタイムラインに流されるままに卑しいコミュニケーションに手を染めることというのは、その手の人たちが毛嫌いしているワイドショーのコメンテーターと何が違うのか僕には分からない。いや、自覚がない分だけもっとタチが悪いかもしれない。

溜飲を下げる。そのスッキリ感こそが中毒性の高い麻薬なのであって、したたかな人はその麻薬でアテンションが稼げることをよくよく理解していて、心が弱い人を利用している。このことを忘れないよう「ガードを上げる」ことが大事だ。残酷だが、この真実から目を逸らさないようにすることから出発することは忘れてはいけないだろう。

5. 見ることと、触れること

この記事を書いているとき、たまたま知ったものに京大の山内朋樹さん(哲学/美学)の芸術論がある。山内さんは様々な角度から「ものを作る」という行為の分析をしている。彼の思想は「ものに触れる」ことの核心を突いている。曰く、ものを作ることというのは、全体の見取り図がまず先にあって、それに事物をあてはめてゆく(=見る)のでは「なく」、まず何かを仮り置きして、そして他の要素を配置し、そこに身を浸し、そうしてバランスをみながら調整し、というように持続的に手を入れる仮説的な営為なのであって、その営みのなかで自分も作品が生成する流れの一つの要素となってゆく。そのとき、人間は世界に「触れる」ことができるのではないか、ということだ(大意です)。

(※もちろん、言うのは簡単だが、作曲などの創作を例に考えると理論的な蓄積と具体的な事物に触れることとの無限の往還が内包されている高度な営みとなってゆくことは想像できることだろう。)

事物同士の関係性のなかに身を置くことで、見取り図に従って能動的に全体を支配する(自分に引き寄せる)のでもなく、命じられるままにショッカー戦闘員になる(自分を捨てる)のでもない。ピースとして介在するのではあるが、支配はできない。こうした運動に参与するとき、人は自分の手で世界に触れ、美を見出すのではないか。えこさんの二次創作にもその生成する力が間違いなく、ある。

こうした世界に触れるという営みの中で人は、唯一のものに近づく(そして遠ざかる)。そのため道としてなら、文系だろうが、理系だろうが、作家だろうが、ラーメン屋だろうが、その価値に差はない。もちろん僕にとってはこうして記事を書くことがその営みとなる(と嬉しい)。そんなことを書こうかと思ってキーボードを叩き始めたこの記事も、最初の言葉を一つだけ「置く」(それが「パパはコミュ障」)、そしてそこから思考が促されるものに身を委ねる、そんな風に文字を綴ってみた。普段は最初にメモで全体の段落順までぴちっと決めてから書いている(自分に引き寄せる型)。テイストは変わったでしょうか。2025年、40代も終盤に差し掛かった。今年は、まずは自分自身が卑しいコミュニケーションへの欲望を徹底的にアンインストールして、美を享受する人生を大事にしたいな、などと思い今までと違う世界の触れ方を試してみたのでした。Aさんとのやりとりがきっかけとなりました。Aさん、(たぶん読まない)娘さん、ありがとう。遅くなりましたが、皆さま今年もよろしくお願い申し上げます。

(多田 圭介)

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