エリアス・グランディ 札響首席指揮者 就任披露公演(&hitaru定期)レビュー‐「応援すること」、「盛り上げること」とはどのような振る舞いであるのか‐(執筆:多田圭介)
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0. 注目を集めた就任披露公演とhitaru定期
4月19/20日に札響の新しい首席指揮者のエリアス・グランディの就任披露公演が行われた。グランディは続けて4/24に札響のhitaru定期にも出演した。ある経緯があって両公演の注目度は非常に高く、公演直後から本紙にも両公演のレビューを公開するようにとの要望が殺到した(比喩ではなく殺到した)。時間がなく記事を書けずにいたのだが、やっとまとまった暇が確保できた。このタイミングで、4月の2公演を聴いてようやく全貌が明らかになってきたかにみえるグランディの力量についてしっかり論じておきたい。
先に結論を書いておきたい。この記事を読んでいる人の多くはオーケストラを、あるいは何らかの文化的な営みを愛していることと思う。それでは、その対象を本当の意味で「応援すること」、「盛り上げること」とはいかなることなのか。この記事は、それを考える「きっかけ」にしたいと思っている。つまり、自分が愛する対象がより成長するために何が有効なのか、あるいはファンも含めたコミュニティの全体が盛り上がるためには、どのように振る舞うことが将来にとって建設的なことなのか。そういうことを考えたいと思っている。この問いには最後にまた立ち返ろう。まずは公演の振り返りから。
さて、グランディは去る2024年11/30(12/1)にマーラーの交響曲第1番「巨人」を指揮している。その公演直後にnoteで緊急レビューを公開したので、時間があれば先にそちらをお読みいただきたい。ひと言でまとめると、その演奏は、筆者自身もかつて一度も聴いたことがないような例外的なレベルで収拾がつかないものだった。今回の就任披露公演の曲目が同じマーラーの第2番「復活」だったこともあって、そのときの「巨人」からどれだけ押し戻せるかが注目された。たんに新しい首席の就任披露公演というだけではなく、こうした事情もあって非常に高い関心を集めたものと思われる。
【参考】エリアス・グランディと札響のマーラー~音楽と危機と祈りとについて~(noteの記事に飛びます)
1-1.マーラーの交響曲第2番「復活」について
まずは「復活」について。筆者は2日目の4/20の公演を聴いた。なるべく、客観的に状況を整理したい。前回の「巨人」の公演後にLINEなどで筆者個人に演奏内容についての意見が多数寄せられたが、今回の「復活」も同じだった。その意見は、おおまかには以下の3種類にまとめられる。
1:前回の「巨人」の惨状と比較すると、多少なりとも前進したのではないか
2:「巨人」が底であとは上がるだけだと思ったのに、今回の「復活」はさらに悪くなった
3:「巨人」は聴いていないが「復活」を聴いて指揮者の力量の低さに驚いた
概ねこんなところだった。まず筆者は「2」の立場である。だが「1」の友人知人にその真意を訊ねると、状況認識は筆者とあまり違いがないことが分かった。違いは理解の仕方だと思われた。「3」は主にプロの音楽家と音楽評論家である。その具体的な内容はa)「和声感がない」、b)「極端なppとffがひたすら交代する」、c)「弱音で音が死に、前進する力もなくなる」、d)「とにかく音が汚くてうるさい」。だいたいこんなところだ。c)については「巨人」のときに筆者も感じたので今回そこがどうなるかに注目していた。
それでは「1」と「2」の違いがどこで生まれたのか。筆者のみるところ、前回の「巨人」から演奏が明らかに「変わった」点があった。それについての理解だと思われる。どこが変わったのか。まずは、札響の楽員たちが、各セクションでかなり時間をかけて難所のパート練習を行った痕跡があったことだ。もちろん彼らもプロだから、「巨人」の轍をもう一度踏むことはできない。その意地と意気込みだろう。それによって「巨人」のときに放り投げるようだったフレーズの処理(切り方)が多くの部分で修整され、また各音符の縦のラインも「巨人」と比較する明らかに整った箇所が多かった。「1」はそれを「進歩」と理解したのだと思われる。
では「2」はどうか。ちなみに「2」は筆者を含めてごく少数だった。共通するのは、札響の楽員が前述の要素を頑張って整えたことによって、「巨人」のときは(演奏が崩壊したことによって)覆い隠されていた指揮者の音楽性の全容が露呈した、というものだ。筆者もその理解である。ではその特徴とは何か。
まずは、決定的なのは「フレーズ感の欠如」。言うまでもなく音楽には「旋律」がある。指揮者の仕事の一つには個々のフレーズが、こう始まって、こう進んで、こう終わる、という「フレージングの力学」を示すことがある。グランディの音楽には驚くことにフレーズ感がほとんどの場合で「ない」ように聴こえるのだ。それも「解釈に納得がいかない」とか「趣味が合わない」ということではなく、そもそも「ない」ように聴こえるのだ。
そもそもこのフレージングがなってないので、一つのフレーズと他のフレーズの呼応や対比、距離感が産み出す陰影など、クラシック音楽を構成するあらゆる要素の表出が不可能になる。もっと分かりやすく言えば「歌がまったくない」のだ。「復活」冒頭のコントラバスなど、きっちりと明瞭なリズムで奏でられている。だが、管楽器が加わっても、愛想もしゃれっ気も官能も迫力も、ない。色彩感が皆無なのだ。こう書くとショルティとかもそうじゃないかと言う人もいるかもしれない。だがショルティとシカゴ響のあの低弦には音程の確かさと明快さを土台にして初めて達成できる純度、そしてその純度が齎すテンポを速めるときの鮮やかな呼吸の一体感、そういったものがある。だが、グランディには「歌」がないので正確さが何のための正確さなのか分からないのだ。マーラーは奏者の腕前を見せるために音符を書いたわけではない。
グランディにできることは、ただただ、テンポとダイナミクスによって「焚きつけること」。それしかないように見受けられる。ただ、指揮者も「巨人」の轍は踏まないよう用心していたように思われ、この特徴は第3楽章の終盤と終楽章の全体を除いては、かなりの部分で禁欲したようだった。だが繰り返すがそのことによって、「焚きつける」以外にできることがないことが露呈してしまった面があった。
1-2.「復活」の演奏内容について
「復活」の第1楽章から振り返ってみよう。スコアを持っていない人はこの「復活」のレビューの部分は飛ばしていただいて構わない。まずは冒頭。低弦の総奏にオーボエの旋律が加わる。ここは楽譜では”p”だが、いきなりフォルテでフレーズ感が皆無で威圧的に出てくる。次に同じパッセージのmfがあるのだが最初のpのほうが大きかった。主部の変容にあたる練習番号5の終わりのグリッサンドはただ音と音を繋いでいるだけで、そこに積極的な意味を聴きとることはできない。これは終楽章まで全部そうだった。この公演の一ヵ月前にカーチュン・ウォンが日フィルを指揮した「復活」をサントリーホールで聴いたが、ポルタメントが出てくるたびに、崩れ落ちるような危うさ、憧れ、官能、それらが高雅な色彩感で訴えかけてきた。グランディのごく形だけの空々しさは比較にさえならない。
練習番号7で副次主題が変容しても色彩感や空気感が一切変化しない。直後のハープのアルペジオにも魂が入っておらずただバラバラと音が出てくるしpとpppの差もない。練習番号8の9度上昇する媚びるようなテーマも定規で線を引いたように何もない。同じテーマが、きめ細かく織られた布地のように繊細に繰り返されるが、そこでppのチェロがほとんど鳴っていない。そこから緊張が高まりヴァイオリンが広い音域を乱高下するが、それも鳴っていないし、少なからぬ楽員は弾けていない(「巨人」の終楽章の冒頭もそうだった)。13でヴァイオリンのソロが出てくるが、独奏とそれ以外の楽器のコントラストがない。独奏者はそれなりに独奏的な身振りで弾いているにもかかわらず。第1の展開部が終わる練習番号14は、各パッセージが無造作に交錯するよう書かれているが、コントロールされて無造作に聴こえるのではなく、本当にバラバラになっている。こういうのは本当に素人っぽい。第1楽章の核心部の第2の展開部(15~)はこの指揮者の悪い面が全開になった。音は無意味に大きく汚く、交錯する複数のモチーフがどれも聴き取れず、殴りつけるような大音響が耳に襲いかかる。台所で調理器具を一斉にぶちまけたような濁音は、こうなるとこの指揮者はそれを好んでいるのではないかと思えてくる(たぶんそうなのだと思う)。
「巨人」よりも細部が明瞭になったところも、かえってこの指揮者の関心が刹那的な音響のみに向けられていることを明らかにしてしまった。妙な白々しさだけが募り、音響を支えているはずの人間の精神の輝き、葛藤、愛情、そうしたものがまったく聴こえてこない。筆者は実は、感情がなく冷たい機銃掃射のような合奏を聴くのは好きな方なのだが、そのときの痛快さもグランディにはない。おそらくは全体が美しい統制やビジョンの下にないからだ(フレーズ感がないから必然的にそうなる)。
弱音が主体の第2楽章に入ると状況はさらに悪化する。まずこの楽章の各ブロックの接続部には、最弱音で動機が切れぎれになってゆく箇所が多いが、そのたびに音楽の流れが完全に止まっているのだ。これには唖然とさせられた。トリオの後半(練習番号5)ではヴァイオリンとチェロの2つの旋律が対比されるが、驚くほど表情がない。またこの楽章では1つのパートが旋律を奏でるところに後から他のパートが重なる箇所が多いが、グランディは常に一声部しか振れていない。後から入るパートは指示待ち症候群のように振ってくれるのを待っているが結局指揮者が振らないので拍がきたら漫然と弾き始める(著しかったのは練習番号8のアウフタクトのVn)。2日目なのに、初日と振り方が変わったのだろうか?第2楽章で明らかとなったのは、グランディは音量かテンポのどちらか(多くの場合はその両方)を上げないと、音からソノリティがなくなってしまうのだ。弱音が続くとずっと音楽が流れなくなる。響きもくぐもって鮮やかな色彩はどこを探しても見つけることができなくなる。これは「巨人」のときもそうだったが、「巨人」は勢いでドカンドカンやっていた分だけ、今回の「復活」ではそれが余計に顕著に表われた。
まだhitaru定期もあるので以下「復活」は端的に。第4楽章のメゾ・ソプラノの独唱はなかなか美しかったが、声質にはもっと極限的な透明度を期待したい。とはいえ、最後の歌詞“Selig Leben”で、そこまで強く利かせた抑制を解除するところは心を打つものがあった。だがオケにはやはり流れも色彩もない。終楽章について触れよう。終楽章は「巨人」のときの彼のよくない面が全開になってしまったので、同じことを繰り返して書く必要はないだろう。一つ、本質的なことはやはりフレーズ感の欠如だ。ハ長調のいわゆる「慰めの主題」、それからクロプシュトックの「復活」の賛歌。この繰り返される2つの旋律にフレーズ感がなかったことは書いておくべきことだろう。オケや合唱で何度繰り返されても、この美しい旋律を構成する音符の一つ一つがバラバラに散乱しており、一つの流れに収斂しない。もうこれはこの指揮者の本質的欠陥と言ってしまってよいと思われる。最後のPesanteも、耳を劈くような衝撃音でオルガンが“まったく”聴こえない(※注1)。前述のカーチュン・ウォンと日フィルは、ここのPesanteは、もう天国に達しているのだと言わんばかりに音量を抑制して透明で澄み切った響きを奏でていた。本当に美しかった。あまり好きな曲ではないこの「復活」で涙が滲んだ。グランディは同じプロとは到底思えない。ちなみにカーチュン・ウォンは38歳でグランディより6歳若い。「グランディはまだ若いから」とかそういう問題では、まったくもって、ない。
(※注1:ここのPesanteの箇所はその前が2/2拍子でPesanteから4/4に変わる。マーラーは拍子が変わる小節線の上に”♩=wie früher die ”と指示している。つまりテンポを半分にすることで聴覚上ではインテンポになるように注意しているのだ。マーラー自身も指揮者だったので、理論ではなくただ雰囲気で指揮するタイプの指揮者がここで遅くしかねない危惧があったのだと思われる。グランディは絵に描いたように遅くしたが、そこまでの「雰囲気」で捌く彼の指揮ぶりを見ていて筆者にはそうなる予感があった。)
よいところは「よい」と、よくないところは「よくない」と、俯瞰した観点からできるだけ客観的に論じたいのだが、どうにも「よいところ」を見つけることができない。繰り返すが、「解釈が納得できない」とか「趣味が合わない」ということではなく、ダイナミクスとテンポで焚きつけること以外、音楽的に何か内容があるように見受けられないので、書きようがないところがあるのだ。
2. ブラームスのピアノ協奏曲第1番について
4/24のhitaru定期に移ろう。まずはブラームスのピアノ協奏曲第1番。冒頭は90小節に渡ってオーケストラだけで主題が提示される。ここを聴いてマーラー以上に驚いた。弦楽器の各セクションのアーティキュレーションとフレージングが個々の奏者でまったくばらばらなのだ。視覚的にも弓の動きがまったく揃っていない。この人数でばらばらだと、もう音の焦点が定まらないので旋律を旋律として聴き取ることができなくなる。通常、プロのオーケストラであれば、仮に指揮者がいなくてもここまで混濁することは考えられない。内紛でも起きているのかと音楽とは違う不安が湧き上がってくる。
グランディの場合、仮にこのままアーティキュレーションとフレージングが整えられたとしても、その処理は通り一遍のものであり、そこに独自の理論や「自分はこう歌う」という信念のようなものを見つけることは難しい。20世紀にジョージ・セルなどが端正なフレージングから生まれる音楽の美しさを発見した。後にアーノンクールはそれを否定して対立が対立のまま併存する音楽を生みだした。フレーズの終わりをあえて不明確にすることで人間の喋り方のように聞こえることもある。明快であるべきものを意図的にぼかすと独自の味わいや奥行きを生むこともある。こうしてブラームスの音楽は、西洋音楽は、多義性と複雑さを獲得してきた。グランディはこの流れのなかにいない。無理やり位置づけるとするとセル以前の周回遅れの地点の、もっとも低いレベルに甘んじている。
第3楽章の中間部にはオーケストラだけの長大なフーガが出てくる。ここなどは、弦楽器のセクションの人数分の音が聞こえてくる。演奏中であるにもかかわらず、なんども「うわっ、、」と声が出そうになる。独奏の清水和音が仰ぎ見るような風格のある音楽を奏でたので、これを聴けただけでも来た甲斐はあったが、やはり“協奏曲”なので音楽にはならなかった。
3. ベートーヴェンの交響曲第7番について
混迷の度合いはまだ深まる。hitaru定期の後半はベートーヴェンの第7。札響にとってもレパートリーなので、どこでどう音を出せばどう響くかということを楽員もよく心得ている。その分だけ、ごく表面的には音は整い生気を取り戻したかにも見えたことだろう。だが、楽員が曲をよく知っているということは、それと同じように聴き手にとってもそうなのだ。アマオケなどで弾いたことがあってスコアを熟知している人も多かったことだろう。筆者の感覚では、昨年のマーラーの「巨人」からこのhitaru定期までのグランディが指揮したすべての曲目で、彼の基礎的な音楽性や技量、そして見識を最も強く疑ったのはこのベートーヴェンだった。よく知られている曲なので、スコアを参照しながら楽章ごとにポイントを絞って論じてみよう。
まず第1楽章の冒頭。譜例1を見てほしい。旋律を奏でるオーボエ、次いでクラリネットとホルンに”fp”(フォルテのあとすぐにピアノで)が書かれている。だが、なぜかこの各パートが延々とフォルテなのだ。こうなると6小節で弱音で入るフルートとクラリネットの2ndがまったく聴こえない。しかも2,4,6小節の弦の弱音はいつものグランディのようにソノリティがなく弱いだけで鳴っていない。札幌に住んでいてマーラーのような巨大編成の作品を聴き慣れていなかった人でも、この開始を聴いて「すごくいい加減に指揮している」と気づいた人は少なくなかったはずだ。
続いて第2楽章。また最初の楽譜を見てみよう(譜例2)。2小節間a-mollの和音が奏でられ、そこから101小節に渡って、延々とa-mollが続く。「変化」を偏執狂的に避けたこの書法なしにはラヴェルはボレロを生み出せなかったとも言われている。無変化がこれだけ続くから、102小節でA-durに転調し柔らかい空気が立ち込める瞬間が最大の聴きどころとなるのだ。だが、グランディは最初の和音でもうフェルマータになっている。何拍分だろうか。6~7拍分ほど伸ばして3小節目から動き始める。つまり最初から「変化」している。102小節のA-durでの柔らかく立ちこめる空気感もまったくない。すべて雰囲気で指揮している。
ちなみに214小節で主題と対位が同時に鳴り響く箇所では音と音がぶつかり合ってしまいどこを聴いてよいのか分からなかった。無策というか思慮がない。ここはスクロヴァチェフスキなどは透き通った音響で対立する2声部の進行を美しく響かせていた。
続いて第3楽章。この楽章はA-B-A-C-Aのロンド形式。音楽が変化するたびに3拍子のPrestoのAが戻ってきてリセットされる。だが、1回目のAと2回目のAのテンポがまるで違うのだ。2回目のAに入ったとき、テンポがメトロノーム記号で10ほど速いので、楽員にも動揺が走りリズムが急に転んでしばらく持ち直さなかった。これも大学オケの学生指揮者などがやりがちなことだ。
終楽章はテンポの速さが話題になった。だが、物理的な速さそれ自体というものは、あくまでも相対的なものなので、音楽を語る上で指標にはならない。このフィナーレの終止部第1群では、譜例3のR2の動機が模倣の手法によって大規模に展開される(349~404小節)。様々なパートに受け渡されるなかで徐々に大きな流れに結実してゆく。こうした音楽の本質を構成する上で、「テンポが速いこと」が有意味に作用するのであれば、速くてもいい。だがグランディにそういう理論的な洞察があるようにはどうしても見えない。「最後、ぶっ速くやれば盛り上がる」くらいの発想でやっている。この公演の数日後にグランディがコンセルトヘボウで北西ドイツフィルを指揮したベートーヴェンの第4の動画が5/1に公開されたが、それを見ると終楽章で同じことをやっていた。

譜例3(全音社版スコア2015より転載)
このベートーヴェンに関しては客席は沸いたようで、それはそれで収穫ではあったと素直に思う。お客さんが喜ぶことが大事じゃないとは言えないからだ。だがそこにこそ今私たちが考えるべき問題が潜んでいる。最後にそれについて少々。ちなみに、もし職業音楽家でこのベートーヴェンをよい演奏だったと言っている人がいたら、その人はクラシック音楽の基礎的な素養がないことになると思っている。
4. 応援するということ、盛り上げるということ
グランディはまだ若いから。これからオケと一緒に成長する楽しみがある。こんな声も聞こえてくる。だが、先ほどカーチュン・ウォンの例を挙げたように、才能あふれる人というのはどの分野でも私たち凡人の常識では測りかねるほどに早熟なものだ。しかも仕事の内容を評価する尺度として年齢を持ち出すことほどナンセンスなものはない。
だが、なにがなんでも、どんな詭弁を弄してでも、何かを「よかった」あるいは「よくなかった」ことにしようとする人というのはどこの世界にもいるものだ。今回「記事を書いてほしい」という連絡を多くの方々からいただいた。その際にある方が「建設的な賛否両論ではなく、なんだかよくわからない賛否両論になっている」と仰っていた(ちなみに筆者個人のところに「賛」の声は届いていない)。その「よくわからなさ」の正体について書いておくことは今後にとって価値があると思った。それは、その人達が愛している対象を「応援すること」や「盛り上げること」とは最も遠い振る舞いであるはずだからだ。最後に角度を変えてそれについて考えてみたい。
ちょうど今、万博が話題になっている。おかみのやることは一通りなんでも批判するタイプの人は当然ながら万博にも難癖をつける(誤解しないでほしいが筆者も万博は不要だと思っているがそれは今は別問題)。この手の人は、マイナンバーカードから減税まで内容に関係なくおかみのやることには全部反対する。その前提が見え透いている人が、万博の問題点を意気揚揚と論っていると多少なりともイラッとすることだろう。同じように、『「万博を批判すると最初から決めている人」を批判する人』もいる。こちらは、もちろん万博を称賛することになる。反権力で正しい自分にうっとりしたい人は「万博反対」になるし、逆に弱い側を叩くことで自分が強くなったかのような錯覚に浸りたいタイプの人はその逆張りになる。結論は最初から決まっている。こうなってしまうと、そこで何が行われているのかの具体的な価値についての議論はできなくなる。何が有効なのか、何が将来へ向けて建設的なのか。あらゆる議論は不可能になる。主催者の側が、ビジョンを提示して社会にインパクトを与えようとしていても、それを阻害することにさえなる。
なぜそうなるのか。おかみ、つまり国家という想像の共同体には生活のリアリティを(多くの場合は)持ちにくい。買い物とか通勤通学とか育児にはそれがある。生活のリアリティがないものについて語るとき、わたしたちは往々にして、無自覚にアイデンティティの問題にすり替えてしまうことになる。こうしてアイデンティティの政治に巻き込まれると、もう具体的な内容について議論することは不可能になってしまう。背景にはこうした問題がある。
芸術にもこれと似たところがある。芸術を生業としていない人にとって芸術には生活のリアリティがない。だからそれについて語るとき、アイデンティティの政治の道具に貶めてしまいがちなのだ。分かりやすい(卑近な)例でいえば、「せっかく高いチケット代を払って聴いた演奏会なのだから内容がよくなかったことにはしたくない」とか、そんな動機で空気を捻じ曲げようと必死になる人は、多くはないが、いることだろう。さらに矮小なパターンだと、2日公演の初日を聴いて「すごくよかったです!明日ぜひ!」とSNSで書いてしまったとしよう。その後、見識ある人たちから同じ公演の不出来を嘆く言葉が続々と出てきて、タイムライン上を覆ったとしよう。そこで「よかった」と言ってしまった自分の見識を否定されたくないという動機から、同じように「よかった」と言っているポストを延々とリポストし続ける。例としてはあまりに矮小だが、その分だけイメージしやすいことと思う。なぜ自分で疑問にならないのか不思議でしょうがないが、自分が愛している対象を、自分のアイデンティティの政治の道具へと貶めている自覚がないのだろう。彼ら/彼女らが愛しているのは実際にはアーティストではなく自分だし、欲しているのは感動ではなく承認のみだ。こうなると、万博の例と同じように、その公演の内容がどういうものだったのか、何が今後に有効なのかなどの、将来へ向けた建設的な議論は不可能になってしまう。これらは、その分野を「応援すること」とか「盛り上げようとすること」からは最も遠い振る舞いであろう。
もう一つにはいわゆる「推し活」的な発想の負の側面も無視できない。クラシック音楽には膨大な伝統と論理、それに世界観がある。だが、そうした「世界観」的なものではなく「キャラ」を効率よく消費させることで、いまクラシック音楽のある部分では多くのファンを獲得することに成功している。これは映画などでも起きていることだが、こうなると、創作物というものは「世界観」ではなく「キャラ」、「風景」ではなく「身体」でしか人を惹きつけることができなくなってゆく(声楽で「ハイCスゲー!」みたいな)。
この状況が、現在の情報環境に後押しされると、私たちはアーティスト個人に対する「推し」的な言説と、あたかもコール&レスポンスのような「考察」(アーティスト側が仕掛けた「ネタ」への「応答」)に圧倒されることになる。こうした作品を商品化する視線というものは、作品をじっくり味わって、その結果、自分の内面に起きた変化を丁寧に言葉にするような文化的な営みを、ノイズとして退けることになる。「推し」のやることは全部称賛!となってしまうと当然そうなる。アイデンティティの政治、そして「推し」的な言説、この2つが、いかに短期的にはファンの獲得に成果を残したとしても、そのことによって長期的に失われるものは計り知れないのだ。本紙に連絡をくれた人が言うところの「建設的な賛否両論ではなく、なんだかよくわからない賛否両論」とは、こうした「ヤバさ」を直観的に感じて出てきた言葉なのだろう。
作品に「触れる」とはどういうことか。最初から「褒める」、「けなす」と決めておいてその言葉をアーティストにペタペタと貼り付けることではもちろんない。作品に心が接触すると、他者の思想が内面に入り込んできて自分が変えられてしまう。作品の力が強いと、作品に触れる前と後では別の存在に変身してしまう。その体験は気持ちがいいものばかりではない。だけど、その自分が否応なく別の存在に変わってしまう体験を愛することが作品に触れることの醍醐味であり、ひいてはその態度は他者を愛することなのだろうと思う。こうして作品を愛する人が増えればその分野は本当の意味で「盛り上がる」ことになってゆくはずだ。
さて、この記事は“たまたま”札響の新しい首席指揮者の公演の「内容」について論じたものだが、それをきっかけに私たちが考えなければいけないことは、おそらくはこうしたとても根が深く、そして人間が無自覚になりやすいがゆえに、その弊害がとてつもなく大きい問題なのだと思う。だいぶ長くなったが、もし1人でも「ちょっと考えなくては」と注意深くなる人がいてくれたら、それだけでこの記事を書いた甲斐はあったと思う。もちろん、筆者は札響を、オーケストラ文化を、札幌の文化芸術を、真剣に「応援している」し「盛り上げよう」としている一人だ。
(多田圭介)
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