札幌劇場ジャーナル

【クロスレビュー前篇】 札幌交響楽団 第677回定期演奏会レビュー -逆襲の札響-(26/5/30@Kitara)執筆:多田圭介

1:逆襲の札響

札幌交響楽団の第677回定期を聴いた。曲目はマーラーの交響曲第3番。指揮はエリアス・グランディ。アルト独唱はゲルヒルト・ロンベルガー。同オケの首席指揮者の任にあるグランディと札響は、ここまでうまく嚙み合わない時期が続き、どこか長く暗いトンネルを彷徨うような状態が続いていた。常設のプロオケとタイトル指揮者の関係でここまではっきりと「危機」と言える状況が続くのは日本では稀だったと思う。だが今回はそこに光明が差し込んだ。初めてこの両者の演奏から「音楽」が聴こえてきた。特に前半の3つの楽章に関しては、まるで1つ石を置くだけで真っ黒だった世界がサーッと漂白されてゆくオセロのような感覚を覚えた。

札幌交響楽団提供

何が起きたのか。まず挙げなくてはいけないのは、コンマスの田島高宏を中心とする楽員の奮起だろう。“俺たちはプロだ。これ以上このオケのブランドを落とすのは許さない”とばかりに本気を出した。一般的にプロのオーケストラというものは、指揮者に任せることができないと判断すると、即座にコンマスを中心に自律運転をドライブさせる機能を持っているものだ。自衛手段だ。今回はまずそのプロオケの強力なレジリエンス(復元力)が発動された。見事だった。普段の札響は基本的には従順な性格のオーケストラで、指揮者に合わせる傾向が強い。だがオケのアイデンティティが揺るがされるほどに追い込まれた現状でついに発動したのだろう。楽員の悲壮な覚悟が会場にもたらした緊張感はただならぬレベルだった。私見ではこれが8割。

そして残りの2割はグランディのこの公演に賭ける覚悟もたしかに貢献した。いつも両手をぶんぶん振り回してしまうような強奏箇所でも、クレッシェンドするパート順に丁寧に指示を与える仕草が何度も見られた。普段からそうであってくれればよいのだが。正直なんどもそう思った。

もう一つ。コンマスサイドには会田莉凡が座ったが、極力目立たないように身を屈めて弾いていたことに気づいた人はいるだろうか。たまに身体を動かすときは軽く右を向いて田島の動作を確認するのみだった。指揮者の不測の動作で合奏が乱れそうになったときに全楽員がコンマスの田島を見るよう指示を徹底させるなかで、コンマス2人が違う動きをするとどちらに従っていいのか分からなくなるから、そのようにしたのだろう。会田のこの判断は、全楽員の視線が真っすぐに田島に集中できる状況を準備した結果だったはずだ。意図的に存在感を消していたのがはっきり分かった。果たして田島は防波堤のようにグランディの煽りを堰き止め、正しいフレージングを楽員に伝え続けた。鬼神のような凄みがあった。筆者は初めて田島高宏という音楽家の本当の凄さに気づかされた。繰り返すがグランディにも真摯にスコアに対峙してこの公演に挑もうという真剣さが出たのも確かだった。

これまでを少々振り返ろう。グランディという指揮者にはいくつか他の指揮者には見られない特徴というか癖のようなものがある。一つ挙げるとフレーズの本来の秩序とは異なる(個人的には無視したと言いたいのだが)仕方で特定の音(動機というほどのまとまりはない)を放り投げるように強調する癖がある(なぜそうするのかは後述する)。あるいはそれが彼の個性なのかもしれない。だが、2024/11のマーラーの「巨人」、2025/4の「復活」、2025/4のベートーヴェンの第7とブラームスのピアノ協奏曲第1までは、グランディのその癖にオケが全面的に合わせていた。そのたびに音楽が方向性を失い、響きも濁り、難しい結果を残し続けてしまった。変化があったのは2025/6の「ダフニスとクロエ」。この辺りから、オケの側がそこまでの反省を活かしてグランディよりもコンマスを中心に音楽の基礎構造を作る姿勢が出てきた。ダフニスは一定の成果があった。だが2026/1の「英雄の生涯」はおそらくはオケの想定を上回るほどグランディが振り回してしまったのだろう。対応し切れずに濁音に飲み込まれてしまった。実は筆者はこの「英雄の生涯」でこのコンビの未来を一度は完全に諦めてしまっていた。そして迎えたのが今回のマーラーの第3。指揮者にも、オケにも、ここがデッドラインだという覚悟がたしかにあったはずだ。舞台上にはKitaraでかつて感じたことがない緊張感が漲っていた。そして札響は蘇った。

札幌交響楽団提供

2:演奏について(第1楽章)

演奏内容にいこう。筆者は初日の5/30に聴いた。2日目のほうは遠藤さんに任せる。まず冒頭のホルン8本のユニゾン。グランディなのでわめき散らすようにならないか心配だったのだが、十分な手応えの開始だった。鳴り切りながら、どこか荘重な気配がある。運命の宣告のような、そう、チャイコフスキーの第4の冒頭のような残酷で抑圧的な気配がある。そしてこれが重要なのだが、うるさくない。客演に名手・上間善之を迎えたのも大きかった(注1)。ここを聴いただけで「今回は違う」、そう感じた。続く「冬の主題」(譜例1)。時間が停滞した死の時間の重々しさがある。転じて春の日差しのような「牧神は眠る」(譜例2)で空気が和らぐ。ああ、音楽が聴こえる。そう思った。個々の楽員が自発的に克明に音を刻み付けている。楽員一人ひとりのただならぬ覚悟のようなものがはっきりと感じられた開始だった。

(注1:上間は4/30のhitaru定期にも客演しておりスーパープレイを連発した。Web版でそれについて触れたのでこちらもぜひ参照してほしい。)

譜例1:冬の主題(第1主題);この主題とは言えないような断片が呻くように羅列される

譜例2:牧神は眠る(第2主題);長調に転じ温かい空気が流れ込む

ただここまでで問題点も残った。この「牧神」の主題にマーラーは”immer das gleiche Tempo”(常に同じテンポで)と指示をしている。直前にはa Tempoがあり、その前の「冬の主題」にはリタルダンドがかかっている。ということは冒頭のホルンのユニゾンと「牧神」は同じテンポということになる。空気が和らぐ「牧神」を引きずるようなテンポで奏するわけにはいかないから、逆算すると<冒頭のホルンもかなり早めのテンポ感が想定されている>ことが分かる。

一例を挙げよう。インバル&フランクフルト放送響(1985年)の録音は、ホルンのユニゾンが♩=104、冬の主題が♩=69、牧神が♩=104。冒頭と牧神がピタッと104で一致する。それに対し、グランディはホルンのユニゾンが♩=76~80(体感なので多少前後する)、冬の主題が♩=66、牧神が♩=90~92ほどだった。ホルンのユニゾンが遅すぎたのでどうするのかと思ったのだが、やはり辻褄は合わなかった。この辺りはグランディという指揮者が本質的に抱えている難点で、「やはり今回もか」、そう過った。だがこの「牧神」以降、第1楽章のテンポの主導権がコンマスの田島に移った。田島が判断したのだろう。テンポの変わり目が訪れるたびに全楽員の視線は田島に注がれ続けた。これ以降第1楽章は引き締まったテンポ感で音楽が伊吹を失うことはなかった。

1楽章ではグランディにもこれまでと違うところが目立った。練習番号26からは冒頭の「目覚めの呼び声」と「軍隊マーチ」、「牧神」のそれぞれが複雑に変容しながら交錯する。グランディが煽らない。丁寧に各パートに指示を送っている。オケのサウンドには見通しのよさが表れる。グランディの指揮では初めてのことだった。直後のハープから順にグリッサンドが受け渡される箇所も(練習番号28;譜例3)、グランディはパート順に丁寧に指揮をしている。夢のような美しさでハープが駆け上がり、そこに全パートが重なってゆく。ふわっと風を感じる。いつものグランディであれば必然性のないただの騒がしい音になっていたはずだ。

譜例3(クリックすると拡大できます)

ただ、本番で高揚したのか、グランディが何度かいつもの煽りを入れようとした箇所もあった。だが、その度に田島が立ちはだかり、正しいフレージングを全楽員に伝える。田島の弓を見ているだけでフレーズがはっきり分かった。そして、その通りにフレーズが紡がれる。グランディにとっては気持ちのよい瞬間ではなかったはずだが勉強になったことだろう。

練習番号39からのマーラー独特の対位法も素晴らしく冴えていた。軽やかにさえずる木管、陶酔的な田島のヴァイオリン、霧のような弱音、この楽章の最良の瞬間だった。特に田島のソロは、筆者がこの奏者から聴いた記憶がないほど気高い。この本番に賭ける気迫のなせる業だったのではないか。

終盤605小節にマーラーは自筆譜では「南からの風」と書き込んでいる。ディオニュソス的な興奮が台風のように接近してくる。人間が抗えないような熱狂によって巻き込まれてゆくニーチェの思想が反映した箇所だ。ここも音響の見通しがよく普段のグランディより格段にグレードは上がった。だが、鎮静、そして狂気乱舞の熱気は感じられなかった。やや重たく鈍い。うるささも感じさせてしまった。この定期の徹底した慎重な姿勢がやや楽譜の上っ面をなぞったような結果になった。だが、これまでの反省を活かして勝負に出た結果なのでこうした箇所が出るのは致し方ないとも思った。

コーダは快速で、コーダの入りとトランペットに旋律がくる箇所で2段階に加速した。おそらく、ここを聴いて「ああ、またやってしまった。いつもの癖で爆発させてしまった」と感じた人もいたはずだ。しかし、今回に限ってはこれで楽譜通りなのだ。コーダの入りにはDrängend(切迫して)、そしてトランペットの旋律の箇所でSehr drängend(とても切迫して)とスコアでも2段階に分けられているのだ(譜例4)。実は、ここを2段階で加速した演奏は実演録音を合わせてもあまり記憶にない。ここは聴けてよかったと感じた。だが、グランディがこうした快速な箇所を指揮すると、なぜかオケが引っ張り回されているような雰囲気が出てしまう。今回もそれはあった。どのパートも単純な順次進行なので札響がこの程度の速度で乱れるとは思えないのだが、グランディが指揮するとなぜかその空気が出る。不思議だがいつもそうなのだ。

譜例4(クリックすると拡大できます)

また第1楽章に関しては、トロンボーンの山下友輔の独奏もすこぶる高いレベルだったことも記しておきたい。深い響きによって奏でられた詠嘆の歌は東京のオーケストラで聴く同曲に匹敵した。また打楽器群の集中力も高く、管弦と異なるダイナミクスが指示されている箇所の音響の立体感も丁寧に奏でられていた。第1楽章の最後の音が消えた瞬間、安堵とも驚きともつかぬ呼気が筆者の口から洩れた。やっと形になった。そう呟きそうになった。

3:演奏について(第2~3楽章)

さて、第23楽章へ移ろう。厳めしい楽章の谷間に花が咲いているような可憐なこの2つの楽章でも一定の水準が保たれており心が潤うような時間となった。第2楽章は静かに淡々と弾くが草原で野花が風にそよぐような風情があった。木管の旋律、背景を作る弦楽器のか弱げな響き、羽毛で優しく撫でるような儚さ、ずっとこの音楽に浸っていたいという感覚もたしかに感じられる時間となった。もっとも印象深いのは終盤。練習番号16で木管の柔らかい和音とハープのアルペジオが揺らぐなかをヴァイオリンが感動的な独奏を奏でる。そしてエンディングではハーモニクスで融けてゆく。なんの心配もなくマーラーの音楽に浸ることができた。やはり田島が鋭い眼力で全楽員を統率していた。

続く第3楽章は全6楽章で最美だった。「遥か遠くから」と指示されたポストホルンの独奏の見事さが際立つ。このポストホルンはアドルノの言葉を借りるなら「一時止揚(Suspension)」。現実の時間が停止され別世界の時間に放り込まれる。だがトランペットのファンファーレが現実に引き戻し、また時間が動き始める。マーラー一流の多層的な空間性がKitaraの広い空間に見事に出現した。ポストホルンは籠谷春香。バンダの位置も文句なし。入念に確認したのだろう。遥か昔の記憶の深層の世界に沈み込むような奥行があった。さらに素晴らしかったのは2回目にポストホルンが登場する練習番号271回目より遠くから聞こえる。記憶の彼方へと去ってゆくように。そこへヴァイオリンがそっと撫でると影が過り、これは第4楽章の前触れなのだとはっきり感じられた。第3楽章に関しては、在京オケ等で何度か聴いたこの作品の名演奏にもう一歩で届きそうな気配があった。さて、期待が高まる残り3つの楽章だったが、ここからはマイナス面が目立ち始めてしまった。

4:演奏について(第4~6楽章)

第4~6楽章は、遅くすると流れがなくなってしまう、いつものグランディに戻ってしまい、音楽に集中するのが難しくなってしまった。コンマスとオケが主導権を握った前半から一転したように感じられた。もしかしたら後半は楽員が指揮者に委ねて「私たちはこれからもあなたと一緒に音楽を作ります」という意思を示したのかもしれない。もちろん想像に過ぎないが。

4楽章はいよいよロンベルガーの出番。言葉の明晰さ、声の透明感と深みはさすがだが、背景の音楽が流れと拍節間を失いがちになっているので、入るタイミングが探り探りになってしまうところが目立った。そのせいで発声も不安定になり音程も下がった。特に練習番号6”O Mensch!”はそれが顕著だった。ただ、独唱が主導権を握る“Tief ist Ihr Weh!”はさすがに凄みのある歌唱を聴くことができた。それに、楽員の集中力は依然として高く、聴きどころは少なくはなかった。特に第1楽章冒頭のホルンのユニゾンから派生した低弦のモチーフのまどろむような響き、オーボエの虚無の音(ね)、静かに哀しみを訴えるヴァイオリン独奏等には、この楽章の雰囲気がよく出ていた。

続く第5楽章も課題のほうをやや強く感じさせられた。児童合唱をPブロック上手の最上段に、チューブラーベルをRAのパイプオルガン寄りのブロック最上段に配置した。だが、バランスに難があり冒頭はチューブラーベルばかりが聴こえてきて、児童合唱はあまり聴き取れなかった(筆者の座席は1F11列の右側)。グランディは配置などの演出に凝るとそれが裏目にでることが多い指揮者なのだが今回もそうなってしまった。1月定期の「英雄の生涯」ではB♭管とEs管のトランペットを上手と下手に分けて配置したが、そのときも基本的な音響が荒れてしまっていて、その効果は感じられなかった。それを思い出した。

3声に分けられた女性合唱は、アクセントが付された弱音やレガートをもっと明瞭に歌えるとよりよいと感じた。普段の札響合唱団と比較してもまだできそうだった。とはいえ、オケがスタッカートやアクセントをとても丁寧に弾いており、響きそのものには内声まで豊かさや繊細さが感じられた。

札幌交響楽団提供

難点は指揮者に音楽への洞察が感じられず、チェロの独白のようなフレーズ(練習番号3など)が息づかないところだった。ただ弱く鳴っているだけで意思が感じられなかったのはやはり惜しい。指揮でさらに問題を感じたのは独唱の”Ach komm und erbarme dich über mich(ああ、どうか来て、私を憐れんでください)の箇所。ここで大きくテンポを落とし、同じ歌詞をもう一度繰り返すときにさらに遅くした。スコアにその指示はない。さすがに流れが止まってしまい、2回目を繰り返すときにロンベルガーも響きを作れずmfで出てしまい(指定はpp)音程もぶら下がってしまった。最後に“bimm bamm”が回帰するところのチューブラーベルの音型はF-D-F-D-F-A-F-Aだが、なぜかD音しか聞こえなかった。理由は分からない。この楽章あたりからオケにも集中力が失われ始めたのを感じた。

さて、いよいよ最後の第6楽章。この楽章はマーラーの作品中でも特別な音楽である。第5楽章最後のbimm bammが虚空に消えてゆき、第6楽章のヴァイオリンのA音がゆっくりとDに上昇すると、全世界が天に向かって上昇し始めるのを感じる。よい演奏だと必ずその力学が実感できる。エンディングでは魂が贖われて天上へ上昇してゆく内的な必然性や感動に襲われ、驚嘆する他ない凄まじい音楽となる。マーラーは、この楽章を書いているとき「だけ」は、天上の世界を、永遠を、神を信じることができていたのだと有無を言わせずに納得させられる。おそらくマーラーの全作品で唯一の本当の肯定の音楽だ。そのくらいの特別な音楽だ。だが、初日を聴いたかぎりでは、最後まで<上向きの力>が働かなかった。残念ながら地を這うようだった。

ここにはエリアス・グランディという指揮者の本質が表れていた。以下の譜例を見てほしい(譜例5)。

譜例5

Aは第1楽章の主題。Bは第6楽章の主題。同じく弱起でドミナントから主音へ向かう。Aの第1楽章では、なだらかに流れるのを拒否するように何度も下へ跳躍する。Bで音楽はついに天上の世界に向かって静かに、引き上げられるように流れ始める。このBの旋律は、印欧語を話す文化圏で中世以降に作り上げられた典型的なフレーズを形づくっている。弱起+ドミナント開始は特に独語圏では深く浸透し、グレゴリオ聖歌にも同様の音型が多く見られる。ヨーロッパの音楽にはグレゴリオ聖歌以来、こうしたフレーズでは必ず“アルシス”から始まり“テーシス”に向かい、そして途中で“イクトゥス”を経るという<フレージングの力学>がある。それを徹底すると、この音楽は自然に上昇を始めるのだ。だがグランディにはこの<フレージングの力学>の感覚がないように見受けられる。これまでもずっとそうだった。

では彼はどうやって音楽を構成するのか。筆者に聞こえている範囲では、ほとんどがダイナミクス(強弱)のみなのだ。だから、彼が「復活」を指揮したときも、pppppの差などを神経を使って表現しようという意図はちゃんと音に表れる。だがそのpppppの音を繋ぐフレーズの内的必然性がないので、個々の音と音がバラバラになってしまうのだ。彼の指揮にオーケストラが全面的に委ねたとき、音楽から先の音の気配と前の音の余韻が消えることが少なくないのはそのためだ。ただ、それでは音楽にならない。それで、この記事の冒頭で指摘した“特定の音の強調”で味付けをしたくなるのではないか。おそらくは彼の音楽の<歌のなさ>、<歌ものとの相性の悪さ>はこの辺りに原因があると思われる。

もちろん第6楽章も楽員の渾身の音楽が聴こえてくる瞬間はあった。片鱗が響きかける瞬間もあった。だが、3回目の苦痛のモチーフでオケがグランディの煽りに屈してしまい、以前のように耳を劈くようなうるささを感じさせてしまったり、難しかった。最後、トランペットがゆっくりと上昇を続け、全管弦楽がニ長調の主和音に達し、ティンパニの4度の連打が始まる。グランディはそこに到達する最後のアウフタクト(315小節の3~4拍目)に大きくルバートをかけ、溜めに溜めた。不可視の力で全世界が天上に引き上げられる音楽で、“ふんばる”ように溜める指揮者が他にいるだろうか。筆者は聴いたことがない。帰宅してCDを相当数確認してみたが同じところで溜めた演奏は1つもなかった。グランディという指揮者はやはりヨーロッパ的な美的感覚から遥かに遠く隔たった世界に住んでいる人物なのだと思う。

両日聴いた知人曰く、第6楽章は2日目に大幅によくなったそうなので、もしかしたら2日目はコンマスとオケが主導権を握ったまま最後まで行ったのかもしれない。前半3つの楽章でこれほどの進化を見せた定期だったので2日目も自分の耳で確認しておきたかった。2日目の評は遠藤さんに任せる。

5:最後に

さて、今回のマーラーの第3番はこれまでのグランディと札響の演奏としては大幅な前進が見られた。だから、できるだけよくなった面にフォーカスして書いてみた。だが、後半に感じたことを率直に書くとやはりこれまでと同様の課題が残っていることは変わっていないのかもしれない。それでも、筆者はこの定期で徳俵に足がかかったプロ集団が見せた本気に、やはり感動したのは間違いない。通いなれたKitaraの空間に、極度の集中がもたらす、澄んだ、そしてどこか鋭さのある空気が満ちていた。この空気感を実感できたことも喜びだった。

次回グランディが指揮台に登るとき札響はどんな演奏をするのだろうか。今回、前半3つの楽章で見せたオケ側の姿勢は現状ではグランディ&札響体制の最適解であることは間違いない。だがそれは同時にこの指揮者が札響を次のステージに連れて行ってくれる音楽家ではないという事実を公然のものとすることになる。このままこのスタイルを維持して現体制のソフトランディングを目論むのか。あるいは、まだここから筆者が予想していない違う世界を見せてくれるのか。はたまた、次回は以前のトンネルに戻ってしまい、世界は“昼が考えていたより、なお深い”ことを突き付けられるのか。今回差し込んだ光明が夜明けに繋がる一縷の可能性を信じて閉じることにしたい。マーラーがこの作品で引用したニーチェの『ツァラトゥストラ』の最後は次のような言葉で途絶えている。

 

「これは私の昼。私の昼が始まるのだ。昇ってこい。さあ昇ってこい。あなた、大いなる真昼よ!」(ニーチェ)

 

(「さっぽろ劇場ジャーナル」編集長 多田圭介)

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