札幌劇場ジャーナル

チョン・キョンファ ヴァイオリンリサイタル2019

2019年10月6日(日) 北広島市芸術文化ホール(花ホール)

 北広島市芸術文化ホール(花ホール)にチョン・キョンファが登場しブラームスのソナタ全曲を披露した。筆者は、数年前に東京文化会館でチョンを聴いている。そのときの公演は、長い休養から明けての復帰公演であり、当時、チョンの変貌ぶりが大きな話題になった。休養に入る前の彼女の音楽は、野生動物が獲物に狙いを定め襲いかかるかのような凄みに特徴があった。しかし、そのときの復帰公演では、霞のように幽玄で静的な演奏に変貌していた。ただ、あまりにも禁欲的で、鳴らさない演奏だったため、音響の優れた東京文化会館(大ホール)の、しかも15~16列目でも、遠すぎて彼女が何をやろうとしているのか掴めなかった。そんなこともあって、次にチョンを聴くときは必ず小ホールで聴こうと決めていたのだが、この花ホールの公演は筆者にとって待ちに待ったその機会だった。

 座席は1階の8列目。これでももう目一杯だった。あと23列下がるともう聴き取れなかったはずだ。一般的に言って、ヴァイオリンという楽器は、名手になればなるほど妖艶で滴るような美を放つようになる。広い現代の演奏会場の隅々まで届くように響くほどに雄弁で豪奢になる。「悪魔の楽器」と称される由縁だ。かつてのチョンも、現代のヴァイオリンが持つ豊かで美しい響きを十分に保ちながら、しかし、ただの感覚的美ではない音楽を目指していた。だが今のチョンは、その「感覚的美」そのものすら切り落としにかかっている。いや、今のチョンの音色も十二分に美しい。言うならば、美=快とするなら、その意味での美を切り落としているのだ。かねてから感覚的美を保ちながら感覚的美を超えた美を追求していた彼女だが、長い演奏生活の中で、感覚的美を獲得すると必然的に失われてしまう「何か」があると気づき、決断したのではないだろうか。

 今の彼女の音色は、冷えた質感で枯淡を描く墨絵のようだ。そこにあるのは、我欲や煩悩が払拭された「筆を惜しむ精神」といえる。また、喩えるなら、自然を遮断する鉄筋コンクリートではなく、自然と共鳴する日本家屋のような佇まいともいえよう。耳を澄ますと、極上の日本茶のように複雑でありながらすっきりと洗練されたうま味が身体に入り込んでくる。また、滑らかで流麗なレガートを徹底して禁じていることも指摘しなければならない。「滑らかさ」は感覚的美の必須の要素だ。チョンは響きの快だけではなく、これも切り落とす。音量は滑らかに推移するのではなく、突然フォルテとピアノが入れ替わるし、一つのフレーズを美しいレガートで歌うこともしない。そうすると、小石につんのめるように聴こえたり、本来は明快であるはずの要素が多様性を帯びる。結果、常套的な美からはみ出るのだ。そうして、覗きこむと吸い込まれそうな深淵が開かれる。聴く者が積極的に参与しなければ見えてこない美、長い修練を積まなければ感受できない美、その意味では聴く者が試されるような美と言えるだろう。

 さて、演奏内容に移ろう。ブラームスのVnソナタ全曲演奏会でよくあるのは、第1番から曲順に演奏し、最後の第3番に向かって徐々にスイッチが入ってゆくパターンだ。これは第3番という作品の密度が圧倒的に高いからそうなりがちなのだが、チョンは反対だった。第1番が冠絶した世界を切り拓いたのに比べて、休憩後の第23番は、優れた演奏ではあったが第1番と比較するとやや常套的な美の世界に留まった感がある。もちろん、極めて高いレベルにおいてではあるが。

 第1番の第1楽章は4分の6拍子。はじめの小節はピアノの和音に乗ってヴァイオリンは5拍目から出る。四分音符3つを1拍ととると、2拍目の裏からシンコペーションで出る。しかし、チョンは、ピアノが和音を奏すると、すぐにその裏から(つまり2拍目から)主題を弾き始めた。間違って出てしまったのだ。すぐに演奏をやめ、弾き直した。ここを聴いて、筆者はかえってただならぬ意気込みを感じた。一般のお客さんが、ヴァイオリンの演奏会に期待するのは甘美な陶酔と感覚の愉悦だ。チョンはそれを嫌というほど分かっているはずだ。しかし、チョンが今やろうとしている音楽はムダが削ぎ落とされて精神が露出したような音楽。聴き手に受け容れられるか、大家といえども追い込まれるのだろう。チョンはそもそも本番前に極限まで自己を追い詰めるタイプである。このリサイタルはなおさらそうだったはずだ。舞台に立つことは生半可なことではない。チョンの悲壮な覚悟が伝わってきた。また、ケナーが、チョンが2拍目から出たのを聴いて、その場で46拍目をカットして2小節目に飛んだのも見事だった。

 弾き直した2回目。先に「小石につんのめるような」と書いたが、この全曲を支配する動機のことだ。譜例を見てほしい。

譜例

はじめの4分音符の後に8分休符が入っている。そもそも4拍目も4分休符で開始されているうえに、1音弾いてすぐ休符、下降してまた休符。多くの場合、この主題は滑らかにレガートで弾かれすぎる傾向がある。しかし、チョンにはそれは間違いだという確信がある。滑らかに息を吐くような呼吸を寸断させる緊張の連続なのだ。チョンほどこれをシリアスに表現するヴァイオリニストは他にいない。しかも2小節目では緊張に堪えかねて落ちてゆくように下降する。なぜブラームスは弱起で書いたのか、なぜ休符を細々と挟んだのか、なぜこの和声なのか、解決がつかない謎が口を開く。  

ちょうど1年前、Kitaraの小ホールで安永徹がここをまるで湯船に浸かって鼻歌でも歌うかのようにお気楽に弾いていた。同じヴァイオリニストで、2人とも感覚美の世界にはいないのだが、安永は感覚美の世界から脱落し、チョンは超越している。両者の芸格の違いには驚かされる。音楽にかぎったことではないが、一般的に言って、不透明で分かりにくい世界を隠蔽し「分かりやすい正しさ」という非日常に逃避する世界観は受け入れられ易くポピュラリティを獲得しやすい。しかし、チョンの音楽にはこうした安易な解決を図ろうとする態度への警鐘がある。この鋭利な感覚は、第1番の最後まで一貫した。一つ一つの音が、酔わせるのではなく覚醒させる。眠っている精神の感覚が次々と覚醒させられてゆく。そんなブラームスだった。普段、本紙のWeb版では、どこをどのように演奏したか譜例を挙げながら詳述するよう心がけている。しかし、言葉によって単一な理解に押し込めてしまうことがチョンの世界を報告する記事として適切なのか分からない。対象について語るということは、文章そのものが対象によって変化させられるということだ。いつも同じ文体で同じリズムで語る文章は優れた批評とは言えるだろうか。チョンの音楽に接しそんなことを考えさせられた。

チョンの舞台に接し福田恒存の言葉を思い出した。福田は『芸術とはなにか』において、「醒めている者だけが、酔ふことの快楽を感覚しえる」と述べている。ただの陶酔や熱狂にではなく、醒めながら酔う成熟した人間にのみ本物の美は微笑むという意味だ。チョンの到達した境地を表現する言葉としてこれほど適切なものはなかろう。このブラームス全曲演奏会は、道外の公演はすべて大ホールでの公演だった。おそらく、あのチョンの音楽の神髄に触れることができたのは、北広島で聴いた、それも10列目よりも前で聴いたほんのわずかな聴衆だけだったのではないか。今後、再度の来日があれば迷うことなく舞台に向かって前進することをお勧めする。

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