札響名曲コンサート「札響の第9」2019 in hitaru
2019年12月15日(日) 札幌文化芸術劇場hitaru
札響の第九の2日目を聴いた。指揮は尾高忠明。昨年末に大友直人が指揮をした札響の第九は、全楽員、全合唱団員とソリストの気持ちが舞台上に集中し、音楽を高みに持ち上げてゆくような高揚した第九だった。その分、細部の彫琢を犠牲にした面もあったが、今年の尾高は正反対。とにかく丁寧で落ち着いたトーンが一貫する大人の音楽だった。こう書くと、ルーティンな演奏に終始したと誤解されそうだがそうではない。むしろ尾高は、楽員に染みついてしまった癖を洗い落し、音楽をリフレッシュし、さらに要所要所でティンパニが乾坤一擲の最強打を聴かせるなど、随所で挑戦の姿勢を見せた。それでもなお、尾高という指揮者の音楽は、じっくりと腰を落ち着けた音楽に聴こえるのだ。これはもうこの指揮者のパーソナリティなのだろう。
さて楽章順に振り返ろう。まず第1楽章。第1楽章の演奏の特徴は3つにまとめられる。まず第一に、「混沌から生成へ」というこの楽章のイメージとはかなり違ったことだ。混沌ではなく、はじめからくっきりとした輪郭を持った要素が、巨大化し、変容し、収縮する。第2に指摘できることは、第1主題の推移(第2群、74~79小節)に登場する、第2主題を予示する動機(※譜例1、終楽章の歓喜主題も予示している。便宜的にe動機と呼ぶことにする)を徹底して丁寧に奏したこと、さらに、第2主題部の第3群(120~131)に登場する楽章全体を貫くタイのついた動機(※譜例2、f動機と呼ぶことにする)の四分音符をこれも徹底して伸びやかに歌わせたこと、が挙げられる。
こうすることで、第2主題そのものは誇張されることがないのだが、厳格なこの楽章全体が第2主題を中心とした伸びやかなカンタービレが支配するように聴こえるのだ。これは上で述べた第1の要素と背反するがどちらも成功しており音楽を多様化した。そして第3に指摘しなければならないことは、要所要所でのティンパニの最強打だろう。
まず第1の点だが、冒頭の6連符は音価を短めにくっきりと、かつ32分の下降動機も正確な音価で鳴らした。いわゆる「混沌」からは遠い。明確に「核」の存在が認められる。ここのDとAの空虚5度和音は、第3音を欠くので調性が不安定なのだが、160小節からの展開部では、断片的に第3音のFisが聴こえはじめ、再現部301小節ではそのFisが低弦にffで出てくる。冒頭の空虚和音を「混沌」ではなくクリアに響かせることによって、楽章の推移に従って充実する響きが明晰に響くのだ。再現部での低弦については、続く329小節で、”ben marcato”が指示された上昇音型の存在感が与える響きの充実も素晴らしい。また、301小節から始まる再現部の直前のティンパニ(※譜例3、300小節)をブライトコプフ旧版の8分から、ベーレンライター新版以降に変更になった16分で叩かせ、かつ301小節以降のトレモロを32分の音価で規則的に叩かせたことも印象に残った。
再現部に向けて、ティンパニの音価が8分→16分→32分と規則的に細かくなってゆき、音楽はいかにも整然とした印象を強めるのだ。テンポは♩=72のほぼ完全なインテンポであったが、遅すぎないのでトレモロを32分にしても十分な迫力が出ることも指摘したい。
次に第2の点、eとf動機の扱いであるが、随所で本当に丁寧に視線が注がれ、ときには弱音指定を無視し強調し音楽に色彩を与えた。まず第1主題第3群にあたる76小節のオーボエ、第2主題第1群108小節のフルートなどがそうだ。そして、最も印象深かったのは、提示部終止で凛烈な第1群にffで介入するe動機の要素を最強奏させたことだ(※譜例4、特にホルン)。スコア上でも全体がfのなかこの拍だけffが指示されているのだが、モダンオケの第九でこのffがこれほど効いた演奏はあまり聴いた記憶がない。見事なアクセントを聴かせたホルンの3・4番奏者にも拍手を贈りたい。展開部に出てくるオーボエから受け渡される”cantabile”が指示されたf動機も丁寧に歌い込まれスタッカートの主題と鮮やかに対比された。
次に第3の点。ティンパニの強打であるが、この第九では随所で光った。第1楽章では、終結部の2箇所を挙げたい。まず、終結部第5群で低弦のオスティナートが7回繰り返され漸次的に膨れ上がる頂点の531小節のアウフタクト。スコアでは531小節の頭からffであるが、アウフタクトもffで最強奏された。さらに注目されるのは、最終和音が解決する直前543~544小節。ここの2拍目の裏の8分音符はブライトコプフの旧版以前ではトリルが指定されていた(※譜例5)のだが、90年代に研究が進み、Tp.に重ねられる16分に修整されている。
しかし、このエディションを使った演奏でも、この16分が特に重要であるように聴こえる演奏は多くない。なかにはリズムが転んでいてトランペットとずれている演奏も少なくない。しかし尾高はこれを地中に楔を打ち込むかのように深く鳴らした。この完璧なソナタ形式の威容を締めくくるにはこうでなくてはならないと思わされた。Tp奏者も気概を見せた。
第2楽章のスケルツォもいくつか目を惹く箇所があった。まずテンポは厳格な付点二分=116。主部の繰り返しはカット。和声的に有意味に響いたのは150小節で終止する主部の終結。ここは、C-durではあるが、第二度上三和音を構成しており、完全終止を避け展開部への橋渡しとなっている。この第二度上三和音の一瞬宙に浮いたような処理もとても丁寧だった。また、プレストになる中間部の主題にも注目した。主題の5小節目と9小節目で旋律は終止するが、5小節目は二分音符で9小節目は四分音符となっている。ここも両方同じように短く切る演奏が多く、奏者もクセになっているはずだが、尾高は、全パートに音価の正確な処理を徹底させた(※譜例6)。
対旋律の律動とかっちりと噛み合うし、音楽に柔和な表情を齎すことにも成功していた。おそらくこれでベートーヴェンの意図どおりなのだろう。さらに、再現部でスケルツォの緊密なリズムに介入するVcも実に優美であり威圧的ではない存在感を放っていた(314小節~)。こうした優美な感触は尾高ならではだ。
第3楽章は、近年研究が進み、かつてのAdagio moltoというイメージよりずっと速くなりつつある。表情も、Adagioの本来の意味でもある「寛いで」に近くなり、テンポも指定の♩=60に接近しつつある。尾高のテンポは♩=52。かつての粘ったアダージョとはまったく違う。小川がサラサラと流れるように清潔感があり「寛いで」聴こえる。対旋律の声部の明晰さがそれに拍車をかける。印象に残ったのは第3部60小節のクラリネットの表情の強さ。そして、それに続く第4部でG-durになるといかにも寛いだ気分が広がる。明るく清らかなアダージョだ。第5部中間部でのホルンの独奏(89小節、96小節)もクセで吹きやすいようにアーティキュレーションを変更されがちであるが、くっきりとシンコペーション、そしてマルカートで処理され新鮮に聴こえた。ホルン奏者はやや不安定になってしまい大変だったと思うが、こうした姿勢は買いたい。終結部第7部では、後ろ髪を引かれるようにルバートをかけ(※譜例7、138小節)、最後にこの楽章の味わいを濃いものにした。また、楽章の最終和音B-ⅠではティンパニのB♭とFの完全5度のFの音程がかなり低くここだけ惜しかった。
次に終楽章。先に気になった点を3つほど指摘しておきたい。まず一つ。92小節から低弦に出るいわゆる歓喜主題だが、4小節目の1拍目のFisが四分音符で2拍目のEも四分だった(※譜例8)。
これは、なだらかな順次進行が続くなか、細心の、しかし最小限の装置で単調にならないようにベートーヴェンが腐心した旋律だ。特徴的なシンコペーション、この箇所の付点リズムもその一つであり、ここは付点で演奏してほしかった。ここは腑に落ちなかった。
気になった点の2つ目。この楽章で残念だったのはバリトン独唱(Br.小森輝彦)のリズム。全体的に吼えるような発声とリズムがぼやけたレガートでだらしなくなってしまった。ただ、それ以上に問題だったのは何箇所か音価そのものがいい加減に伸縮してしまったことだ。まず2、54小節の”Brüder“のFis-G-Eで半音上がるGが抜けおち四分音符でFis-Eとなってしまった。さらに、220小節の“diese Töne“の“diese“の二分音符が四分音符になってしまい慌てて指揮者が合わせた。また、231小節からの“und Freude“もリズムが完全に崩壊しておりどこを歌っているのか分からなかった。古楽系のパリッとした歌唱が一般的になりつつあるこのご時世にこれほど大時代的なバリトン独唱を聴くことになるとは意外だった。不調だったというよりは、姿勢そのものに疑問を感じた。
気になった点の3つ目。どうしても指摘せねばならないのは、配布された「歓喜に寄せて」の邦訳である。広瀬大介による訳詞であったが、おおよそすべての節に解釈以前の文法的な誤訳が含まれており、到底容認できるものではなかった。大学の語学の試験でこれが答案で出てきたらおそらく全教員が落第させるはずだ。たんなるミスを論いたいわけではない。そうではなく、そもそも、ドイツ語の原文を読んでいないか、でなければ、ドイツ語の初級文法すら理解していないかの、どちらかなのである。広瀬の仕事にはこういうのがあまりに目立つ。猛省を促したいというようなレベルではなく、一度ゼロから勉強し直さなくてはならないほど看過しがたい。あるべき場所にあるべきものを。
さて、しかし終楽章も聴きどころが多かった。まずソリストではトルコマーチで軽やな独唱を聴かせたテナー(Ten.大槻孝志)。それに、声の輪郭が明晰でどういう響きをつくろうとしているのかよく分かるメゾ・ソプラノ(Ms.清水華澄)。ただ、ソプラノ(Sop.半田美和子)はH音が出てくるたびに金切り声になってしまった。結果、ソリストでは外声2人が少々厳しく、内声2人が優れた歌唱になっていた。独唱はいずれもカンタータ的なリズミックな歌唱法ではなくレガート中心の発声だった。
合唱団(札響合唱団、札幌放送合唱団、札幌大谷大学合唱団)は本当に立派で、リズミックな処理の輪郭の明晰さなどアマチュアの混合団体としては、頭が下がる思いがした。とりわけ、Andante maestoso(595小節)でのスタッカートのついた音符の輪郭、そして、Allegro energico(654小節)以降のアウフタクトで重なり合う”Seid”の鮮明さ、そしてそれがフーガで重なっていっても濁らない響き。これらには本当によく練習の成果が表れていた。思えば札響合唱団は、この1年ほど聴くたびにレベルを上げてきた。ホリガーが登場した9月定期の透明感など、もう一歩で、首都圏で活動するハイアマチュア団体の栗友会などに手が届きそうなレベルだった。もちろんアマチュアならではの制約はあるのだが、それを指摘するよりは、今は同団のレベル向上を言祝ぐべきだろう。今後も期待が高まる。
そして、尾高の指揮だが、二重フーガの背筋がスッと伸びるような格調の高さには、何か大いなるものに抱かれるような感触があった。トルコマーチからフーガにかけての完全なインテンポも揺るぎのない秩序を思わせる。もちろんこのインテンポは新版の指示ではあるのだが、尾高の指揮で聴くと、そんな版などという表層の問題ではなく尾高という人間のもっと本質的な性質の反映であるように聴こえるのだ。なにか、成熟した、また、それゆえにどこか保守的な思想が響いてくるように感じられる。闘いの音楽ではなく、大きなものに護られているような安定とでも言えようか。終結のプレスティッシモも二分=132指定のところ144まで上げたが、それでもその印象のほうが強くなった。
尾高の音楽に触れていると、何か、従うべき規範や「正しさ」を大人が示してくれて、世の中が個人の生を意味づけてくれた、かつての、高度成長期の日本の美を見ているような気分にさせられる。ビッグ・ブラザーの音楽とでも言えようか。国家、天皇、戦後民主主義、あるいは、こうして年末に第九を聴くという風習だってビッグ・ブラザーと言える。私たちを垂直に貫いてくれる共通の価値。抑圧ではあったが安心でもあったような価値。尾高の音楽には、そうした大きなものが自明のものとして機能していたかつての時代のアウラが色濃く漂っている。それが色濃ければ濃いほど、今は「ない」ものとしてリアリティを強める。現代では、社会の与える抑圧は「秩序」ではなく、むしろ「無秩序」である。現代の我々を包む空気が閉塞だとすれば、それはかつての「不自由の息苦しさ」ではなく、「自由のもたらす不安」だ。「不自由だが温かい(分かりやすい)社会」から「自由だが冷たい社会」へ―社会は大きく変動している。消費社会の自由と豊かさと引き換えに失われた、人々に物語を与えてきた回路。壊れてしまった回路。古い想像力。
もちろん、皆が同じものに敬意を払うという保守的なカルチャーが持つ「温かさ」なんてものは、見方を変えれば、日本的同調圧力の排除性とコインの裏表である。尾高の芸術が持つある種の温かさにもその保守的な二面性はたしかに存在する。個人的には「不自由だが温かい」社会などまっぴら御免だ。しかも、国家の論理が経済の論理を超えて私たちの生活に影響を及ぼす時代などもうこない。ビッグ・ブラザーはノスタルジーの対象でしかない。ただ、この「もうこない」という割り切りが、まだ国家のセーフティネットを必要とする人々との溝を深めているのも事実なのだ。規制緩和による過当競争の時代だったゼロ年代、そして大規模な自然災害が相次いだ10年代、その締めくくりに、尾高が指揮する第九を聴いて、20年代に必要な想像力はどのようなものであるのか、どのようなものでありうるのか、そんなことを考えさせられた。