ことばと文化(12)『タコピーの原罪』の原罪とは何か

我が家のリビングにはタコピーのぬいぐるみが鎮座している。日当たりがよく、一番居心地がいい場所に。デザインも縫製も雑。自分でも作れそう。なんの役にも立たない。しかもやけに大きい。縦横奥行50cmちょいある。でも愛らしい。何か話しかけてきそう。でもちょっと邪魔。
タコピーとはタイザン5原作のコミック『タコピーの原罪』(2021,アニメ2025)に登場するメインキャラクターだ。知らない人は画像検索してください。出ました?ね、雑でしょ。ストーリーは一言でいえば‟ブラック・ドラえもん”。主人公の名前もしずかちゃん。もしドラえもんの秘密道具がのび太の人生に悪影響を及ぼし続けたら。そんなビターなシミュレーションが本作の内容だ。
しずかは毒親にネグレクトされ学校でも激しいいじめを受けている。そんなしずかのもとに宇宙人タコピーが現れる。しずかを笑顔にするために秘密道具ならぬハッピー道具を次々と繰り出すがすべて裏目に出る。どうにもならない状況に追い込まれてハッピー道具で時間を遡ると、実はタコピーはしずかより先にしずかをいじめていた‟まりな”(ジャイアンのポジション)を救うために地球にやってきたことを思い出す。しずかを救えばまりなが苦しむ。逆もまた然り。

しずかちゃん(左)とまりなちゃん(右)/イラスト提供:海塩つかささま(@tsukasa_ushio)
この嫌がらせのような展開のポイントは、タコピーのハッピー道具がなんの役にも立たないことにある。そして、そのことはタイトルの「原罪」という言葉と深いレベルで結びついていると思われる。素直に読むとこの作品の‟原罪”とはタコピーがハッピー星(宇宙にあるタコピーの出身地)の母親の言いつけを守らなかったことと読める。というのも物語の序盤でタコピーは「異星人の手にハッピー道具を委ねてはいけません」と戒律を与えられている。そしてそれを破ったためにしずかは首を吊ることになる。「原罪」はそれを指しているとも読める。だが、この作品を覆う宗教的な射程に鑑みるに、おそらく作者はもう一段階先を見ている。

イラスト提供:海塩つかささま(@tsukasa_ushio)
神学的には原罪とは境界設定の恣意性を意味する。それには時間面と空間面がある。紀里谷和明監督『CASSHERN』(2004)を参照しよう。悪魔と対峙する主人公は、戦いの中で眼の前の悪魔が、かつて自分が仲間を救うために射殺した女を最愛の妻とする男が執念で変わり果てた姿だと知り煩悶する。敵と味方という、一見自明に見える境界設定は恣意性を免れない。これが空間面だ。
もっと身近に喩えよう。自分が大学4年生で就活は無事終えているとしよう。友人は内定が1つもない。追い込まれている。自分の親は経営者。親に頼み込んで友人に内定を出してあげたとしよう。見えている範囲では人助けだ。だが、見えない範囲に視野を広げると、その会社に入社するために4年間努力を積み上げた誰かを落としているかもしれない。人間の善意にはこうした有限性がつきものだ。だから‟誰かのため”より‟公正さ”を優先するほうが皆のためになるというのが倫理の基本である。
時間面はどうか。浦沢直樹『Monster』を参照しよう。天馬は瀕死の子どもを救うが、その子は成長して恐ろしい殺人鬼になる。責任を感じた天馬は世界の綻びを人生をかけて縫い合わせようとする。これが時間面だ。身近に喩えよう。人助けで手を貸した人物から感謝されたとしよう。自分に見えている範囲はこれで終わり。だがその人物は事後的にいつも助けてもらうことを期待する甘えた人間になるかもしれない。ここでも、眼の前の人のためではなく公正さを優先することがかえって眼の前に人のためになるという論理が帰結される。
原罪とはこうした境界設定の空間・時間的恣意性を表す。タコピーのハッピー道具はなんの役にも立たない。相手を窮地から救うどころか意図せざる悲惨な帰結をもたらす。しずかを救えばまりなが苦しむ。これは原罪の時間面と空間面をうまく表現している。だからヒロインは2人必要だったのだ。しかも、タコピーは共感も苦手だ。心優しいのだが、猛烈な夫婦喧嘩をみて「仲良くお話してるっピね」(語尾の‟ピ”はタコピーの口癖)と理解してしまう。道具が役に立たない上に、相手の苦しい境遇に共感してあげることもできない。
なぜか。自分の辛い境遇に共感してもらえる場所は、人に一時的で即効性のある承認を与える。だが、その発想は同時に共感しない人を敵認定させる。共感が与える安心感なしに人は生きていけないが、同時にそれは人をどこまでも貧しくさせる。カルト宗教が洗脳のために共感を用いるのはそのためだ。あらかじめ否定されないと分かり切っている場所、全面的に自分の話を受け止めてくれる場所というのは、その人を狭い檻に閉じ込めることはあっても、決して広い場所に連れ出してはくれない。タコピーが共感不能な存在であるのは、共感を前提しない一方向のコミュニケーションが人を強く支える可能性へと目を向けさせようとしているからだ。
どこかにあなたを承認してくれる居場所がある。こうした言葉は希望のように語られがちだが、実際に意味するところは、どこかにあなたがいじめる側に周ることができる場所があると言っているのと変わらない。だが、タコピーはなんの役にも立たないのにひたすら傍にいる。ただそれだけ。これはなんなのか。

イラスト提供:Migakuさま(@Migaku)
重度な精神疾患や依存症の治療施設の自助グループの様子を見たことがあるだろうか。そこでは互いに支え合うのだが、誰も名乗る必要がない。どこの誰で誰と仲良くてどこの出身でということが一切問われない。人は自分の辛い境遇を自由に話すが、それに対して誰も論評することは許されない。相槌も禁じられる。こうした自助グループでは誰かの役に立つことも共感してあげることも徹底して切断される。そこでは共感ではない、共振のような現象だけが残る。
共振のなかに身を置くと、不思議と人は依存にいたるまでの自分の振る舞い、誰にどう迷惑をかけたのか等を俯瞰して眺められるようになる。現代では当事者研究という名前で広くその有効性が知られている。この自助グループの仕組みは、実は神学的なもの(一神教的なもの)との親和性が強い。祈りの場所で人が祈るとき、祈りの内容は共有されない。祈りの時間、その場にいるすべての人が一人の人として神の前で平等となる。
分かった。大変だったね。こうした反応を一切示さない他者がただそこにいる。個人を他者から分かつベクトルによって、痛みが逆説的に共鳴する。自分はあなたの痛みを分かってあげられないという共感の不可能性の自覚が真の共感なのだという逆説が生じる。共感しえない心の痛みに分かった風の理解を示し安易に手を貸すことは他者の心への暴力だという高次のコミュニケーション空間が開かれる。コミュニケーションの不可能性だけがコミュニケートされる。聖書の『ヨブ記』では神とのコミュニケーションが失敗しているのに神が居合わせただけで癒される。ちなみに当事者研究では痛みに対する分かった風の中途半端な介入が相手の痛みを悪化させることも分かっている。
役立たずで共感もできないタコピーはこうした思考の地平を開こうとしているかに見える。ただお話するだけ。共感もなし。でも横にいてお話は聞いてくれる。物語の最初と最後にタコピーは2度こういう。
お話がハッピーを生むんだっピ。
これはこうした人を真に支える共振の次元を意味している。分かった風の他者への介入の罪深さの自覚を通して開かれる地平だから、本作のタイトルには‟原罪”が含まれているのだ。物語の終盤。いつも諦めたように感情を表に出さないしずかが自分の理不尽な境遇を泣きじゃくりながらタコピーにぶつける。タコピーはまだよく理解できていない。だが、ただただ一緒に涙を流し続ける。一晩中。するとしずかの心はすーっと癒されてゆく。コミックではわずか1ページだが、アニメでは静かな音楽とともにたっぷり尺が取られている。しずかの心が救済されてゆく時間性が実感できる。名シーンだ。
だが心は救済されても社会的な状況は何も変わらない。親は相変わらずだし仲間たちのサポートも期待できない。おそらくは行政に相談することも法に訴えることも信じられなかったはずだ。これは心が救済されてもどうにもならない。しずかは作中で何度か「魔法があればいいのに」と言っているが、そこでの魔法とはおそらくはこうした社会の状況を改善する何らかの力、すなわち世直しを示唆している。

イラスト提供:Migakuさま(@Migaku)
昨年アニメを観ていて、山上徹也のことが頭を過った。彼は安部晋三政権と統一教会の癒着、そして教会に破壊された家庭環境に絶望していた。どこに告発しても状況が変わるとは信じられなかった。彼にとって銃撃は魔法のようなものだったはずだ。もちろん絶対に認められることではない。だが彼にとっての最後の希望がそれだった。社会がよりよいものへ変わることが信じられなくなったとき人は凶行に及ぶ。そのとき、社会を変える力(=魔法)が必要となる。では凶行ではない魔法はあるのか。それが世直しだ。
世の中の秩序を変えると現在の状況で満足している人たちから恨まれる。村八分になるかもしれない。だけど、社会が変わることを必要としている人は必ずいる。だから世直しは自分の存在との引き換えになる。タコピーは、しずかと一晩過ごした後、自分の存在の消滅と引き換えに時間を巻き戻す。そしてしずかの社会的状況を救済する。

イラスト提供:Migakuさま(@Migaku)
この作品は人間の罪深さに対する敏感さ、感じやすさに貫かれている。安易に人の人生に介入することを戒める面が強い。だが、究極のところで人助けを諦めていない。ただ、それは自分の存在の消滅を賭けた挑戦となる。これこそが魔法だ。私たちは原罪を自覚しつつ注意深く前に進まなくてはいけない。だが同時に魔法を捨ててもいけない。この魔法がしずかに与えられなかったら、もしかしたら、しずかは手製の銃を誰かに向けていたのかもしれない。
タコピーはしずかの眼の前から消える最後の瞬間に「ありがとう、ばいばい」と言う。なぜタコピーのほうが”ありがとう”と言うのか。それは、しずかの救済を媒介として自分の原罪を清算できたからだ。感謝の言葉が心にジンと響く。
(多田圭介)
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