札幌劇場ジャーナル

hitaruフィーバーは本物か

編集長コラム

 ついに札幌文化芸術劇場hitaruがオープンした。こけら落としのアイーダのチケットは即日完売し、会員向けの先行販売でも入手困難という異例の事態が話題になった。「誰が取れたのだ?」というほどのプレミアっぷりだった。おそらく入手できなかったやっかみもあるのだろう。札幌でアイーダの話をすると、「あそこは、ねぇ」とか「最初だけでしょ」などという声も聞こえてくる。果たして彼らがいうようにhitaruフィーバーはオープン初期のご祝儀相場なのだろうか。

 hitaruの今後になぜ懐疑的なのか。その理由を尋ねると、「音楽はもうお金にならないでしょ。CDも売れないし。しかもクラシックなんて」という。そこで、なぜCDは売れなくなったと思う?と続けると、定番の返答が来る。お小遣いの使い道が音楽からスマホをはじめとする通信費や多様化した趣味に分散したから。概ねこんなところだろう。しかし、ここで起こっている変化はもっと本質的なものだ。小遣いの使い道などという表層の理由ではない。では何か。一言でいうと、複製可能な「情報(音声・映像・テキスト)」の値段が限りなくゼロ円に近づいたことだ。しかも、その反動で値上がりしたものがある。それは「体験」である。

 情報はただ受け取るものだ。しかも原則的に何度でも再生可能で、複製も容易。マスメディア時代はメディアがマスに向けて発信した情報を所有することが消費のメインストリームだった。言い換えれば、社会は「一」から「多」に向けて動いていた。だが、今は体験の値段が上がったことによって、一回限りの参加型コンテンツの価値が急上昇したのだ。その証拠にCDは売れなくなったがフェスの類は年々注目度を高めている。

情報ではなく「体験」にだけある価値についてもう少し考えよう。情報はただ受容するものだが体験にはテニスのように「打ち返す」というコミュニケーションがある。今は「多」の側から「一」をコミュニケーションによって創ってゆく時代なのだ。だからテレビ番組すら、SNSでの実況が盛り上がるかどうかがその番組の評価軸になっているのだ。

体験には「一回性」と「打ち返し」がある。逆にいうなら、一回性と打ち返しのあるコンテンツは、これから伸びるということだ。CDにはこの両方が決定的にない。では、この二つを兼ね備えているコンテンツは何か。ズバリ、劇場公演である。劇場での公演は一回一回が違いその現場にいなければその「体験」を所有することはできない。しかも、劇場でのブーイングやブラヴォーの声が出演者の評価に直結し、彼らを叱咤激励し成長を促す。現場にいた小人数しかできない体験をソーシャルメディアで拡散することで、自分もその体験の価値を欲するようになる。劇場文化は、ソーシャルメディア時代に、ローカルという磁場のもとに展開するグローバルを可能にする。マスメディア時代に中心から一方的に発信される情報を受けとることで結びついていた「一」と「多」は、決定的に結びつき方を変えざるを得ない。「多」の側からの「打ち返し」によって「一」を創ってゆく文化へ。時代を切り拓き本当の意味で文化を守り、そして育ててゆくのはこうした運動であるべきなのだ。オペラ、バレエ、クラシック音楽というコンテンツは20世紀まではこうして発展を遂げてきた。しかし戦後、ラジオに始まる「マス」メディアの発達によって情報は一元化し平板化し、あらゆる文化はインターナショナル化の一途を辿った。こうした流れで地域性や一回性を本質とする劇場文化が衰退したのは言うまでもない。もちろん「一」が発信する「情報」の所有に価値があったのだからCDもファッション誌も売れる。

時代は変わった。私たちは劇場に足を運び、その一回限りの体験をソーシャルメディアで語り合い、その評価が出演者の耳に届き、共に舞台を創る。きっと、その体験の所有に憧れるようになる。hitaruもその波に乗るべきだ。

ただ、劇場のコンテンツを再びただの「情報」に落とさないことが重要だ。マスメディア時代に劇場文化は決定的にインターナショナル化した。言い換えれば全部同じになっていった。音楽もそうだ。世界中どこの劇場でもどこのコンサートホールでも同じようなコンテンツばかり上演されるようになっていった。みんなが「一」の所有に向かっていたのだから当然だ。何度上演してもすべて同じになるような「世界標準」にもう価値はない。そこに足を運んでそこの伝統や空間に参加することでしかできない体験にこそ値段がつくのだ。hitaruはこれから、どのように出演者の選定を行うのか。いつ、どこの国へ行ってもいつも同じ情報化されたコンテンツを供給するだけのアーティストを呼ぶべきではない。一回限りのその舞台に命を燃焼させる本物の芸術家を呼ぶべきだ。音楽家でいえばバレンボイムのようなすっかり国際化してしまい舞台の一回性の奇跡を期待できない音楽家は呼ぶべきではない。これをやってしまうと、体験の一回性は交換可能な情報へと転落しその劇場の公演はCD同様に見向きもされなくなる。劇場文化復興の機運に乗ることができるか、あるいは、交換可能なコンテンツの消費場になり下がり、すぐにガラガラになるか。これからが大事だ。

1970年の7月、自決直前の三島由紀夫がこんなことを言っている。

 

「このままでは日本はなくなってしまうのではないかという感を日増しに強くする。日本はなくなって、その代わりに無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残る」

 

いまやGDP30位という日本は経済後進国であるのが皮肉だが、マスメディア時代が続いたなら他の部分についての三島の危惧は当たったことだろう。だが、今はローカルが磁場となってその運動が多様なグローバルを創ってゆく時代だ。ただの情報には値段がつかない。hitaruは一回限りの奇跡が起きる強力な磁場を手に入れるべきだ。hitaruがその運動の中心点になることができれば、劇場は真の意味で文化が育つ場所になる。本紙創刊号では地元アーティストの参加を呼びかけた。hitaruにはもう一つの役割がある。一流のコンテンツを招聘する役割だ。その役割には間違えてはいけないポイントがあるのだ。時代を切り拓き、文化を守り、育てるのは、こうした「本質」を見誤らない知性に他ならない。                                

 

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