札幌劇場ジャーナル

中桐望ピアノリサイタル 〜ロマン派ピアニズムの爛漫〜

コンサートレビュー

2019年6月12日(水) 真駒内六花亭ホール店

 六花亭の真駒内ホールで開催されたピアニストの中桐望のコンサートを聴いた。国道453号線を歩いていると、まるで国立の美術館のような文化の薫り高い建築物が視界に入ってきた。真駒内ホール店は名建築家・古市徹雄による設計で2002年に完成している。中へ入ると、日常性がボロボロと剥がれ落ちてゆくような空気がある。買い物やコンサートなどの用事がなくてもこの建築を見に足を運ぶ価値があるだろう。オープン以来ここで毎月第2水曜に、もう180回もコンサートが開催されているのだという。キャパは120席。通常、客席数が100200程度のホールでグランドピアノを聴くとフォルテが飽和してしまい細部が混濁しがちになるものだ。だが、このホールは、グランドピアノの大音量と多層性、響きの奥行きを余裕を持って受け入れる。そして自然に響かせるポテンシャルを持っている。少々デッド気味なのだが、むしろピアノにとってはそれが好都合に作用している。ピアニストがどんな音楽をしようとしているのか手に取るように分かるホールだ。弦楽四重奏などがどのように響くかも聴いてみたいが、まずはグランドピアノを聴く環境としては申し分ないといえる。クリアな響きを好む向きには良好な音響だ。(※下段に真駒内ホール店の外観とホールの写真を掲載しました。)

 コンサートは「ロマン派ピアニズムの爛漫」と題され、ショパンのロンドop.1に続けてバラード全曲、休憩を挟んでクライスラー(ラフマニノフ編曲)の「愛の喜び」と「愛の悲しみ」、そして前奏曲「鐘」、10の前奏曲op.23より25番というプログラムだった。

 中桐のピアノの特徴は、まず感傷に流されることがいっさいないガッシリと構築的な点が挙げられる。「わあ、きれい!」と声を上げたくなるようなピアニスティックな側面は抑制され禁欲的。だが、呑み込まれそうな風格と、端正で誠実な音楽性は超の字がつく大ピアニストのそれだ。高揚するときもスポーツのように軽くなることがなく地に足がついている。かつての音楽評論なら「男性的」と評しただろう。いま性別の比喩で音楽を語ることが難しい時代になってきたが、中桐のどっしりした品格の高い音楽には、やはり男性的、あるいは英雄的という言葉を与えたい気がする。

 ショパンのロンドを弾いたあと、中桐はマイクを持ち「初めての札幌でちょっと緊張しています」とはにかみながら挨拶し、マイクを置きバラード全曲を一気に弾いた。これが素晴らしかった。曲間でもいっさい拍手が起きない。郊外のコンサートだが聴衆のレベルも高い。というより、中桐の気迫が黙らせた面もあるのだろう。

六花亭提供

 まず第1番。序奏部最後の和音の左手の最高音はDで弾かれた。不安を喚起するようなEsではない(自筆譜およびフランス原典版ではEsとなっている)。どっしりしている。モデラートに入ると、2小節ごとに大きくルバートするが、メランコリックにならない。流れ、呼吸、いずれも自然体でこせこせした感覚がないのだ。第2主題が出る直前の右手の乱高下するアルペジオが、一音一音、克明を極める。続く第2主題は、アウフタクトのFを聴こえないくらいそっと弾き、Gから音楽は動きだす。ショパンはこのFに注意深くsotto voce(ひそやかな声で)と記している(※譜例1)

譜例1

このsotto voceがこれほど生きた演奏は珍しい。第1番の聴かせどころの展開部に入る直前では、右手に連続する8分のアウフタクトが後ろに詰められ徐々にエネルギーが蓄えられる(※譜例2)

譜例2

そして豪奢な展開部(※譜例3)、テンポは四分=160とかなり速かったのだが、舞台に楽譜が刻みつけられるように確実。音楽が大きい。ダイナミクスはフォルテ2つからさらに駆け上がるが、響きに常に余裕がある。

譜例3

会場のキャパが120ということなので、開演前はフォルテが飽和するのではないかと危惧したのだが、まったくそうならなかった。もちろん、会場の音響だけでなく中桐のコントロールもいいのだろう。フォルテのなかで音楽の雰囲気が変化する箇所のあくまでやりすぎない明確な変化はいかにも格調が高い。他方で思い切った表現もある。展開部後半の軽やかな経過的パッセージ(138小節から)での内声の意味深い強調(141小節)、零れおちるようなニュアンス(145小節)等も本当に堪能させてくれる。158小節で疾走する右手はスコアでは弱音指定だが、中桐は初めからフォルテで堂々と走りだす(※譜例4)。神経質になるのが嫌なのだろう。続く162小節でのオクターブ跳躍の装飾の音価が長い(※譜例5)。辺りを払うような風格があった。

譜例4、5

 続く第2番、牧歌的なA主題と交代するB主題(※譜例6)が付点四分=88で嵐のように開始された。ものすごい速度だ。途中92まで上がったがまったく微動だにしない。右手のディミヌエンドを突き破る左手のオクターブの交錯が、瞬間に駆け抜けてゆくのだが、音一つ一つにトルクがかかっており、ゆっくり確実に経過するようにさえ聴こえる。

譜例6

A主題が2回目に戻ってきたところではもう牧歌的に聴こえなくなる。左手が鬱屈した不安定な様子を喋るように語りかけてくる(※譜例7)

譜例7

Agitatoに突入する直前の低音のトリルがどす黒い迫力を放つ(※譜例8)。最後の8小節のコーダに入る直前のアルペジオもヒステリックにならない。大家の風格を感じる。

譜例8

 第3番は冒頭の4小節が素晴らしい。順次進行で音階を上がり、そして旋律が左手に移り下がる。これだけなのだが、息を吸いゆっくりと吐きだすように自然でいながら万感が宿っているのだ。こんな単純な音楽がこれほど虚飾なしに内容的に響くまでに、どれほど弾きこまれたことか。それを思うと目頭が熱くなる。エピソード楽句を経て第二主題がAs-durで再現される箇所の夢見るような前向きな表情、そしてcis-mollになる展開部では突如陰鬱になる。このすべてが自然であり、あくまでもやりすぎない。最後に第1主題が幾重にも重ねられた和音で現われる前の持続的な緊張の高まりにも惹きつけられた。

 そして全4曲中最高傑作の第4番。テクニックだけではどうにもならない、繊細なアナリーゼ、構成への洞察、そしてそれを確実に音にする技術、すべてが揃わなければ音楽にならない。第2主題のコラール風の情緒、展開部で第1主題を構成する2つの動機が複雑にポリフォニックに展開される際の明晰さ、そして第2主題が再現される際に低音が伴われ音楽が一変する多彩さ、いずれも見事だった。コーダに入る前の荘重な和音の挿入句では、左手の最低音のCを和音から短前打音的に前に出して弾いたことも印象に残った(※譜例9)

譜例9

 後半のラフマニノフも優れた演奏で堪能させてくれたが、ショパンに比べると、やや振る舞いきれなかった。頭で操作している様がダイレクトに聴こえてしまう箇所が何箇所かあり、そのたびに音楽の集中が途切れそうになる面があった。とはいえ、感覚的快楽に流れず、常に内容を掘り当てようとする中桐らしい音楽は随所で光った。特にop.23-2の広々と広がる雄大な世界、23-5の協奏曲第2番を想起させる明確なリズムと旋律の対比、作品への深い理解と共感を感じさせた。

 また、プログラムの冒頭に弾いたショパンのロンドop.1では、15歳の若書きで構成の弱いこの作品を大きなコントラストをつけて飽きさせずに聴かせてくれた。殊に、ガツンとくるロンド主題はいかにも剛毅で打楽器的であることがユニーク。リズムが鋼のように強靭なのだ。しかし、続くホ長調の第1クープレは繰り返されるたびに小さなディミヌエンドが付され、ロンド主題とは一転し内面を見つめるように優しい。そして第2クープレ(※譜例10)では弱音指定のところ堂々と鳴らし、威風堂々たる賛歌のように奏でるのがいかにも中桐らしい。いずれも湿り気がまったくない。

譜例10

こうした音楽性は、かのアラウを想起させるほど風格がある。アンコールではショパンのピアノ協奏曲第2番の緩徐楽章が披露された。ここへきて中桐の音楽がリラックスしはじめ、正直に自分の気持ちに音を委ねたような風情を見せたことは興味深い。

 中桐の音楽は、技巧の安定度、音楽への洞察、そして彼女が持っているパーソナリティ、いずれの面でも、例えば東京でコンサートホールが完売するようなピアニストと比較しても何ら遜色がない。まだまだ過小評価されている。これからの活躍に多いに期待がかかる。音楽家として今後どのような側面を見せてくれるか本当に楽しみなピアニストだ。

 この真駒内ホールでのコンサートは、優れた若手に出演の場を与えるというコンセプトで開催されているのだそうだ。そして、やがて大きく育って札幌駅前のふきのとうホール(同じく六花亭の音楽ホール)に帰ってきてほしいという願いが込められているということだ。実際に、若手の頃に真駒内ホールに出演しその後数々の実績を積み重ねふきのとうホールでリサイタルを開催した演奏家はかなりの数にのぼる。じっくりと時間をかけて文化を育てようとする姿勢はいかにも六花亭らしい。

 インターネット時代の現代は速報性、即時性という「速さ」の価値にばかり注目が集まりやすい。もちろん「速さ」にはそれに応じた洗練もあるし、速さがなければ出せない価値はある。しかし、速さにばかり比重がかかった結果サイバースペース上にはキュレーションサイトやwikipedia、食べログのような単なる情報が溢れてしまった。現代は「速い世界」だ。1日から数日で話題が回転する。読み継がれ、語り継がれる価値のあるテキストはなかなか見つからないし、そもそもそこに価値を見出されにくい。しかし、ことは文化芸術。熟成するのに長い時間を要する。性急に結論を求めるような価値観とは相性が悪い。文化の価値は「遅さ」の価値とも言えるのだ。真駒内ホールとふきのとうホールの連携は、「遅い世界」の価値について考えさせてくれるコンセプトといえる。

 

【写真1:真駒内六花亭ホール店 外観】

六花亭提供

 

【写真2:真駒内六花亭ホール店 店内】
演奏会時は店内から陳列棚やレジカウンターなどが片付けられ、120席の室内楽ホールに一変します。

六花亭提供

 

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