札幌劇場ジャーナル

さっぽろ劇場ジャーナルについて

「さっぽろ劇場ジャーナル」は札幌のクラシック音楽と舞台芸術に関する専門誌です。文化芸術の発展を願う賛同者によって2018年に立ちあげられました。札幌市内のコンサートホール、楽器店、CDショップ等に配架しており、無料でお読みいただけます。

札幌圏以外の遠方の方から「どこで手に入りますか?」というお問い合わせが増えてきたため、手数料のみで遠方の方向けにお分けするサービスもご用意しております。

・手数料 400円 / 1部

・送料 200円(1回の発送につき15部まで同梱可能。15部以上は要相談。)

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info@sapporo-thj.com (事務局 滝田)

 

多田 圭介(「さっぽろ劇場ジャーナル」編集長)

北海道大学大学院文学研究科博士後期課程修了、博士(文学)。
藤女子大学講師、ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員、「さっぽろ劇場ジャーナル」編集長。

専門は、哲学・倫理学、音楽評論。新聞や雑誌等に定期的に音楽評やコラムを執筆している。曲目解説多数。得意分野は、交響曲、室内楽、現代音楽の楽曲分析、オペラ批評、文化批評。大の動物好き。

そもそも音楽評論とは何のためにあるのでしょうか。
以下では編集長の多田圭介に創刊への思いを語ってもらいました。ジャーナルの紹介に代えさせていただければと思います。

さっぽろ劇場ジャーナル 事務局

批評精神の躍動を願って

「音楽は言葉を超えている」‐これは19世紀近代のイデオロギーだ。哲学や美学ではよく知られていることなのだが、フランス革命で教会の権威が失墜したあと、人々は代用宗教を欲した。そこで音楽がその役割を担ったのだ。作曲家たちは競って宗教的啓示や救済を描いた。名だたる詩人や美学者がその後押しをした。ベートーヴェンの第九は混沌から始まりあたかも人生かのような紆余曲折を経てクライマックスへ至る。そして魂は救済される。この美学はワーグナーやマーラーにおいて頂点に達した。

しかし、「音楽は言葉を超えている」という思想は、あくまで代用宗教を必要とした19世紀近代のイデオロギーにすぎないのだ。日本は明治期(19世紀)に洋楽を受容したため、その前史を欠いている。その影響で、いまだに音楽を表現する言葉として「精神性」や「神」などという言葉が使われがちだ。しかし「音」という有限な性質によって無限なものを表示できるということは、やはり背反だ。ヨーロッパでも20世紀の新古典主義まで音楽を宗教化することの背反を誰も指摘しようとはしなかった。

音楽は18世紀までは言語芸術よりも一段劣ると見なされていた。カントなどがその代表だ。カントによれば、音楽は感覚の戯れにすぎない。だが、宗教的権威が失墜した19世紀に入り、哲学者たちは、「音楽は言語芸術じゃない」という事実を「音楽は言語を超えている」という理念に転じて見せたのだ。もはやアクロバットだ。いや、「事実」から「理念」を捻り出さなくてはならないほどに代用宗教が求められていたのだろう。

音楽を神聖視した小林秀雄などは、あまりに音楽を愛すがゆえに、この事態を倒錯した表現で語っている。いわく、音楽評論家や音楽愛好家たちは、音楽は言葉を超えていると言葉で語る、あるいは、言葉の敗北を言葉で語っている、と。しかし事実は逆だ。音楽は論理でできているから言葉で語ることができていたのだ。特定のイデオロギーがその事実を覆い隠し、その上で、言葉で語ってしまっていることの不遜を嘆いていたのだ。言葉が尽きるところから音楽は始まる‐この詩的情緒に満ちた言葉は、多分にロマン主義的イデオロギーに侵食されている。

実際のところ、音楽は言葉ないし論理でできている。作曲家は霊感が降りるがままに筆を走らせるわけではない。ああでもない、こうでもないと徹底して言葉による試行錯誤を繰り返す。同じように聴き手も、表現の語彙や論理に習熟するほどに、よりよく聴くことができるようになる。様々な意見に触れることで、その語彙や論理はより洗練されてゆく。そこにこそ批評精神の核心がある。音楽は言葉で語ることができる。もし音楽に単なる消費以上の価値を認めるのであれば、批評精神を蔑ろにすることはできない。

もちろん、批評は特定の視点からなされる。視点は限定で制限だ。切り捨てることであり、一面化だ。その視点がいかに優れた洞察に満ちていようとも、必然的にそうなる。そうであるかぎり、誰かの見解が絶対であるということはない。だが、互いに見解をぶつけ合うことで論理が洗練され、より普遍性のある美へと向かうことはできる。そうすることで、よりよく享受する道が開ける。

「さっぽろ劇場ジャーナル」は札幌の地で文化芸術をめぐるこのような健全な言論の場を確保したいという願いで創刊された。札幌の地で様々な立場から舞台芸術に関わる人が、本紙の批評に触れ、「それは違うだろう」とか「なるほど、そういう見方もできるか」などのように様々な刺激を受け、議論が活性化され、思考が動き始めることを心から望んでいる。文化が成熟するために、発展するために何よりも必要なことだからだ。本紙が多様な見解を受け止めるメディアとして成長してゆくために何が大事なのかはまだ見えていない。そもそも先のことなんて分からない。まずは手を動かして、そして、みなさまの批評を仰いで、共に考え、共に「よくなる」ことを期待している。ともあれ、創刊号の完成には漕ぎ着けた。ここに批評精神の胎動を感じ取る読者が現われることを願う。

多田圭介

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