札幌劇場ジャーナル

【STJ第10号掲載】バーメルト 札響首席指揮者 任期最後の定期 全曲レビュー(執筆:多田圭介)

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さっぽろ劇場ジャーナル第10号の完成記念に、紙面に掲載している記事の一部をWebでも公開いたします。今回は1~3面掲載の「バーメルト 札響首席指揮者退任記念特集」より、2024年1月に開催された第658回定期演奏会のレビューをご覧ください。(事務局)

1月定期はバーメルトの首席指揮者としての任期最後の定期となった。この定期は、彼の任期中でも間違いなく最高の出来だった。そして、札響としてもおそらくは彼らがかつて到達したことのない領域に踏み込んだ特別な日となったことだろう。オーケストラにここまでできるのか、こんなことができるのか、オーケストラ音楽とはこんなところまで行くことができるのか。聴いているあいだ中、その思いが頭を廻った。

思えば、札響に客演したバーメルトに筆者が一目惚れしたのは2016年1月の定期だった。翌2017年に首席就任の発表があり自分のことのように嬉しかった。2018年に本紙を創刊した背景には「この指揮者の音楽について思う存分語りたい」という筆者の動機が何割かは確実にあったのだ。だが、バーメルトの要求は厳しい。首席に就任してからは、その厳格で妥協を許さない姿勢がよい結果とならないこともなかったわけではない。ときには、ただ無気力に聴こえてしまう演奏も少なくなかった。だから、この1月定期がいかに最高の結果となったからといって、任期最後の演奏会でよく使われる「両者が積み上げてきた成果」というようなテンプレートを貼り付けて済ます気にはなれない。だが、最後に指揮者とオケは完璧に噛み合った。バーメルトの要求がおそらくはほぼ完全な姿で実現した。それが「オーケストラにここまでできるのか」という言葉に繋がったのだ。いや、音楽を表現するのに「完璧」という言葉ほど相応しくないものはない。完璧とは「閉じる」ものだ。だが演奏芸術とは、音楽とは、人間の営みとは常に可能性へと開かれるべきものだ。それでも「完璧」という言葉を使いたくなる。そんな気分にさせるに充分すぎる音楽だった。

前半はブリテンのセレナード。ソリストがボストリッジだったこともあってそちらに注目が集まったが、筆者は演奏が始まった瞬間、オケばかり聴いてしまった。ノクターンの付点リズムのモチーフが、山脈の頂に強烈な日の光が差し込むような光輝を聴かせる。ホルンのソリストのアレグリーニも凄い。夜に転じるエレジーの最後、ゲシュトップを交えて、文字通り「無」へとディミヌエンドする。昼夜のこの鮮明なコントラスト。どれほど根気強いリハーサルだったことだろう。終盤の夜の音楽は「死」の比喩となっている。このあたりの闇に抱かれるような表情は、まるでシューベルトの「美しき水車小屋の娘」の終曲のようだった。痛ましい死の音楽のはずだが、「やっと楽になれる」という安堵が響いているのだ。終曲は、冒頭と同じホルンのソロだが、もう同じ音楽には聴こえない。世界のすべてが虚無へと還ってゆくように、静かに、息絶える。ボストリッジだけは、彼の好調時と比べると6~7割の出来だったのが惜しかったが、独奏ホルンとオケの怖いほどの静けさを宿した音楽は、大家ならではのものだった。

そして後半のブルックナーの第6番。札響は間違いなく一段高い階段を登った。最初のチェロとコントラバスの主題を聴いただけで全身に鳥肌が立った。曖昧さを決して許さない鋭敏さは、かつて札響から聴こえたことがない種類のもの。指揮棒の先からチェロとバスの主題が湧き上がってくるようなもの凄い光景だった。主題がフォルテに盛り上がると音響の多層性に瞠目させられる。1小節遅れて追いかけるホルン、弦の刻みの音型、朗々と鳴り切る主題、このすべてが整然と耳に飛び込んでくる。展開部でこの主題が反行型になると一転して絹のような滑らかを聴かせるし、何よりfffになる頂点の峨々たる威容。まるで目の前に突如として山脈が出現したような巨大さに思わず口が開いてしまう。物理的にはさほど大きな音を出しているわけではない。あくまでコントロールされた心理的な巨大さだからここまで聴き手を圧倒するのだ。テンポの変わり目で語気を強めるように出てくるコントラバスもこれまでの札響にはない要素だった。

第2楽章は驚嘆するほかなかった。ここでもやはり低弦が際立つ。低弦のゆったりとした確信に満ちた歩みの中からオーボエの悲歌が聴こえてくる。転調するたびに目の前の霧が晴れるように響きが明るくなる。そして、ホ長調になるチェロの第2主題。この澄みきった天上の音楽はいったいどこから聴こえてくるのか。たっぷりとした憂いを秘めているのだが、まったく湿っぽくならない。こんなアダージョを聴いたのはいつ以来だっただろうか。Gの直前のオーボエとクラリネットの対話にも心がこもり切っている。老巨匠の心をそのまま映し出すようだ。オーボエの関が絶美。魂の全容量を吐き出すかのような2オクターブの下降(145~148小節)を経て、最後のへ長調の音階は弦楽器が霞のように漂う。静かなのだが強烈な憧れを響かせる。もうこの音楽と一緒に融けてしまうしかない。この第2楽章のアダージョは初日に聴いて、あまりの衝撃で冷静に聴けなかった。何も覚えていないので「このままではレビューを書けない」と2日目も聴かせてもらったのだが、同じだった。2日目もアダージョが鳴り始めた瞬間、分析的に聴こうとする姿勢が消し飛ばされた。

続いて第3楽章のスケルツォ。やはり低弦の思いきりのよさと鋭敏さが際立つ。トリオでは複雑に交錯するホルンの鮮やかさが素晴らしい。終楽章も聴きどころが連続して胸の高鳴りが止まらなかった。バーメルトもここへきて芝居っ気をみせる。最初の主題が金管のコラールになるC(47小節)、ここで思い切ってテンポを落とした(スコアにその指示はない)。そして直後の弦のオスティナート(53小節)で元のテンポに戻す(譜例参照)。

譜例:音楽之友社 OGT 206(99年第8刷)より引用 (※クリックすると拡大できます)

この処理は筆者が知る限り、ヤンソンス、エッシェンバッハ、サヴァリッシュの3人がやっている。だがヤンソンスはテンポを落としたところで流れが悪くなりa Tempoの雰囲気の変化もない。エッシェンバッハは、テンポを落としてからさらにルバートするという(いつもの)悪趣味っぷり。サヴァリッシュはさすがに音楽の流れがよいが、a Tempoに戻した箇所の弦のオスティナートが金管に負けて聴こえない。バーメルト&札響は、このテンポ処理を施した演奏で(筆者が知る限り)初めて完璧(やはりそう言いたくなる)な成果を聴かせた。以降も音楽は躍動する。Hではあの寡黙なバーメルトが躍っている。235の弦の強靭なユニゾンも地を這うようだが、完全にコントロールされている。そこへ向かうホルンの漸強弱も緊張感も凄い。第6番は、ブルックナーの交響曲では珍しく、音楽の流れを寸断させるいわゆる「ブルックナーパウゼ」が1箇所しかない。この終楽章のコーダに入る箇所に唯一出てくる。だが、バーメルトはここで間を空けずに瞬時にコーダへ入ったことも印象に残った。大風呂敷を広げないのはバーメルトらしい。唯一惜しかったのは、最後にトロンボーンに回帰する第1楽章の最初の主題が聴こえなかったことだった。本当に唯一ここだけが惜しかった(2日目に変わるかと思ったが同じだった)。

札幌交響楽団提供

こういう音楽を浴びてしまうと、聴き手はその1回を求めてコンサートホールへ通い続けることになる。だが、そうそう当たるものではない。それでもそのいつ訪れるか分からない「1回」を追い求めるようになる。その力がたしかにある音楽だった。コスパやタイパ(タイムパフォーマンス)という文化の自己否定のような言葉が価値基準となりつつある現代において、甚だ効率の悪い娯楽だが、だからこそその決定的な「1回」が人生を変えてしまうのだろう。本紙を創刊して6年、札響の定期でそこまで感じさせられたのはこれが初だった。ずっと応援してきたバーメルト。その任期の最後にその最良の成果に同席できたことは忘れられない記憶となることだろう。コロナで実現しなかった、ブルックナーの第8番、ブラームスの第1番、こうした演目をいつか札響に戻ってきて聴かせてくれる日は来るだろうか。

(多田圭介)

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