札幌劇場ジャーナル

ことばと文化(10)2020年代の「文化の力」とは ‐トム・クルーズと想像力の行方

編集長コラム

「ことばと文化」というタイトルで創刊号から続けてきたこのコラムも10回目を迎えた。創刊は6年前の2018年。このタイトルに込めた当時を思い出しつつ今これを書いている。当時の言論状況はどうだったか。まずインターネットスペースはSEO対策にすっかり汚されてしまっていて、しっかり考えるための記事は見つけにくくなっていた。Twitterを中心とするSNSのほうは、予め期待している結論を代弁してくれるツイートをサプリメントのように消費する人々が、今の自分を肯定し安心するために使っていた。一方、失敗した人や目立ちすぎた人にみんなで石を投げつけて「自分はまともな人間なんだ」と自分を安心させていた。どちらも「考えないための」行為だ。ネットサーフィンという言葉が機能しインターネットが知の大海として万人に開かれていた時代は遠い遠い過去となっていた。こんな状況を徹底的に無視して、本当に価値のあることだけをしっかり考える場をつくりたい。そのためにはやはり文化の力が必要になる。「ことばと文化」というタイトルにはそんな想いが込められていた。

あれから6年。巨大な情報産業によって自分のアテンションを支配されて中毒患者に仕立て上げられていることに疑問を持つ人は増えてきた。こうした企業の目標設定は「どれだけ長くエンゲージメントさせるか」しかない。だから、社会をよくするとか有意味な発言を促すのではなく、醜いが誰しも抱えている人間の欲望にリーチする。それが数字を上げるための最適解だからだ。こうした企業の思惑の危険性に少なからぬ人は気づいた。だが、そうした思慮深い人はどうしたか。筆者の見るところSNSを辞めるか、仕事の告知以外しなくなった。もちろん、しごくまっとうな判断だ。残された中毒患者たちの言動は劣化の一途を辿った。だが、こうした中毒性の強いシステムを警戒するのは当然として、それでもそこで有意味な発信をする可能性をすべて捨ててしまうのはやはり惜しい。即時性と双方向性というインターネットの特徴は功罪あるが、一番の価値は「自由と平等」にあるからだ。だから、本当に価値のある発信、世の中をよくする発言とはなんなのか、そのために何を考えるべきなのか、今こそ再考すべきではないか。

いまのインターネット(特にSNS)は、本人にとって気持ちのいい、都合のいい、今の自分を肯定してくれるポストを脊髄反射的にリポストしてスッキリするという使い方が定着しすぎている。流れてきた情報に(背景の文脈などを一切度外視して)脊髄反射でゼロかイチかのジャッジを下す。それ以外のポストを見つけるのが難しいほど状況は悪化している。「よくない」ことに一石を投じることが社会をよくするために必要だと信じている人も多い。この記事を書いているいま、ちょうどこんなことがあった。

メディアでよく顔を見る経済学者の失言(として生贄に選ばれた)をきっかけに、大手飲料メーカーのキリンがその学者を起用したCMを取り下げた。「キリンさん、お粗末~」、「(CMに)採用する前に判断してよ」というポストが流れてきた。ちょっと考えよう。この出来事をきっかけに私たちがまず考えるべきことは何か。この学者の発言が本当に失言と言えるかどうかだろう。そのためにはまず、その発言が多くの人を傷つけるものなのは間違いないとして、その発言によって誰かが傷つくかどうかよりももっと重要な問題を可視化できているかどうか。それができているのなら安直に失言とすることはできない。本当に考えるに値する物事とは大なり小なり人を傷つけるし、そのために強いレトリックが必要なときというのはあるからだ。それさえできていないのに軽々しく人を傷つける発言をしたのなら糾弾されても仕方がない(もちろん正常な人はいちいちSNSで糾弾なんてしないが)。しかし、そこを判断するためには、その発言の背景や長い歴史的な経緯を丁寧に検討しなければならない。だが、こうしたニュースに反応する人々は、複雑なコンテクストを無視して、ゼロかイチかの切断処理を下す。多くは惨めな自分を慰めるためにそうしているが、なかには、それが社会参加であるかのような錯覚に酔っている者さえいる。こうした発信をするそのたびに、その人は確実により愚かになる。社会もより劣悪になる。企業や政治がこうした単純な思考の人間から票を集めなければやっていけなくなる社会に、その一回のポストごとに近づいている。

では、価値のある発信とはなにか。ネット上で2~3日ワッと盛り上がって数日後には忘れられているような話題(さっきのキリンのCMのような)はもちろん論外。だからまず量的な問題がある。5年後、10年後まで読み継がれるものでなければならない。そのためには質的な尺度が大事になる。ひと言でいえば、世の中の見方を変える力があるかどうか。究極的にはこれに尽きる。だから、「今の話題をあなたは肯定しますか否定しますか」みたいなのは全部意味がない。こっちのほうがよりマシですというのも無意味(自分を賢く見せるゲームには有効だが)。

こんなことをいくら指摘しても、どれほど影響力のある人が訴えても、「考えないため」に情報を消費する人がいなくならないことは分かっている。というか、新聞やテレビなどのマスメディアができたときから、いや活版印刷ができたときから人は技術に踊らされ続けてきた。ただ、今の情報環境でそれはかつてない勢いで加速している。20世紀まではトップダウンのマスメディアをどう受け止めるかという問題だったのが、SNSによるボトムアップに変化して止まらなくなった。だから、いまの情報環境に合った形で、複雑なものごとを複雑なままにしっかり受け止める回路を個々人がしっかり確保することが必要だ。

こうした思考を訓練するためには、創作物をもっと大事にしたほうがいい。考えない人は、現実の話題だとどうしても自分の境遇が頭を過って順序立てて考えることができなくなる。ここでいう創作物とは広く文化作品を意味している。だからこのコラムも「ことばと文化」だったのだ。音楽や映画や小説、ゲームやお笑いだっていい。広く「遊び」と考えてみよう。遊びはその遊び以外の他の何かの「ために」するものではない。それ自体のためにそれをする。これは人間にとって特別なもので本当の意味で人を自由に、そして幸福にする。人から認められる「ため」でも、試験を突破する「ため」でも、嫌いなあいつから一本取ってドヤる「ため」でもない。それをすることそれ自体にその人にとって価値があること、それを創作物≒文化の価値だと考えてみよう。「ちゃんと目的を持ってやろう」。よく言われることだが、目的を持って何かをやることとはその「何か」を深く味わうことにとって本来は邪魔になるのだ。

考えてみればこれは当たり前のことだ。他の誰かに認められたくて発信するなら、もう「みんな」が話題にしているものに、なるべく単純にYesNoを述べるのが手っ取り早い。でもこうした顔色を窺った発言は世の中を豊かにしない。みんな同じだからだ。「みんな」はだいたいこう考えているけど自分はそれと比べてどうだろうか。そんな下世話な関心からではなく、ただ自分が触れた物事に対する驚きと関心に従うことが、ものの本質に近づくコツだ。この面白さに気づくことがネジや歯車のような人間にならないために重要だ。

最近の映画を例に考えてみよう。2022年の世界的大ヒット作、「トップガン マーヴェリック」がちょうどいい。この映画は20世紀的な男性性の賛美に恐ろしく開き直った映画だった。まさにおじさんのための映画。内容は(「ない」のだが)前作から30年、マーヴェリック(トム・クルーズ)は大きな戦果を上げているが昇進を拒みパイロットを続けている。ラストでは自分より若い上官たちの誰もが納得する操縦術を披露し作戦を成功させ、F-14(前作の主役機)の奪取に成功する。エンディングでは、そのカッコよさに惚れ直した元カノとヨリを戻し小型機でデートする。客席のおじさんの涙腺は決壊した。

テクノロジーの進歩がパイロットという存在を不要にしつつあり、助手席に女性を乗せて自分の男性性を誇るという20世紀的なジェンダー観も葬り去られた今、この映画は世界中の「おじさん」に(だけ)大ヒットした。まるで、定年間近のおじさんが、貯金を全投入した休暇をFacebookで自慢したら「いいね」が200個つきましたみたいな映画だ。この映画をジェンダー的に、あるいは産業史的に批判するのはどんな単純な人でもできる。だから、人から認められる「ため」、あいつから一本取ってドヤる「ため」という目的をもってこの映画を観てしまう人はトム的な反動に喜んで同調するか、叩いていいものが見つかったと舌舐めずりする。だが、この映画を純粋に知的な関心から眺めると違った側面が見えてくる。それは、前世紀の人はなぜこんなに機械の操縦の快楽に拘ったのか、そしてそれがなぜここまで強く男性性と結び付いたのか。機械による身体拡張とは、マッチョイズムと結び付く以外の可能性はなかったのか。こうした思考を開くポテンシャルをこの映画は持っている。そうした知的冒険は、「さあ、叩いていいものが見つかった」という態度からは決して得られない。それにその考察の成果や思考の道筋を発信することは間違いなく世界を豊かにする。

今なにか社会にものを申したいというよからぬ欲求が強い人物がこうして世界を深く「読む」訓練ができていないと、まず間違いなく「考えないため」の発信をしてしまう。脊髄反射的にまず「書いてしまう」。もちろん当人が自分で思っているよりずっと思慮深くないことがその理由なのだが、何割かは現代人が世界を深く「読む」訓練を受ける前に情報環境の方から「発信させられている(=書かされている)」ところにその原因はある。「文化の力」という言葉は今も昔もよく見かけるが、2020年代の文化の力はこうした世界を「読む」力を育むところにその意味があるのではないか。

哲学者のプラトンは、人間に自然本性的に備わっている純粋な知的活動(行為そのものが目的であるもの)への傾きを「できるかぎり神を真似る」(『テアイテトス』176B)ことだと述べた。何か他の目的のためでもなく、実用のためでもなく、それ自体が目的といえるような純粋な知的活動こそが人生を豊かにする。こうした古代の賢人の思考の射程は今でも、いや、SNS上で少なからぬ人が滑稽な大喜利大会に精を出している今こそ真に有効なのだ。

(多田圭介)

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