札幌劇場ジャーナル

【道外編 第一弾】エリアフ・インバル指揮 東京都交響楽団 定期演奏会

 STJセレクト、新年度から道外版もお贈りすることになった。読者の方々から「道外の公演へも行くようになったので道外公演やホールの情報も欲しい」という要望が多くなってきた。それに応えコーナーを新設することになった。折々の道外主要公演のレポートもお楽しみいただきたい。第一弾は東京都交響楽団の定期演奏会レポートをお届けする。

東京都交響楽団提供 (C)T.Tairadate

 331日、東京都交響楽団の定期演奏会Cシリーズでエリアフ・インバルが指揮したチャイコフスキーの交響曲第5番を聴いた。会場は東京芸術劇場大ホール。都響の桂冠指揮者の任にあるインバルはここ数年3月に来日しており、インバルファンにとっては、「東京・春・音楽祭」と並行して開催される「都響・春・インバル祭」とでもいうべき様相を呈している。ここ23年のインバルの気力の充実ぶりは素晴らしく、来日するたびにその音楽は若返っているような印象が強い。83歳を迎えてもまったく妥協することなく、壁を壊し、より高い階段を登ろうとしている姿は本当に心を打つし、勇気を与えてくれる。また、インバルは都響とのコンビではじめて十全に振る舞うことができるし、都響もまたインバルの指揮でそのポテンシャルを最大限に発揮する。インバルと都響のコンビは、いま日本で聴くことができるオーケストラ音楽で最大の聴きものであることは間違いない。

 インバルの音楽に対して、「感情がない」だとか「歌わないのがつまらない」という感想を見聞きするが、そもそも「感情表現」や「歌う」とはどういうことなのか。悲しければ泣きじゃくればいいのか、嬉しければ子供のようにはしゃげばいいのか。たしかに、インバルの音楽には、今さらそんなことして何になる、とでもいうような冷たさがある。インバルの音楽づくりはフレーズの力学を大切にし、どうすればフレーズがスムーズに流れるのかを徹底して追求する。そこに偶然性の入り込む余地はない。そうして獲得された高度な洗練は突き放すような冷たさを放つようになる。しかし、そこから、どうしようもなく伝わってしまう感情がある。これこそ歌の洗練であり感情の美学だ。伝わらない者には文字通り「無」なのだ。元来、洗練とはそういうものだ。

 今回のチャイコフスキーの交響曲第5番も見事という他なかった。凝縮のかぎりを尽した金管が整然と襲いかかってくる。打楽器は一丸となって崩落し水しぶきをあげる。ヴァイオリンは天駆けるように疾走する。低弦もたんなる伴奏の一つたりとも弾き飛ばすことがない。こうして音楽は驚くほどの多面性を帯びる。フォルテは怒りを孕み天を衝き、弱音はこれ以上もう不可能と思えるほど繊細で複雑な味わいを聴かせる。どれほど鳴り切っても、まったくうるさくならない。むしろ、鳴り切ってかつ各楽器が整然と耳に飛び込んでくる。インバルは都響と2009年にも同曲を演奏しているが、その際に詰め切れなかった点をすべてやり尽した演奏だった。前半はピアノ協奏曲だったが、本演奏会は定期演奏会なので一階客席には高齢の定期会員が多い。ピアノ協奏曲では多くの年配のお客が舟を漕いでいた。だが、後半のチャイコフスキーの第1楽章が終わったとき、その居眠りしていた老人たちは、一様に凍りつき、戦慄し、身動きできなくなっていた。もう誰の鼻息も聴こえない。定期会員の多い定期演奏会だからこそ見ることのできた景色で実に痛快だった。

東京都交響楽団提供 (C)T.Tairadate

 第1楽章の序奏は、スコアの指定テンポは80だが、インバルは6366に落とした。深く重々しく、意味深い。わずかに上昇しようとするとすぐに沈み込む。その憂いがたっぷりと客席に届いてくる。主部に入ってからは116小節の第2主題への移行が素晴らしい。116小節に入る直前でギアをがくんと落し、そこで蓄えられたエネルギーが第2主題のfisからdへの上昇に凝縮されるのだ。それが下降する低弦によって対照される。実に鮮やかだ。そこに加わる木管のオクターブ下降もデリケートで清潔な情緒を聴かせる。副次主題に移る170小節の直前のワルツが儚いほど繊細。最後にフッと力を抜きテンポを落とす処理も堂に入っている。ここはあまりに雑な演奏が多すぎる。170小節からの副次主題部も息を呑む素晴らしさ。シンコペーションを生かした精密なリズムがチャイコフスキー独特の仕方で充填された和声をこれ以上なく生かす(188小節)。展開部の終わりでは第1主題の動機をオクターブで最強奏する金管がこれ以上できないほどの凝縮を聴かせる。その後にFgに再現する第1主題は、もう呻き声のようだ。コーダへ入っても音楽は語りかけてくる。531533小節に2Vcに現われる第1主題の動機が、鋭敏に訴える。何か解消できない印象を残して第1楽章が終わった。前述のように客席は水を打ったような静寂。そして第2楽章へアタッカで入った。

 第2楽章も冒頭の低弦のダイナミクスだけで重たい思念が襲い掛かってくる。33小節で主題がVcに移ると、音楽は恍惚とする。恍惚とし破滅の道を進むような危険な音楽に聴こえる。もう、世間の常識や日々の生活の一切がどうでもよくなるような、そんな危険な匂いを放つ。音楽が身体を支配し、感覚は麻痺し、他のすべてのことがどうでもよくなるような錯覚に襲われる。運命動機の最強奏の無慈悲さは世界中でインバルと都響のコンビでしかもう聴くことはできないだろう。第3楽章は洗練の限りを尽くした。ワルツの主題が、神々しく近づき難いほどエレガント。中間部の抽象的な響きのぶつかり合いはインバルならではだ。きらきらした鮮やかな抽象的な音響美の世界。非人間的で冷たいが、どこか繊細でエレガントなのだ。217、231小節に突如介入するClとFgの極端な強奏も諧謔味があり流麗なワルツに複雑な味わいを残した。

 勝利の雄叫びのような終楽章も常に整然としている。82小節からの弦のダイナミクス、159163小節のアクセントのデリケートなニュアンス(これはほぼ全員が見落としている)、そのさなか生き生きと脈打つ低弦、すべてが生きている。そしてコーダでプレストの突入する直前のホ長調の主和音の上昇の頂点のEで輝かしいルバートを効かせ聴衆を興奮の坩堝に呑み込んだ。コーダではフルートがピッコロに変更され疾走する終結を華麗に彩った。終演後の会場の熱狂ぶりは凄まじいものがあった。

 前半にはサリーム・アシュカールをソリストに迎え、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番が演奏された。インバルの指揮がピアニッシモで柔らかく始まりフォルテで確保される主題を極めて丁寧なイントネーションで克明に描いたことが印象に残った。アシュカールも余計な色づけのない、音の粒立ちの明晰さを大切にしたピアノ。高潔なスタイルがインバルと相性がよい。終楽章では主題が積み重なるごとに純真な音響を維持したまま集中力を高めた立派なベートーヴェンだった。インバルが次に都響を指揮するのは11月。本当に待ち遠しい。

(多田圭介)

 

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